19 水も滴る……
音楽は良かった。
野外での演奏だから弦楽器はなく、管楽器と打楽器が高らかに鳴り響く演奏だったが、私が想像していたような軍隊のマーチを思わせるものではなく、それより明るい曲調の、軽快な音楽が次々に演奏された。
いつの間にか私はすっかり惹き込まれ、ドレスの裾に隠された爪先で拍子を取ってしまっている。
わあすてき。
これまでは、重厚極まるコンサートホールでしか音楽は聴いたことがなかったけれど、こうして聴くのもいいものだな。
私が夢中になっていることがわかったのか、曲目の切れ目のタイミングで、アルヴェインがそっと囁いてきた。
「――こういった音楽が好きなら、おまえは父上と気が合うと思う」
「え?」
瞬きしてアルヴェインを振り返ると、アルヴェインは悪戯が成功したときのような顔で笑っていた。
「母上はこの演奏会への後援を渋っていてな、曰くこういうものは品がないと」
「――――!」
品がないなんてそんな。
「父上は正反対の意見だった。聴きにこそいらしていないが、あの方はこうした音楽が好きらしい。――良かったな、話が合うぞ」
にこ、と駄目押しのように笑われて、私もついつい頷いてしまったが――待て待て。
話が合う必要はないんだって。
なんなら一生涯、正面きって言葉を交わす予定はないんだって。
そうは思ったものの、この場では騒げない。
もう、と腹立たしげにアルヴェインの上着の裾をつまんで揺らし、それだけで許してやることにする。
すてきな演奏のお蔭で、私は今とても機嫌がいいのだ。
音楽に浸り切り、私は頭蓋の中を洗われ心に新鮮な水を注がれているように音の流れに酔いしれたが、予期せず演奏は中断された。
私がもう少し周りに気を配っていれば、アルヴェインが頻りに空を見上げているのに気づいていたかもしれない。
はい、気づきませんでした。
というわけで、たつ、と頬を叩いた雨粒が唐突で、私はきょとんと目を瞬かせた。
いつの間にか、どんよりと曇っていた空はいよいよ低く垂れ込める雲に黒く不穏に荒れ、吹く風からは雨の匂いが香っている。
たつ、たつ、と地面を叩き始めた雨粒は、どうやらこれから本気を出すらしい――そんな気配がある。
それを察して、演奏家たちが悲鳴じみた声を上げ、聴衆への挨拶もそこそこに、楽器を庇って舞台から降り、駆け去っていく。
恐らくそちらの方角に、彼らの馬車があるのだろう。
周囲の聴衆も慌てた声を上げ、蜘蛛の子を散らすように三々五々、木立を目指して走り出す。
私も慌てて立ち上がった。
傘などという気の利いたものは持っていない。
まずいまずい、このままでは濡れ鼠。
アルヴェインに腕を引かれ、木立の方へ走り出す。
この踵の高い靴、踵の部分だけ折ってやろうか。
私を連れていない方が、アルヴェインはさっさと木立に避難できたと思うが、義理堅いことに彼は私を見捨てなかった。
ようやっと駆け込んだ木立の下で、肌を伝う水滴を申し訳程度に払う。
同じ木の下に居合わせた老紳士に、「いやあ、災難ですな!」と明るく声を掛けられ、私は社交性全開の「せっかく楽しい演奏会でしたのに、残念ですわ」という、困ってるし悲しいけど、そんなに落ち込んでないという絶妙テンションと表情で応じておいた。
長生きしていると、たとえ私みたいな人間でも、こうした瞬発力はつく。
アルヴェインは空模様を推し量るような目で天を見上げてから、健気にも私たちについて来ているセドリックさんを指先で呼びつけ、囁いた。
「――馬車をここまで回せ」
「承知しました」
はきはき答え、セドリックさんが勇敢にも、いよいよ激しくなる雨脚の中に駆け出していく。
私にくっついているはずの護衛さんは大丈夫かしら、とも思うが、私は家では、「護衛に気づいてもいない能天気なお嬢さま」で通っているはずなので、敢えて心配する素振りは見せられない。
というか、そうか、アルヴェインは侯爵家の馬車でここまで来たのか。
だったら帰りも安心だね。
さあ、私はどうしよう。
雨はたちまちのうちに激しさを増している。
もはや目の前が白く見えそうなくらい。
空も昼間とは思えないどんよりとした暗さ。
私は、老紳士の「いやあ演奏は見事だったのになあ」だの、「すぐ止むといいんだがなあ」という言葉に、「本当にそうですわね」だの、「ねえ、立ち往生で困ってしまいますわ」だのと応じつつ、このまま辻馬車を捉まえることが出来る往来まで走り出て骨の髄までびしょ濡れになり、ドレスを駄目にしたことをハンナに怒られるべきか、ここで雨脚が弱まるのを待つべきかを熟考する。
通り雨ならここで雨脚が弱るのを待ちたいが、雨が続くかもと思うと……。
もちろん、夕刻にもなれば、さすがに家の者が迎えを寄越してくれるだろう――ハンナには行先を言ってあるし。
だがそれまでの間に、この頼りない緑の枝葉の屋根を貫く大粒の雨に、どのみち骨まで濡れそぼりそうなんだよな。
既に地面はぬかるんで、私の華奢な靴の踵が埋まりそうになっている。
朝のどんより曇り空を見て、念のためにと傘を持参していた慧眼の持ち主たちだけが、それでも雨の勢いに身を竦めるようにしながら、帰路に着こうと木立の下を飛び出していく。
今も木立の下にいるほぼ全員が、私と同じ迷いに揺れている顔を見せていた。
私は急に、周りにいる人たちに親近感を覚えた。
そんな私たちの視線を一身に受けつつ、一台の馬車が走ってきた。
車体に描かれているのはイヴンアロー侯爵家の紋章。
アルヴェインにお迎えです。
人目もあることだし、私がともかくも、「今日はありがとうございました」と言おうと思ってアルヴェインを見上げると、アルヴェインと目が合った。
そして彼が、当然のように私の腕を取って馬車に向かおうとする。
「――――!」
待て待て待て待てちょっと落ち着け。
これが他の相手であれば、私は喜んで馬車に乗る。
なんなら当家の車寄せまで送ってもらう。
なぜならびしょ濡れになりたくないから。
だが駄目だ。
こいつは駄目だ。
衆目のもとでこいつと同じ馬車に乗るなど、要らぬ揉め事の種の臭いしかしない。
「――っ、お気持ちはありがたいのですが……」
遠慮がちに言って、そうっとアルヴェインから距離を取ろうとする。
無駄に声をひそめる感じになった。
正気に戻れ、という念を籠めてアルヴェインを見上げるが、アルヴェインは存外に真剣な表情だった。
「すまんが乗ってくれ」
有無を言わせない語調でそう言われてしまい、こっちの調子が狂う。
「俺がお招きした演奏会でお風邪を召されたなどとわかっては、俺は後悔してもしきれない」
「…………」
こいつ、さてはおうちの人に、「今日はドーンベル令嬢と会う」ってことがバレてるな。
あるいは、私が「今日はイヴンアローのご子息と会う」って言っちゃってると思っているな。
確かにそうであれば、「誘われた演奏会で大雨に降られ、しかも連れには置いて行かれ、風邪を引いちゃった憐れなドーンベル令嬢」が爆誕することになり、批難の目はアルヴェインに向く。
それは困るか。
正直、魔法を使っちゃえばこんな程度の悪天候はなんでもないけれど、明らかに不自然に私だけ雨から無事だった、なんてこと、そんな疑いの種を自ら蒔くような真似はしたくない。
魔法を使えるなんて知られたら、私は火刑台一直線。
――そんなことを一瞬のうちに考えて、私は精一杯遠慮がちな笑みを浮かべた。
「……では、お言葉に甘えて」
アルヴェインに腕を取られ、叩きつける雨から片手で顔を庇うようにして、私たちはセドリックさんが扉を開けてくれている、イヴンアロー侯爵家の馬車に転がり込んだ。
まともな屋根を得るとほっとする。
ふう、と息をつき、今さらながらハンドバッグからハンカチーフを取り出して、顔やら首やらを軽く拭う。
雨は激しく馬車の屋根を叩き、窓を伝って流れ落ちている。
アルヴェインもやっと雨を逃れられて安堵したようだった。
ずぶ濡れになったセドリックさんが、肩身が狭そうに乗り込んで来て、扉を閉める。
天井を叩いて御者さんに合図。
雨に波紋を拡げるようにして、馬車がゆっくりと動き出す。
「――意図せずとはいえ災難を呼び込んでしまったようだ。フィオレアナ嬢、大丈夫か」
アルヴェインが気遣ってくれる。
私はにっこり笑ってみせた。
「問題ございません。演奏が途中で止まってしまったことは心残りですけれど」
「演奏はお気に召したようで何よりだ。また機会があればお呼びしよう」
そう言いながらアルヴェインもハンカチーフを取り出す。
そして何を思ったか、私の向かい側から隣の座席に移って来て、滴の垂れる私の髪を拭い始めた。
「――――!」
は!?
こればかりは素で驚き、私は大慌てでアルヴェインから後退る。
髪に火が点いたようにすら感じる。
駄目です駄目です、未婚の女性の髪を触るなんてそんなそんな。
セドリックさん助けて! と救援要請の目を向けたところ、セドリックさんは主人の暴走から目を背け、硬く目を瞑ることを選んでいた。
くそ……。
咎める目でアルヴェインを睨む。
奴は心配そうに私を見ている。
大丈夫だから向こうに戻れ、おまえこそ、水も滴るいい男になっているぞ、という気持ちを籠めて、私はアルヴェインのすねを蹴った。
不満そうな顔を見せつつ、アルヴェインはようやくいるべき席へ戻った。
この数秒に跳ね上がった心臓の鼓動を宥めつつ、私は雨が筋を作る窓の外を眺める。
光景は、雨で滲んでよくは見えない。
溜息を堪え、私は束の間目を閉じた。
――大丈夫、大丈夫。
また、ドーンベル邸から一ブロック離れたところで降ろしてもらえばいい。
それでいつもの通りだ。
大丈夫、大丈夫……。




