46 純波ノ章 二
静かだった場に幼子の声が響き、辺りはさらに沈黙した。
この清葉の声にいち早く反応したのは、清葉曰く”強そうなお坊さん”だった。
「これはこれは中納言殿のご息女ですかな?いささか御子方には退屈だったようですな。だが、帝の御前、そのような物言いはたとえ御子でも許されぬことでありますぞ」
「すまぬことだ、太政大臣殿。子供の素直な言葉ゆえ、この武芸が退屈だったことではなく、芸が終わったことを知りたくていったまでのこと。お許し願おう」
中納言がそう言うと、太政大臣は顔をさらに釣り上げた。
「貴族同士のなれ合いであればそれで済もうというもの。だが、我らは武家であるが故、武芸を蔑ろにされては顔も立たぬ。如何にして許せと申すか」
清葉はすっかり怖くなって小さく震え出した。抱きかかえる墨羽にその小さな体の震えが伝わって来る。
中納言も言葉を失い、困った目であたりを見たが、助け船を出せそうな者はいなかった。
「では、わたしが・・・・」
震える清葉がかわいそうで、墨羽が少し前に出る。
場の空気がぴたりと止まり、皆の視線が一斉に墨羽に突き刺さった。
「墨羽、お前の出る幕ではない!」
そう言う中納言を制してずいと前に出た墨羽は、先ほど武芸を披露した男たちを指さして、強面の男に向き合って言い放った。
「わたしが、あの男のどちらかに武技で勝てば、お許し願えますか?」
「な、なにを!?」
これには中納言も、周りの貴族たちも言葉を失う。
「お前、何を言っているのかわかっているのか?先ほどまでのは芸であるぞ?本気の戦いではない!それを、武技で争うなど・・!?」
「墨羽、やめて!怪我では済まないわ!わたしがちゃんとこの方に謝りますので・・・」
中納言も清葉も墨羽を必死で止める。
「わはははは!面白い!この小さな子が、あの男に勝てるおつもりとは恐れ入った!帝のお許しがあれば、それでよしといたす!いかがか、みな!?」
全員が口をつぐむ。
しばらく間をおいて、御簾の近くにいた役人が、口を開く。
「やってみせよ、と帝はお申せである!」
太政大臣はニヤリと笑い、皺だらけの顔を墨羽に向けた。
「では、お手合わせしていただきましょうか」
「わかりました。では、着替えをさせていただきます。しばし、皆さまをお待たせいたします」
墨羽はそう言って御簾に向けて頭を下げた。
墨羽が着替えに中座している間、清葉は涙が止まらなかった。中納言の隣に抱き着いて、ずっと「ごめんなさい」を繰り返していた。
「清葉、すまない。このような場はお前たちにはまだ不向きだった。おまえがあまりにも宮中で評判が良いので、つい帝の御前に連れてきたくなったのだ。わたしこそ酷なことをしてしまった」
着替えを済ませた墨羽は、中庭に通された。
目の前に筋肉隆々の上半身裸の男が墨羽を見下ろしている。
男は急に棒を素振りはじめると、ひゅんひゅんと空を切る音を立てた。先ほどまでのゆったりとした動きとは段違いに早い。
・・・いきなり御前で試合とは思わなかったけど。
墨羽は髪を後ろで縛り、頭に鉢巻を巻いた。
短めの木の棒を受け取り、手の馴染み具合を確かめる。うん、悪くない。
帝の御前である以上、相手は本気で来るだろう。
あの大きくて盛り上がる筋肉質の体から振り下ろされる一撃をまともに受けたら、小さいこちらはひとたまりもないだろう。命を落としても文句は言えない。
だが・・・。
相手と向き合い、一礼する。
「はじめ!」
号令がかかる。
男が一瞬の間に眼前に迫る。振りかぶった棒を振り下ろす。その動きはとても素早い。さっきまでのゆったりとした動きではない。
だが・・・それだけだ。
男の棒は地面をたたき、カンと乾いた音を立てる。
「何!?」
その場にいた誰もが、墨羽を見失った。
次の瞬間ドン!と鈍い音がして、男がわき腹を押さえながらゆっくりと倒れた。
その男のそばに墨羽は立っていた。
「ほんとうにすごかったんだから!!」
清葉はずっと興奮していた。
夜になって床に入っても墨羽に抱き着いて興奮を伝えようと必死だった。
「わかってるわ。だって、わたしが試合したのだから」
「でも、あの時の墨羽、ほんとうに恰好がよろしかったのだから!」
清葉は目を潤ませながら、墨羽をじっと見つめる。
「ああ、墨羽ありがとう!本当にありがとう!ああ、墨羽!」
言いながらぎゅうぎゅう抱き着いてくる。
「清葉、これからは帝の御前はもう少し気を引き締めていましょうね。寝ぼけていては失礼ですから」
「これからは気を付けるわ。でも、墨羽がいてくれればもう大丈夫ね!」
「ほんとにもう・・・」
「墨羽、大好きだわ。わたし、墨羽が一番好き!」
「わたしだって清葉が一番好きだよ」
自然と清葉を抱く腕に力が入る。
清葉は興奮冷めやらぬまま、墨羽の胸に顔をうずめる。胸元に清葉の熱い吐息が通る。
「わたしが守ってあげる。どんなことがあっても、清葉を守ってあげる・・・」
それからほどなくして、中納言の元へ親書が届く。
そこには、「先日の武技に長けた娘を伴い参内せよ」との内容が書かれていた。
そして、・・・・・。
「ああ、ついに、ついに・・・」
中納言は頭を抱える。
「わが殿がそんなに頭を抱えるとは、何事がおありでしたの?」
紀子が満良に聞く。
「墨羽が、朝廷に召される・・・」
「え!?」
「先日の御前試合のせいだ・・・。帝のお目に止まったのだろう」
「ですが・・・・わが殿・・・・」
満良は眉間にしわを寄せて顔をゆがめる。
「帝の意向には逆らえん。それに、墨羽が宮入りするのは橘にとって良い話だ・・・だが・・・・」
「・・・・・」
「わたしから、二人に話をしよう。二人を呼んでくれ」
「お呼びですか?父様」
満良の前に二人は畏まって腰を下ろし、少し頭を下げる。
「・・・墨羽、お前を連れて宮に来るよう帝から知らせが届いた」
「・・・わたくしにですか?清葉ではなく?」
「うむ、墨羽、お前にだ」
満良は墨羽を指さす。
「帝がわたくしなどに何の御用なのでしょうね」
「・・・・はっきりとは言えぬが」
満良はそう前置きして語りだした。
「今より十五年前、伊豆に霞家の霞三郎宗近が流された。宗近の父霞宗明の反乱に加担したという罪状だ。その宗近が近年、伊豆を平らげ、六原の緋家に対して兵を挙げたのだ。今、伊豆から都へ向けて進軍しておる。その討伐と伊豆の奪還のため、緋家の軍に、わずかながら朝廷からも兵を出すことになった。おそらく、墨羽はその兵たちの一部を率いることになるだろう」
「・・・・・・」
あまりに突然の話に、墨羽はあんぐりと口を開けて絶句した。
「そんな!」
先に口を開いたのは清葉だった。
「墨羽はおなごです!まだ子供です!それに、いくら強くても武家の娘ではないではないですか!」
「そうなのだ。父も、御前でできるだけのことは言ってみようと思うておる。だが、あの武芸披露会での御前試合を帝がいたく気に入ってしまったらしい。しかも帝からの勅令となれば、意見することなど決して許されぬことだ」
「墨羽、いくら墨羽が強くても、戦に行くなんてとっても嫌です!殺し合いなど、墨羽のすることではないでしょう!」
清葉は必死な形相で墨羽に縋りついてくる。
「・・・・できるだけ話はしてみよう。だが、帝に逆らうことだけはできん・・・」
満良の表情を見ると、墨羽は何も言えなくなってしまった。
その夜、床の中で清葉は墨羽に抱き着いて、涙を流していた。
ずっと一緒にいられると思っていた。楽しい日々がずっと続くと思っていた。
父様も母様も優しく接してくれる。生活に不自由もない。
ずっとずっと、清葉と隣同士で手をつないでいられると思っていた。
愛しい清葉・・・。わたしも離れたくない。だけど・・・・。
「父様、昨日のお話、お受けしようと思います」
「・・・・墨羽・・・・・」
「お世話になった父様、わたしたちを可愛がってくれた母様への恩返しがしとうございます。わたしが戦場へ出ることによって橘の家が繫栄するなら、わたしがその一翼を担うこと、幸せに思います」
「なんと、なんということを・・・・」
「父様、母様、斑王丸や女房方、そして清葉と離れるのは本当につらいです。ですが、わたしにはお役目がございますなら、それを果たしてお見せいたします」
「墨羽・・・」
満良は墨羽を抱き寄せ、涙した。
寒風は吹く頃、中納言満良は墨羽を伴って参内した。
ふたりは冷たく冷え切った床板を踏みしめながら謁見の間に向かう。
以前の武芸披露会の時とは空気の重さが違う。
御簾の前に座して頭を下げる。
どれくらいの時間が流れたか、突如太鼓が鳴り御簾の向こうに人の気配がした。
「中納言橘満良、娘墨羽を伴いまして、参内いたしました」
ふたりはさらに頭を低くする。
「上げよ」
帝ではない誰かの声がして頭を上げる。二人は頭を少し上げる。
「では、勅命を与える。娘墨羽、霞家討伐の軍に参ぜよ。以上だ」
太鼓の音がして御簾の向こうの人の気配が去っていくのが分かった。
二人はまた頭を下げる。
何一つ意見など出来ないのだ。もう決まったことを伝えるだけのこと。
父の言っていたことがわかった。
わたしは、帝に気に入られた瞬間から命運が決まっていた。
「わぁぁぁん!墨羽ー!!」
清葉がなかなか泣き止まない。
紀子も目に涙を浮かべ、中納言も言葉を失っているようだ。
「本来、皆が喜んでくれることですよ・・・。娘が帝に気に入られて宮仕えするのですから」
墨羽はできるだけ穏やかな笑顔を作った。
「毎日会えないのは嫌です!一緒に床に入れないのは寂しいです!!」
清葉がぐしゃぐしゃの顔をあげる。
「清葉の可愛い顔が台無しだよ」
「墨羽ぁ・・・・・」
乳母に抱かれている斑王丸が無邪気にキャッキャとはしゃいでいる。
「戦が終わったら暇をもらって帰って来るよ。それまで待っていてね」
「ああーーー・・・。戦、行っちゃやだぁぁぁ・・・・・」
「清葉、わたしが強いのは知っているでしょう?大丈夫。心配いらないからね」
「だって、だってぇー!わああああああっ!」
満良と紀子は二人きりにしてあげるべきと乳母を連れて中座した。本当は二人を見ているのが辛かったからだ。
その後も清葉はなかなか泣き止まなかった。ずっと墨羽は清葉の髪をなで、抱きしめていた。
次の日、墨羽は参内するために支度をして屋敷の門を出た。
牛車と荷物を持った下仕え、女房など数人の行列が並んでいた。
最後まで清葉はくしゃくしゃの顔で泣き続け、目を真っ赤にして瞼を腫らしていた。
「清葉、顔を見せて」
墨羽は清葉の顔を両手で優しく上げて、自分の頬を清葉の頬に寄せた。
「清葉、好き」
「・・・わたしも、墨羽が好き」
「いっぱい私のために泣いてくれてありがとう。清葉は本当に優しくて、まっすぐでおっちょこちょい。わたしがいないといつも失敗ばかり。だけど、清葉はわたしより賢くて、結局何でも出来ちゃう子。だから大丈夫。わたしね、あなたに近づきたくて、母様の子になったの。あなたと一緒になりたくて同じ名前にしてもらった。あなたが好きで、一緒にいたくて・・・。心配しないで清葉。わたしが守ってあげるよ。いつでも、守ってあげるから・・・」
お互いを見つめ合って微笑むと、清葉も微笑んだ。
「その顔、ずっと覚えておくね。次に会うまで」
「墨羽・・・」
墨羽は振り向いて牛車に乗り込んだ。
「父様、母様、今までありがとうございました!墨羽は行ってまいります!」
「墨羽!」
「墨羽・・・・」
牛車がゆったりと動き出す。
「墨羽ーーーーっ!!必ず戻ってきてねーーーーっ!!」
清葉が叫ぶ。
誰もいない牛車の中で、墨羽の頬を涙が伝って止まらなかった。
・・・清葉の前では泣かないって決めてたけど、もういいよね、泣いたって・・・。
墨羽は声をあげて泣いた。こんな思いは、清葉と出会ってから一度もなかった。
毎日が幸せだったから。清葉といるだけで。
今日からは一緒にいられない。
淋しいよ、清葉・・・。でも、清葉に悲しい顔は見せられない。笑っている幸せそうなわたしを覚えていてほしいから。
だから今、誰にも見られないようにひとりで泣いているんだ。




