06 芝居、だよな?
結婚。
市井においては恋愛の終着点、貴族社会においては政治の手段。
私も自由恋愛が楽しめる平民に生まれたときに、変に高望みをせずに恋愛しておけば良かった。
今となっては、恋愛は贅沢品どころか禁制品。
そしてそんなものより何より、これはバレたら顰蹙もの。
未婚の今だからこそ楽しめてはいるが、結婚するとなれば世間体からして顔を顰められてしまうだろう――その前に大爆笑を喰らうだろうが。
それは耐えられない。
が、私には仲間がいる。
ありがとうみんな。
みんなはこの後、軽くお茶をするらしい。
私も行きたい。
というかまだみんなと喋りたいことが沢山ある。
けれどもそういうわけにもいかず、私は「家の用事がありまして、中座することになってしまうと思うの。ですから皆さんだけで行ってらして」と送り出した。
罷り間違っても、「これからアルヴェインさまと約束が」なんて言えない。
そんなの、さすがに醜聞一直線。
みんながもう画廊を出て遠ざかったに違いない、と断言できるだけの時間を置いて、私は画廊を出た。
一応、今日は私のお忍びの外出ではあるけれど、伯爵令嬢が身軽に出歩けるようならば苦労はありません。
少し離れたところから、油断なく私について来る護衛の存在を、もちろん私は察している。
画廊を出て、傾き始めた陽の光に目を細めつつ、通りを左から右へ見渡す。
アルヴェインに言っていた時間よりかなり遅れてしまったが、無理にも会いたいと言ってきたのは向こうだ。
アルヴェインが怒っていたとしても、「時間が読めないから、今日は避けたいと言ったのに」と言えばいいだろう。
えーっと、あの大馬鹿者はどこ……。
と、視界を巡らせている途中で、横からがしっと腕を掴まれた。
ひ、と声が出てしまったのは致し方あるまい。
何しろ私の見目と筋力は、ただの無力な貴族令嬢なのだ。
護衛さん、今こそ出番! と内心で絶叫しつつも気丈に視線を向けた先にいた男に、私は脱力した。
「……おまえか」
アルヴェインだった。
待ちかねていたのか、にっこり笑顔ながら目が笑っていない顔で、がっしりと私の右腕を掴んでいる。
その斜め後ろで、「うちの主人がどうもすみません」みたいな顔をして立っているのは付き人だろうか。
私はそっと咳払いして、ハンドバッグを持っている左手で、遠慮がちに右腕を掴むアルヴェインの手指を払おうとした。
「――ごきげんよう、奇遇ですわね!」
わざと大きめの声で言う。
何しろ、周囲の往来にはもしかしたら、私たちの顔と名前を一致させている人がいるかも知れないのだ。
まだ正式な婚約者でもないのに逢瀬を重ねるなんてはしたない……とかいう噂がアルヴェインとの絡みで流れたら、私は羞恥の余り死ぬ。
つまり、狙って会ったわけではありませんよー、とアピールしているわけだ。
が、相手は全く「ご機嫌よろしく」なかった。
いや、満面の笑みを浮かべているから、よく知らない人から見れば上機嫌に見えたかもしれないが、私は騙されない。
なんだかんだで付き合いは長い。
これは――こいつが、本気で怒る一歩手前の表情だ。
――え、なんで?
少し……いや、大分ではあるが……時間に遅れただけでこんなに怒る?
この後に予定が入っていたのか? だとしたら悪いことをした。
直前まで、「だから時間が読めないと言っただろうが」と言い訳する気満々だった私だが、こうなると話は違ってくる。
何しろ、二人揃って死んでは生まれ死んでは生まれ、それを繰り返している原因は私にあるのだ。
つまり、弱みがあるということ。
アルヴェインが本気で立腹しているのであれば、平謝りするしかない。
「そう、奇遇だな、ドーンベルのご令嬢」
アルヴェインは爽やかな笑顔で言った。
「せっかくこうしてお会いできたのも何かの縁、当家の馬車がすぐそこに停まっている。ご自宅までお送りしよう」
馬鹿なのこいつ?
「それは……ありがとう存じます。ですが、」
有難迷惑です、と告げるより先に、アルヴェインがぐいっと私の腕を引っ張った。
私は大慌てで声を低める。
「待て。どうした、馬鹿になったのか? 未婚の男女が二人で馬車に入っていいはずがないだろう……!」
我ながらまともなことを言ったと思ったのに、アルヴェインは心外そうに片眉を上げた。
「おや? 俺の記憶違いかな。つい昨日、俺は貴女に求婚したと思っていたが」
ぎゃー!
アルヴェインが私のことを、他人行儀に「貴女」と呼ぶのは、人目があるときか、あるいは本当に怒っているときか、どっちかだ。
今も一応は往来にいるわけだから、前者といえなくもないが……どっちだ。
どうした。
なぜ怒っている。
私は冷や汗を覚えつつ、なんとか愛想笑い。
困惑と嬉しさがミックスされた、絶妙な笑顔を作ってみせる。
「ええ……あの、それについては父と、」
「お父上と話してくださったのか」
やばい、本当にめっちゃ怒ってるね?
「ですがその、当家の馬車も控えており」
追い詰められて嘘が口から飛び出した。
嘘です、こうしてお忍びで出るときは、辻馬車を使わせてもらっています。
アルヴェインがわざとらしく、往来をゆっくりと見渡す。
さっきとは逆の片眉を上げて私を見下ろす。
葡萄色の双眸の冷ややかさよ。
そろそろ冷や汗のせいで私の絹のグローブが絞れそう。
「ほう。その馬車はどこに?」
私は深く項垂れた。
「……ご親切に感謝申し上げます……」
斯くて侯爵家の馬車に連行される私を見て、後ろにいた護衛はさぞかし慌てたことだろう。
救いだったのは、アルヴェインの馬車が無蓋の馬車だったことだ。
良かった、こいつも完全に馬鹿になったわけではなかった。
助かった、と、額の汗を拭いたいくらいの気持ちの私。
とはいえ、アルヴェインのお供の彼がいては、腹を割った話は出来ないだろう。
そう思っていると、アルヴェインが御者さんに指示をして、帰路の途中にある湖のそばの公開庭園に馬車を進めさせた。
庭園で馬車が停まると、アルヴェインは勿体ぶって先に馬車を降り、私に手を貸して下車させた。
なんだか罪人のような気持ちでアルヴェインに手を取られ、下ろされる。
「おまえはここにいろ」
言い渡された付き人さんが、ちょっと顔を顰める。
「ですが」
「ついて来たいなら構わないが、ぴったり張りつくような無粋な真似はしてくれるなよ」
アルヴェインの笑い含みのその言葉に、付き人さんが一礼する。
「かしこまりました、若様」
アルヴェインが私を促して歩き出す。
自然と私に腕を貸すような格好で、遊歩道へ。
遊歩道は並木が美しく、今もぽつぽつと人がいるが、会話を盗み聞きされるほどではない。
「――さて」
歩き出してしばらく、アルヴェインが言った。
私はぎゅっと目を瞑り、先手を打った。
「悪かった」
「……何がだ?」
「おまえ、この後に予定があるんだろう? 待たせて悪かった」
「――――」
アルヴェインは黙り込み、それから大きく息を吐いた。
「いや、予定があるわけではない。第一、予定があるならおまえを送ったりはしない。そう思わないか」
「あ、確かに……」
「相変わらず抜けている」
アルヴェインが不意に微笑む。
この笑みは、何回生まれ直していても変わらない――イオとアルウィリスとして、最悪の形で出会い、しかも呪いをかけるという最悪の終わり方をして、それからもしばらくは険悪だった私たちの仲がようやく緩んだとき――そのときに見た笑みと変わらない、柔らかい、温かい微笑。
――いや、それより前に一度だけ、見たことがあるけれど……
浮かんできた思考を瞬きして追い払い、私はこっそり息を吐く。
何はともあれ、良かった、もう然程怒ってはいないらしい。
持ち直した声で尋ねる。
「今日、わざわざ会いたいと言ってきたのはなんだったんだ?」
「…………」
アルヴェインはなぜか、しばらく黙った。
丸く揃った敷石を踏む私たちの足音に、上空から響くヒバリの声が被る。
ざあ、と風が吹いて並木の枝が揺れる。
それからようやく、アルヴェインは言った。
「……相談なくいきなり求婚して悪かった」
……プライド!
こいつのプライド!
謝るのに長々とした沈黙、そしてさっきまでのちょっと怒った感じも、さては謝る前座の気まずさゆえだな!
そう思って少し笑ってしまってから、私は訂正する。
「求婚の芝居、な」
「俺の求婚についてだが」
「求婚の芝居、な」
「その後、おまえの父上はどうお考えだ?」
私は、うーん、と首を傾げる。
「昨日はげっそりしていらしたが、」
「申し訳ないな……」
「だがまあともかくは、先方――そちらの対応を待つ、というところかな」
アルヴェインは無表情で、「なるほど」と。
私は息を吸い込み、足を止めた。
アルヴェインが訝しそうに、私より半歩前で立ち止まる。
「――どうした?」
「なかったことに出来るぞ」
私は声を低め、しかし断固として言った。
アルヴェインが眉を寄せ、目を細める。
さっき、私のお友だちのカトリーヌが彼のことを「素敵な方」と言っていたが、納得。確かに目を惹く目鼻立ちだ。
が、私にはそんなものは関係ない。
付き合いが長過ぎて、顔面なんてもうどうでもいい。
「なかったことに出来る。お父さまは、おまえのお父上からの接触を待つ気でいるんだ。
つまり、おまえのお父上が話を進めなければ、この話はここで止まる」
アルヴェインがにっこり微笑む。
さっきの微笑とはまるで違う、怒り出す寸前の笑顔。
「ほう。――おまえの発言を真に受けて、公開プロポーズにまで踏み切った俺の評判を地に堕とすのに、どうやらおまえは躊躇いがないらしいな」
「いやだから相談しろと――いや、いや、それはいいんだ」
私はハンドバッグごと手を振る。
「どうとでもなる話だ。私もおまえもまだ若いし――」
「成人だが」
「だが若いことは事実だし――」
「実年齢を覚えているか」
「口を慎め。――とにかく、私たちはまだ若いんだ。
言い訳なら無限に作れる。なんなら私が盾になるぞ」
「は?」
「私は社交界デビューしたての、世間知らずのお嬢さまだ。
いいか、一目惚れしたご令息とのロマンスを楽しみたくて、嘘でもいいから求婚めいたことをしてくれとおまえに頼み込み、優しいおまえが断り切れずに応じてしまったのが思いのほか目立ってしまった――とか、そういう話にしておくか。これならおまえの方の外聞は、然程のダメージは受けないと思う」
それに、まあ、そもそも。
「色恋沙汰で評判に傷がつくのは女性の方だぞ」
胸を張って言った。
どうだ、と見上げた先で、怜悧な眉を寄せて固まっているアルヴェイン。
ややあって、彼は低い声で言った。
「……当初の目的が頭から飛んでいないか」
「我々の家が反目し合っている、あの問題か」
「そうだ」
「――まあ」
息を吸い込む。
「あのときは、私もおまえも再会したてでパニックだったんだ。よく考えよう――別に家が反目し合っているからと言って、呪い再び、ということになるとは限らないさ」
私も良識を身に着けましたとも。
「不安なら距離を置いておけばいい。幸いにもこの一件があれば、私の父が私をおまえから引き離すのも、おまえが私を嫌って関わらないようにするのも、何も不自然なことではないしな」
下手をすれば、私は修道院送りかもしれないが。
そう思って遠い目になる。
「……ほう」
アルヴェインが呟いた。
声が不穏だ。
びくつきながら彼の顔に目を戻す。
アルヴェインは滅多にないほど凶悪な顔つきになっていた。
「ほう、なるほど。――フィオレアナ」
ああ、素の口調で、こうして今生の名前を呼ばれるのは初めてだな、と私は思った。
が、感傷に浸っている場合ではない、アルヴェインがものすごく怒っている。
「俺が父上に打った芝居の言い訳をまた考えさせようとするとは、よほど俺が憎いと見えるな、フィオレアナ」
「あ」
そうだった。
こいつは事前にお父上に話を通してしまっているんだった。
思わず片手で口許を押さえる私。
アルヴェインは相当頭にきたのか、凄絶な笑顔。
「その上で、醜聞で地に墜ちる外聞と、ドーンベル伯が被る迷惑も顧みない提案をしてくるとは。それほど俺に嫁ぐのが嫌か」
嫌というか、人生初の結婚を、こんな風に消費したくないだけですが。
そう思いつつ言えない。
私の弱みは余りに大きい。
なんでこいつを呪ってしまったんだろう。
言葉に困って目を泳がせる私を、あちらははっしと見据えて、アルヴェインが葡萄の色の両目を細める。
「……それとも他に、一緒になりたい男でも出来たか」
「それはない」
残念ながら。
あっさり応じたのに、アルヴェインはものすごく疑わしそうに私を見ている。
私は両手を挙げてみせた。
「私の社交界デビューはつい先日だぞ。私に良縁があったように見えたか?」
なお疑わしげなアルヴェイン。
冤罪です、と言わんばかりに目を丸くしてその顔を見上げることしばし、はぁ、と息を吐いて、アルヴェインは片手で額を覆った。
「フィオレアナ」
「なんだ、アルヴェイン」
「あのな、俺はいい加減に疲れた」
実際に疲れ切った声音と表情でそう言われてしまい、私はうっと言葉に詰まる。
「その……ごめん」
「生まれる度に、『あ、また生まれた。あ、またお乳からやり直しだ。あ、立てないところからやり直しだ』って思って絶望する気持ち、おまえならわかるだろう?」
「わかります……」
遺憾ながら。
アルヴェインが手を伸ばして、私の肩を軽く叩いた。
「そう、おまえはわかるんだ。――話し相手くらいにはなってくれ。
そうでなくては俺のこの多生が割に合わない」
「…………」
「つまり、話し相手にすらなれない道を選ぶくらいなら、今回のこの話を潰すのはなしだ」
ああ、私の初結婚……。
私はなお足掻く。
「いつでも話せるだろう、ほら……」
蝋燭の灯を通して会話を成立させる例の魔法。
バレたら確かに魔女狩り確定だが、今までの人生でバレたことなどない。
「そうだな」
そう認めるくせに、アルヴェインは、「では、父上に話してこの話は保留にしてもらう」とは言ってくれない。
薄く微笑んだ。
斜陽を受けて際立つ、その白皙の頬。
「では、俺が父上にする言い訳を考え出してくれ。――それが出来ないなら、俺からは、今回の話は止めようがないからな」
私は目を閉じる。
「いっそ、私が惚れ薬でも煎じたことにしようか……」
「やめておけ」
アルヴェインはあっさりと言う。
「さすがの俺も、おまえが魔女として処刑台に連れて行かれるのを、黙って見守るわけにはいかないんだからな」
――私のせいでこんな目に遭っているのに、いつもながらの仲間意識、ありがたい限り。
ちなみに帰り際、私の大好きな焼き菓子をお土産に頂いた。
どうやら、アルヴェインの暴走求婚のお詫びの品、ということらしい。
――気が利くじゃないか。




