36 あなたと彼との間のこと
砂浜に座り込み、ざざんと寄せる波を見つめていると、実際的な諸問題が波間に溶けていくような気がする。
揺れる波に弾ける西日。
ああ美しい。
なんかもう、このままここでぼけーっとして、月日が流れていくのを眺めていたい……。
こうして、直面しているあれこれから物理的な距離を置いてみると、褒められたことではないにせよ、ちょっと息がつけた。
なんだかこう、楽になった。
伯爵の娘が家出したとなれば、今頃お父さまたちは大騒ぎだろう。
本当に申し訳ない。
願わくばハンナが罰を受けていませんよう……。
仮に彼女が馘首ということになれば、頑張って捜し出して私が個人的に再び雇うしかなくなってしまう。
だが、まあ、大丈夫だろう。
まずは私を捜索することが第一であって、懲罰云々はその後回しになっているはずで。
捜索。
捜索ね……。
いや、私だって、このまま根無し草のように生きていけるとは思っていないよ。
あるいはこの砂浜で運命的な出会いがあって、その人のお嫁さんになって、漁師の妻として生きていけるとは思っていない。
しかし、しかしだよ?
考えてもみろよ、令嬢が出奔したんだぞ。
もはやまともな縁談など来ようはずもない。
私がひょこっとお父さまのところに帰っても、待っているのは修道院行き一択だ。
つまり何かというと――
「――さらば、アルヴェイン」
呟いた。
声に出してみれば解放感があるかと思いきや、意外にも胸が痛んだ。
いや、ちょっと。
ちょっとだけね。
まあだが、ともかく、こうなった以上、アルヴェインが何を寝惚けていようが、もはや私とあいつの婚約は白紙に戻るのだ。
出奔して傷物になったかもしれない令嬢を、どこの貴族が娶るというのだ。
アルヴェインも、予想を上回る私の馬鹿さ加減に我に返るに違いない。
我に返って冷静になって、いつも通り、他の誰かと幸せになってくれ、アルヴェイン。
来世でまた腐れ縁の仲間として会おう。
響く波の音。
カモメの声。
風に巻き上げられた髪が頬に触れる。
手持ち無沙汰な両手に砂浜の白い砂を掬ってみる。
さらさらと指の間をすり抜けていく砂。
日は傾きつつある。
……どうしよう。
はたと気づいた。
今夜の宿がない。
ここで夜通し座り込んでおくのか、私。
幸い、暖かい季節ではあるけれど――
――と思った、まさにそのとき。
「……お嬢さま?」
声が掛かった。
私はぎゅるんと振り返った。
――運命の出会いである。
少し離れたところで、唖然として私を見ているのは、『ロフルレッドとティアーナ』の作者、ジョナサンさんだった。
まあ偶然ですわね! なんて恰好をつけようにももう遅い。
私は砂まみれの阿呆面を見られてしまった。
私に出来たのは、わたわたと立ち上がりながら膝やお尻から申し訳程度に砂を払い、口の中でもにょもにょと言葉もどきの言い訳を唱えることだけだった。
身体の脇で数冊の本を抱え、如何にも散歩中という風情のジョナサンさんは困惑していた。
そりゃそう。
仮にも貴族の令嬢が、こんなところで何してんだって顔をしている。
ついでに彼はぐるりと周囲を見渡した。
私のお供を探したのだろう。
申し訳ない、私は一人です。
取り敢えず、さも「自分はここにいて当然です」という顔を作ることにした。
逆に訊いてみる。
「どっ――どうしてここに?」
ジョナサンさんが、言いづらそうに答えてくれた。
「いえ、あの……創作に集中するためのあばら家を、この近くに借りておりまして……」
「…………」
ああ!
そういえばいつぞやのお手紙に、海辺におうちを借りてらっしゃることを書いてくださっていたな!
ここか!
この近くだったのか!
なるほどと手を打ちかねない私に対し、ジョナサンさんは当惑を深めている。
「あの……お嬢さまは、なぜ……?」
「えーっと」
目を泳がせる私。
さすがに、「家出して来ました」とは言いづらい。
なぜかカモメすら遠慮して黙り込み、私とジョナサンさんの間に、気詰まりな沈黙が流れた。
数十秒の沈黙は、なんとも情けない音で破られた。
――ぐぅ、と響いた、それは私の腹の虫の声であった。
「…………」
恥ずかしさに顔を覆う私。
そんな私をびっくり顔で見つめてから、ジョナサンさんはおずおずと。
「……あの、よろしければ、私のあばら家にいらっしゃいますか?」
いいんですか……!?
◇◇◇
私の愛してやまない作品が生み出されている場所となれば、もはや聖地である。
恐縮するジョナサンさんに案内していただきつつ、私は大興奮。
ジョナサンさんは、確かにこの辺に居を構えている人っぽかった。
私を案内して海岸から引き揚げてしばらくして擦れ違った地元の漁師さんのお身内と見える人に、朗らかに挨拶されて内気そうに返事をしていた。
案内していただいた先は、海辺の針葉樹の林の中にひっそりと建つ一軒家。
ジョナサンさんがあばら家と連呼するだけあって、丸太を積んで造られた、元は何かの物置だったのでは? というような小さな小屋ではあったが、関係ないです。聖地です。
がたつく小さな扉をくぐると、暖炉のある小さな居間。
さすがに今の季節、暖炉に火の気はない。
牧歌的なテーブルセットの上には書類が散乱。
居間の向こうは即、小さな土間と勝手口。
この小ぢんまりとした感じ、いいね!
小屋の隅には屋根裏に続く梯子があって、さしづめ屋根裏が寝室と見える。
ジョナサンさんは気まずそうに、「すみません……」と呟き、ランプに火を入れ、テーブルの上の書類を手早く片付けた。
私はぎゅっと目を瞑っていた。
ここのところはアルヴェインのとち狂った告白の影響で読めていないが、それはそれとして『ロルフレッドとティアーナ』のネタばれを喰らいたくはないからね。
「それにしても……」
書類をてきぱき片付けて、ジョナサンさんは不思議そうに私を見る。
怖々と目を開けた私はその視線の直撃を受けた。
「失礼ですが、お嬢さま、護衛の方ですとか……そういった方は……?」
そりゃあ不思議ですよね。
私は勧められるがままに椅子に腰掛けつつ、もうなんか、投げ遣りな気持ちになってきた。
――ちなみにだが、私はジョナサンさんの弱みを握っている。
私自身は弱みだとは思っていないが、ジョナサンさんは思っているに違いない――つまり彼の恋心が働く方向についてのことだ。
これを私が教会に垂れ込めば、ジョナサンさんは非常に困ったことになる。
もちろんそんなことはしないけれど。
つまり何が言いたいかというと、ここで私が「家出しました」と自白したところで、ジョナサンさんが、「ドーンベル伯の令嬢は家出したことがある奔放な女だ」と、あちこちで言い触らすとは思えないのだ。
まあ、どのみち私は、遅かれ早かれ修道院行きだと思うけれど……
「――家出してきました」
私はゲロった。
ジョナサンさんは凍りついた。
彼が抱えていた書類が一束、ばらばらと床に落ちていった。
ジョナサンさんがまず考えたことが、「貴族令嬢を誘拐した罪に問われたらどうしよう」であることに疑いはない。
なのでまず最初に、私は「それだけはない」と太鼓判を押した。
「置き手紙は書いてきましたし、自発的な家出だってことは誰にでもわかりますもの」
「そうでしょうか……」
哀れ震えるジョナサンさん。
私はついつい言い出した。
「むしろ、私がこのまま戻ったら、行方不明の私を見つけてくださったということで、褒賞が出るかもしれません」
「いや、それは全く要らないんですが……」
無欲な人だな。
ジョナサンさんは首を振り、散らばった書類を再度まとめると、お茶を淹れてくださった。
お茶を啜る私に、籠に詰められたサンドウィッチを勧めてくれるので、ご自分で用意されているのか訊いたところ、どうやらご近所さんが差し入れをくれる協定になっているらしい。
「代わりに私は、帳簿をつけるのを手伝ったりですとか……」
なるほど、共存関係ね。
空腹は誤魔化しようもないので、ありがたくサンドウィッチを頂戴する。
あー美味しい。
とほっこりしていたら、ジョナサンさんが言い難そうに追撃してきた。
「あの、差し支えなければ、一体何がどうされたんですか……?」
そりゃあ気になりますよね。
もぐもぐごくんと口の中のものを飲み下し、私はにこっと誤魔化し笑った。
「特に、何かあったというほどのことでもないのですけれど」
ジョナサンさんが私を見る目には、好奇心は欠片もなかった。
ただただ心配そうだった。
「で、あればいいのですが……」
彼が首を傾げる。
気遣わしげに。
「お嬢さまにおつらいことがあったのでなければ、いいのですが」
「――――」
私は言葉に詰まった。
――正直に言おう、これまでの人生、私は悩みを打ち明けられるような友達にはあんまり恵まれなかった。
イオとしての最初の人生に至っては友達なんていなかったし、それから先の人生では、まず自分の最大の秘密を隠さなくてはならなかったし。
アルヴェインはどの人生でも、人柄と人格の良さで数多くの友達に囲まれていたけれど、私は違った。
表面的な人付き合いは、人生を重ねてなんとかこなせるようにはなったが、人に好かれる才能が全くなかったのだ。
今生で得た、カトリーヌたちという友人がむしろ貴重なのだ。
ここへきて。
ここへきて、私を信頼して弱みを見せてくれた人が、私を心配してくれている。
私の心がぐらっと揺らいだ。
ここのところ不安定になっていたこともあり、揺らいでしまうと歯止めが利かなかった。
「――うっ」
意識しないうちに涙が出てきた。
ジョナサンさんがぎょっとして固まる。
かじりかけのサンドウィッチを手に、私は止めようもなく、ぼろぼろ泣き出してしまっていた。
年甲斐もなくぼろ泣きしてしまい、なんとか落ち着くまでに数分かかった。
必死に嗚咽を呑み下し、「すみません」と震え声で繰り返す私に、ジョナサンさんがあわあわしながらハンカチーフを差し出してくれる。
サンドウィッチ片手にハンカチーフを受け取り、涙を拭う私。
なんだか締まらないというかなんというか。
落ち着きを取り戻し、ぐすぐす鼻を鳴らしながら、私はもはや意地も恥もなく、ぼそぼそと話した。
泣いてしまった以上、何かがあったことは明白だし、もう隠しようもない。
ならばもう話してしまえと思ったのだ。
とはいえ、転生云々のことは話せないので、そこはふわっとぼかす。
――昔馴染みの男性がいること、その人が私の初恋の相手であること。
相手はそのことは知らず、これまでに何人か恋人がいること、私は負け惜しみの矜持で恋心を埋葬し、今まで良き友人としてやってきたこと。
そもそも幼少期に、私は彼に大怪我をさせてしまっており(呪いなんて話せないから、そういうことにした)、本来ならば親しくさせてもらっていること自体が異常であること。
なんだかんだで上手くやってきたのに、今さら彼に好きだと言われてしまったこと。
けれども、よく考えるまでもなく、彼のその好意は一時の好奇心に等しく、私は飽きられて捨てられてしまうのに耐えられない。
被害妄想じみて聞こえるかもしれないが、事実として、私は彼に忘れられたことがある――私と彼の初対面はけっこうショッキングだったはずなのに、彼の方は完全にそれを忘れているのだ。
それを考え合わせると、どう頑張っても自分が彼の好意を独占し続けることが出来るとは思えない。
その上、みっともなくも彼の昔の恋愛がどうしても頭を過る。
彼に「過去の恋人」としてコレクションされるのは耐えられないし、そもそもこういう嫉妬心や独占欲はみっともなくて彼には釣り合わない。
……みたいなことを、つらつらうだうだ、ジョナサンさんに話した。
ジョナサンさんは頷きながら、親身になって耳を傾けてくれた。
ついでにハンカチーフをもう一枚貸してくれた。
どうもすみません。
私が口を閉じると、ジョナサンさんはしばらく考え込むように眉を寄せた。
そのあいだに、私は食べかけだったサンドウィッチを食べ切った。
すごくしょっぱい涙の味がした。
私がそれを食べ終わるのを見守ってから、ジョナサンさんは考え深げに口を開く。
「……正直に申し上げると、私も恋愛には疎いので、的外れかもしれませんが」
「いえ、もう、聞いてくださっただけでも……」
正直、吐き出せただけでかなり楽になった。
猛烈な恥ずかしさもあるが。
ジョナサンさんは生真面目にこくりと頷いてから、「確認ですが……」みたいな口調で言った。
「――今現在、その方は、お嬢さまを心配なさっているのでは」
「どう……でしょう……」
曖昧な声が出てしまった。
「恐らく父は、醜聞を嫌って私が家出をしたことは伏せているでしょうし……」
私が戻れば修道院に叩き込むべく、その手配をしながら激怒しているだろう。
私はたぶん、重病に臥せっているという設定にでもなっているはず。
さすがに、「実は斯く斯く云々で、フィオレアナが馬鹿なことをしたので婚約は破談で」と伝達するために、アルヴェインには事の真相が伝わっているかもしれないが、あいつが私の心配をするかというと。
――しなさそう……。
まあ私だし、人を呪えちゃう魔女だし――ということで、呆れながらも泰然として、事の成り行きを見守っていそう。
ということで。
「――心配はしていないと思います」
きりっと言い切った。
ジョナサンさんは胡乱な目で私を見てから、溜息をひとつ。
「仮にそうだとしても、お嬢さま。彼とわかり合うべきでは」
――『わかり合おう』
あの劇場でアルヴェインに言われたことと同じことを言われ、私はどきりとした。
「え?」
「わかり合うべきです、お嬢さま。お話を伺っていると、どうも……」
ジョナサンさんが眉を寄せ、少し考え込む風情を見せる。
海風が吹いて、窓ががたがたと揺れる。
窓の外はもうすっかり夜だ。
机上のランプの揺らめく灯を下から受けて、ジョナサンさんの顔貌の陰影が際立っている。
「……どうも、お嬢さまはお一人であれこれ考えられていて、彼とあなたのことなのに、あなたの側のことしか見ていらっしゃらない」
「――――」
虚を突かれて、私は瞬きした。
そんな私を一瞥して、ジョナサンさんはテーブルの上で組んだ手に目を落とす。
「確かに彼は――初めて会ったときのお嬢さまをお忘れになっているのかもしれませんが、お嬢さまはそのときお幾つです? そのときから、お嬢さまもお変わりになったでしょう――今だからこそ彼はお嬢さまのことをお好きになった、そうではないですか」
「――――」
違う、と言いそうになった。
違う、そんな軽い忘却ではなかった。
アルウィリスが白薔薇の中で笑ってくれた、あのことをなかったことにされたのが、どれだけ私の傷になったか。
その傷がどれだけ完膚なきまでに私に身の程を教えたか。
けれど言えなかった。
あのときのアルウィリスの笑顔、木彫りの馬を私にくれると言ってくれたこと――そのことを、欠片であっても他人に話したくなかった。
私だけのものにしておきたかった。
「いやでも」
だから別のことで、言い訳じみたことを口に出してしまう。
「その……事情が――ええっと、家どうしの事情があって、彼とは今後も顔を合わせることになると思うんです。そのときに彼に捨てられていると、かなり悲しいといいますか」
「そんなことを言っていると、世の恋人は誰しも恋に踏み出せませんよ」
――違うんだよ、その、私たちの場合は、お付き合いが来世に及ぶという前提がありまして……。
そう言いたいのに言えず、なんとも言えない顔で唸ってしまう。
「そう……かもしれませんが……」
うじうじと俯いてしまう。
「……私はあいつのコレクションの一つにはなりたくない……」
「ですから、彼があなたを他の恋人と同列に思っているかどうか、お嬢さまの言うところの、『コレクションにしようとしているかどうか』も、彼にしかわからないことでしょう?」
ジョナサンさんが、じゃっかん説教じみた口調になってきた。
「ですから、わかり合うべきです」
「……いや無理……」
「なぜです」
「わかり合おうとすると、こういうことを全部、話さないといけないわけじゃないですか」
「……? そうですね」
わかっていなさそうなジョナサンさんに、私は思わず力説した。
「無理です。嫌われます。これまでの、お友だちの距離感さえ失います。
こんな嫉妬深い女を、誰がまともに相手にしてくれますか」
今生でのアルヴェインの恋人に妬くならばともかく、とっくに死んだ過去の恋人に妬いているなど、さすがのアルヴェインも閉口間違いなし。
「ですから、」
ジョナサンさんは理解に苦しむといった風情。
「その嫉妬が悪いものかどうかを決めるのも、あなたとその方の間のお話でしょう。
あなたの側だけの価値観で決めてはなりません」
「え」
え――そういうものなの?
虚を突かれ、愕然とした私がきょとんと瞬きした、そのときだった。
小屋の扉が、強く叩かれる音がした。




