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20 口づけは指先に託して

 ――大丈夫じゃないんですけど!


 なんとアルヴェインが、あの賢明なはずのアルヴェインが、断固として私を降ろしてくれない!


 御者さんも大困りだろう。

 私(お客さま)から「降ろして!」と言われたと思えば、アルヴェイン(主人の令息)から「降ろすな!」と言われる。


 折衷案として、馬車は停車した上で扉を開けていないという、なんとも間抜けな立ち往生。

 正直、馬鹿らしいからさっさと降ろしてくれ!


 セドリックさんもあわあわしている。

 さっきからアルヴェインに何か言おうとして、「若様」「わか……っ」「若様……!」と、強弱つけたリズムでアルヴェインを呼び続けているのに、アルヴェインと私との、「このまま馬車を進めろ」「ここで停まっておいてください!」「これは当家の馬車だが」「行先は当家の屋敷ですよね!?」という舌戦に負けてしまっている。

 私が黙ってあげたいが、私が黙れば最後、馬車が進み出してしまう。


 それは困る。

 イヴンアローの馬車がドーンベル家に入るなど、ゴシップ新聞の記者に半年タダ飯を食わせるようなものじゃないか……!


 いやしかしセドリックさんも御者さんも心配だ。

 二人とも濡れ鼠、ここは一刻も早く濡れた服を脱いでほしいところ。


 そのためにはこの決着をさっさとつけなければならないのだが、だがそれでもゴシップも社交界の噂の餌食もお父さまからのご叱責も嫌だ!

 もっと悪くすれば修道院に放り込まれる!

 嫌だ!


 断固譲らない私の勢いに、アルヴェインがとうとう黙り込んだ。

 勝った。


 私はつんと顎をそびやかす。


「では、アルヴェインさま――」


「わかった」


 不意に、ものすごく不穏な覚悟を決めた声で、アルヴェインがそう言った。

 私は嫌な予感に凍りつく。


「あ、あの……?」


「わかった、当家の馬車でお送りすることがお気に召さないと、よくわかった」


 わかっていただけて嬉しいはずなのに、微塵も安心できないその語調。

 何が飛び出してくるのかと、私は思わず身構えてしまう。


 果せるかな、アルヴェインは唐突に上着を脱ぐと、きっぱりと言った。


「俺がお送りしよう」


「そうはならないでしょ」


 迸ってしまった。

 渾身の、素の突っ込みが迸り出てしまった。


 幸いだったのは、セドリックさんも主人の大暴走に驚倒していて、もはや私の言葉は聞こえていなかっただろうこと。


 セドリックさんが「若様リズム」の、最後の一節を悲鳴で彩った。


「若様!」


 そうだそうだ、言ってやれ。


 セドリックさんが私を見て、アルヴェインを見て、咳払いして声を落ち着かせ、申し出た。


「――ご令嬢はわたくしがお送りいたしますから」


 わー、ありがたい。


 思わず私はぱあっと顔を輝かせてしまったが、それを見たアルヴェインは眉間に大海溝じみた皺を刻んだ。

 そして溜息を吐いて、セドリックさんに向かって言い渡す。


「セドリック、命令だ。俺に花を持たせろ」


「――――」


 凍りつくセドリックさん。

 そう言われてしまうと……と顔に書いてある。


 おい頑張れよ。

 主人をこの豪雨の中送り出すのか。


 私が「なんとか言えよ!」という目で睨んだのが伝わったのか、セドリックさんが慌てて口を開く。


「しかし――しかし、若様に万が一のことがあっては」


「俺は虚弱でも病弱でもないぞ、いい加減に信じてくれ」


 アルヴェインは鬱陶しそうに言って、「ここにいろ」ともう一度セドリックさんに念押ししてから、本当に私の腕をとってしまった。


「ではどうぞ、フィオレアナ嬢。――約束しよう、門衛に貴女を託すまでだ。

 俺を懸念と後悔から救うと思って、どうか折れてくれないか」


 ……そこまで言われたら折れざるを得ないじゃん。


 本当にこいつはずるいな。





 雨は活況、ざあざあと降り注ぐ雨は、まさしくバケツをひっくり返したかのようだ。


 うわぁ、と私は怯んだが、アルヴェインは臆さない。

 それどころかこの男、なんと脱いだ上着を、私の頭上で広げてくれた。


 ありがたいんだけど、ちょっと待って。


「そこまでしてくれなくても」


「いいから。裾を上げろ、濡れるぞ」


 いやあの、男性の前で豪快にドレスの裾を上げられるわけなくない?

 いや、今さらか。


 今さら私がどんな格好をしていようとも屁とも思わないとそういうことか。

 知ってるよ。


 敷石で雨が飛沫を上げている。


 上品にドレスの裾をつまんで私は駆け足。

 けれども私の駆け足は、アルヴェインの大きな歩幅からすれば、駆け足にもならないらしい。


 アルヴェインは私にぴったり寄り添って、私の頭上で彼の上着を広げてくれている。

 雨粒が上着に着地して、ばたばたと音を立てている。


  本当に申し訳ない。


 ごめん、と言おうとして、しかし、雨の勢いに呑まれて声が出ない。

 そんな私の頭の上から、アルヴェインの苦い声が降ってきた。


「――今日はすまん。こうなるとは」


「えっ」


 今度はちゃんと声が出た。


「いや、急な雨だったから」


「しかし」


「演奏は良かった」


 すんなり言葉が出た。


「誘ってくれてありがとう。ありがとう、今も」


 今こうしている間にも、アルヴェインは着々とずぶ濡れになっているわけで。



 ドーンベル邸までの一ブロック足らず、アルヴェインだけであれば駆け抜けるのはそう時間が掛からないだろうに、私に歩調を合わせているせいで大惨事。


 アルヴェインが作ってくれている即席の屋根だとか、そばのアルヴェインの温かさとか、雨の中でも一人じゃないことがわかる足音だとか、そういうのが今の私はありがたいけれど、アルヴェインが内心で、「このとろくさい女め」と思っていたとしても私は弁解できない。



 ――っていうか、あれ?


 アルヴェインが深々と溜息を吐いて、「おまえは……」と何かを言おうとすると同時、私も思い至った。


「うん、ごめん、私のせいだな」


「――は?」


「いや、おまえの家の馬車が我が家に寄っただなんて、さすがにお父さまから大目玉を喰らうから、どうしてもそれは避けたかったんだよ。結局のところをおまえをずぶ濡れにしているわけだ、私は。申し訳ない」


 ばたばたとアルヴェインの上着に当たる雨の音。

 ばしゃばしゃと水溜まりを踏み抜く私たちの足音。


 たっぷり数秒の沈黙ののち、アルヴェインはゆっくりと言った。


「それは――構わない。そもそも今日は俺の招待だったからな」


「言い訳をするとだ、お父さまが大目玉ついでに私を修道院に放り込むと、なかなか過酷なことになるわけじゃないか」


 だって修道院にはたぶん、どんなに手を尽くしても三流ゴシップ紙は配達されないだろうから。


「そうなると、おまえに()()()のお届けを頼むしかなくなるし」


 私が真面目にそう言って、蝋燭の灯りを通して会話する例の魔法で、『ロルフレッドとティアーナ』をアルヴェインから読み聞かせられている自分を想像してちょっと笑ってしまうと同時に、アルヴェインは呆れ果てた声を出していた。


「馬鹿か。誰がそんな真似をするか」


「だよな」


「心配しなくても、おまえが修道院に送り込まれるようなことになれば、責任を持って俺が奪い返しに行ってやるから」


「はは」


 冗談だと思って笑い声を上げたが、アルヴェインが笑っていない。

 私の笑いは二音で終了し、若干気まずい沈黙が落ちる。


 沈黙を激しい雨音が縫い留めていく。


 やっと我が家が見えてきた。

 門の前の門衛さんが、さすがに傘を広げて佇んでいる。


 私はほっとして足を速めた。


 近付くと、さすがに門衛さんにも私がわかったらしい。

「お嬢さま!?」と声が上がって、慌てて駆け寄ってくる門衛さん。


 傘を差し掛けてくれたので、私はほっとして傘の下に移動。


 門衛さんがアルヴェインに目を移す。

 門衛さんに一目で、この(文字通り)水も滴るいい男を、当家と犬猿の仲のイヴンアロー侯爵家の嫡男であると見抜けというのは無理難題。


 彼の目にはアルヴェインは、「お嬢さまを送り届けてくれた紳士」に映ったはずだ。


「旦那さまに――」


 門衛さんが言い差す。

「旦那さまに取り次ぎますか?」と訊こうとしたのだろう、これが一般人であれば、「ご苦労」の一言で帰せばいい話だが、アルヴェインの格好は明らかに貴族だから。


 それを察して、アルヴェインが門衛さんを遮るように口を開いた。

 私の上に広げられていた上着を腕に掛けながら。


「――フィオレアナ嬢、本日は災難に巻き込んでしまい申し訳なかった。俺に愛想を尽かしてくださるな」


 その一言で門衛さんは、「あっこの人がイヴンアローのご子息だ!」と気づいたらしい。

 私に思いっ切り目配せ、そして下手くそなウインク。


 くそ……あとでバートとサムを殺してやる……。


 ついで他所を向く振りをする門衛さん。

 バート……他の使用人さんたちに、一体何を吹き込んで、この(見当違いな)協力体制を作り上げたの……。


 むかついたものの、雨の中アルヴェインを立たせておくのは以ての外。

 私は早口に応じた。


「いえ、こちらこそ、私が巻き込んでずぶ濡れにしてしまったようなものです。お風邪を召されなければよいのですけれど」


「俺より貴女が心配だが」


「大丈夫です、大丈夫ですから、早くお戻りになって」


 急かすように言うと、アルヴェインがわざとらしく目を見開いた。


「別れを急かすとは酷なお人だ」


 こいつ本当になんなの……。

 豪雨の中なんですけど、ちょっと……。

 私をからかって遊んでる場合じゃなくない……?


 見てよ門衛さんを、屈強なこの人がときめいちゃった顔でおまえを見てるよ。

 うちの使用人さんたちは禁断の恋に敏感なんだって、煽るなよ……。


 私の微妙な表情に、アルヴェインもすぐさまおふざけを仕舞い込む。

 そしてあろうことか、左手で私の手を取った。


「別れを惜しみたいところだが、貴女の言うとおりだ。熱が出ては貴女にも会えない。お(いとま)しよう」


 はよ帰れ。


「では」


 にっこりと特大の笑みを浮かべ、アルヴェインが自分の右手の指先に口づけし、その指先を、すっかり濡れたグローブに包まれた私の手の甲に置いた。


「――――」


「お目付け役がいらっしゃる。今日のところはこれで暇乞いのキスとさせてくれ」


「――――」


 雨の中で彫像と化す私を後目に、アルヴェインは堂々と踵を返し、甚雨(ひさめ)の中を去っていった……。



 私は茫然。

 門衛さんも茫然。


 ややあって門衛さんが、「彼、度胸ありますね……」と。


 度胸というか無謀では。

 ここはあいつからすれば、宿敵の根城に等しい場所だぞ。



 にしても……。


 ――私は無意識のうちに、さっき奴の指先が置かれた手の甲を、もう片方の手でこすってしまう。


 なんだあいつ。

 何がしたいんだ。


 からかうにしても悪質だ。



 眩暈がする。


 これはきっと、朝から何も食べていないせい。

 決してあいつのせいではない。



「お嬢さま、お顔がちょっと赤いです」


「熱が出てきました」


 門衛さんの控えめな指摘に即答。



 ――くそぉ。あいつはこれまでの人生で複数回の結婚を経験済みで、そりゃあ色恋沙汰の一つも経験してこなかった私をからかうのは楽しいだろうさ。


 でもからかわれる身からすれば堪ったものじゃない。



「中に入りましょう」


 門衛さんに促されてようやく、私はその場に根が生えたように立ち尽くしてしまっていたことに気づいた。

 慌てて頷き、門衛さんに仔猫の如くに身を寄せて雨から庇ってもらいつつ、邸宅の柱廊玄関までの小径を進む。



 雨が激しい。

 ありがたい。


 この激しい音のお蔭で、私は自分の心音を聞かずに済む。



 ついでに目も見開いておく。

 瞬きしたくない。


 瞬きをすれば瞼の奥に、()()()が見えてしまうから。



 ――()()()()()



 自分に言い聞かせる。



 ――あの子は、()()()()()()()()()()()()



 それなのに鼻の奥に甦ってくる薔薇の香り。


 やめてほしい。



 やめてほしいのに、――ああ、薔薇の季節がやってくる。





















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