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猫 02

 九月になって、私はアルヴェインと一緒に、ミディグレイ男爵領に向かって旅立った。



 いや、助かった……。

 正直、この頃は眠っていてもレース編みの夢を見るくらい、花嫁衣裳のレース編みに苦しめられている。

 ここらで合法的にあのレースから距離を置けるのは本当に有難い。


 ドーンベル家から私に同行するのは、侍女のハンナと従僕のアーチー。

 この二人は、私がいざ嫁ぐときにも同行させる予定になっているので、顔見せに付き合わせるのは自然な成り行きだった。

 ハンナもレース編みから救出されることになるので、私たちは喜びを分かち合った。



 向こうに滞在するのはたかだか三日だが、そうとは思えぬ大行列で男爵領に向かう。


 男爵領までは、行列を組んだ馬車だと一日ちょっと掛かる。

 途中の宿はどこかの貴族がちょうどその辺にある別荘を貸してくれるのだとか。

 ありがたい。



 アルヴェインは機嫌がいい。


 といっても、こいつは大抵の場合で情緒が安定していて、不機嫌になることは滅多にないが、それにしても上機嫌だ。


 自惚れを含んで言うならば、私と婚約して以来、アルヴェインは特に機嫌がいい気がする。



 ――婚約以降、挨拶を兼ねた夜会などは、私の想像を絶する大変さだが、さすがというべきかアルヴェインは眉一つ動かさなかった。

 それどころか私の方の準備にまで気を遣ってくれる。


 まあ、結婚のタイミングを誤解していたりだとか、思ったより冷静じゃなかったのかも……と思うことはあったけれども。


 余談になるが、アルヴェインは私が思っていたより過保護だった。


 婚約してからこちら、私は自由に夜会を歩かせてもらっていない。

 常にアルヴェインがそばにいる。


 アルヴェインがお友だちと話している間に、「ちょっと外しますね」とやろうとしても、お喋りを打ち切ってついて来るくらいだ。


 お蔭様で、最近は忙し過ぎてまともに会えていない、『ロルフレッドとティアーナ』のファン仲間であるカトリーヌたちとあんまり喋れていない。

 同じ夜会に出席ついでに話したいことがいっぱいあるのに、アルヴェインがくっついているのでは碌に話せない。

 ディリーア子爵令嬢のテレサとは、「婚約って大変ですね」という愚痴を言い合えたけれども。


 一度、やんわりとそのことを伝えて、「たまには一人で行動させて」と言ってみたが、冗談なのかなんなのかよくわからない口調で、「男に声を掛けられた瞬間に、おまえが大声で叫べるなら」と言われた。

 叫べるかい。


 夜会の途中で叫べるもんか、と返したら、「じゃあ無理」とあっさり断言された。


「おまえって、恋人には過保護なんだな」


 と、ちょっとだけ嫌味っぽく言ってみたら、アルヴェインは肩を竦めたものである。


「俺も、自分がこんな人間だとは知らなかった」


 こいつは、私がかなり嫉妬深いということを知っている。

 だから誤魔化したのかもしれないが、まあ、私が特別扱いされていることを匂わせられたとあって、単純な私はころっと参ってしまった。



 ――閑話休題。



 今、アルヴェインは上機嫌で馬車の中、私の正面に座って、窓際に頬杖を突いて鼻唄なんかを歌っている。


 こいつは、外面は完璧な紳士、素は他人を揶揄うのが好きなちょっぴり嗜虐的な人間だが、割と可愛らしい面もあるということは最近知った。


 あと、キレたら本当に怖いということも最近知った。

『ロルフレッドとティアーナ』の作者のジョナサンさんには、本当にお詫びしてもし切れない……。


 アルヴェインはあのあと、山のようなお詫びの品を彼に送っていたし、お手紙をやり取りしている感じ、ジョナサンさんももう怒ってはいなさそうだが、私としては、もう二度とアルヴェインをガチ切れさせるまいと決意している。



 アルヴェインと他愛ないお喋りをしているうちに眠くなり、私は居眠りしてしまったらしい。

 はっと目を覚ますと、アルヴェインが面白そうに私を見ていた。


「おまえ、眠りながら、なんかこう――こんな感じで指を動かしていたぞ」


「レース編みの夢を見ていたから……」


「……すまん」



 日没ごろに、宿として使わせてもらう別荘に到着。


 別荘には持ち主一家のご令嬢がいて、いたく我々を歓待してくれた。

 ご令嬢はそれはもうめちゃくちゃ美人だったが、信じられないほど偏食だった。


 別荘には、そのご令嬢に溺愛されている猫がいて、人に慣れたその猫(リーチェと命名されていた)はめちゃくちゃ可愛かった。


 晩餐のあとの歓談の場で私の膝に乗ってくれ、みーみーにゃあにゃあと愛想を振り撒いてくれて、私は笑み崩れてしまった。


 一方アルヴェインは、リーチェが膝に飛び移ってくると即座に床に下ろしており、聞けばあんまり猫は好きではないらしい。


「毛がつくし、爪は立てるし、毛玉は吐くし、うるさいし。鼠を追いかけてもらう程度がちょうどいい」


 と、ご令嬢の前から退出すると言っていて、私は「猫が欲しい」という言葉を、そっと胸の中に仕舞い込むことになった。



 帰路でもこの別荘には厄介になる予定なので、我々は翌朝、極めて愛想よく友好的にご令嬢にしばしの別れを告げた。


 ご令嬢はにっこり笑顔で見送ってくれ、抱きかかえたリーチェの前肢を、やや強引にふりふりして手を振っている風にしてくれた。


 うーん、それは可哀そうだから早めに解放してあげて……。



 斯くて一日と少しの旅路ののち、我々はアルヴェインの近い将来の領地、ミディグレイ男爵領に到着した。



 領地に入ってさらにがたごとと馬車が進み、ようやく領都。

 もちろん王都ほどではないが、思っていたよりも都会だ。


 マナーハウスが見えてきて、私は粗相のないようと気合を入れる。


 そんな私を一瞥して、アルヴェインはあっさりと。


「別に気負わなくていい」


「けど」


「今回は俺が顔見せするのが主眼なんだ。おまえは適当に過ごしてくれればそれでいい」


 アルヴェインはわかっていない。

 使用人から嫌われる女主人が、どれだけ惨めに過ごすことになるのかということを……。



 とはいえ、私は使用人さんから嫌われることがあんまりない。


 たぶん人生を重ねてきた分染みついた、私の庶民根性が彼らに伝わって、そこはかとない親近感を生んでくれるためである。





 マナーハウスに到着したのは昼下がり。


 そこからアルヴェインは大変そうだった。


 私が家政を取り仕切る侍女さんたちに挨拶し、他の使用人さんたちの様子を見に行っている間に、アルヴェインの方は、領主(つまり現在のところ、アルヴェインのお父上)不在時にこの領地を預かっている名代との面会をこなしていた。


 ここで舐められると、アルヴェインは名ばかり領主への道をまっしぐらに進むことになる。

 が、大丈夫。

 アルヴェインには既に貴族として人生を全うした経験すらある。

 領地の経営については一家言があるといっていい。


 そんなわけで、身形を整え、領地内の有力者たちを集めての晩餐会に臨むとき、既にアルヴェインは遥か年上(に見える)の人たちから一目置かれていた。

 さすがです。


 晩餐会程度は私も慣れたものである。

 大人しそうに微笑んで、あらゆる会話でアルヴェインを持ち上げることに余念がない。


 晩餐会が終わって、アルヴェインはその後も男同士の付き合いがあるから活動続行だが、私はもう寝室に下がるというときに、アルヴェインはわざわざ私の手を取って、「助かった」と囁いてきた。

 お世辞じゃないと信じます。

 私は自分の行いに鼻が高い。


 寝室は将来の男爵夫人用の寝室である。

 どこの貴族の屋敷でもそうだが、屋敷の主人のためには、夫婦の寝室、当主の寝室、当主の妻の寝室と、寝室は三つあるのが基本。

 それぞれが扉で直接繋がっているが、別室といえば別室である。


 ハンナに身形を解いてもらいつつ、私は彼女に、「上手くやれそう?」と尋ねた。


 ハンナは重々しく頷いて、この屋敷にも『ロルフレッドとティアーナ』のファンはいるということを私に伝えてきた。

 それは重要な情報!


 まず何より、ここにも「ウィークリー・プレジャー」紙が配達されるということに安堵。



 あー良かった、と安心して、私は明日に備えてとっとと眠りに就いた。





 翌朝、アルヴェインは私を朝食に招待した。


 婚約者間で招待も何もないでしょうよ、というところではあるが、本来ならばお部屋で一人でもぐもぐ食べる朝食を、せっかくなので一緒にどうだ? というわけだ。


 アルヴェインの付き人であるセドリックさんからそれを伝えられ、ハンナは「うーん」と顔を顰めた。

 私も「うーん」と顔を顰めた。


 アルヴェインは知らないことだが、私は日中に予定があるとき、朝食を抜くことが多い。

 というのも、コルセットで締められると、食べたものを吐いてしまうからだ。


 今日は昼から、領内の視察でアルヴェインにくっついていく予定なので、当然ちゃんとしたドレスを着る。

 つまり、コルセットを締める。


 つまり、用意された朝食は、そのままハンナに進呈するつもりだった。


 ハンナはこそこそと。


「旦那さまが仰るなら、行かないわけにはいかないですし」


「まだ旦那さまじゃないわよ」


「とにかくです。行かないわけにはいかないですし、行って来てください」


「コルセット、緩めにしてくれるの?」


「吐くのを耐えてくださいよ」


「無理だって、ただでさえ馬車に乗るのに」


「頑張りどころです」


 というわけで着替える。

 悪魔の装備であるコルセットの出番はまだである。


 外出は出来ないが人前には出られるドレスに着替え、アルヴェインが待っているテラスに急行。


 テラスにはばっちり朝食の支度が。

 美味しそう……美味しそうではある。



 アルヴェインは既に席にいて、朝日に照らされ、退屈そうに新聞を読んでいた。



 うっ……生意気にも格好がいい。


 アルヴェインは本当に、今生のご両親にも感謝した方がいい。

 日頃の行いなのかなんなのか、アルヴェインは大抵容姿に恵まれて生まれてくるが、今生もその例に漏れず。


 少し癖のある短い黒髪、整った白皙の容貌。

 今は私同様、楽な服装に身を包んでいて、退屈そうにしていても様になっている。

 気怠そうに組んだ脚が生意気にも長い。


 私がテラスに出て来たことに気づいて、アルヴェインが顔を上げた。

 途端、ぱっと顔を輝かせて葡萄色の目を細める。


 うっ……。


 顔を見るなりあからさまに嬉しそうにされ、私は思わず胸を押さえた。

 と……ときめく……。


 アルヴェインが立ち上がって、私に歩み寄ってきて手を握った。


 そのまま、流れるように私の手背に口づけする。

 ちょっ……今はグローブもないんですけど……!


 実をいえば、ちゃんと着飾っていない状態でアルヴェインに会うのはこれが初めてだったりする。


 昨夜、よそさまの別荘に泊まったときも、寝室に下がるまではばっちり着飾っていて、起きると同時に身支度を整え、「おはよう」と言ったときにはいつも通りの私だったわけで。


 今の私には肌を守ってくれるグローブもなければ、体型を作ってくれるコルセットもなく、髪は梳ってあるとはいえ下ろしたまま、お化粧もしていない。


 遅まきながらそのことに気づいてあわあわしていると、アルヴェインは蕩けるようなにっこり笑顔で言った。


「おはよう、フィオレアナ。来てくれて嬉しい」


 給仕についてくれる侍女さんが、「わぁぁ」みたいな顔をした。

 うん、わかる。格好いいもんね。


 私も辛うじて卒のない笑顔を浮かべる。

 侍女さんもいるので素は出せない。


「おはようございます、アルヴェインさま」


 アルヴェインはあからさまに嬉しそう。

 何がそんなに嬉しいんだ。


 そのまま私の椅子を引いて、席に座るまでエスコートしてくれる。

 わぁ、紳士。


 とはいえ困った。

 テーブルを挟んで私の正面に座ったアルヴェインは、にこにこしながら朝食を始める気満々。


 私はちょっと考えた。

 ここで恥をかくか、後から吐き気と戦うか――


 私が浮かない顔なのがわかったのか、アルヴェインが訝しそうに眉を寄せる。


「――フィオレアナ?」


 私は更にちょっと考えた。

 そして、恥をかくことにした。





 私が、「実はコルセットを締めると吐いちゃうから、あんまり朝ごはんは食べられないんだよねー」というようなことを、めいっぱい装飾して聞き苦しくないように伝えると、アルヴェインは愕然とした顔をした。


 ちなみに給仕の侍女さんは苦笑いしていた。


 アルヴェインの、「信じられない」という顔に居た堪れなくなりながら、私はお水を一口。


「……食べられない?」


 アルヴェイン、そんなにびっくりしないで。


「ええ……少し気をつける必要があると申しますか……」


「待ってくれ、これまで、俺が昼間におまえを誘ったこともあっただろう。あのときもおまえ、飲まず食わずで来ていたのか?」


 アルヴェイン、ちょっと素が出てるよ?

 そう思いながらもすっと目を逸らすと、アルヴェインは額を押さえた。


「……どうして言わなかった?」


「申し上げる必要がなかったというか……」


「言えよ……」


 アルヴェインはふーっと息を吐いた。


「……だが、まあ、わかった」


 理解があって助かる。


「今から今日の服装を変えられるか?」


 理解がなかった。


「無理です!」


「食べずに出発するのか? 倒れるぞ」


「一緒に出掛けて倒れたことなんてないでしょう?」


「心配になってきた。本当に? 陰で具合が悪かったんじゃないのか?」


「大丈夫ですから!」


 押し問答の末、「食べられそうなものだけ食べて」という無難な決着に持っていくことが出来た。


 とはいえ、アルヴェインは不機嫌そう。

 情緒が安定しているのはこいつの美点のはずなのに……。


 アルヴェインは年頃の青年らしく、健啖家ぶりを発揮して食べた。

 見ていて気持ちがいい。


 私の分は、もったいないので食べ盛りの従僕に献上してくれとアルヴェインが指示してくれた。


 私は桃のコンポートと紅茶をいただいた。

 美味しー。

 これで十分ですよ。


 テラスにはときどき小鳥がやってきて、我々の食べ零しを虎視眈々と狙う。

 可愛い。


 アルヴェインにお願いして、パン屑をちょっと撒いてもらった。


 小鳥が三羽、ぱたぱたと集まってきてパン屑をつつく。

 可愛い……。


「こんなののどこがいいんだ」と言わんばかりのアルヴェインを他所に、私と侍女さんはほっこり。



 朝食を終えて席を立ったところで、アルヴェインは私の肘を掴んで引き寄せた。

 眉間に皺が寄っている。


「フィオレアナ、おまえの侍女に、今後は服装を考えるように言いたい」


「やめてください」


 私は泡を喰った。


「コルセットがないと、ドレスなんて着られませんもの。大丈夫ですから心配なさらないで」


「では、昼間には予定を入れないようにするか」


「何を仰るんですか!」


 こいつ、マジか……。

 慌てて宥める。


「大丈夫ですから。着替えた後に軽いものをつまんだりもしますし、支障はありません」


「しかし」


「あんまりご心配いただくと申し訳なくて、今後はこういったことを申し上げづらくなります……」


 アルヴェインは即座に黙った。

 しかし目が、「卑怯だぞ」と言っている。


 侍女さんの前ではあったが、私は勇気を持ってアルヴェインの胸の上に片手を置いた。

 首を傾げる。


「せっかく朝からご一緒できたんですから、ご機嫌を損ねないで」


「――――」


 アルヴェインが硬直した。

 目を見開いて私を見つめる。


 私は自分が速やかに赤くなるのを自覚した。

 柄じゃなかったか。


 が、すぐにアルヴェインは硬直を脱した。

 片手で顔を覆いながら、こくこくと頷く。


 お願い、呆れたのではないと言ってくれ。


「……――わかった」


「あ……りがとうございます」


「さっき、軽いものをつまむこともあると言っていたな。どういったものを?」


「えーっと、ナッツですとか……?」


「わかった。今日も用意しておく」


「え」


 そこまでしていただかなくても……。



 ちなみに、このときそばにいた侍女さんを発端として、「次期領主さまはめちゃくちゃ婚約者に甘い」という噂が出回った。


 私は恥ずかしさに悶絶したものである。



 完全に余談だが、この侍女さんは『ロルフレッドとティアーナ』のファンだった。


 そりゃあときめきに敏感ですよ。


















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