74 芽吹ノ章 一
あの日、都から流刑となったあの方が伊豆へ来た。
庭の向こう、外の低い壁越しに伊豆の海を眺める。
良い天気だ。日の光に海が煌めく。
「お前たちに、この方の世話を頼みたい」
父上が兄上、姉上、おれを呼んでそう話した。
兄上と同じくらいの歳だろうか。そこには精悍な顔立ちの少年がいた。
「おれの名は霞三郎宗近。霞家当主宗明の子だ。よろしく頼む」
そう言って頭を下げた。だが、その場にいる誰よりも堂々とした重い空気を纏っていた。
幼かったおれにも、それははっきりと感じられた。
おれの家系、汐永家はどちらかと言えば緋家よりの家系と言える。
だから流人を預かることになったのだが、それが霞家の御曹司となれば話が別だ。
なぜなら、汐永家が預かる伊豆の南東の一帯は海に囲まれていて、北に霞兼信、西に畑松照家が支配する独立領がある。緋家よりの畑松と、霞家の遠縁の霞兼信とは以前から折り合いも悪く、ことあるごとに小競り合いを繰り返していた。
父の絃眉はずっと、どっちつかずを一貫してきた。どちらかに着けば他方から攻められる。
弱小武家の汐永など、二つの勢力の前では塵のようなものだ。
だが、ここへ霞家の御曹司が送られてきた。
霞家と言えばこの世を二分する武家勢力のひとつ。
その御曹司となれば、戦の火種となることは間違いない。
現に、北の霞兼信は宗近殿の受け渡しを打診してきたと聞く。
緋家と繋がりの強い畑松照家はそれを許すはずもない。戦を仕掛ける口実を与えるようなものだ。
だが、拒否し続ければ兼信もいつまでも黙ってはいないだろう。力づくで奪いに来ることも容易に想像できた。
だが霞兼信と畑松照家は汐永を狙いながらも、互いに手出しできないまま幾年月を重ねた。
「藤月、おまえは宗近殿に嫁げ!」
「いやです!」
また始まった・・・。毎日毎日、兄上も姉上も飽きないものだ。
武家の娘はよほどのことがなければ、家の保身のために嫁ぐことになる。
兄上が姉上になぜそこまで宗近殿と婚姻させたかったのかは後になってわかる。だがこのとき姉上は、頑なに拒み続けていた。
「何が不満だ!?」
「全部が不満です!なぜわたしのことをわたしが決められないのです!」
「他に想い人でもいるのか?」
「います!」
「誰だ!?」
「義陽です!」
場の空気が凍った。
・・・ああ、とばっちりだ。
「藤月!弟でごまかそうとするな!」
「わたしは義陽が大事ですので!そばを離れたくありません!」
姉上は、ふん!と鼻を鳴らして何処かへ行ってしまった。
そうなると、典崇兄上の怒りの矛先はおれに向く。
「義陽っ!!どういうことだっ!?」
「・・・どういうことも何も、姉上が勝手に言っているだけです。おれには何のことだか・・・」
「お前も武士の子なら節操を持て!!」
「いや、だから・・・」
「わかったな!藤月は宗近殿に嫁がせる!」
「兄上、おれはまったくそれで構わないのだが・・・」
おれの言うことを聞かず、兄上は怒ったままどこかへ行ってしまった。
「大変だのう、義陽殿」
振り向くと、いつからいたのか、宗近殿が立っていた。
「宗近殿・・・いつから聞いていたのですか?」
「・・・最初から、ということになるか?」
「姉上のこと、悪く思わないでください。相手が宗近殿でなくてもああだと思います」
「ああ、わかっている。だがたしかに、女というだけで自分で何も選べないのは、おれもよい習わしと思ってはいないからな」
「・・・そうなのですか?」
「ああ。これからの世の中は自身で自身のことを決められる、そういう世の中にしていかなくてはな」
「宗近殿がそういう世の中にしてくださると?」
いつも宗近殿は理想を口にする。おれはちょっとだけ吹っ掛けるような言い方をしてみた。
「・・・どうかのう?」
そう言って笑みを浮かべる。これもいつも通りだ。曖昧な返事。
すると、宗近殿は庭におりて蜜柑の木から青い実を一つもいだ。
「この蜜柑のようなものだ。まだ青くて酸い。だから誰もが甘くなるのを待つ。だがな、義陽。この世は、ただ待っていると誰かに奪われる。奪われた蜜柑の木にはもう実はない。そして、『蜜柑というものは酸いものだ』という常識だけが残るのだ」
そう言いながら手の中の青い蜜柑の実を齧って、顔を顰めたあと、高笑いしながらどこかへ行ってしまった。
・・・一体何の話だったのだろう?
居候で流人の割に、わが家で一番自由な人だと思う。
日が傾く頃、おれは庭で木刀を振る。それを毎日の鍛錬にしていた。
そしてその時には、姉上が必ず縁側に座ってこちらを見ている。幼い頃からずっとそうなので、今では当たり前になってしまった。
「まったく、ことあるごとに嫁に行け嫁に行けって!兄様は大嫌い!」
・・・・やはり、その愚痴か。
「その前に自分が嫁を貰えっての!」
「・・・姉上、兄上には兄上のお考えがあると思いますよ」
「その考えのせいでわたしは、兄様が勝手に決めたところへ嫁に行くのよ!?どう思う!?」
「・・・あまりそういうことは言わぬがよいと思いますけど・・・」
さっきみたいに、どこで宗近殿が聞いているかわからない。
とても捉え処のない人だから、気配も感じない。
「宗近殿にもそう言いました!わたしはあなたと婚儀を結ぶ気はありませんって!」
「そうですか・・・。おかわいそうに・・・」
そっちにも、とばっちりがいっていたのか・・・。
「そしたらね、今はそれでかまわぬ!だって!!どう思う!?」
「はぁ・・・」
どう思う?どう思う?と先ほどから聞かれているが、答えようなどない。
「宗近殿が嫌いなわけではないのでしょう?」
「嫌いではありません!むしろ、お慕いしていますよ・・・」
「なら、どうして?」
「それとこれとは話が別ではありませんか?」
「ですが姉上、このまま嫁に行かぬとなると、この先どうなされるおつもりですか?」
「義陽に養ってもらう」
「・・・・はぁ」
「・・・何ですか、その気のない返事」
「その気がないもので・・・」
「まったく、うちの家の男はどいつもこいつもですわ!」
怒って立ち上がると何処かへ行ってしまった。
やれやれ、まったく難儀だな。
「父上はどのようにお考えなのですか?」
唐突だが、おれは父上に考えを聞いてみることにした。
このまま兄上と姉上が毎日言い争いをして、そのたびに巻き込まれていてはかなわない。
「・・・何をじゃ?」
「宗近殿と姉上のことです」
「ああ、よい夫婦になると思うがの」
「そうではありません。今、姉上が霞家の嫁になるということは、汐永家と霞家が親類になるということ。これは北の霞家の側に着くということを意味しています。ということは、西の畑松を敵にするということ。それをどのようにお考えかと」
「さすがじゃな、義陽。そこまで考えておったとは」
「・・・普通、考えるかと。姉上を宗近殿へ嫁入りさせたい兄上はそのお考えと思います」
「であれば、わしは口を挟むことではない。すべては典崇に任せたことだからな」
「・・・なるほど。兄上次第ということですね。では、兄上に聞いてみるとします」
「・・・最初からそうしてくれたらよかったのう。わしがなんか惨めじゃ」
「そうですね」
父上の隣にいる兄上がいるのだから。
「兄上」
「その通りだ」
「なるほど」
「・・・今のでわかったの?」
姉上が怪訝な顔でこちらを見ている。
「もちろん」
「当たり前だ。義陽が父上と話しているのを聞いていたからな」
「なによ、それ?」
「で、姉上はいつからいらしたのですか?」
「最初から」
「はあ・・・」
「ごほん、わたしもおりますけど」
そう口を挟んだのは母上だ。
「・・・みんないたのですね?」
おれが言うと、近くでまた声がした。
「そういうことだな」
「宗近殿まで・・・・」




