32 私は今さら恋なんてしない
「俺を昔馴染みとして見るのではなくて、これからは、俺を求愛者として見てくれないか」
「――――」
体内の全ての内臓が石に変わったみたい。
どんどん身体が重くなる。
手足の先から冷え切っていくのがわかるくらい。
出来ればこのまま身体をするりと脱ぎ捨てて、幽体離脱して逃げ出したい。
仮に今、私が幽体離脱して、そうして上から私の肉体を見下ろしたなら、次の人生で「絶望」と題した優れた絵画が描けそうだ。
そのくらい、抽象画のモデルにでも立候補できそうなくらい、もう絶望しか感じない。
すごい勢いで逃げ道に石壁が降ってきた、そんな感じ。
――なんでそんなこと言うんだよ。
せっかくこれまで上手くやってきたのに、なんなんだよ。
理不尽にアルヴェインを責めてしまいそう。
泣けるかと思ったが涙は出なかった。
ただ胸が痛い。本当に痛い。
そして吐きそう。
自由な方の手を口許に当てて、私は呟いた。
「なんで急に……」
「……気持ちを匂わせてはいたつもりだったが」
だろうね、さすがに気づいていた。
久しぶりに出席したあの夜会で。
なんであれから正気に戻ってくれなかったんだよ。
「なんで今……」
呻いてしまう。
せめて今生の死ぬ間際に言われたかったよ。
次の人生で、「あっ、ごめん、死んでて聞き取れなかったわ」と言えるように。
アルヴェインは微かに顔を顰めた。
「……俺がいじらしく頑張っていても、おまえが一向に気づいてくれないからだ」
握った手を軽く引かれる。
「これまでずっと昼間に会っていたのに、急に夜に会おうと言われて、妙だとは思わなかったのか?」
妙に思っても、まさかこんな腹積もりとは思わないだろうがよ。
「……無理……」
アルヴェインの表情が、一瞬、傷ついたように歪んだ。
いやいや待って、そんな顔しないで、そんな顔をする必要はない。
そんな顔をするべきはおまえじゃない。
だがすぐに、アルヴェインは私の顔を覗き込んでくる。
「俺が嫌いだから? それとも、そんな対象として見たことがないから?」
いや、違う。
違うんだって。
私がぴくっと手を動かすと、今度はアルヴェインも私の手を離した。
めでたく自由になった両手で顔を覆う。
本当に無理。
本当に無理。
だって――
――だっておまえ、今生ではまだ、私におまえの知らないところがあったから、だから興味を持ったんだろう?
そうだろう?
だったら、知り尽くされたら私はどうなるんだよ。
私みたいな底の浅い人間、おまえが真剣に見つめてしまえば、半年もすれば隅から隅まで知られてしまう。
その後どうなるの?
おまえに飽きられて捨てられて、その上でまだ全ての人生でおまえと出会っていかないといけないなんて、おまえはいいだろうけど私には無理だ。
「無理……」
呻く。
――だっておまえ、同じ表情で、同じ語調で、他の人にも求愛したことがあるんだろ。
私はおまえの恋人のコレクションの一つにはなりたくないんだよ。
おまえの心の中の棚に飾られて、そのうち埃を被って忘れられる、そんなのまっぴらなんだよ。
私は駄目な人間なんだ。
おまえの心を誰とも共有したくない。
今のこの、私だけの地位がいい。
唯一の理解者、唯一の腐れ縁、唯一の相棒――それがいい。
他の人と分け合わなければならない地位なんて、他の人と比べられ得る地位なんて、そんなのまっぴらごめんだ。
そんな――他の誰かと分け合わなければならない椅子なら、それがどんなに心地よくて甘美な椅子でも蹴ってみせる。
嫉妬とでもなんとでも呼べばいい、でも、嫌なものは嫌なんだから仕方ないだろう。
コレクションの一つになった挙句に忘れられるなんて、心を向けてもらえる時間がどんなに甘くて嬉しくても、後のことを考えたら御免蒙る。
そのくらいの恐怖だ。
臆病だとでもなんとでも、謗らば謗れ。
でもわかるんだよ、私はおまえに、覚えておいてはもらえないって。
――私はおまえに忘れられる。
おまえの心にずっと残っていられるような奴じゃない。
だって、もう既に一度、私はおまえに忘れられているんだから。
そうだろう――ウィリー。
おまえ、白薔薇の中で笑ったじゃないか。
赤い薔薇が怖いと言うから、私が白くしてあげたあの薔薇に囲まれて。
そのあと散歩をしたじゃないか。
木彫りの馬をくれるって言ったじゃないか。
私はあれが本当に嬉しかった。
なのに知らない顔をしただろう。
全部忘れて、私を敵視しかしなかっただろう。
あのとき、――認めたくはなかったけれど、今は認めよう――あのとき、私は失恋したのだ。
恋を自覚する前に破かれてしまった。
差し出したことを自覚すらしなかった心の、いちばん柔らかい部分を放り捨てられて、私は、――私は、子供じみたことに拗ねたのだ。
拗ねて、当時の権力闘争に全力で飛び込んでしまった。
あの小さな男の子だったウィリーの面影をおまえの中に見つけて、どうにかして仲直りするために――何かいいことをするために、放り捨てられた心を拾い上げられるほど、それほど私は大人じゃなかった。
だから力いっぱい踏みつけた。
自ら、自分の心を踏みつけて、泥まみれにした。
汚して、くだらないものにした。
少なくとも、くだらないものだと自分を納得させることが出来るようにした。
――今さら。
今さら知られたくない。
この呪いが、私たち二人を揃って苦しめているこの呪いが、私の子供じみた癇癪を契機に成されたものだなんて、そんなのもう知られたくない。
そのためには、なかったことにしなくちゃならなかった。
私はおまえに恋をしたことなんてない。
心を差し出したことなんてない。
あったとしても、それはアルウィリスに対してだ。
――アルウィリスはもう死んでしまった。
アルウィリスはもういない。
そういうことにした。
そうしないと、到底無理だった。
イオとして死んで、死んだはずなのにまた生まれ変わってもう一度アルウィリスに会ってしまって、あいつと目を合わせるにはそう思い込むしかなかった。
アルウィリスは死んだ。
もういない。
冷たくなって土の下に入っている。
だから目の前にいるのはアルウィリスじゃない。
私を嫌い、呪ったことを罵っているのは彼じゃない。
そう思い込んだ。
私は目の前にいるこいつ、アルウィリスと同じ目の光を持っているこいつに心を預けたりはしない。
この呪いは、つまらないものではあるけれど、それでも私の誇り高い敵愾心ゆえのものであって、決して子供じみた癇癪なんかのためのものじゃない。
そう、自分自身にさえ主張した。
そうでないと対等でいられなかった。
そうでないと、こいつと同じ時間を生きられなかった。
アルウィリスは私を忘れていた――思い出すだけで身の毛がよだつ。
あんな眼差しに二度と遭いたくない。
あんな経験、あと一度でもしたら心臓が止まって息絶えてしまう。
薔薇の香りももう嫌い、薔薇の花だってもう大嫌い。
だってあいつは覚えていてくれなかった。
薔薇はそのまま、覚えておく価値もないと判断された私の象徴だ。
アルウィリスに、微笑みを向ける対象にさえ選んでもらえなかったのだから、今さら私がこいつの特別な人になれるわけがない。
なれたとして一時のものだ。
そんな恐ろしいことがあって堪るか。
一時の気の迷いなんて迷惑だ。
私の心を完膚なきまでに砕くために、心を乞うたりしないでほしい。
私は捨てられたまま生きていけるほど強くはない。
私はコレクションの一つになって満足してあげられるほど従順ではない。
私はアルウィリスの目をした誰かに恋なんてしない。
「――帰る」
私は立ち上がった。
目の前にアルヴェインが膝を突いているせいで、姿勢が不安定になったがなんとか堪えた。
アルヴェインもすぐに立ち上がる。
明らかに傷ついている――
だから、そんな顔をする必要はないんだって。
おまえは選ぶ側なんだから。
おまえは捨てる側なんだから。
選ばれる側の私が、自分の末路をしっかりわかっているだけのことだ。
「フィオレアナ――」
「帰る」
アルヴェインが一歩下がった。
けれども喰い下がってくる。
「フィオレアナ、急に言い出して悪かった。だが――」
「帰る。しばらく連絡してこないでくれ」
「帰るにしても、当家の馬車でだ」
アルヴェインが訴えるようにそう言ってきた。
私は目を瞑る。
出来れば耳も塞ぎたい。
アルヴェインの存在を、五感のどれにも触れさせたくない。
「……辻馬車を捉まえるから」
「この時間だ、辻馬車も走っていない。頼むから送らせてくれ」
アルヴェインの声が、やや小さくなった。
「……俺がここで待っていて、おまえだけを先に送らせるのでもいい」
ああくそ、魅力的な案だが御者さんにとっては二度手間だ。
私は両手で顔を押さえた。
「……わかった、申し訳ないが送ってくれ。帰らせて」
アルヴェインが、数秒躊躇った。
次に口を開いたとき、彼の声は信じられないほど頼りなかった。
「……俺の顔を見るのも嫌になったか」
「違う、そうじゃない」
なんでこいつはわからないんだろう。
私と自分を比べたときに、釣り合いがとれないとは思わないんだろうか。
「フィオレアナ、俺も女々しいと思うが答えてくれ。
――俺が嫌いか? それとも考えたことがなかったから動揺しているのか? 他の理由か? それだけでも教えてくれ」
私は顔を押さえたまま首を振る。
「とにかく――とにかく無理だ」
「フィオレアナ、頼む」
アルヴェインが喰い下がる。
嘘だろう、こいつ、引き際はわかる奴のはずなのに。
これじゃ、私がアルヴェインを振っているみたいじゃないか。
「違うんだってば」
「頼む。俺が努力すればなんとかなるのか、それとも金輪際報われないのか、それだけでも教えてくれ」
どうしよう、いらいらしてきた。
「報われないって――そういうことじゃないだろう」
「どういう意味だ?」
「自分で考えろよ!」
癇癪を起こしてしまった。
とはいえ目を合わせられないので、自棄になっただけともいえる。
「とにかく、金輪際だめなんだ!」
これで引き下がるだろうと思ったのに、信じられない、なおもアルヴェインは言い募ってきた。
「今生のおまえは貴族だぞ。生涯未婚のままでいられるはずがない――」
「だったらなんだよ!」
思わず相手を殴りそうになった。
というか、これまでにも貴族の生まれを引いたことはあるんですけど。
その上で生涯未婚だったんですけど。
それなのに、アルヴェインが喰い下がる。
そろそろ本当に口にハンカチーフでも突っ込みたくなる。
「形だけでも、俺は駄目か?」
うわぁ。
形だけでも、ときましたか。
結構残酷だ。
私は断固として行動した。
つまり、今度こそアルヴェインの胸の辺りをハンドバッグで殴った。
「無理!」
そしてボックス席の扉に駆け寄り、それを開け放ち、叫んだ。
「――帰りますから馬車を回して!」
がらんとした廊下と劇場に響き渡る、めちゃくちゃいい声が出た。
人間、追い詰められると思わぬ才能を発揮するものである。




