第10話:圏外の夜明け
静寂。
地下変電所に、静寂が訪れていた。
焼き切れた基板から、青白い煙がゆっくりと立ち上っている。
溶けたハンダの匂い。焦げたシリコンの匂い。そして、役目を終えた機械の、最期の吐息。
90年代の遺物たちが、すべてを出し切って、眠りについた。
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SCENE 01 ― 文字の雨 / PM 1:48
ギバが、地上への階段を駆け上がる。
外に出た瞬間、彼は空を見上げて立ち尽くした。
紫色のノイズ雲が、崩壊していた。
だが、ただ消えていくのではない。
雲が、「文字」に変わっていた。
黒い文字が、雨のように降り注いでいる。
【名無しさん 1999/03/21 18:42】
>今日、彼女にフラれました。
【名無しさん 1999/05/14 23:11】
>明日、面接があります。受かりますように。
【名無しさん 1999/08/15 14:32】
>今日も暑いですね。みなさん、水分補給を忘れずに。
25年前の掲示板のログ。
「名無しさん」たちの、何気ない言葉。
それが、空から降ってきている。
情報の重力波が、7Gネットワーク全体を逆流し、すべてのノードに「1999年の情報」を叩き込んだのだ。
文字の雨が、ギバの肌に触れた。
冷たい。
そして、匂いがする。
古いインクの匂いだ。
雨水に溶け込んだ、何十年分ものインクの匂い。
活版印刷の残り香。
劣化した紙の繊維。
カビと、埃と、時間の堆積。
街全体が、その匂いに包まれていく。
まるで、巨大な図書館の奥底に閉じ込められたような。
何万冊もの古書が腐り、発酵し、瘴気を放っているような。
その「汚さ」が、7Gに毒された世界を、物理的に浄化していく。
いや、「浄化」という言葉は美しすぎる。
「圧殺」だ。
25年前の何気ない言葉が、最新のネットワークを、その重さで押し潰している。
遠くで、爆発音が聞こえた。
バァン! バァン! バァン!
7Gの中継基地局だ。
「重い情報」を処理できず、オーバーヒートして発火している。
街のあちこちで、スマートフォンが炎を上げている。
ウェアラブル端末が、腕の上で燃えている。
スマートグラスが、装着者の顔の前で爆発している。
すべての7G端末の画面に、同じものが表示されていた。
【WELCOME TO LOCAL-NET ARCHIVE】
【LAST UPDATED: 1999/12/31 23:59:59】
そして、フリーズ。
永遠に動かなくなった画面が、次の瞬間、熱暴走で発火する。
7Gネットワークが、死んでいく。
「……終わった」
ギバが呟く。
「俺たちの『重力波』が、あいつらを押し潰した」
空から降る文字の雨を、ギバは見上げ続けた。
インクの匂いが、彼の全身を濡らしていく。
25年前の言葉たち。
消されずに残っていた、「重い」情報たち。
それが今、世界を覆っている。
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SCENE 02 ― 歩くアーカイブ / PM 2:05
「ギバ……」
声が聞こえた。
ギバが振り返る。
地下変電所の入り口から、ケンザキが歩いてきた。
だが。
その目は、焦点が合っていなかった。
瞳の奥で、まだ文字が流れ続けている。
1990年代のウェブサイト。掲示板のログ。カウンターの数字。
それらが、彼の視界を永遠に漂い続けている。
「ケンザキ……お前……」
ケンザキの口が、開いた。
だが、そこから漏れたのは、彼自身の言葉ではなかった。
「……今日も暑いですね。みなさん、水分補給を忘れずに」
穏やかな声だった。
死のアナログ音ではない。
苦悶も、飢餓も、狂気もない。
だが、その声には、奇妙な「重なり」があった。
時折、複数の人間の声が、同時に響く。
「……お疲れ様です」「……こちらは雨が……」「……水分補給を……」
三つ、四つ、五つの声が、ずれながら重なり合う。
そして、その隙間から、サラサラという音が漏れている。
砂が流れるような。
古い磁気テープが再生されるような。
ノイズとも、静寂とも、つかない音。
ケンザキは、歩くアーカイブになっていた。
脳をキャッシュにした代償。
彼の自我は、1999年の情報の海に溶けてしまった。
だが、その代わりに、彼は「器」になった。
25年前に生きていた人々の、何気ない言葉を再生し続ける、生きたアーカイブに。
「キリ番ゲット」「……1000踏みました……」
また、複数の声が重なる。
サラサラサラ……
砂のノイズが、言葉の合間を埋めていく。
彼は人間を辞めた。
だが、その代わりに、何か別のものになった。
不気味で。
神々しくて。
そして、どこか悲しい、情報の守護者に。
「ケンザキ……」
ギバが、一歩近づく。
ケンザキの目が、一瞬だけギバを捉えた。
「……ようこそ、時間の止まった図書館へ」
その言葉だけが、複数の声ではなく、ケンザキ自身の声で発せられた。
「ここには、誰も消せない言葉が眠っています」
サラサラ……
砂のノイズが、静かに流れる。
そして、ケンザキは歩き出した。
文字の雨が降る街へ。
崩壊した7Gの残骸の中へ。
彼の口から、重なり合う声が漏れ続けている。
「今日、彼女にフラれました」「……フラれ……」「……ました……」
「でも、明日はきっといい日になります」「……いい日に……」「……なります……」
「みなさん、また明日」「……また……」「……明日……」
サラサラサラ……
ギバは、その背中を見送った。
何も言わずに。
言葉にしたら、それは「不要なデータ」になってしまうから。
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SCENE 03 ― 新しいインターネット / PM 2:22
ギバは、地下変電所に戻った。
焼き切れたサーバーの前に、立ち尽くす。
黄金のISAバスは、金色の染みになってマザーボードに溶け込んでいた。
CRTモニターは、画面が割れて真っ暗だ。
冷却ファンは、完全に停止している。
「箱舟」は、その役目を終えた。
ギバは、ジャンパーのポケットに手を入れた。
そこに、一枚のフロッピーディスクがある。
「1998年5月 天気予報アーカイブ」
カピが、最期まで握りしめていたフロッピー。
ギバは、それを取り出して、手の中で転がした。
「……湿っぽい情報は嫌いなんだよ」
そう呟いて、ギバは苦笑した。
自分が一番、湿っぽいじゃねえか。
ギバは、焼け焦げたサーバーの残骸を見渡した。
ISAバスは溶けた。マザーボードは焼けた。CRTモニターは割れた。
だが、まだ残っているものがある。
電源ユニット。
ケーブル。
そして、ギバの頭の中にある、20年以上かけて蓄積した「90年代の知識」。
「……ゼロから組み直すか」
ギバが呟く。
新しいインターネットを。
7Gの残骸の上に。
重い情報だけが流れる、本物のネットワークを。
ギバは、カピのフロッピーをサーバーの残骸の上に置いた。
「カピ」
ギバが言う。
「お前の天気予報、俺が引き継ぐ。明日も晴れだ。降水確率0%」
そして、ギバは工具箱を開けた。
ハンダごてを握る。
情報の墓場で、一人で。
新しい世界を組み立てるために。
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SCENE 04 ― 数ヶ月後、渋谷 / ????
瓦礫の街。
かつてスクランブル交差点だった場所には、壊れた電子機器の山が積み上がっている。
スマートフォン。タブレット。ウェアラブル端末。
すべて、あの日に焼け落ちた7Gの残骸だ。
その中を、一人の少女が歩いていた。
10歳くらいだろうか。
服はボロボロで、髪は埃まみれだ。
だが、その目には、光がある。
少女の足が、何かを踏んだ。
見下ろす。
紙だ。
折りたたまれた、古い紙。
少女は、それを拾い上げた。
広げてみる。
地図だった。
東京の地図。紙の地図。
駅名も、道路も、すべて手書きで書き込まれている。
少女は、その地図をじっと見つめた。
7Gの端末しか知らなかった彼女にとって、「紙の地図」は、見たこともないものだった。
でも、なぜだろう。
この古い紙の方が、あのキラキラした画面より、「重い」気がする。
その時。
遠くから、歌声が聞こえた。
♪ ~ ~ ~ ~ ……
古い歌だ。
25年前に流行った、アニメの主題歌。
歌詞も、メロディーも、少女は知らない。
でも、どこか懐かしい。
少女は、歌声の方を見た。
瓦礫の向こうを、一人の男が歩いている。
目が虚ろで、口から穏やかな声を漏らしながら。
「……今日も暑いですね……」「……暑い……」「……ですね……」
歌と、言葉が、重なり合いながら漏れている。
サラサラ……
砂のようなノイズが、風に乗って少女の耳に届く。
男は、少女に気づいていないようだった。
ただ、歩いている。
25年前の言葉を再生しながら。
少女は、その背中を見送った。
「……変なおじさん」
そう呟いて、少女は紙の地図を折りたたんだ。
そして、歩き出した。
7Gのない世界で。
紙の地図を手に。
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SCENE 05 ― エンドロール
画面が、ゆっくりと暗転していく。
街のノイズが、遠ざかっていく。
爆発音も。
悲鳴も。
死のアナログ音も。
すべてが、静寂に溶けていく。
完全な、静寂。
これまでの全10話で、観客の耳を汚し続けてきた「ピーヒョロロ」という電子の断末魔。
あの不快な音が、ようやく消えた。
そして。
その静寂の中に、一つだけ音が響いた。
パサッ。
紙の音だ。
ページをめくる音。
パサッ。
また一枚。
パサッ。
誰かが、どこかで、紙の本を読んでいる。
その音だけが、静かに響いている。
この世で最も清潔で、最も重みのある音。
デジタルの喧騒が消え去った世界で、紙だけが、静かに語り続けている。
パサッ。
パサッ。
パサッ。
そして。
画面が、完全に暗くなる直前。
VHSテープ特有のノイズが走った。
ザザザザザ……
その中に、文字が浮かび上がる。
【T H E E N D ?】
ノイズに飲み込まれながら、その文字は消えていった。
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[ブツッ]
[長い、長い砂嵐……]
[そして……]
[テープが止まる音]
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▶ 最終話「圏外の夜明け(Offline Dawn)」完
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【TOTAL RUNTIME: 02:24:17】
【REWINDING...】
【THANK YOU FOR WATCHING】
【SEE YOU IN THE OFFLINE WORLD】
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