49 純波ノ章 伍
だが、次第にわかってきたことではあるが、東宮のやんちゃぶりは手に余るほどだった。
読み書きを教えるべく女房が筆と墨を持たせると、筆についた墨を振り回してあちこちに墨をつけ、畳を染みだらけにしたり襖に絵をかいたり。障子の張り直しは毎日で、装束は一日に何度も替えなくてはならなかった。毬を持たせれば人にぶつけ、廊下を走り回って女房達に追いかけさせた。
それはもう、見ているだけの清葉も疲れるほどの暴れっぷりで、これを毎日やっているとは、宮仕えの女房達も大変だとため息をつくほどだった。
ある日のこと。
その日は尚更、東宮の機嫌が悪かった。
読み書きを教えている若い女房のことが気に入らなかったらしく、ずっと膨れていた。
「東宮様、この字はここが間違っておりますよ」
「なら、字の方を余に合わせよ」
「そのようなことできませぬ。字というのは、誰が見ても同じでなければ意味がないのです」
「余はこの世で一番偉い立場になるものぞ!なぜ、余の言う通りにせぬ!」
そう言って、女房めがけて硯を投げつけた。
「きゃっ!」
若い女房は墨を頭から被って、目の上に傷を負った。墨と血が頭から流れた。
「・・・・・・・」
清葉はゆっくりと立ち上がり、東宮を掴んで立たせた。
「なんじゃ!」
そう言う東宮の頬を思い切りひっぱたく。乾いた音が響く。
周りにいた女房たちが凍り付く。
「東宮様。一番偉い人になるお方は、一番誰よりも人のことを思うお方のことです。お立場がどうあろうが、今の東宮様では一番偉い人には到底なれません」
ぶたれた頬を押さえながら、東宮の目が潤み始める。
「そもそも・・・・」
清葉が言いかけると、東宮は部屋を飛び出していく。
「あ、待ちなさい!!」
清葉も追いかける。廊下をバタバタと走り、皇后のところへ駆けこむ。
「母様!母様!」
女房のうねと二人、部屋にいた沙苑に縋りついた。
「あのおなごが、余をぶったのです!痛かったのです!余に、あのおなごが、逆らったのです!」
そこへ清葉も入って来る。
皇后の姿を見て、手前で膝と両手を床につき頭を下げる。
「皇后さま、大変失礼をいたしました」
清葉の方を指さし、東宮はさらに言う。
「あのおなごです!あのおなごを罰してくだされ!余に逆らいました!重罪で・・・」
まくしたてる東宮をきっと睨む。
「・・・だから、なんだというのです・・・・?」
無の表情の中の、その目はあまりに冷たく、強かった。
その一言で東宮は縮み上がり、それ以上騒がなくなった。
「申し訳ございません。お手を煩わせてしまいました・・・・」
清葉はさらに頭を下げる。
「清葉さん・・・」
あの冷たい感情のない声。清葉を見る。
「は・・・はい」
「この子を・・・よろしくお願いしますね」
そう言ってやや笑った。
「は、ははは、はいっ!」
そう返事して清葉は、東宮の襟を捕まえて部屋から引っ張り出した。
「失礼いたしました!!」
そう言って襖を締めた。
「・・・賑やかな娘ですね」
「沙苑様、よろしいのですか?東宮様がぶたれたと・・・」
「うね、ぶたれたとは、どういうことなのですか?」
「いえ・・・何でもありません」
「申し訳ありません・・・」
怪我をした若い女房が清葉に頭を下げる。
「何を言う。悪いのはあなたではないでしょう?」
「しかし、中宮様に手を上げさせてしまいました・・・」
「それくらいせねば、わたしの気がおさまりません!・・・それより、怪我は大事ないですか?」
清葉の言葉に、目を潤ませる若い女房。
「もったいないお言葉・・・。痛み入ります・・・」
「ええと、名を何と申しますか?」
「わたくし、大江朝子と申します。式部省にお仕えいたしております」
「では・・・朝子さんかしら?大江式部とお呼びしたほうがよろしいかしら?」
「いえ!そんな、中宮様より名前で呼んでいただくなど!」
「では、朝子さんとお呼びいたします。わたしのことは清葉とお呼びください」
「そんな!お許しください!中宮様をお名前でお呼びしたら、回りの者に何と言われるか・・・」
「それもそうですね。では、今まで通り。でも、二人だけの時は清葉とたまにはお呼びくださいね!でないと、わたしの名前、誰も呼んでくれなくて・・・忘れちゃいそうになりますので」
そう言ってにっこりと笑顔を見せた。
・・・なんて、なんて愛らしいお方なのでしょう!!
朝子はそのしぐさに強く胸を打たれ、大急ぎで式部省に戻ると、早速中宮付きの女房を希望した。
「中宮様に付かせてくださいっ!!」
それから清葉と朝子は一緒に過ごす時間も多くなり、どんどん仲を深めていった。
その仲良しっぷりは周りの他の女房たちがやきもちを焼くほどで、中宮は東宮でなく朝子のところへ嫁に来たのでは?と噂するほどだった。
「ときに朝子さん?」
「はい、何ですか、中宮様」
「今は二人だけなので清葉で構いませんよ?」
「わかりました、清葉様」
「朝子さんは心に決めた方などいらっしゃるのですか?」
「!?」
驚いて清葉の顔を見つめる朝子。
「い、いえ、そそそそおっそおっそおそんな・・・・・」
あなたです!・・・・とは言えない。
「わたしには、好きなお方がいるのですよ」
「え!?」
なんと!?初耳にございます!さらにあなたすでに東宮と婚姻されておられるじゃありませんか!!
「と、とっとと東宮様以外にですか?」
「あ、安心してください。男性ではありません」
「・・・・余計に安心できませんけど」
「その方、わたしと一緒に育ったのに、わたしと違って強くって。刀を握るとどんな大きな殿方も一振りでやっつけちゃうんです。すごくかっこいいのです!そして、ずっと私を守ってくれるって言ってくれたんです!かっこいいでしょ!?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はい」
しっと。漢字で書くと嫉妬。
完全に夢見る少女の世界じゃん。目がきらきらしてるじゃん。
「その方もわたしのこと、好きって言ってくれて・・・・」
「・・・・・・・・・」
「でも、今は遠くに戦に行っていて・・・・。わたしが中宮になったことも知っているのかどうか・・・。もう、会えないのかなー・・・・・」
急に淋しそうな顔・・・・。
表情がころころ変わるのも、この御方の魅力だと、朝子は思っている。
それにしても、こんな小さくて愛らしい方なのに、恋に揺れていらっしゃるなんて。
しかも・・・・相思相愛!?禁断の叶わぬ恋!?
これ絶対、女房仲間に話したらいけないやつ!噂で尾鰭背鰭がついて、止まんなくなっちゃうやつ!
それに、こんなに愛らしくて素直で優しい方が、心底惚れ込んでいる女子ってどんな方なんだろうな・・・。
想像すると・・・あ、鼻血が出そう!
「・・・大丈夫ですか、朝子さん?」
「あ、はい。ついつい、そっちに行きそうになりました」
「そっち?どっち?」
「いえ、何でもありません。でも、わたしも清葉様を大好きですから!負けないでがんばります!」
朝子は鼻息を荒くする。
「うふっ。わたしも朝子さんが大好きですよ。朝子さんの一番にしてくださいね」
にっこり微笑んで小首をかしげる。
・・・あ、駄目だ。
「きゃあっ!?誰か!!朝子さんが鼻血を吹き出して倒れました!!」
その数日後、緋家・朝廷の連合軍が富士川で敗退したとの知らせが入った。
墨羽たちが行軍を開始し近江路に入る。
これまで馬に乗ったことなどなかった墨羽だったが、馬の扱い方をあっという間に習得してしまった。
今では実継も舌を巻くほど、馬と意思を通じ合わせている。
近江路に入りほどなくして湖が見えた。
「実継、これが海ですか!?広いし、水がたくさんあります!」
「ははは、無理もない。墨羽殿、これは海ではございませんよ。琵琶湖という湖です」
「湖?海とは違うのですか?」
「はい。海は果てがなく、水に塩が満ちています。ですが湖の水は塩が採れません」
「なんと、同じ水でも違いがあるのですか!さすがですね、実継。なんでもよく知っておられますね!」
「いや、そんな・・・」
墨羽が目を輝かせながら実継を見上げると、まんざらでもない実継は顔を赤くする。
そこからさらに三日。
「実継、都を出た時よりも知らぬ顔が多いのですが?」
「はい、緋家に付き従う地方の豪族たちが軍に加わっているようです。近江の佐々木氏あたりでしょうね」
「では、伊豆に着く頃にはかなりの数になるでしょうね」
「はい。ですが、都を出ればいまだ緋家をよく思わぬ霞家に加担する武家も多いです。進めば進むほど膨れ上がるのはお互い同じでしょうね」
「途中で戦になることはないのですか?」
「数の少ない行軍であれば襲われることはあります。ですが、この大軍を相手にするのは得策ではないでしょうね」
「そういうものですか」
「はい。そろそろ伊勢の国に入ります。ここから尾張と三河を抜け、駿河へ入ります。そこまで行けば伊豆まであと少しです」
「はあ・・・。まだまだですね」
夜になると、村や町にいるときは墨羽には屋内があてがわれる。
だが、野宿するときは皆と同じように外でくるまって寝ることになる。周りにいるのは血の気の多い輩も多い武家の兵たちなので、実継と数名の兵たちが交代で見張りをしてくれる。
墨羽が本気であれば、この千人以上の兵たち誰にも負ける気はしていないが、好意には甘えるべきだと墨羽はありがたく甘受した。
「敵の数が多すぎますね・・・」
実継がつぶやく。
京を出て三十と二日。富士川を挟んで緋家・朝廷軍と伊豆霞家・諏訪霞家の軍が対峙した。
朝廷軍は西側、やや高台に陣を敷き川向うの様子を窺う。
眼下手前には緋家軍が広がり、大河富士川が流れ、向こうには霞家の軍が広がる。
緊張気味の墨羽には、初めて見た富士山も異様な不気味さを持ってこちらを見下しているように感じられた。
「明らかに敵の方が多いです。ざっと倍くらい・・・・。となればわが軍一万余りに対して二万弱といったところでしょうか・・・」
「・・・どうなるのでしょうか?」
墨羽は心配そうに実継を見上げる。
「数では不利ですが、昨今戦は兵の数ではありません。御体が一つあれば数百の兵に勝ります。御体の数はこちらが圧倒的に多い」
緋家が用意した御体の数は二十、朝廷が三。それに対しここから見える敵の御体の数は十に満たない。
「御体の数が戦の勝敗を分ける時代です。くれぐれも功を焦ってはいけませんよ」
「はい・・・」
緊張気味の墨羽に、実継は優しく言う。
「戦の始まりは数日後だと思います。昨日雨が降りましたから、川の水が多く徒歩では渡れません。流れが緩やかになるまでしばらくここで野営となりますね」
「そうなんですか・・・。しばらく眠れない夜が続きますね」
「大丈夫ですよ。真っ暗な夜にこのような大きな川を渡ることほど危険なことはありません。もしも敵がそれをしたなら、こちら側へたどり着く頃にはほとんどが流されているでしょう」
そうは言われたものの、墨羽はなかなか眠る気になれなかった。
月が高くのぼる頃にようやくうとうとして、夢を見た気がした。
また、あの子だ。ぼんやりとした影だけの少年。
右手を差し出してくる。
その掌に小さな炎。
そして何か言おうとしている。
・・・やっぱり、聞こえないな。
手のひらの炎が大きくなって、少年を飲み込む。
いつもここで目が覚める。
「う、ううん・・・・」
あまり眠れず、太陽が出る前に目が覚めてしまった。
辺りは霧が立ち込めている。
「橘殿、お目覚めのようですね」
見張りの兵が声をかけてきた。
「はい、何か・・・こう・・・眠れなくて」
「秦殿をお呼びいたしましょうか?」
「いえ、大丈夫です。少し景色を見たらまた眠ります。大丈夫ですから、あなたもそれまでお休みになってください」
「お言葉に甘えさせていただきます。どうぞお気をつけて」
見張り兵と別れて高台へ上る。霧が立ち込めていてはっきりとは見えないが、遠くに富士山がそびえ、眼下には富士川。川の両側にはいくつか焚火をしているのだろう、赤い光が見える。
炎・・・夢の男の子、何を言おうとしていたのかな?
どこかで見たような気もするし・・・手のひらに炎を乗せてた。
・・・こんな風に。
え!?
今、わたしの掌、燃えてなかった!?一瞬だけ・・・気のせい・・・だよね。
白い朝の霧の中をじっと目を凝らして手を見つめる。
次の瞬間、川下から地響きのような轟音が響く。
驚いた水鳥たちが一斉に飛び立つ。
「きゃつ!?な、なにっ!?」




