30 イオ、追憶の白薔薇
アルヴェインに、「そろそろ喧嘩しておかないか」と打診しても、「そのうちな」とか、「おまえが俺を怒らせたらな」とのらりくらりと躱されて、私は胃が痛くなってきた。
喧嘩しようと人目のあるところで際どい嫌がらせをしたりもしたが、アルヴェインが全く怒らない。
むしろこっちの意図を読んで面白がるような顔をしてくる。
このやろう……。
そういうことが続いて、私は裏切られた気になってきた。
この一連の(私の馬鹿な発言から始まった)騒動において、アルヴェインだけは絶対的な味方であったはずなのに。
が、裏切られてしまったものは仕方ない。
くどくど理を説いても無駄だ。
私があいつを呪っちゃった張本人であるということを、私がいかに嫌な女かということを、あいつに思い出してもらって正気に戻ってもらうしかない。
そう決意して眺めるアルヴェインからのお手紙。
これまでは一貫して昼間のお誘いだったのに、これは歌劇の鑑賞で、思いっ切り夜に差し掛かる。
お父さまが渋い顔をするかと思いきや、しない。
お母さまも、「まあ、しゃあないか」みたいなお顔。
しゃあなくないっ!
だが、もう、これはやばい。
夜にまで連れ出されるとなると、アルヴェインがもう真剣に婚約をなかったことにしようとしているとは思えない。
手紙を受け取ったその日の夜半、蝋燭を使った例の魔法で、「どういうつもりだ!」と問い詰めてみたところ、「評判のいい歌劇だが?」とすっとぼけた返答があった。
評判云々が問題じゃない!
心の底からそう思いながら、歌劇に連れられたのは六月最初の土曜日。
ちなみにアルヴェインはやや残念そうに、「千秋楽でも中日でもなくてすまん」とのたまった。
お気になさらず。
劇場に到着し、案内された席はかなりいい席だった。
舞台のほぼ正面に当たるボックス席。
見下ろしてみると、一階席もほぼ満席。
この演目の評判は私も知っているので、不満があるとすればここがボックス席であるということだけだ。
完全に個室、そして従僕もセドリックさんも扉の外で待機だから、実質二人きり。
「不満そうだな」
座席に腰掛けてむくれている私を見て、アルヴェインが苦笑した。
私はいっそう顔を顰める。
「そりゃそうだろ」
「歌劇は好きだろう?」
「好きだけど、状況によるよ」
「俺といるのは嫌か?」
アルヴェインが心配そうに顔を覗き込んでくる。
嫌というか……。
私はふいっと顔を背けた。
「……なあ、いつになったら盛大な喧嘩をするんだよ。私は準備万端だよ」
「…………」
アルヴェインが目を丸くして、それから苦笑した。
彼が少しだけ身を寄せてきて、私はどきっとする。
「――話し合おう、イオ」
彼がそう囁いてきたそのとき、劇場の照明が落ちた。
舞台の上にのみ明かりが灯る。
舞台の下の楽団が演奏を開始する。
私は凍りついている。
――鼻先に、アルヴェインから香った薔薇の匂いが漂っていて、離れない。
明るい舞台の上で始まった歌劇が、目と耳を素通りしていく。
――私の脳裏には別の光景が立ち昇っている。
どうしようもない――考えないようにしていた――
――あの白い薔薇の。
◇◇◇◆◆◆
大昔、この国がまだ今の名前でもなかった頃、魔法が生きて栄えていた頃、私がイオだった頃、海辺にお城があった。
当時でさえ古いその城塞は、古くは海からやって来る外敵を阻むためのものだったのだろうけれど、私がイオとして生まれたときには既に無用の長物となり、当時の有力者たちが集まる場と化していた。
私も当然、当時のお父さまに連れられて、そのお城をよく訪れていた。
覚えているのは、蔦の絡んだ灰色の石造りの大きな城の威容、ぎざぎざした矢間の輪郭。
あちこちに張り巡らされた通路に狭い階段、他の子供たちがよく迷子になって泣いていたこと――
お城の、海とは反対側に広がっていた、大きなお庭。
お城からは、葛折りの階段や坂道を下っていった先にあった、広い広い迷路のようなお庭。
吹き渡る風に鳴っていたざわめき――お城の吹き抜けや回廊を通り抜け、ひゅうひゅうと鳴る風の音に加えて、ざあざあと響いたお庭の風音。
そこで咲いていた四季折々の花と、たまに誰かが魔法で咲かせていた、季節に合わない花。
魔法で咲いた花は普通の花に比べて、甘ったるい香りがしていたこと――
「イオは本当になんでも出来る。よくこなす。この歳でこうまで才能を見せていた魔女など他にいない」
お父さまが私を抱き上げて、誇らしげに何度もそう言ってくれたこと。
その度に私は胸が膨らむほど嬉しくなったこと。
頭を撫でてくれるお父さまの大きな、骨ばった手。
お父さまのお友だちからの、感心したような目。
宴会の度に恒例となったその一幕。
やがて宴会がたけなわになると、私みたいな小さな子供の存在は忘れられて、大人たちはよくわからない話題で盛り上がり始める。
退屈になって、私は大広間を抜け出す。
他の子供もそうだった。
他の子たちは、友達どうしで固まって遊んでいたみたいだけれど、私はそういうわけにはいかなかった。
有り余る才能のせいで同世代の嫉妬には一切困らず、友達というものはいなかったからだ。
というわけで、十二歳のあの日、初夏のあの夜も、私はいつもの通りに大広間を抜け出した。
あちこちの小ホールや階段の隅っこの、月明かりが射す場所で遊んでいる同世代からの、やっかみ混じりのひそひそ声に舌を出し、とはいえその中で遊ぶのはなんとなく居心地が悪く、城塞の裏手の広い庭園に出て行ったのだった。
迷路と呼ばれ、大人でも用心しなければ迷うと言われているその庭園だったが、私からすれば恐るるに足りなかった。
私はその気になれば花に口を利かせることすら出来たから。
夜気が澄んで、空が高く、月が明るかったことをよく覚えている。
私は陽気な気分で鼻唄を歌いながら、薔薇が植わっている区画まで駆けていった。
――そして、泣き声を聞いたのだった。
私はとにかくびっくりして、泣き声が聞こえた方へ進んでいった。
ちょっと怖いと思ったことは否定しない。
何しろ夜半、人の気配のない庭園で泣き声が聞こえてくるのだ。
私が足を進めたのはひとえに、負けん気が働いたがゆえだった。
が、怖々と顔を出した先にいたのは、幽霊の類ではなかった。
そこには、赤い薔薇の茂みの只中でしゃがみ込んでしゃくり上げる、白い髪の男の子がいただけだった。
私はほっとして、ついで、びびっていたのが馬鹿らしくなって、男の子に歩み寄った。
「どうしたの、きみ」
声をかけると、男の子は顔を上げた。
綺麗に整った、繊細な面立ちの子だった。
ぼろぼろ泣いているせいで、顔立ちの殆どが台無しになっていたが。
大きく見開かれた目は淡い紫色をしていて、朝焼けの空のようだった。
歳は私に近かった――後から正確に知ることになるが、このとき、こいつは十一歳だった。
男の子は顔を上げ、私を見ると、いっそう激しく泣き出した。
私は大いに困惑したが、取り敢えず男の子のそばにしゃがみ込んだ。
薔薇が、目に見えそうなほどに馥郁と香っていた。
「どうした、どうしたの。何もしないよ。何かあったの?」
とまあ、こんな具合で、男の子を落ち着かせるのには時間が掛かった。
辛抱強く話を聞いてやるに、どうやら男の子はこの庭園に初めて足を踏み入れ、踏み入れたはいいものの迷ってしまい、二進も三進もいかなくなり、更に追い打ちをかけるかのように、昼間聞いた怖い話を思い出してしまった、ということらしい。
「怖い話?」
私は訊き返す。
男の子が驚いた顔をする。
「知らないの?」
「知らないなぁ」
何しろ友達がいなかったので。
そこで男の子は声をひそめて話の概要だけ教えてくれた。
声をひそめ、私に擦り寄ってきたのは、どうにもその話を思い出すだけで怖くなるからのようだった。
私は思わず、静かに感動してしまった。
繰り返すが私には友達がいなかったのだ。
こうして親しく近くに寄って来てくれたのは、家族以外ではこの子が初めてだった。
男の子が怯える話の概要は、こう。
――〝昔々あるところに、美しい娘がいました。その娘は母を亡くしてしまい、新しくやって来た継母とその娘たちにひどい虐めに遭いました。
とうとう耐えかねた娘は家出するのだが、継母たちは追ってくる。そしてついには娘を茨で縛り上げてしまう。
娘は助けを求めるが聞き入れられず、誰からも忘れられて事切れてしまう。
赤い薔薇は彼女の恨みの籠もった血を吸い上げて染まっているのだ〟――というもの。
「こんなに赤い薔薇がある」
男の子はべそをかく。
私は思わず鼻を鳴らしてしまった。
「ありえない」
男の子は目を見開いた。
「どうして」
「一人の人間が、こんなに沢山の薔薇を染めるだけの血を持っているはずがないから」
「僕のお父さまは、お水やワインをどんどん増やすよ」
「私もそのくらいは出来るけどね」
謎の対抗心を燃やす私。
私は溜息を吐いて立ち上がる。
ん、と男の子に手を差し伸べる。
「行こ。私、出口わかるよ」
男の子は私の手を取ろうとして躊躇い、また周囲を見渡す。
そんなに赤い薔薇が怖いか。
私はちょっとからかってみる。
「ほら、私の髪も赤いよ」
そう、イオは赤髪だった。
男の子は、まだなんとなくべしょっとした感じの声で、「ふん」と言った。
「髪と花は違うもん……」
「そうかそうか。あ、そうだ。私はイオ。きみは?」
男の子はびっくりしたように私を見上げた。
彼はしゃがみ込んだままだったのだ。
月光に、淡紫の瞳が透き通るように煌めいていた。
男の子は口籠ってから、答えた。
「……ウィリー……」
「そう、ウィリー。じゃあ、周りをよく見てて」
「え?」
面喰らったウィリーがきょときょとと周囲を見渡す。
私は格好つけてぱちんと指を鳴らした。
ふわ、と、風もないのに周囲の薔薇が一斉にそよいだ。
そして一瞬後、きらきらと輝き始める――いや違う、輝いているのは色そのものだった。
赤い色が夜風に溶けて吹き集まり、さながらルビーを砕いた欠片を風に乗せたような流れになって、私の手許に集まってきたのだ。
私が手の中に、赤い色の煌めきを握り締めたときには、周囲一帯の赤薔薇は、ものの見事に白薔薇に変じていた。
無垢な白色、夜陰に浮かび上がる月の色――
「……わぁ……」
ウィリーが目を見開き、きょろきょろと周りを見渡しながら立ち上がる。
限界まで目を見開いていた。
そして私を見て、にっこりと笑った。
白薔薇に囲まれた、柔らかい、温かい、無垢な微笑――
「すごい! イオ、すごい!」
「このくらい簡単だよ」
私は無意味に胸を張る。
そして、もう一度ウィリーに手を差し出した。
「ほら、これなら怖くないでしょう、ウィリー。お城まで連れて行ってあげる」
ウィリーは刹那、難しい顔で私の手を見た。
そしてごしごしと顔を擦ると、にっと笑って、逆に私に手を差し出してきた。
「ううん、ちょっと僕とお散歩をして」
「えっ?」
手を取られながら、私は目をぱちくり。
ウィリーは格好をつけようとして失敗したような、拗ねた表情を浮かべていた。
「お父さまったら僕を放ったらかしにして、つまんないんだもん」
私は「はあ……」と。
「だからちょっと僕とお散歩をして、それからお城に戻ろうよ」
楽しそうにそう言われて、私はついつい頷いていた。
その夜、広い庭園を散策し尽くして、そして無事にお城に戻ったとき、ウィリーははにかんだ笑顔で私に手を振って、「またね」と言った。
私も同じ言葉を返した。
初めて同年代の子とたくさん話すことが出来て、うきうきしていた。
「次はもっとちゃんとした魔法を見せてあげるから」
と約束する。
正直、当時の私にとっては、花の色を変えるなんて楽勝すぎて、もうちょっと自分のすごいところを見せたかったのだ。
ウィリーの方は恥ずかしそうにもじもじしつつ。
「じゃあ……僕、次はお気に入りの木彫りの馬を見せてあげる。格好いいよ。気に入るのがあったら、あげるから」
と。
正直、私は木彫りの玩具は卒業していて、見たいともなんとも思わなかったが、恥ずかしげながらも得意そうにしているウィリーの鼻っ柱を折りたくなかった。
なので、私は寛容なところを見せた。
すなわち、優しく微笑んだのである。
「楽しみにしてるね」
と伝えると、アルウィリスは嬉しそうに頷いて、もう一度私に手を振ってから、とたとたと廊下を走っていった。
と思うと最後にもう一度振り返った。
そして叫んできた。
「あげるって言ったの、嘘じゃないからねーっ!」
どうやら、その玩具というのは相当お気に入りらしい。
他人にあげるとなると身を切られるほどつらいなか、太っ腹なところを見せてくれようとしているようだ。
私は声の残響を聞きながら、にこにこ手を振った。
大丈夫、とらないよ、と思いつつ。
思えば、ウィリーは一人でお庭にいた。
つまり私と同じように、――いや、私とまではいかなくとも、同世代に比べて――お友だちが少ないのかもしれない。
で、あれば、その木彫りの馬が友達代わりなのかもしれなかった――それこそ、文字通り。
当時は、玩具に魔法をかけて喋らせ、子守りを任せる親も珍しくなかったもの。
部屋に戻ったあと、私は小瓶に、薔薇の花から吸い上げた赤い色の煌めきを詰め込んだ。
その色合いは薔薇の花弁にあったときよりなお煌びやかに、純粋に映えているように私には見えた。
瓶を揺らすと赤い色の中に漣が走って、それがたいそう美しかった。
瓶に鼻を寄せると、微かではあったが薔薇の香りがした。
私はその香りが大好きになった。
私はにこにこしながらその小瓶を眺めた。
飽きることがなかった。
この翌日、私はお城から家へ戻った。
帰り支度の最中ずっと、お父さまは渋い顔をしていた。
どうやら宴会で、先祖代々犬猿の仲の誰かに、こっぴどく言い負かされたらしい。
私は珍しく不平を言った。
もう少しお城にいれば、ウィリーとまたどこかでばったり会えるかもしれないと思ったからだった。
お父さまはめちゃくちゃ低い声で、「道端で放り出すぞ」と私を脅し、私はしょんぼりしながら帰路に就いた。
――私がウィリーと再会したのはこの一年後、再びの薔薇の季節のことだった。
私がお父さまに連れられて、正式な跡取りとして(この時代は女の子だって跡取りになれたのだ)紹介される、まさにその場でのことだった。
あいつもその場にいたのだ――あいつの父親の後ろに。
ウィリーというのは愛称だった。
あいつは事もあろうに、我々と犬猿の仲の一族の跡取りだったのだ。
名前をあのときに聞いていたら気づけたのに。
ウィリーの本当の名前はアルウィリス。
びっくり仰天して声も出ない私に、アルウィリスは、それはそれは冷ややかな、無関心と敵意しかない視線を投げて寄越した。
――ねえちょっと、木彫りの馬はどうしたのよ。
嘘じゃないって言ったんじゃないの。
その瞬間に私の中で、何かが割れて砕ける音がした。
けれども、即座に私はそれを聞かなかったことにした。
だってそんなの、錯覚に決まっている。
でしょう?




