33 そうだ旅に出よう
――袋の鼠、という言葉がある。
逃げ出そうにもどこへも行けず、じたばたするしかない憐れな状況を指す言葉である。
今の私は、まさにそれ――
――というか、自ら袋に突っ込んだ挙句にどこにも脱出できなくなっている、いちばん間抜けなタイプの鼠になっていた。
どこから間違えたか?
――明らか。
明々白々すぎて泣けてくる。
『仲の悪い家の仲が回復するとなれば、両家の結婚が昔からの常套手段じゃないか!』
――死ねよもう、あの夜の私。
時間を遡れるのならば遡り、あの夜の私の首を絞めたい……。
あの馬鹿すぎる発言のせいで私が失ったもの。
一、アルヴェインからの友情。
二、アルヴェインからの仲間意識。
三、穏やかな日常。
四、……ああもう、数え上げたら切りがない。
あんな発言をしなければ、アルヴェインは私の生態に興味を刺激されることもなく、いつも通り穏やかに、「もううんざりだ」「ごめんごめん」みたいな感じで一生を終えることが出来ていたはずなのに……。
というか、どうすんの、これ。
次の人生で出会ったときに、「よっ」って挨拶していいもんなの?
変な空気にならない?
どうしよう、これ、もう二度とアルヴェインに会えないんじゃないか。
そんなことを思ってぐすぐす涙に暮れる私。
正直、半日もすれば元気になると思い込んでいたが甘かった。
一向に気分が晴れない。
なんだかんだでもう七日。
追い打ちをかけるアルヴェインからのお手紙。
――劇場からの帰路の馬車内の空気は……思い出したくないので割愛しよう。
とにかく地獄のようだった。
なんかもう、空気に棘が生えていて、それにずーっとぶすぶす刺されているような感じだった。
針の筵とはまさにあのこと。
で、その次の日。
いつものようにしれっとアルヴェインから手紙が届いたので、私は軽はずみにも喜んだ。
やった、あいつも正気に戻ったんだ、昨夜のあれこれをなかったことにしてくれ、という手紙に違いない、と、喜び勇んで小躍りしながら封を開けた。
――違った。
生まれて初めて、ガチの恋文を受け取ってしまった。
いつものように無駄に情熱的な文もない、理路整然としてその理路整然さがむしろ必死さを際立たせているようなお手紙だった。
「急に告白して驚かせて申し訳ない。自分は真剣なので、頭ごなしに否定されるのはかなりつらい。嫌われているなら涙を呑むが、そうでないなら一度検討してほしい」みたいなことが丁寧に書いてあった。
怖くなって燃やした。
が、返事を書かないわけにはいかないと思い、重い腰を上げて筆を執った。
「取り敢えず正気に戻ってほしい、真剣に考えてほしい、何か錯覚していないか。私の過去の所業を思い出してほしい」と熱烈に書いた手紙を出し、私は力尽きた。
その夜、私は原因不明の腹痛に苦しんだ。
で、次の日。
げっそりしながら起き出し、その夕方。
またアルヴェインからのお手紙。
正気に戻りましたという報告なら嬉しいが、逆の用件だと怖い。
しばらく悩んだ末にこわごわ開くと、「自分は全く正気であり、真剣にフィオレアナと結婚したいと思っている。ご自身が相当失礼なことを書き送ってきたことを自覚した方がいい。出来たら一度会いたい。二人きりとなればそちらも不安かと思うので、人目のあるところで一度会わないか」というお手紙だった。
ますます怖くなって躊躇いなく灰にした。
今度は返事は出せなかった。
その夜、私は怖い夢を連続で見て眠れなかった。
で、次の日。
へろへろで起き出したら、またアルヴェインからのお手紙。
読まずに燃やそうかなと思ったけれど、手紙からなんかもう怨念みたいなものを感じたので読んだ。
「会って話したい」という内容だった。
破って捨てた。
で、次の日。
御大が降臨した。
このときばかりはハンナに泣きつき、バートに泣きつき、アルヴェインを部屋の中に入れるのは断固として拒否した。
後から聞いたところによると、ハンナはアルヴェインの迫力に押されて前後不覚に陥り、「お嬢さまは嘔吐が止まらない」と口走ったそう。
まあ、うん、それだと会えないもんね。
ありがとうハンナ。
その夜、うっかり蝋燭に灯を入れていると、例の魔法で接触しようとしてくるアルヴェインの気配を感じたので、慌てて火を吹き消して狸寝入りした。
とはいえ怖くてぶるぶる震えていた。
で、次の日。
観劇から数えて五日目。
届いたのはお手紙に加えて花束。
どうやらお見舞いらしい。
怖いので花束はどこかに持って行ってくれと泣いてしまった。
ハンナはおろおろしていて、そのあとバートがわざわざ、「観劇中にイヴンアローのご子息に何か嫌なことでもされましたか」と訊いてきた。
されていません、捨てられるのがわかり切っているので身を守っているだけです。
ちなみにお手紙には、「病気が本当なら心の底から心配。仮病なら、訪ねたのが不快だったということだと思うので心の底から謝罪する」みたいなことが書いてあった。
ついでに、「どんな手段でもいいので、一度話がしたい」とも書いてあった。
私は部屋の蝋燭を全て撤去するようハンナに頼み込み、ぷるぷる震えながら眠りに就いた。
で、その次の日。
連日のお手紙。
本当に怖い。
アルヴェイン、早く正気に戻ってくれ。
そもそもおまえは筆まめな性格ではなかったはずだ。
お手紙には、「おまえが俺を振って他の奴と結婚したら、戦争をふっかけない自信はないぞ」というようなことが、かなり穏便な言葉に直された上で書かれていた。
とんでもなく怒っていらっしゃる……。
私は震え上がり、「お友だちからやり直しませんか」というお手紙を大慌てで送った。
で、今日。
観劇から数えて七日目。
日没近くになって届いたお手紙。
「とてもではないが友人には戻れそうもない。最悪、そちらは友人と思って接してくれるのでももう構わないが、こちらは二度とそんな目でおまえを見れない。そろそろ本当に会いたい。どこが気に入らないのか教えてほしい。夫になるためなら大抵の困難は乗り越える」みたいなことが書いてあった。
――――
私は悟りを開いた。
そうだ、修道院に入ろう。
あそこなら男性は入ってこられない。
ついでに、入ってしまえば生涯未婚が確約される。
そうだ、そうすればアルヴェインも下手なことは出来ない。
そうだ、そうしよう。
ハンナを呼んだ。
「ねえ、いちばん近い修道院ってどこかな」
うきうきしながら訊いてみると、ハンナはわっと泣き出した。
どうしたどうした。
私はおろおろする。
おろおろしながらハンカチーフを差し出すと、ハンナはそれで涙を拭い、続いてぎゅっと私の手を握ってきた。
「お嬢さま、私はずっとお嬢さまの味方ですからね」
「うん、ありがとう……?」
「だから教えてください」
「はい……?」
「歌劇を観に行かれたとき、イヴンアローの若造に何をされたんですか」
「…………」
大変だ。
私が塞ぎ込み過ぎて、信じられないくらい不名誉な噂が立ってしまっている。
とにかく私は無事だよ、私の貞操も無事だよ、とハンナを納得させて下がってもらってから、私はあちゃーと額を押さえた。
そうか、塞ぎ込み過ぎたか。
今なら「単なる体調不良でした」で誤魔化せるだろうけれど、このまま私が修道院に入ったのでは、「純潔を奪われたのを誤魔化すために修道院送りになった娘」のレッテルを貼られるな、確実に。
私は別にいいんだけど、アルヴェインに不名誉な噂がついて回ってしまう。
うーん、うーん……。
初手の、「結婚しちゃえ」に引き続き、私、本当に馬鹿すぎる……。
自分の行動に首を絞められ続け、まさに阿呆な袋の鼠。
どうしよう……。
遠い目で見つめる夜空の果て。
星が揺らぐよ。
情けない。
あー……あー……。
こういうときはいつも、海に向かって叫びたくなるんだよな……。
いつもの現実逃避の癖が顔を出し、しかし私はいやいやと首を振る。
ここから海まで、直線距離で四マイル。
伯爵令嬢には遠い距離。
いやでも……。
でも……。
決して顔を出してはいけない類の心が顔を出した。
自暴自棄の心である。
開き直りの心である。
修道院に入ることを覚悟しているのだ、怖いものは何もない。
お父さまも、このままイヴンアロー侯爵に私と持参金を差し出すくらいなら、多少の不名誉は呑んでくださるはず……。
私はぎゅうっと拳を握った。
――出ちゃうか、旅。
◇◇◇
そうと決まれば善は急げ。
私は大慌てで行動開始した。
まず、ベルを鳴らしてハンナを呼ぶ。
適当な用事をお願いして彼女を遠ざけ、その間に私の部屋と続き部屋になっている、彼女の使用人部屋に潜入。
本当にごめん本当にごめんと内心で連呼しつつ、発見したのはハンナの私服とブーツ。
これがハンナのお気に入りではありませんよう、と祈りを捧げてから、売れば服の一着と靴の一足は仕立てられるだろう、私の首飾りをお詫びの一筆と共に置いておく。
そして大急ぎで着替える。
私が持っているいちばん安物のドレスでも、どうしても高級品だということはわかるものだからね。
目立つからね。
ハンナと体格が似ていて良かった!
持って行くのは、多くはないけど手許にある現金と、顔を隠すのにも使える帽子、このくらいでいいかなあ。
ぐずぐずしているとハンナが戻って来てしまう。
あの子は仕事が早いのだ。
善は急げ(いや、善ではないけど。今の私は悪徳の権化だけど)。
私は窓を開け放つ。
ちなみに言うとここは二階だ。
えいやで飛び降りるには無理があるが、そこはまあ、それはまあ、私ですからなんとかなる。
危ないところで魔法を使って誤魔化しつつ、私はすり傷二つを拵えただけで地面に降り立つことに成功した。
やってみればやれるもんだね!
こそこそお庭を進んでいると、番犬に危うく吠えられそうになったが、これも宥めればなんとかなった。
そりゃあ、一時期は花に口利かせることも出来た私ですから?
わんちゃんに「私はお友だちです」と思い込ませることなんてなんでもないね。
ただその代わり、ずっと「ヘッヘッヘッ」みたいな感じで舌を出して甘えてくる犬を、敷地ぎりぎりまで引き連れて歩くことになったけれども。
門は開いている。
お父さまがお帰りになるのがそろそろだから開けてあるのだ。
不用心だが門衛さんが目を光らせている。
さすがに門衛さんの横を、「おつかれ!」と言いながら通り抜けたら、肩を掴まれて引き摺り戻されるのは目に見えている。
なので。
門衛さんの気を引く音を、ちょっと向こうの方でさせて……と。
――脱出!
いやあ、やってみればなんか案外なんとかなるもんだね!
この数百年ばかり、頼りに頼ってきた共存関係がぶっ壊れ、私はもうなんだかおかしい。
糸の切れた凧みたい。
もうなんか、どこへでも行っちゃえって感じ。
あー、もう、馬鹿らしい。
何が今さら「惚れている」だよ。数百年遅いよ。
こっちは初手から好きだった。
白薔薇の中でにっこり微笑んだアルウィリスは、お気に入りの木彫りの馬を私にくれると言ったアルウィリスは、たいへん腹立たしいことに、私の心の一部を持っていくには十分だったのだ。
なのにあいつはそれに見向きもせずに放り捨てた。
私は自分の身の丈を知った。
私はあいつに、どうせ放り捨てられるだけのものなのだ。
で、私が冷たくなったアルウィリスと一緒に恋心を埋葬したときには、あいつは普通に違う人を好きになって、違う人と添い遂げていた。
それも何度も。
私が嫉妬心に駆られないようにする唯一の方法は、全部なかったことにすることだけだった。
私はあいつの結婚式で、心を籠めて拍手した。
おめでとー、お幸せにー。
何回だって拍手してやるよ、だっておまえはアルウィリスじゃない。
アルウィリスの、あの泣き止んだ直後の、白薔薇の中での笑顔は私だけのものだ。
だって私しか見ていない。
もうこれで満足。
これでいいから、他のものをちらつかせるのはやめてくれ。
一度差し出されてしまえば、私は全部が欲しくなる。
私は他の誰かと好きな人の心を共有できるほど、人間の出来た女じゃない。
それが過去の誰かであっても。
こんな人間、幸せになれないでしょ。
今さら遅い。
これだけ厳重に、何度も何度も埋葬してきた恋心なんだから、今さらそれを掘り出して、おまえを好きになるわけがない。
おまえは言ったっけ、マリーゴールドの見頃が終わるまでには、私の隣に立てるようにすると。
マリーゴールドはいいよね、溌剌としていて明るい花。
でも、私にとって恋というものは薔薇だった。
白い薔薇だった。
――さあ、もう薔薇の季節も終わる。




