35 袋の鼠を捕獲せよ!
――『フィオレアナ、俺も女々しいと思うが答えてくれ。……俺が嫌いか? それとも考えたことがなかったから動揺しているのか? 他の理由か? それだけでも教えてくれ』
フィオレアナに躊躇いなく拒絶され、なお喰い下がった俺の醜態は相当なものだった。
あいつも呆れ果てたに違いない。
それに何より困らせた。
あれほど困っているフィオレアナは見たことがない。
挙句に俺は、「形だけでも」などという、情けないにも程がある懇願まで繰り出していた。
言い訳をするならば、あいつがどこの馬の骨とも知れない男に掻っ攫われるのを見ているくらいなら、そいつを殺した方が手っ取り早いと思ったのだ。
フィオレアナも、まだ見ぬ求婚者が死ぬよりは、大人しく俺に嫁いだ方が利があるとわかってくれるかと思った。
だが、まあ、当然――フィオレアナはふざけたことを言い出した俺を、寸分の逡巡もなくぶん殴った。
いっそ清々しい迷いのなさだった。
それでこそ、あの神を敵に回すことも恐れなかったイオだ。
さすがは俺の惚れた女だ。
――ということは置いておいて。
このままではいつ、フィオレアナに別の縁談が持ち上がるかわかったものではない。
冷静に考えれば、俺の父はイヴンアロー侯爵だ。
並大抵の身分の男が俺を押し退けられるとは思えないが、万が一を考えるだけで動悸がしてくる。
ドーンベル伯の財力は魅力的なものだ。
このままでは持参金狙いの男まで、軒並み俺が血祭りに上げなくてはならなくなる。
そういうわけで、俺の醜態はまだ終わりそうにない。
あの夜――フィオレアナにこっぴどく振られた夜――失意の帰宅を果たしたあと、俺が最初にしたことは、懲りずに手紙をしたためることだった。
フィオレアナが、俺の想像を絶して驚倒し、その勢い余って拒絶してきたのではないかという、砂粒みたいな可能性に賭けてしまった。
というかそうするしか正気を保つ方法がなかった。
そうしてしたためた、我ながら順序立てて明快にわかりやすくフィオレアナへの恋心を綴った手紙にはしかし、「正気に戻れ」という、冷ややか極まりない返事があった。
さすがにかちんときた。
すぐさま書き送った、俺は極めて正気であり、ともかくも一度会って話したいという手紙には返事が来ず。
もちろんあいつが忙しくて返事を書けなかっただけかもしれないが、堪え性が蒸発した俺は、再度「会って話したい」という手紙を送ってしまった。
これにも返事がなく、俺はとち狂った真似をした。
つまり、あいつに会いに行った。
さすがに会わせてはもらえず、俺が大人げなくも脅しつけたあいつの侍女は半泣きだった。
聞けばフィオレアナは嘔吐が止まらないとか。
俺への嫌悪感でそうなっているのだったらどうしよう。
フィオレアナのためを思うならばそっとしておいた方が絶対にいいが、それはそれとして、どんな方法であってもあいつと繋がっていたかった。
蝋燭を使った例の魔法は繋がらなかった。
元より、魔法の才能でいえば、俺はフィオレアナには及ばない。
あいつが拒絶している間は繋がれない。
結果、俺は翌日、手紙と花束をあいつに送った。
他の予定をこなしているときも俺は上の空で、この頃にはもう、セドリックでさえ気安く俺に話し掛けなくなっていた。
自分の様子がおかしい自覚はあるが、どうしようもない。
セドリックは薄らぼんやりと、「若様は失恋したのでは?」と思っているかもしれないが、何も言ってこない。
賢明だ。
下手なことを言われようものなら、俺は相手がセドリックといえども殴りかねない。
そのくらい気が立っている。
ドーンベル伯の令嬢が塞ぎ込んでいるという噂は、速やかに社交界に出回りつつある。
俺があいつに手を出したという噂も一緒になってのことだが、これにはもう、どう反応すればいいのやら。
手を出せたのならば苦労はしない。
とはいえ、噂の上であってもあいつの貞操がどうこうされているのは不愉快だ。
これはまずい。
俺の心は俺が思うより狭い。
万が一にもフィオレアナが俺を振り、とっとと他の男のところに嫁ごうものなら、俺は自分がどうするかわからない。
むかついた余りに嫉妬心丸出しの手紙をフィオレアナに送ってしまったが、どうやらフィオレアナは、袖にされた俺が怒っていると判断したらしい、慌てた筆跡の、「お友だちからやり直しませんか」という手紙を送ってきた。
――冗談だろう?
お友だち?
今さら?
――腹に据えかねる気持ちはあったが、だが、情けなくて涙が出てくるが、今のこの、けんもほろろにあしらわれる状況よりは、フィオレアナが俺を再び友人として見てくれるだけでも有難いというのは事実だった。
が、多分、それは上手くいかない。
俺はどうしたってあいつを口説いてしまう。
なので、それを素直に白状した上で、「どこが気に入らないのか教えてほしい、夫にしてくれるならば大抵の困難は乗り越える」旨をしたためた手紙を送った。
そして今、俺は初めて返事を待っている。
連日の恋文に、そろそろフィオレアナも食傷だろうと判断してのことだったが、これはこれでつらい。
相手の気持ちがこちらを向いていないからこそ、連絡をとる判断を相手に委ねることが、まるで心臓が炙られているかのようにつらい。
待っている間にあいつが逃げてしまうのではないかという不安がある。
とにかく自分の中で期限を決めた。
今日は月半ばの日曜日。
木曜日まで梨の礫が続くようならば、もう一度、どうにかして接触しよう――
――と、自らに言い聞かせ、落ち着こうと努めていると、接触があった。
だがそれは、俺が何よりも欲しいフィオレアナからのものではなかった。
ドーンベル家の従僕が俺を呼びつけた、その度胸には素直に脱帽するべきだろう。
互いが属する家柄の関係性からしても、身分の差からしても。
度胸あるその従僕が、使い走り帰りの当家の従僕に袖の下を握らせ、俺に「出て来てください」と伝言を届けさせたわけだが――
万が一これが、フィオレアナからの伝言であれば狂喜する。
一方、フィオレアナからの絶縁の最後通牒を運んできたのであれば、八つ当たりで申し訳ないが、この従僕が生きて帰ることはないだろう。
そう思いつつ、呼び出されるがままに敷地の外に出た俺も相当、失恋に精神をやられていた。
普段であれば一秒も考えず、門衛に命じて排除させているような案件だ。
運よくセドリックの目を盗むことには成功したが、後で知れれば盛大に呆れさせるだろう。
斯くして敷地の外に出た俺と、見覚えがある――確か例の作家を巡る狂気の沙汰のとき、その場にいた気がする――従僕は、鋳鉄の巨大な門の脇で人目を忍ぶように落ち合った。
そして、その従僕は訴えるような表情で俺を見て、縋る語調で尋ねてきたのである。
「――うちのお嬢さまが、こちらにいらしていませんか」
予想の斜め上にも程がある用件に、俺の思考は見事に停止した。
「…………」
は?
「――は?」
めちゃくちゃ怪訝そうな声が出た。
三秒遅れで、たった今の、この小僧の言葉の意味がわかった。
わかった途端に血が凍った。
冗談抜きに、言葉によって受けた衝撃で身体が揺れた気さえした。
――予想を裏切るのも大概にしてほしい、裏切り方も考えてほしい。
ドーンベル家の従僕が、関係が改善されつつあるとはいえ、なお溝のあるイヴンアロー家を訪ねるまでに困り切って、フィオレアナを捜している。
――その意味は明らかだ。
つまりあいつは、俺を冷淡に無視するのみならず、――あろうことか、失踪したのだ。
その場で気絶しなかっただけ上等だろう。
血の気が引いて、俺は思わず額を押さえる。
――あの馬鹿……何を考えているんだ。
仮にも貴族の令嬢が、供もつけずに出奔していいはずがあるか。
醜聞の種にも程がある。
ドーンベル伯の胃には今ごろ穴が開いているに違いない。
そして――こちらの方がより恐ろしい、考えたくもない可能性だが、あいつが誰かに誘拐されたとしたら。
そのときはもう、俺は何にも責任がとれない。
あいつの意思に反してあいつをどこかに連れ去った犯人は、あいつに危害を加えていようがいまいが、俺が入念に千回半殺しにした上で、塵も残さず惨殺してくれる。
俺の反応から、どうやらフィオレアナがここにはいないと察したらしい。
ドーンベル家の従僕が、いよいよ泣きそうな顔をした。
「……いらしていないみたいですね……」
そのままがっくりと項垂れて踵を返そうとするのを、思わず俺は手を伸ばして引き留めた。
「待て」
血の気は引いたが頭は回った。
――この従僕は、人目を忍ぶ様子を見せている。
堂々と使者を立てた上での訪問でもなかった。
つまり、ドーンベル伯は、令嬢の失踪を隠し果せるつもりなのだ。
「――フィオレアナがいなくなったのか?」
確認するように、声をひそめて尋ねる。
従僕は打ちひしがれた様子で頷いた。
俺は重ねて確認する。
「まだ、そのことは公にしていないんだな?」
従僕は再度頷く。
俺は息を吸い込む。
「――何か……フィオレアナが……拐かされたような痕跡はあったか」
従僕が首を振った。
明らかに疲れ切って、どうやら礼儀作法諸々にも頭が回っていない様子だ。
普段ならば手打ちにすることも検討する態度だが、今ばかりはどうでもいい。
「いいえ……あの、ハンナ――あ、お嬢さまの侍女に、『家出する』っていう詫びの一筆が残されてまして……。普段はお忍びの外出のときでも、ハンナには行先を教えてくださっているんですが、今回はそれもなくて……」
あの馬鹿……。
凄まじく深い溜息が漏れたが、過半が安堵によるものだった。
自分がこれほど誰かに対して甘い考えを持つようになるとは思わなかった。
だが、ともかくも、良かった……最悪の場合は免れている。
にしても。
「家出……」
「すみません聞かなかったことに」
「出来るか」
俺の即答に、従僕ががっくりと肩を落とす。
「ですよね……」
「いつわかった?」
「昨夜です……」
詳しく尋ねるに(問い詰めた、ともいう)、昨夜にあいつが部屋から消えたのだという。
とはいえ箱入りの令嬢がまさか屋敷の外に脱走したとは思わず、手分けして伯爵邸の中で捜索が実施された。
しかし見つからず。
そうこうしているうちに、フィオレアナ付きの侍女が「家出する」旨の置き手紙を発見。
まさに伯爵家がひっくり返ったのが昨日の夜半だった、とのことである。
頭が痛い……。
「ここに来たのはドーンベル閣下のご意向か」
「いえ……」
従僕はかなり悲壮な表情になった。
「旦那さまは、絶対に他家にはこのことを漏らさず、お嬢さまを捕まえるって仰ってるんですが、」
だろうな。
正常な判断だ。
「もしかしたら、ここにいらしているんじゃないかと、僕たちが勝手に思って。
旦那さまにこのことがばれたら、僕の首は飛びます。職業的にも物理的にも」
「…………」
俺は眉を寄せた。
「どうして?」
「そりゃ、秘密にしろって言われたことをばらしちゃったわけなので……」
「違う、おまえの首に興味はない。――どうして、フィオレアナがここにいるかもしれないと?」
「あ、いえ、お嬢さま、たまにとんでもないことをなさるので」
俺はかちんときた。
何をこいつ、フィオレアナに対して知った口を叩いているんだ?
「知っている」
冷ややかにそう言うと、従僕はじゃっかん怯えたようだった。
「……なので、その……突然、なかなかご結婚できないことに業を煮やされて、あなた様のところに飛び込むこともあるんじゃないかと」
「…………」
首に興味はないとか言って悪かったかもしれない。
こいつ、いい奴かもしれない。
「……フィオレアナは……」
そんな場合では全くないのだが、そわ、と尋ねてしまう俺。
「では、屋敷では俺のことを――好ましいように話していた?」
従僕は零れんばかりに目を見開いた。
「そりゃあそうでしょ。熱愛なんですから」
まあ、そういう建前ではあったが……
「若君とのお約束の日は、あからさまに普段よりご機嫌が良かったですし」
……気心の知れた昔馴染みに会うから、だからかもしれないが。
だが、そうだとしても。
思わず、諸々の感情に唇を噛んでしまう。
――同時に、俺の脳裏でそろばんが弾かれた。
落ち着いてよく考えてみれば、この状況。
――……めちゃくちゃ俺に得じゃないか?
出奔したとあっては、ドーンベル伯は娘に激怒していることだろう。
出奔したことが世間にちらとでも知られれば、必然的にフィオレアナの評判は地に墜ちる――どころか、地底を突破する。
当然、フィオレアナにはまともな嫁の貰い手はいなくなり、ドーンベル伯としては無用な家督争いや財産処分の際の紛争を避けるために、フィオレアナから相続権を奪うべく――つまり、彼女を俗世から切り離すべく、彼女を修道院に放り込むしかなくなる。
つまり、ドーンベル伯の頭からは、一度でもこんなことがあった以上、後からあれこれが露見して破談になりかねない新しい縁談を歓迎する考えは消え去っているはずだ。
そして、従前より進んでいた、俺とフィオレアナの縁談を、このまま成約まで持ち込んでしまえという考えが強くなっているはずなのだ。
令嬢を修道院に送り込めば、あれこれと噂が立つ。
そうなるよりは、全てを誤魔化して俺に押しつけてしまった方がまだましだと。
卑怯とでもなんとでも謗られよう、フィオレアナの人生の選択肢から、他の男を排除できるならばなんだっていい。
生涯未婚か、俺か。
この二択の中でフィオレアナが選んでくれるのならば、願ったり叶ったりだ。
唯一残念なのは、フィオレアナは絶対にそこまでは考えていないだろうということ――つまりこれが、遠回しな俺の告白への諾の返答ではないということ。
だが、そんなことはどうでもいい。
俺は、俺が選ばれないならば涙を呑めるが、あいつが他の誰かを選ぶことだけは我慢できない。
その危険を排除できるならば諸手を挙げて喜べる。
――深呼吸した。
落ち着かなくては。
まずは何より、フィオレアナを無事に連れ戻さなくてはならない。
あいつは長く生きてきた分機転も利くが、お間抜けなところも多分にあるのだ。
心配して、し過ぎるということはあるまい。
こうしている間にも、予期せぬ危険にあいつが突っ込んでいっているかと思うだけで気が気ではない。
俺は片手で顔を拭い、決然として言っていた。
「――状況は理解した」
ドーンベル家の従僕は悲痛な表情。
「せめて内密に」
「言われるまでもない」
醜聞が立ったところで俺が責任を取ってやるが、だからといってフィオレアナの醜聞を歓迎するわけではない。
結婚できるのであれば、醜聞の後始末という目で見られるのではなく、祝福されて結婚したい。
特に、フィオレアナにとっては初めての結婚になるはずだ。
俺は自分の最初の結婚式など綺麗さっぱり忘れているが、俺とフィオレアナの最初の結婚式は覚えていたいし、あいつにも覚えていてほしい。
そして、いい思い出にしてやりたい。
俺は息を吸い込んだ。
「――大切な俺の婚約者だ。俺の方でも捜索しよう」
従僕が、「んっ?」と眉を動かした。
じゃっかん唇が震える。
「で――ですから、あのう、内密に……」
俺は息を吐く。
「誰が、人手を使うと言った」
第一、フィオレアナはありとあらゆる面で俺の想像を超えてくるのだ。
下手に人員を動員して捜索した結果、あいつを発見した幸運な一人の手を取って、「この人が私の運命の人です!」などという一芝居を打つこともやりかねない――俺を避けるために。
つまり。
「――俺が自分で捜しに行くと言っているんだ」




