05 あいつに好きな人だって?
「花束の一つでも持たれては?」
呆れたようにそう指摘してきたのは、この人生における幼少期から俺に仕えてくれている、付き人のセドリックだ。
俺は鏡の前でカフスを留めつつ、鏡越しに見えるその呆れ顔に向かって眉を上げる。
「花束? 俺がか?」
「そうです、あなたです、若様。
――ご婚約者さまに会いに行かれるのでしょう?」
ご婚約者、と聞いて、思わずにやっと笑ってしまう。
――俺が夜会での公開プロポーズに踏み切ったのは実に昨夜。
あのときのあいつ――初めて会ったときの名前はイオ、今の名前はフィオレアナか、あいつの愕然とした表情は、思い出してもちょっと笑える。
普段は取り澄ましたところの多い奴だから、ああいう顔はいっそ貴重だ。
にやっと歪んだ口許を誤魔化すために咳払いして、俺は肩を竦めてみせた。
「まだだ。まだ正式に婚約したわけではない。父上からのお許しも、正確にはまだ頂いていないからな」
そう、あくまで俺は、「フィオレアナ嬢に一目惚れした。向こうも同じ気持ちで、互いに互いがいなければもうどうにもならない」みたいな、顔から火が出るような小っ恥ずかしい言葉を重ねて、父上から、「うぅん」みたいな返事を引き出したに過ぎない。
昨夜は父上も母上もついでに弟も、限りなく遠い目をしていた。
ついでにフィオレアナは最後まで茫然としていた。
いや、おかしいだろ。
結婚する? って訊いたら、「よし」って返事しただろうが。
俺はてっきりそれで、「よし、次の夜会でぶち上げるか」って意味かと思って急遽父上を巻き込んだのに。
俺とフィオレアナの付き合いは長い――本当に長い――が、それでもやっぱり、大事なことはちゃんと言葉にして確認すべきだったらしい。
そこについては猛省。
というわけで俺は昨夜、屋敷が寝静まった深夜に、蝋燭の灯を通した古典的魔法であいつを叩き起こして言葉を交わした。
あいつは滅多に拝めない激怒っぷり(「この馬鹿! 少しは相談しろ! 相談が必要な類のことだってわかるだろ!」)を見せていたが、顔を合わせて謝ればなんとかなる。
泣いても笑っても、俺たちにはお互いしか理解者がいないのだ。
それも、他ならぬあいつの自業自得で。
会いたいんだが、と言った俺に、あいつは若干渋った。
俺も内心ではちょっとだけ、いや僅かばかり、まあティースプーン一杯分くらい、「相談もなくやっちまったな」と思っていたから、渋られると動悸がした。
それでも声には微塵もそんな様子は表わさず、「明日の予定は?」と訊いていた。
あいつに予定がないなら適当な場所に呼び出し、予定があるなら終わる頃に落ち合うようにしてやろうとしたわけ。
が、予定を尋ねると、フィオレアナは輪を掛けて黙った。
俺が「寝たのか?」と二回尋ねてようやく、ものすごく渋々という感じで、明日――つまり、今日だが――は、仲のいいご令嬢たちと、とある画廊を覗きに行くのだと話してくれた。
「ものすごく仲のいい子たちだ。私も含めて、暇ではない面々だ。なかなか揃っては会えないんだ。つまり、貴重な機会だ。部外者にその場に乱入されたくないんだ」
と、やたら気難しい様子で言っていた。
わかった内輪の話があるんだな、と俺はそれをあしらって、彼女たちが画廊で笑いさざめくのが終わるのが何時頃の予定かを尋ねて、「わかった、終わる頃に通り掛かった振りをするから、合流して来い」と指示を出した。
フィオレアナは――つまり、イオは――俺を呪ってしまったという過去がある。
つまり、俺が強く出ると断れないことが多々ある。
このときもそうで、あー、だの、うー、だの、それは……だのと言い淀んだ挙句ではあったが、フィオレアナは了承した。
というわけで俺は、あいつと合流する前に、あいつから「何これ?」と言われかねない花束ではなく、あいつが好きそうな焼き菓子でも仕入れて、あいつに会いに行く。
――斯くしてやって来た画廊。
自慢ではないが俺は芸術方面はからきしわからない。
絵を描くくらいなら実物を見れば? と思ってしまうタイプの筆頭に君臨する男だが、フィオレアナはそうではない。
はじめのうち、俺は画廊の外――画廊は、どこかの貴族が売り払った屋敷を改装して造られている――に立って、フィオレアナが顔を出すのを待つつもりでいた。
が、遅い。
聞いていた時間になってもフィオレアナが出て来ない。
俺は最初は、ここまで来た無蓋の馬車に寄り掛かって余裕で待ち、そのうちに無蓋の馬車から一歩離れて苛々と待った。
やがて、ふー、と息を吐く。
ないとは思うが、あいつが俺が言ったことを忘れ果て、ご友人がたとお茶でもしに行ってしまったのなら問題だ。
俺は日が暮れるまでここで立ち尽くしていることになる。
そして、こっちもこっちでないとは思うが、中で突発的な事故が起こってしまっているのなら、助けに行くべきだ。
俺とあいつの仲だし、あいつが困っているなら助けねばならない。
目下、あいつを最も困らせているのは俺だということは脇に置いておいて。
「――中まで行ってくる」
俺が告げると、一緒にいる付き人のセドリックは、はい、と折り目正しく頷いて、御者に向かって「ここで待て」と指示をしてから、俺に付き従う様子を見せた。
幼少期、俺の胸にでかい痣があるのを発見してからというもの、こいつはいつ俺がぶっ倒れるかわからないと思っているらしい。
それ以来、こいつを俺から引き離すのは不可能なので、まあよし。
――と、そうして敷居を跨いだ画廊。
玄関ホールから既に、新進気鋭の画家たちの、渾身の作が掛かっている空間。
元は貴族の屋敷であっただけあり、広い。
この中で上手くフィオレアナを見つけられるか、まあ大丈夫だろう。
ホールの奥へ向かい、深紅の絨毯が敷き詰められたサーキュラー階段を昇っていく。
俺の迷いのない足取りは、さながら既にお目当ての絵画が決まっているかのように見えたことだろう。
回廊には、当然だが多くの絵が掛けられ、場合によってはその絵を描いた画家自らが、切実そうに己の作品を売り込んでいる。
画家の中でも売れっ子の者の絵画は、回廊ではなく部屋の中に展示されているようだ。
ちらりと幾つかの部屋の中を覗いてみたが、数点の絵が展示され、そのまま商談にも移れるよう応接セットまで完備された室内に、フィオレアナが見当たることはなかった。
セドリックが、「入れ違いになったのでは?」と囁いてくるのを聞き流しつつ、俺は更に奥へ。
当たり前だが、売れる作家の絵は手前の方に展示される。
奥に行けば行くほど人気はなくなる。
――と、そのとき。
俺は聞いた。
フィオレアナの声。
今生では知り合ってまだ僅かに数日だが、蝋燭の灯を通して言葉は交わしているからすぐにわかる。
そして何より、俺とあいつの間には、余人には絶対にわからない繋がりがある。
ゆえにわかる。
すぐにわかる。
耳栓をしていたとしても、あいつの声は俺に聞こえる。
その声が、ものすごく深刻そうに言っていた。
「……ええ、確かにね。結婚……ということになれば、もうあの方とはお会いすることは出来なくなるでしょうね」
と。
――はい?
混乱して足を止め、立ち尽くす俺。
セドリックは当然ながら、フィオレアナとはまだ面識がない。
ゆえに、すぐそばの部屋の中から聞こえてきた声が彼女のものだとはわかっていない。
今にも、「どうされました?」と言い出しそうな顔つきのセドリックに、俺は「しっ!」と指を立ててみせた。
すぐさま黙り込むセドリック。
俺はそっと、中からは見えないよう気を配りつつ、フィオレアナの声が聞こえてきた部屋に歩み寄る。
どうやら、その部屋にはフィオレアナたち以外の人はいないらしい。
憚るような小声ではあったが、年頃の少女の声はよく透る。
「さすがに知られてしまうと……」
と、フィオレアナ。
「そうよね……。でも、フィオリー、諦めなくてもいいと思いますの」
と、知らない声。
「そう、如何様にでも誤魔化しようはありますわ。たとえば……」
と、知らない声その二。
「たとえば、わたくしたち。わたくしたちが、お手紙をお届けしますわ。必ず」
と、知らない声その三。
そのあと、知らない声その一からその三が、小声ながらも堰を切ったように話し始める。
「それに、ハンナ、でしたわよね、協力してくれる侍女もいるのでしょ?」
「だったら、お会いになれますわ。どうとでも……ねぇ?」
「わたくしたちも協力しますもの。二人の関係はここからでしょう? ここで諦めてしまうなんて」
「そうです、勿体ないです」
「……ですけど、アルヴェインさまでしょう……素敵な方ではあらせられますよね」
どんどん重なる声。
一人だけ、見る目のある令嬢がいらっしゃる。
「みんな……っ」
なんだか、感極まったようなフィオレアナの声。
俺は目をぱちくり。
――え?
え、どういうこと?
なんか、これ……なんかこれ、フィオレアナに、好きな人がいる――ような会話じゃないか?
は、どういうこと?
あのフィオレアナに?
イオであったときから一度たりとも、浮いた話の一つもなかったあいつに?
今さら?
なんだそれ、なんだそれ……それはすごく――すごく――
――むかつく。
セドリックが、俺の顔を見た。
そして、そっと囁いてきた。
「……若様。お顔が恐ろしゅうございます……」
「…………」
俺は片手で顔を拭った。
息を吸い込み、セドリックに合図して、そっとその部屋から離れていく。
離れていきながら、思わず凶暴な笑みを浮かべてしまう。
――あいつ……あいつ、度胸あんじゃねえか。
暫定とはいえ婚約者の俺と会う寸前に、自分の想い人のことを友人に相談するとはさすがの肝の据わりよう、恐れ入る。
いやはや、なるほど、俺が会いたいと言えば渋ったはずだ。
昨夜のあいつはさぞや狼狽えていたに違いない、ぜひ見たかった。
なるほどなるほど、万年枯れたようなあいつにも、とうとう想い人が出来たとはめでたい限り。
一体どんな奴だ。
いや、どんな奴であってもめでたい、そうともめでたいとも。
だが残念だが、ああそうとも残念だが、その恋が実ることはない。
その機会があったのであれ、俺が潰してしまった。
俺は既に、社交界においてあいつに公開プロポーズをかました。
あいつの想い人がどんな身分なのであれ、それこそ王太子殿下その人というのでもない限り、侯爵家嫡男からの求婚を断れば角が立つ。
あいつは絶対にその恋を成就させることは出来ない。
あいつも馬鹿だな、それなら俺と結婚するなんて案を出さなければ良かったものを。
いや助かった。
あのときあいつがぼろっとあんなことを零さなければ、危うくあいつが恋愛に向かってまっしぐらに進んでいってしまうところだったのだ。
なるほど、間一髪で止められたわけだな。
そう思うと、すっと溜飲が下がるような、安心するような――そしてその一方で、猛烈にむかつくような、そんな感情で胸がざわついた。
ついでに頭に血が昇った。
ふー、と息を吐きつつ、セドリックを従えて足早に画廊を出て、また俺の馬車に寄り掛かって、お間抜けな魔女の婚約者を待つ態勢に入りつつ、俺ははたと気づいて瞬きした。
――あれ?
――あれ、俺は、どうしてこんなにむかついているんだ?
ていうか、待て、俺。
――『いや助かった』? 『危うく』? 『間一髪で止められた』?
待ってくれ、俺はあいつを一体なんだと思っているんだ?




