04 この婚約ちょっと待った
有り得ない。
本当に有り得ない。
貴族同士のことだ。
婚約だ結婚だとなれば、まずは両家で慎重に審議して、そこから行動に移すのが普通だろう。
――みたいなことを、私はぶっ倒れそうになりながら囁いた。
アルヴェインはアルヴェインで、「え?」みたいな顔。
「結婚するかって訊いたら、『よし』って言っていただろう、おまえ」
違う。
「こっちは父母にも話しているが、まさか何も話していないのか?」
ば、馬鹿だ……。
本当に馬鹿だ……。
頭を抱えてしまう。
「具体的に話を進めるなら一報を入れろ……!」
以上、突然のプロポーズに驚倒したふりをして囁き交わした会話でした。
いやまずい。本当にまずい。
見よ、離れたところに立っているお父さまを。
もはや彫像だぞ。
仮にも伯爵の地位にある方が、ああも追い詰められることがあるか?
しかもこれ、断ったら今度はイヴンアロー侯爵の面目を潰したことになってしまって、下手すりゃ両家の間で戦争じゃないか。
どうすんだこれ。
どうすんだこれ。
頭は真っ白。
凍りつく私に、さすがにばつが悪くなったのか、アルヴェインは跪いた姿勢から優雅に立ち上がり(こいつは粋なことに、ちゃんと跪いてプロポーズしてくれやがったのだ、私の生涯最初のプロポーズだった)ながら、素早く囁く。
「――父には、俺とおまえが運命的な大恋愛に落ちたと説明してあって」
「げふ」
「咽るな。俺も真顔で言うのに苦労した。
――おまえは驚きと喜びで声が出ない、いいな。いったん保留だ、引き揚げよう」
私はこくこくと頷く。
正直気絶したい。
そう思ってるのが顔に出たのは、アルヴェインは真顔で、「失神の芝居でもするか?」と尋ねてきた。
しません、さすがに自分で歩きます。
とはいえさすがに、騒然としている周囲を見ると、失神した方が楽なような気はしてきたが。
シャンデリアの光が目に突き刺さる。
私は一瞬だけ目を閉じた。
私の馬鹿な発言から、まさかこんなことになるなんて。
一体どうなってしまうんだ。
◇◇◇
あのイヴンアロー家のご嫡男と、デビューしたてのドーンベル家のご令嬢が、なんと……!
というゴシップが、光の速さで広がった夜会の会場からの脱出は、本当に大変だった。
私は「右も左もわかりません、デビューしたての女の子ですもの」みたいな顔で、卒倒寸前のお父さまのそばに張りついていれば良かったが、そうはいかないアルヴェインはさぞかし苦労したことだろう。
ちなみに夜会の会場の隅で、「アルヴェインさまが、まさか……!」みたいに泣き崩れてるご令嬢の一団がいた。
さすが、アルヴェインは今生でもたいそうもてているらしい。
斯くして引き上げた馬車の中。
お父さまの付き人は、完全に目を閉じて無の境地。
お父さまの顔は真っ赤。
「何が一体どういうことだ!」と詰問される。
屋敷まで待てなかったらしい。
私が言えたことではないけれど、心中お察し申し上げます、お父さま。
実はアルヴェインさまとは運命的な大恋愛に落ちてしまって、もうあの方がいなければ夜も明けないほどなのです――と、お父さま相手に言い切った私を、誰か褒めてほしい。
言うだけでどっと疲れたのに、ショック状態のお父さま(私も初めて見る狼狽えよう、本当にごめんなさい)は、「いつ!? いつだ!? 先日の夜会でも、会って話したのはせいぜい十秒だろう!」と。
ド正論。
本当にいつでしょう。
そう思いつつも、私も必死。
「目が合ったその瞬間です」と返したのは反射の速度。
「その瞬間……!?」
お父さまのこんなに疑わしそうな顔、見たことない。
たぶん私邸に妖精が突然降臨しても、こんな顔にはならないんじゃないか。
そしてそのまま苦悶の表情で座席に頽れるお父さま。
ちょうどそのとき馬車の車輪が敷石の罅割れにでも嵌まったのか大きく跳ねて、がんっ、と座席の後ろの壁に頭をぶつけるお父さま。
ごんっ、と響いた音すら私を責めているように思え、私は罪悪感を抉られる。
本当にごめんなさい。この不肖フィオレアナ、今の胸中は悔恨でいっぱいです。
――屋敷に戻ってからも、また地獄。
弟のトマスはまだ十二歳、既に自室ですやすやと眠っているはずだが、そのトマスも起き出してくるんじゃないかと思うような大騒ぎ。
お父さまと私を出迎えてくれた使用人たちですら、「何かがおかしい、何かが起こった」と悟ったような顔をするお父さまの憔悴ぶり、更にお父さまが酒を出すよう指示を出し、従った執事も「なんで?」みたいな目をお父さまの付き人に向けている。
付き人のサムはサムで、「何も訊いてくれるな」みたいな、貝みたいな顔になっていた。
何かが起こったということで、注進がお母さまに走ったと見える。
ちなみにお母さまは今日の夜会にはいなかった――お昼から夕方にかけて、ご友人がたとの予定があったからだ。
そんなお母さまが、「どうなさったの?」みたいな顔で居間に顔を出し、そこで私の罪が暴露された。
お母さまは、「フィオレアナが求婚された」と聞くなり、ぱああっと顔を輝かせた。
「まあ!」
次いでお父さまが、「イヴンアローの息子からな」と言うや、その顔はずーんと沈んだ。
「まあ……」
そろそろ罪悪感で心臓発作を起こしそう。
お父さまは手にしたグラスを粉砕しそうな勢いで、「持参金を持たせるにせよ、イヴンアローに差し入れてやる気はないぞ……!」と気炎を上げている。
本当にごめんなさいごめんなさい。
内心では平身低頭、だが私は人生十数回目の魔女だ。
「ちょっと申し訳ないけど、あとはわけがわかりません」みたいな表情を作るのはお手の物。
だってお父さまやお母さまから見れば、私はただの十五歳の子供ですから。
お父さまはグラスをローテーブルに叩きつけ、チンツ張りのソファから立ち上がると、その周りをぐるぐると歩き回り始めた。
「……今夜のことは、イヴンアローはどこまで把握していたんだ……」
わかりません?
「書簡の一つもありませんでしたもの、ご子息が勢い余っただけでは」
お母さまがソファの隅に座りつつ、罪人よろしく項垂れる私の髪を撫でてくれる。
「フィオリーはこんなに可愛らしいんですもの」
ありがとうお母さま、私も今生の私の見てくれは好きです。
こんな風に産んでいただいて感謝。
いや、待て、それどころじゃないんだった。
「私も、突然のことでびっくりしてしまって……」
ここぞとばかりに、「わざと黙ってたわけじゃない!」とアピールする私。
そんな私を見るお父さまの目は氷点下。
「おまえにとって突然でなかったのなら、フィオレアナ。私がおまえを修道院に放り込んでいるところだ」
「…………」
凍りつく私を軽くハグして、「まあまあ」とお母さまがお父さまを宥めてくれる。
「フィオレアナはまだ十五ですよ」
「デビューしたからには立派な淑女だ。これまでどれだけ教育してやったと思っている」
「そうですけれど、まだ十五です。
――フィオリー、あなた、お部屋にお戻りなさいな。お母さまはお父さまと少しお話があるから……」
そう言って、お母さまが私を居間の外に送り出して、扉を閉めてしまう。
はい、お部屋に戻ります、という顔をしつつ、実のところ素直に戻るはずもない。
閉ざされた扉のすぐそばに立ち、耳を澄ませる。
明かりが入れられているとはいえ薄暗い廊下の絨毯に、居間の中からの明かりが、扉の下の狭い隙間を潜って伸びている。
居間の中からは苛々としたお父さまの声。
「近日中に、さすがにイヴンアローから何かあるはずだ」
「そうでしょうねぇ……」
忍び足の気配を察して私が顔を上げると、執事さんと侍女さん数名が、じりじりとこっちに向かって来ていた。
そりゃあ、雇い主一家が激震に見舞われていれば、何が起こったのか知りたくもなるだろう。
私を見て気まずそうにする皆さんに、「いいから聞いていけば?」と合図。
主人の娘からのお墨付きを得たとあって、ここぞとにじり寄ってくる皆さん。
とはいえ、私は舌打ちする気分。
誰もいなければ、ちょちょっと魔法でもっと聞こえやすく出来るのに。
「イヴンアロー家のご令息というと」
「アルヴェインとかいう若造だ」
「評判のいい子じゃありませんか、大学でも優秀だったと――あら失礼」
お母さまに突き刺さったお父さまの視線が想像できる。
というかアルヴェインは大学まで行っていたのか。
いや、それはそうか。
貴族のご令息だものな。弟のトマスもいずれ進む道だ。
居間の中からはお父さまの疲れ切った声。
「正直、ここまでの大惨事は予想していなかった……。あちらの嫡男が人目のあるところで求婚なんぞしくさるとはな」
求婚? と、声に出さずに復唱して、ばばばっ、と私に集中する盗み聞き仲間たちの目。
私は恥じらう顔を作るのも忘れ、思い切り顔を顰めてしまった。
「お察し申し上げますけれど」
お母さまが咳払いする。
「けれどもまずは、先方が何を仰せになるか、それを待つより他はないのではありません?」
そうだな、と呟いたお父さまの声は低い。
「フィオレアナは……外出禁止にでもするか」
……! 待って、待ってお父さま!
まさに明日には、私の大切なお友だちとの約束が……!
縮み上がった心臓を押さえる私。
使用人の皆さんからの気の毒そうな視線。
違うんだ、私は馬鹿なことを口走ってしまっただけで、その馬鹿なことを真に受けた大馬鹿が起こした事故に巻き込まれているだけなんだ。
が、お母さまが庇ってくれた。
「あの子が何をしたというんです。あんなに驚いて縮み上がるなんて、あの子にしては珍しいじゃありませんか。余計に叱ったりはなさらないで」
なんて素敵なお母さま。
胸の前で両手を組み合わせて感激する私。
ややあってお父さまの重い溜息。
「そうだな……」
そして、室内からこちらへ向かう足音。
まずい! 散れ! という合図を出して、私も大慌てで足音を殺しつつ廊下を走る。
自室に辿り着き、ふう、と一息。
何はともあれ、この重いドレスを脱いでしまわなきゃ。
寝台のそばの紐を引くとベルが鳴る。
続きになっている使用人部屋から、ハンナが駆け出してくる。
駆け寄ってきたハンナが、目をきらきらさせながら私の顔を覗き込んできた。
「お嬢さま、求婚されたって本当ですか!? すごい! すてき! 小説の中のことみたいですね!」
「…………」
私は黙り込み、続いてはーっと息を吐き出した。
私の盗み聞き仲間になっていた、ハンナの同僚の侍女のあの子は、どうやら私より、随分と足が速いらしい。
もうハンナにまで話が伝わっているとは。
――う……海に向かって叫びたい……。
「小説って……」
私は呟く。
「そんな素敵なものじゃないわ……。先方はロルフレッドではないし……」
「あらっ、でも」
ハンナは私のドレスを手早く脱がせながら、わくわくした調子で言った。
「お相手はイヴンアロー侯爵さまのご子息なんでしょう? お立場に阻まれる恋! 王道じゃないですか!」
「…………」
私はぐったりと項垂れてしまう。
違うんだ、その王道を打ち破るため、そもそも両家を仲良くさせるため、二度と再び呪いなんてものが罷り間違っても飛び出さないようにするための、私たちの後悔とトラウマに塗れた所業でしかないんだ、今回のことは。
「まあ、どうなさったんです」
私の、恋に浮かれる様子とは対極にある項垂れっぷりに、鼻白んだ様子でハンナが問い掛けてくる。
私はなんとか、微笑を急拵えして頬に貼り付けた。
海……海に向かって叫びたい……。
「いえ、お父さまに随分とお叱りを頂戴してしまって、疲れてしまって……」
ハンナは「まあ」と声を上げた。
基本的にいい子なのだ。
ぎゅっと私の手を握ってくれる。
「まあ、大変でしたね。でもお嬢さま、お忘れのないよう、私はずっとお嬢さまの味方ですからね。でき得る限りで力になりますから」
「あ――ありがとう」
なんとか微笑をキープする。
家柄に阻まれる恋とやらに乙女心をぎゅんぎゅん唸らせているハンナには悪いが、今さら私と奴の間に何がどうこう生じるはずが――
だって私は、あいつの結婚式に出席したことさえある間柄で――
……ん?
不意に、改めて認識した事実に、私は真顔になってしまった。
――そうだった。
あいつには、別の人生でのことだけど、結婚の経験さえある。
片や私。
なんかこれまでそういった話に恵まれず、浮いた噂から一歩前進することが出来ず、全ての人生を渡ってきてしまった私。
――あれ。
もしかして、もしかして、万に一つだけど、このままこの話が進行していってしまった場合。
頭の中で、りんごんと鐘が鳴る。
教会の荘厳な鐘の音。
真っ青な空の下で散らされる花吹雪と、その下で仲良く寄り添う新郎新婦の私とあいつ――という絵面を想像してしまい、私は動揺の余りによろめいた。
――待って。待って。待って。
それはないんじゃない?
それはちょっと待つべきじゃない?
――人生最初の結婚がこんな風に消費されるとか、それはちょっと酷いんじゃない?




