猫 03
領内の視察(という建前の接待)の間じゅう、俺は断固としてフィオレアナをそばから離さなかった。
フィオレアナはじゃっかん呆れていた。
ふらふらして迷子になる子供じゃないんだから……ということだが、そうじゃない。
視察に回ったのは領都内の農耕地やら市場やらだが、身分の高い人間を、物見遊山気分で見物に来る連中もいるのである。
そんな連中が万が一にでもフィオレアナに触れるのは我慢が出来ない。
とにかく最初から、俺――つまり、近い将来の領主――は妻にベタ惚れで、目を離すのもとんでもないことだと思っている、と周囲に印象づけねばならない。
フィオレアナは知らないのかもしれないが、身分の高い男の妻には、その愛人の座を狙う男の魔の手が伸びがちなのだ。
領主の妻の愛人になってしまえば、あれこれ融通してもらえる――と、下衆な算段をつける悪賢い男がいるものなのである。
そういう男は発生させないに限る。
そして、仮にフィオレアナに「将来の領主の妻」という看板がないにせよ、目を離した隙に何があるかわかったものではない。
こいつは可愛い。
いや、俺自身もびっくりだ。
まさか、フィオレアナ――つまり、イオ――を、こんな目で見る日がこようとは思わなかった。
だが、可愛いものは可愛い。
今朝がたの、無防備な格好で朝食に現れた姿は本当に愛らしかった。
フィオレアナのコルセット問題で俺が機嫌を損ねたのを察知したのか、胸に手を置いて首を傾げられたときは、心の底から人目に感謝した。
危うく色々と順序を間違えるところだった。
コルセット問題。コルセット問題……
それがあって、どうしてもフィオレアナの体調が気になってしまう。
これにも呆れられた。
本人曰く、「慣れてるから大丈夫」とのことだったが……。
女のドレスが、下手をすれば甲冑より重い重装備で、かつ実用性は全くない拘束具だという話は聞いたことがあったが、まさかフィオレアナに朝食を抜かせているとは思わなかった。
フィオレアナは「問題ない」と連呼するが、どうだか。
視察を終えてマナーハウスに戻ってから、俺がこの問題を再燃させると、フィオレアナはあからさまに鬱陶しそうにした。
とっとと逃げ出した彼女をわざわざ部屋まで訪ねていって、身形を解いて室内用のドレスに着替えた彼女と言い争う。
人払いをしたからフィオレアナも遠慮がない。
「ドレスのサイズを上げるなり、やりようはあるだろう」
「絶対に嫌だ。おまえだってそんなみっともない女はそばに置きたくなくなるよ」
「みっともない? おまえをみっともないと思うことなんてあるはずがない」
「――。とにかく嫌だ。問題ないって。心配し過ぎだ」
「明らかに問題がある。第一、食べられなくなるなんて、どれだけきつく締めているんだ」
「普通。普通だって。みんなやってる」
「不健康だ。倒れてからでは遅い」
「倒れないって」
「だから――」
言い募っていると、フィオレアナが切れた。
「いいか、素のままで可愛くいられるのなんて、小鳥か猫くらいなもんなの!
現状維持か、さもなきゃ私が猫になるか、どっちかだ!」
自棄である。
こいつは昔から、自分に都合が悪くなると子供っぽくなりがちだったが。
俺も腕を組んだ。
「猫? なれるものならなってみろよ」
と、挑発した俺も良くなかったが。
フィオレアナが口を噤んで俺を睨んだ。
俺はそんな彼女を矯めつ眇めつした。
「――無理しなくても、十分に可愛いと思うけど」
「なん……っ」
フィオレアナが真っ赤になった。
全てにおいてタイミングが悪かった。
――たぶん直前に、フィオレアナは挑発されて、本気ではなかったにせよ頭の隅で、猫になることを考えていたに違いない。
そしてこいつはまた、恋人から褒められることに耐性がなかった。
ぽんっ、と小さな音がした。
フィオレアナの姿が消えた。
俺は唖然とした。
フィオレアナのドレスが、ぱさ、と床に落ちる。
俺は一瞬、後を追って死なねばならないかと思ったが、違った。
にゃっ、と声がして、フィオレアナのドレスからわたわたと、猫が一匹顔を出していた。
――一瞬、俺は気絶したかもしれない。
気づくと床に膝を突いて、愕然としながら猫に手を伸ばしていた。
「……フィオレアナ?」
えぇ……。
えぇ、マジかよ……。
ある意味、こいつが海まで出奔したときよりドン引きした。
嘘だろ、ありとあらゆる意味で嘘だろ。
俺がアルウィリスだったときからこちら、魔法の全盛期の時代でさえ、魔法で姿を変えるのは至難の業だった。
それをあっさりこなすとは、さすがは魔法の天才なだけある。
猫はきょとんとした顔で俺を見上げている。
茶トラというのか、明るい色合いの被毛の小さな猫だ。
「…………」
「…………」
無言で顔を見合わせているうちに、急速に俺は不安になり始めた。
――なんですぐに元に戻らない……?
この時代において、魔法は禁忌だ。
こんな現場、見られればただでは済まない。
あっ、やっちゃった、と思ったらすぐに元に戻るべきだ。
もしや、完全に事故で魔法を使ってしまっただけで、戻り方がわからない……?
あるいはこれは、フィオレアナではない?
魔法で姿を変えるより、魔法で移動する方がまだ簡単かもしれない。
フィオレアナとどこぞの野良猫が入れ替わった?
あるいはこれはフィオレアナで、かつ、頭脳まで猫のものに変わってしまった……?
どんどん真っ青になる俺。
まさか他愛ない言い争いからこんなことになるとは思わなかった。
パニックになりそうなのを堪え、俺は片手で口許を覆う。
落ち着け、落ち着け。
猫が俺を見上げ、きょとん、と首を傾げる仕草を見せる。
そして直後、大きく目を見開いた。
俺は深呼吸してから、口を開いた。
「……フィオレアナ?」
猫がこっちを見上げた。
おっ、これは。
「フィオレアナ……か?」
猫がとたとたとこっちに駆け寄ってくる。
そして、にゃあにゃあ鳴きながら俺の膝の辺りに頬擦りしてきた。
うん、これは……これはフィオレアナだな……。
フィオレアナが何かやらかして、「うわあああ」ってなっているときと、本質的には変わらないな……。
さすが、何回も転生して、そのたびに相手を発見しているだけある。
俺はフィオレアナのことであれば、姿に依存せずに見分けることが出来るらしい。
「馬鹿……」
顔を覆ってしまった。
念のために尋ねる。
「フィオレアナ、言葉はわかるか?」
フィオレアナが俺を見上げて、頷くような仕草を見せる。
目は口ほどにものを言う。
「どうしようどうしよう」ってなっているのが丸わかりだ。
「馬鹿……」
呻いた。
その場に座り込むと、フィオレアナも神妙に「お座り」の姿勢をとる。
「戻れるか?」
尋ねると、首が傾げられた。
俺は喉が詰まったような気持ちになる。
「戻れないのか……!?」
どうしよう、さすがに猫相手では、想定していた結婚生活の大部分を変更しなければならなくなるが……。
俺の顔つきを見て、フィオレアナが大慌てでうにゃうにゃと鳴いた。
「え、なに……?」
にゃあ。
わからん。
だが、戻り方がわからないにしてはパニックになっていない。
俺は眉を寄せた。
「時間が経てば、元に戻る……?」
フィオレアナがにゃんにゃん元気に頷く。
俺はしばらくぽかんとしてから、指を鳴らした。
「ああ、そうか、夜だからか」
これは魔法の大原則だが、時間帯によって働き方が変わるというのは、かつての世の中では常識だった。
夜は魔法が思わぬ働きを見せがちだ。
フィオレアナでさえ、かつての人生において、思わぬ「空飛ぶ絨毯」を量産してしまったのは夜だった。
フィオレアナは魔法においてはとにかく天才だったので、時間帯問わず一定に魔法を使うことが出来る稀有な存在だった。
その油断が何を招いたかというと、夜なべしての絨毯釣りだった、というわけだ。
つまり。
「朝になるまで戻れない……?」
探るように尋ねると、フィオレアナがしっぽと耳をしょぼんと下げて俯く。
ああ、もう……。
さすがに、今回のフィオレアナのこのやらかしは度を越している。
俺としては激怒してもいいところだが、ああくそ、心配が先に立って怒れない。
俺は立ち上がった。
フィオレアナが俺を見上げて目を見開くのを見下ろして、溜息を吐く。
「おまえを放っておけない。野良猫が潜り込んだと思われて、外に放り出されたらどうする」
フィオレアナが、にゃっと鳴いた。
大丈夫だよ! と言ったのかもしれないが、冗談ではない。
俺はオス猫まで警戒しなくてはならないのか。
「おいで」
屈んでフィオレアナを抱きかかえようとし――はたと気づいた。
――これ、フィオレアナは裸なのでは?
猫を相手に何を考えているんだという話ではあるが、俺は慌ててウエストコートを脱いで、それでフィオレアナを包むようにして抱え上げた。
素直に抱き上げられながら、フィオレアナはしゅんとしている。
ご迷惑をおかけしてすみませんと言わんばかりの上目遣い。
ああもう……。
まあ、フィオレアナが奇想天外な間抜けだということは知っている。
俺は部屋の扉が施錠されていることを確認してから、寝室どうしを繋ぐ扉の方を通って、まずは夫婦の寝室に入り、それから俺の寝室に向かった。
こちらも、廊下への扉がしっかりと施錠されていることを確認する。
部屋には従僕が灯りを入れてくれている。
窓のカーテンをしっかり閉め、念には念を、衣裳箪笥の中まで警戒して見て回り、誰もいないことを確認する。
そのうえでフィオレアナを床に下ろした。
フィオレアナが、初めて入る俺の寝室に緊張した様子で周囲を窺う。
ヒゲがさわさわと動いている。
こうしてみると、猫って結構可愛いんだな……。
そんなことをぼんやり思ってしまってから、首を振る。
さすがにこれは叱らないと。
「フィオレアナ、この馬鹿」
声をひそめて怒る。
「けしかけられたからって、本当に猫になるやつがあるか、間抜け」
フィオレアナがしゅんと俯く。
「この馬鹿、……あぁもう」
負けた。
もう一度ウエストコートでフィオレアナをくるんで抱え上げる。
「身体で痛いところは?」
フィオレアナがしっぽを振る。
ないよ、大丈夫、といったところか。
俺は溜息を吐いた。
「もう寝ろ」
フィオレアナが、「本当にすみません……」と言わんばかりにしょんぼりして、わたわたと俺のウエストコートから抜け出し、飛び降りて、床の隅っこで丸くなろうとする。
こいつの今の身体の感覚、どうなってるんだろう、あまりにも堂に入った猫っぷりだけど。
「そっちじゃない」
声をひそめて叱った。
「こっちに来い、馬鹿」
フィオレアナが耳を動かし、躊躇いがちに立ち上がる。
俺の足許まで駆け寄ってくると、「いい子にしてますよ」と言わんばかりに小さく鳴いた。
違う、そうじゃない。
俺が寝台を指さして譲らない構えなのを見て、フィオレアナは逡巡したあと、遠慮しながら寝台の上に飛び上がる。
すんすんと寝具の匂いを嗅いでいる様は、まるっきり猫だ。
溜息を吐きつつ、俺がソファの方へ向かおうとすると、フィオレアナが突如にゃあにゃあと大騒ぎし始めた。
即座に振り返る。
「どうした? 何があった?」
フィオレアナは俺の方を見て、何かを訴えるように鳴いている。
歩み寄って寝台の上をざっと点検したが、彼女を驚かせるようなものはない。
「どうした?」
フィオレアナの方に手を伸ばしてみると、フィオレアナは俺の指先にすんすんと鼻先を寄せた。
俺は眉を寄せ、――それから呟いた。
「……俺もこっちで寝ろって言ってるか?」
フィオレアナが大きく頷いた。
この仕草は人っぽいな……。
「…………」
俺はちょっとの間考えた。
猫とはいえフィオレアナだし、婚姻前だし……。
でも猫だし……。
フィオレアナが俺を見上げて、灯火に瞳を煌めかせながら首を傾げる。
にゃあ? と伺うように鳴かれて、俺は陥落した。
「わかった、わかった。こっちで寝るよ」
フィオレアナが嬉しそうに寝台の隅っこに寄る。
灯りを消した俺が横になると、いそいそと胸元に身を寄せてきた。
猫はあまり好きじゃないが、これは可愛いな……。
そう思いながら、俺は目を閉じた。
翌朝、ぼんやりと意識が覚醒した俺は、夢心地のまま、異常な居心地の良さに再び眠りに引き込まれそうになった。
何やら非常にいい香りがする。
普段より空気が柔らかい気がする。
ちょうどいい、甘い温かさがそばにあって幸福な心地。
すうすうと寝息が聞こえてきていて、それがまたなんとも……。
寝息?
俺は目を見開いた。
瞬間、意識が冴え渡った。
俺のすぐそばに、フィオレアナがいる。
間違いない、人の姿のフィオレアナだ。
こちらを向いて横たわり、目を閉じた安らかな寝顔。
すうすうと規則正しい呼吸。
長い金色の髪が、緩やかな寝息に上下する肩に掛かり、シーツに広がっている。
肩――滑らかな輪郭の、剥き出しの肩。
幸いにもというか、肩より下はシーツにくるまっていて見えない。
だが、いや、待て、それでもわかる、一糸纏わぬ姿の輪郭。
というかまずい。
俺だって同じシーツにくるまっているのだ。
抗えない本能で、俺はフィオレアナの鎖骨の辺りを凝視してしまった。
シーツの影と彼女自身の腕で、胸元の際どいところは上手い具合に隠れている。
助かった。
だが、なんというかその、胸元の愛らしい膨らみの柔らかさがわかる程度には見えてしまっていて、なんというか、これは、その……。
生唾を呑む。
片肘を突いて半ば身体を起こした姿勢で、だらだらと冷や汗を流す俺。
まずい。本当にまずい。
どうしてこの事態を考えなかった、昨夜の俺。
朝である。
ただでさえ朝である。
今この状況では絶対に元気になってはいけない部位が非常に元気だ。
唇を噛み締める。
これはまずい。
そのとき、んん、とフィオレアナが呻いた。
悩ましげな声に、俺の理性は蒸発寸前。
据え膳にも程がある。
俺は、もう全く無意識に、フィオレアナに腕を回しそうになった。
そのとき間一髪で、フィオレアナが眠たげに目を開けた。
「――――」
俺は頬の内側を噛み、必死にあれこれ堪えている。
そんな俺の苦労など知らぬげに、フィオレアナはぼんやりした眼差しで俺を見て、
「――――」
にこ、と笑った。
俺の心臓が止まった気がした。
凍りつく俺の胸元に、フィオレアナが甘えるように手を伸ばし、すり寄ってくる。
え、これ、手を出しても許されるんじゃ?
フィオレアナは暢気ににこにこ笑って、俺に甘えながら呟いた。
「……にゃあ……」
もう駄目だ。
俺は必死になってフィオレアナの肩を掴んだ。
「……起きろ、この馬鹿……」
フィオレアナが、きょとんと瞬く。
俺を見て、また瞬きして、そうっと自分の身体に目を遣って――
「――――ッ!?」
言葉にならない叫びを上げて、フィオレアナが俺から離れた。
俺も必死にシーツから這い出て、そのシーツでフィオレアナを厳重にくるむ。
こうしてみると、フィオレアナは本当に華奢だ。
フィオレアナは真っ赤になっている。
あわあわしながら俺を見て、涙目で何か言おうとしてくる。
俺は深呼吸した。
「――じっとしてろ。いいか、じっとしてろ……」
フィオレアナがこくこく頷く。
俺は寝台から下りて、深呼吸を繰り返しながら衣裳箪笥へ。
今日着る予定のシャツを引っ張り出し、寝台のフィオレアナに歩み寄る。
目を瞑ってシャツを彼女に押し付ける。
「これを着て……」
フィオレアナが俺からシャツを受け取った。
衣擦れの音に、ますます俺の理性が責め苦を受ける。
何の拷問だ、これは……。
ややあって目を向けると、フィオレアナが俺のシャツに腕を通してボタンを留め、寝台から滑り出ようとしていた。
俺は頭を殴られたような気分になった。
これ……これ、俺のシャツを着ているフィオレアナ、かなりぐっとくるものがある。
俺は寝台に座り込み、両手で頭を抱えた。
落ち着け……落ち着け……。
更に何度か深呼吸をしてから、顔を上げてフィオレアナを見る。
「いったん部屋に戻って、自分の服を着ろ」
真っ赤になったまま、フィオレアナがこくこく頷く。
「そのシャツ、俺が今日着るやつだから、そのあとで返しに来てくれ」
フィオレアナが、かつてなく従順に頷く。
そして小走りで部屋の扉に向かった。
俺は大慌てでそれを止める。
そっちじゃない!
なんとか、寝室どうしを繋ぐ扉からフィオレアナを脱出させ、俺はがっくりとその場に膝を突いた。
――よく耐えた、俺……。
数分して、こんこん、と扉が叩かれた。
寝室どうしを繋ぐ方の扉だ。
扉を開けると、消え入りそうな風情のフィオレアナが立っていた。
丁寧に畳んだ俺のシャツを捧げ持っている。
俺は無言のままシャツを受け取った。
フィオレアナはさっきまで真っ赤になっていたのが嘘のように真っ青だ。
さすがに顔色が悪すぎる。
俺は眉を寄せた。
「……身体は大丈夫か?」
フィオレアナが、びくっと身を竦ませた。
俺も速やかに蒼褪めた。
「おい、何かあったのか?」
フィオレアナが小刻みに首を振る。
そして、今にも泣きそうな目で俺を見て、細く囁いた。
「……ごめんなさい……」
「え?」
「ごめんなさい、私……」
「ああ……」
まあ、今回のやらかしは度を越していたが……。
今朝のことがあって色々と頭から吹っ飛んでいた俺が頷くと、フィオレアナは俺に縋りつかんばかりにした。
「ごめん、本当にごめん。困らせるつもりはなかったんだ。ただ、猫になれるか考えていて、そこでおまえが変なことを言うから、何かこう暴発しちゃった感じで……! あっ、違う、おまえのせいにしているわけじゃなくて……!」
俺はとりあえずフィオレアナの肩を叩いた。
「うん、わかった。わかったから」
「本当にごめん……!」
「いいから」
「きっ……」
フィオレアナが言葉に詰まった。
ん? と俺が首を傾げると、彼女はとうとう泣き出した。
「嫌いにならないで……」
掌で涙を拭ってしゃくりあげるフィオレアナを前に、俺は思わず天を仰いだ。
取り敢えずフィオレアナを部屋に入れた。
ソファに座らせてやると、啜り泣きつつ、フィオレアナはそのことも謝る。
「ごめん、泣くつもりはなくて……」
俺は溜息を吐く。
「もういいよ」
「ごめんなさい……」
「もういいって。怒ってない」
躊躇ったものの、俺はフィオレアナの隣に腰掛けた。
もっと躊躇ったものの、「フィオレアナを慰めるためだから……」と自分に言い訳して、彼女の肩を抱き寄せる。
「びっくりしたけど、もういいから。
おまえがやらかすのには慣れてる。嫌いになんてなりようがない。
反省したならもういいよ」
フィオレアナは窺うように俺を見上げた。
「ほんとう……?」
「本当だ」
「さ……冷めてない……?」
なんだこいつ、可愛いな。
「冷めてない。――おまえ、本当に身体は大丈夫か?」
フィオレアナはこくんと頷いた。
そして、また溢れてきた涙を指先で押さえる。
「ごめん……。おまえが私を心配してくれたのに、言い返して意地になって、挙句に困らせて……。他人に見られてたらどうなっていたか……」
「何かあったら、国外逃亡でもなんでも付き合ってやるよ」
そう請け合いながらも、俺は目を細める。
「だけどやっぱり、朝食を抜くのはどうかと思うぞ」
これは譲らず、俺は再度言った。
そして今、フィオレアナはかつてなく素直だ。
こくんと頷く。
「うん。考えてみる」
おっ。
「本当の晴れ着を着ないといけない日以外は、もうちょっとコルセットを緩めてもいいと思うぞ。おまえ、華奢だし」
フィオレアナ、こくん。
「わかった」
「もう泣くな」
「うん」
素直に頷きつつ、フィオレアナはなお遠慮がちに俺を見つめる。
「もう怒ってない……?」
「ずっと怒ってない」
「でも、さっき……」
俺は内心でおののいた。
さっき?
何かばれた?
フィオレアナは探るように俺を見つめる。
「私が目を覚ましたとき、すごく怒ってるみたいだったから……」
「…………」
俺は一瞬目を瞑り、そして息を吸い込んだ。
「あのな、フィオレアナ」
「うん」
無邪気なまでに素直なフィオレアナの顔を覗き込み、俺は言い聞かせるように。
「おまえ、無防備にも程がある。あの状況、俺に襲われても文句は言えなかったんだぞ」
「…………」
フィオレアナは驚いたように目を見開き、そしてかあっと頬を染めると、俺から視線を外した。
恥ずかしげにもごもごと呟く。
「ご、ごめん……」
ちらっと俺に目を戻す。
耳まで赤くなっている。
「その……まだ、そういう風に見てもらってる、実感がなくて……」
「――――」
俺は思わず、乾いた笑いを漏らした。
実感。実感ね……。
取り敢えず、恥ずかしそうにするフィオレアナの唇に、どさくさ紛れに軽く口づけした。
泡を喰うフィオレアナが面白い。
「わかった。――とりあえず部屋に戻ってくれ、フィオレアナ。おまえを起こしに来た侍女が、おまえがいないことに気づくとまずい」
「あっ、そうか」
フィオレアナは慌てた様子で立ち上がった。
俺に小さく手を振ってはにかんでから、ぱたぱたと自分の部屋に戻っていく。
俺はふーっと息を漏らした。
俺も着替えるか……。
そう思って立ち上がったところで、はたと思い至った。
――待てよ? 実感がない?
そういえばフィオレアナは、幸いにもこれが生涯最初の結婚だ。
これまでに恋人もいなかった。
そのせいか、俺が手を握ったり手背にキスするだけで赤くなり、いっぱいいっぱいという顔を見せる。
今回うっかり猫になってしまったのも、俺の言葉に動揺したせいだ。
え……っと、これはまずいのでは?
このままでは待ちに待った初夜、未知の連続にパニックを起こしたフィオレアナが泣き出し、お預けを喰らう未来が目に見えている。
俺は額を押さえ、はは……と、小さく声を漏らした。
そして、決意した。
――よし。
これから結婚までの間に、フィオレアナには色々と、慣れてもらおう。
まずはどういう言い訳をつけてあいつを抱き締めるかな、と考えて、俺は人知れず、小さく笑みを浮かべていた。
いったん完結です!
お付き合いいただいた方には心からの感謝を!
クスッとしていただけたなら、それに勝ることはありません。
作者あるあるですが、後日談が追加される可能性があります。
よろしければ、更新通知はそのままに!!




