45 純波ノ章 一
栄昌十五年 春
「墨羽、また書の稽古を逃げ出したりして」
清葉が両手を腰に据えて睨みつける。
春のうららかな日の午後、桜の花が風に舞う。ほんのりとしたしょっぱい香りが鼻腔をくすぐる。
桜色と新緑の緑が鮮やかに日の光に映え、春告鳥の鳴き声が耳に届く。
二人が養女として従三位中納言橘朝臣満良のところへ来て初めての春。
清葉と墨羽は公家の娘として詩や琴、読み書きなどを手習いしていた。
だが、いつもながら読み書きの稽古を抜け出してしまう墨羽に、清葉は手を焼いていた。
「退屈だから・・・。でも、読み書きは清葉が得意だから、わたしが読めないときは教えてくれればよいでしょう?」
「そういうことではないでしょう?しっかり覚えておけば、わたしがいなくても・・・」
「わたしの前からいなくなることなどないのでしょう?」
「・・・・そうだけど・・・・ずるいっ!」
いつもこの言い方でやりくるめられてしまう。
清葉の母のところに墨羽がやってきたころから、ずっと二人は一緒だった。同じように遊び、学んだ。
母も墨羽にやさしかったし、清葉も墨羽とすぐに仲良くなった。
中納言のところへ養女へ出る話が立ち上がった時も、二人一緒なら良いという条件を清葉が出したのだ。中納言はあっさり受け入れ、むしろ娘が二人もできたということをたいそう喜んだ。
残してきた父や母のことを思い出さない日はない。
淋しい気持ちはあるものの、一緒に墨羽がいてくれる。それは清葉にとって一番うれしいことだった。
「なぜ、同じ年頃の娘に同じ名をつけたのであろうか。呼ぶと二人とも返事をいたす」
満良は年頃も同じで見た目にもよく似ている二人の養女を不思議そうに眺めている。
橘には子が出来なかったので養子を三人受けた。二人は清葉と墨羽、もう一人は男児で斑王丸と言う名のまだ物言わぬ赤子である。
「本人同士は呼べばもう一人が返事をするだけですから、それほど気にならない様子。ですが、見た目も一緒、名前も一緒は困りましたね」
妻の紀子も、この子たちを大変気に入り、可愛がることに限界を設けなかった。
「清葉のほうが少し年上に見えますから、忌児ではないということは真でしょうけれど」
「うむ。呼び方をそれぞれに考えねばならんのう」
縁側ではしゃぐ二人の娘はとても愛らしい。
夫婦は自然と顔をほころばせながら、子供が家族に増えたことをとても喜んだ。
ある日、中納言から紙を与えられ、好きなものを書いて見せよと言われた。
迷わず清葉が書いたのは”墨羽”という字だった。
中納言は呆れるどころかうれしくなって、清葉の頭をなでた。
その日の夜、清葉はそのことを墨羽に話すと、墨羽は言った。
「わたしに、清葉の字を教えて欲しい」
清葉は笑顔になると、大きく頷いた。
二人はその夜、一本の燭台の明かりを分け合って清葉という字を何枚も書いた。
清葉は十三になった。
満良は宮中の歌会に清葉を連れて行った。清葉は詩に長けていて読み書きも真面目に取り組むので、早くから宮中の空気に慣れさせようと思っていた。そして高貴な家柄の方の目に留まれば橘も安泰だと考えたというところもある。何よりも清葉は見目が麗しい子だったからだ。
さらに、試しに歌を詠ませてみたところ、大人を唸らせるほどの歌を詠むので、満良はこの才女を自慢したい思いもあった。
その日、春の歌会の時だった。
他の同席の者たちが、橘中納言があまりに愛らしい娘を連れてきたので、やっかみ半分であろうか、ただ同席しただけの清葉に、歌を詠めとけしかけられた。
清葉は戸惑っていたものの、しばし考えた後歌を詠んだ。
散ると見て
咲くを惜しめば
春の花
まだ名も知らぬ
風ぞ恨めし
幼いながらも、朗々としたその声はあたりに響き、春の景色と相まってその場にいた皆を朗らかにさせた。大人たちは言葉を失い、春の陽気に夢を見ているのか、本当にこの小さな子が読んだものかと疑う者もあらわれたほどだ。
娘が恥をかかずに済んだことに満良は胸をなでおろした。だが、満良が思った以上に周りの反応は沸き立っていた。
その日の後、あっという間に、中納言の養女に智に長け、あまりに美しい娘がいると宮中でも噂になっていった。
「宮中というのは、それはそれは綺麗なところよ。墨羽も連れて行ってもらえばよいのに」
清葉は墨羽にいつもそう言っていた。
「わたしは清葉と違って歌が得意ではないもの」
「・・・でも、墨羽は武稽古が得意だから、わたしを鬼から守ってくれるよね」
「もちろん。清葉が鬼に襲われたらわたしが助けるよ」
「ありがとう。ずっと一緒にいましょうね」
「無論、ずっと一緒です」
二人はいつも手をつないで歩いていた。夜眠るときも床を同じくして手をつないで眠る。
朝になれば墨羽は清葉の長い黒髪を梳かし、白い肌に紅をさした。
いつもその清葉の美しさに見とれてしまう。
「清葉、本当美しい・・・」
「あら、墨羽だって!」
鏡越しに二人は顔を並べる。
「本当にわたしたち、そっくりね」
「・・・・そうね。でも、清葉のほうが美しいわ」
「そうかしら?墨羽だって・・・そっくりなんだから!」
そう言いながら二人は笑う。
「公家の娘になったのですから、あなたは武芸でなくて歌や読み書きを覚えなくてはいけませんよ」
墨羽にはいつも紀子がそう言っていた。
だが、墨羽は筆よりも刀を好んだ。
「おなごがそんなに日に焼けてはいけません」
「ですが母上、わたしは武芸が好きなのです」
「そんなはしたないことは武家の娘がやることですよ」
「・・・すみません、母上。日陰で武稽古することにいたします」
「いや、そのようなことではありませんけれど・・・」
いつもそうはぐらかされて、紀子はあきらめるしかなかった。
「まったく、困ったお子です・・・」
そう言いながらも、紀子は素直な墨羽がとても気に入っていた。
墨羽はいつも紀子の小言に悪戯っぽい笑みを浮かべる。あの顔をされるともう言葉が出ない。
清葉と墨羽が二人で弟の斑王丸とじゃれているのを見ていると、いつも心が和む。自身に子が出来なかったから、その思いは尚更だった。
「墨羽」
紀子が呼ぶと、二人が振り返る。
「はい、お母さま」
二人が同時に返事をする。
「いえ、清葉ではなくて墨羽の方・・・ではわかりませんよね、えっと、墨羽の方は・・・」
「はい、墨羽はわたしです」
「はい、清葉はわたしです」
いつもこんな具合だった。
「ええと、あなたたちに呼び名をつけようと思います」
紀子が改まって二人を座敷に呼ぶと、そう話し始めた。
「わたしたちは”すみは”が良いです」
清葉が言う。
「そういうわけにはまいりません。同じ名だと呼び分けができません。いつもあなたたちが一緒にいらっしゃるから、ひとりを呼ぶと二人とも返事をしているじゃありませんか」
二人は顔を見合わせる。
「わたしたちはいつも一緒なので、一緒に二人とも呼んでくだされば構いません」
「ええと、そういうことではないのですよ・・・」
「ですが、わたしたちはいつも一緒におりますゆえ」
「・・・・・」
紀子は二人に根負けして、呼び名をつけるのをあきらめた。
この時も、ふたりの屈託ない眼差しにはどうしても勝てなかった。
女房達は、清葉と墨羽に読み書きを教えている。
ある日、墨羽が自分の名と清葉の名を紙に書いているのを見て驚いた。
「あれ、墨の君、いつの間にこのような難しい字を覚えられたのですか?」
「毎夜、清葉がわたしに字を教えてくれています」
「・・・でしたら、わたくしの教えもちゃんと聞いてくださればよろしいのに。いつもお逃げになられてばかりで!」
ちょっと皮肉っぽく女房が言うと、墨羽はまっすぐな目で言った。
「わたしは清葉が大好きなので、清葉の音は一言一句聞き逃さないのです。わたしの耳は清葉のためにあるので、他の音は聞こえてこないのです」
「あら、まあ!」
女房は言葉をなくした。
隣で清葉はクスクスと笑うから、墨羽も笑った。
つられて女房もそんな二人がほほえましく思い、笑ってしまった。
「戦御体?」
ある夜、墨羽が床に就くと、清葉がその話をした。
「そう。この前父様が宮中に連れてくださった折に、強そうなお坊さんが話してらっしゃったの」
「お坊さんなのに強そうなの?」
「それはどうでもいいのだわ。戦御体というのは、とても大きくて、人が乗って操る人形のことらしいのです」
「そんなものがあるの?」
「どこかの戦でそのお坊さんが勝てたのは、戦御体を使ったからだとか」
「大きいものなの?どれくらい大きいの?悪童王くらい?」
悪童王とは、先日父からもらった書に書かれていた鬼の名前だ。
「いえ、もっと大きいの。大人が三人くらいの高さなんだそうで、腹の中に人が入り操るのですって」
「ふうん。見てみたいね」
「そうなの。父様に戦御体が見てみたいと言ったら、そんなものは武士が扱うものだから、我らには必要ないって言われたわ」
「戦に使うものだから、下の者が使うものなんでしょうね」
「でも、近く宮をお守りする兵たちのところにも戦御体が来るそうなの」
「あら。では、清葉は戦御体を見る機会がありそうね。いいなぁ」
「うん。でも、その時は墨羽と一緒が良いと思うの」
「でもわたしは詩が清葉ほどうまくないから、連れて行ってはもらえないわ」
「でも、墨羽だって一緒に行ける時があると思うわ。一緒に戦御体を見ましょうよ」
清葉の目が暗くてもわかるほどキラキラと輝いて見えたので、墨羽もつい嬉しくなった。
「ありがとう。その時は一緒に行きましょうね。約束よ」
二人は手をつなぐと、すぐに寝息をたて始めた。
だが、その時は思うより早く訪れた。
その日、宮中では武士たちによる武芸披露会が催された。
従三位中納言も招待を受け、清葉を連れて行こうとしたが、清葉が「墨羽と一緒なら行きます」と言ったため、墨羽も同行することとなった。
「墨羽、武士の武芸であるから、同じようにしたいと思わなくてよいぞ」
満良の懸念は、墨羽が武芸を見て一層武術に傾倒することだった。かねてから筆より木刀を握ることが多かった墨羽だけに、公家の娘として心配は尽きない。
「父様、わかっております。武芸は芸事。戦いとは違います」
「いや、そうではないのだが・・・」
ふたりにも正装させ、髪を櫛で梳かす。
女房達は二人の姿に、「お人形よりも愛らしい!」と浮かれ気味だった。
墨羽は単衣に慣れず、動きにくいこの格好に少しげんなりとしたが、初めて宮中に連れて行ってもらえることに気持ちは浮かれていた。
満良が直衣に身を包み、幼い二人を連れて宮中の廊下を進む。
あまりにも可愛らしい二人の姿を見て、他の貴族たちが目を奪われることもしばしば。
中納言は貴族席の前列に座すると、二人はその半歩後ろにそっと座る。
席の前には中庭があり、中央には御簾が垂れた席が二つ。
「あそこに帝と皇后が皇太子を連れていらっしゃる。あまりまっすぐ見ぬように」
そう満良に言われ、ふたりは一気に緊張した。
ほとんどの席が埋まった頃、太鼓がたたかれてその場の全員が頭を下げた。
ふたりも訳が分からず周りと同じように頭を下げる。
墨羽はちらっと御簾の方を覗き見た。誰かが歩いてくるのが見えたが姿まではわからなかった。
そして清葉が言っていた”強そうなお坊さん”だろうか。強面の坊主頭の男が前に出て長々と何かを言った後、上半身裸で筋肉隆々の男が二人前に出て、手に持った棒を合わせたり離したりしてゆったりと動いていた。どちらかが前に半歩出れば相手が半歩下がる。相手が棒を打ち出せばそれを棒で受ける。ただただその繰り返し。何のためのものだか墨羽には到底理解が及ばない。宮中というのはこんなに退屈なものなのか?そして・・・武芸とは、こんなもののこと?
墨羽はなんだか拍子抜けして、ぼんやりと眺めていた。隣の清葉も欠伸をこらえるのに必死なようだ。半分口を開けて細い目をしている。
辺りはあまりにも静まり返っており、武芸を披露している男たちが「えい!やあ!」と叫ぶ声と、棒同士が当たるかん!かん!という音が響き渡った。
隣の清葉を見ると、最初はぼんやり見ていたが次第にうつらうつらと居眠りしだした。墨羽が時折、肘で清葉を突っついて起こさないと、寝息をたてそうだった。
だがそのうち清葉は墨羽にもたれかかってすやすやと眠りだした。春の陽気だから仕方あるまいと、清葉の寝顔を見ていると起こすのも気の毒に思えてきたので、墨羽は清葉の体を倒れないようにしっかりと抱きかかえた。
周りを見ると、他の公家たちも欠伸をしたり退屈そうに庭の梅の木を眺めたりしている。
やがて退屈な時間も終わりを迎えた。
場に立っていた上半身裸の男たちが御簾に向かって一礼した。
「清葉、終わったよ。起きて」
清葉をゆすって起こすと、寝ぼけ眼の清葉が口を開いた。
「あ、やっと終わったの?」
その寝起きの清葉の声は、自分でも思わぬくらい大きい声だった。




