18 こんな顔は知らない
正気に戻るのが遅すぎた。
あとタイミングも悪すぎた。
図太いことに私は、夜半に正気に戻ったあとにまたぐっすりと寝ていたが、飛び起きるとすぐさまネグリジェの裾を絡げ、部屋を駆け出そうとした――そして、それと同時に部屋に入ってきた、私付きの侍女のハンナに部屋の中に押し戻された。
弾みがついたボールのように部屋の中に跳ね返されつつ、私は必死。
「待って! 待ってハンナ! 駄目なの!
バート! バートに会わなきゃ!」
会って手紙を出すのを止めなくては。
そう思ったのに現実は無慈悲。
ハンナはあっさりと言った。
「何を仰っているんです、バートさんはもうお出かけですよ」
「なんでっ!」
声が出た。
嘘だろマジか。
執事の朝ってそんなに早いの!?
いや、でもまだだ!
まだ諦めるには早い!
ジョナサンさんを恐怖に陥れていいわけがない!
下手すりゃまた連載が止まる!
そう思い、決然と「追う!」と宣言した私だったが、ハンナに狂人を見るような目で見られてしまった。
「何を仰ってるんです」
「追う!」
「これからイヴンアローのご子息さまとのお約束なのに、ですか?」
「…………」
あ。
そうだった。
今日はアルヴェインと約束があったんだった。
ハンナはてきぱきした仕草で、私をぐいぐいと姿見の前に押し出していく。
「さー、お支度しますよ。うんと可愛らしくしてあげますからね!」
「そんな……っ」
そんな場合じゃなああい!
というかアルヴェインは私の格好なんてろくろく見てはいないから!
という私の叫びは、てきぱきと私のネグリジェを剥いでシュミーズを着せ、容赦なくコルセットを締め上げるハンナによって封殺された。
後ろから思い切り紐を引かれ、私はぐえっと言葉に詰まる。
コルセットを着ける日はごはんを食べると吐く。
ゆえに朝食すらもなく、こうして胴体版絞首刑に処されるのだ……。
◇◇◇
抵抗したせいでいつもよりきつくコルセットを締められ、辻馬車に揺られながら私はめそめそしていた。
苦しい、つらい、ジョナサンさんを襲う恐怖を思うともっとつらい。
そして何より、また連載が止まったらどうしようという恐怖で胸が苦しい。
本日の私はお忍びである。
例によってこっそり護衛はついて来ているのだろうが、傍目には完全に一人。
めそめそしている令嬢を乗せることになって、辻馬車の御者さんもさぞかし驚いていることだろう。
馬車の窓の外は、本日の私の気持ちを映したかのようなどんよりとした空模様。
もうどうしよう、昨日はあんなにきゅんきゅん動いていた心臓が、今や鉛の塊のようだ。
今日は野外演奏会とのことだけど、もう如何なる音楽も私の心を動かせなさそう……。
「来てくれて良かった。会えて嬉しいよ、フィオレアナ」
「うっ」
演奏会の会場という、湖畔にあるものよりは小さいが、こぢんまりした森とその中の空き地といった風情が漂う公開庭園。
公開庭園の奥へ続く遊歩道でアルヴェインと落ち合うや、本当に嬉しそうにそう言ってきた彼を見て、私は変な声を出してしまった。
訝しそうにするアルヴェインから目を逸らし、深呼吸。
びっくりしたー、急に嬉しそうな顔見せるなよ、思わずきゅんとしちゃったじゃん。
――そう思って、しかし直後に私は目をぱちくり。
きゅんとした?
なんで?
いやいやまさか。いつの話よ。
昔馴染みの顔を見て、ほっとして昨日の余波が甦っただけ――
ふう、と呼吸を落ち着けて、私はアルヴェインに目を戻した。
この間三秒。
「お誘いいただきありがとうございます、アルヴェインさま」
外行きの笑顔で朗らかに言った私に、アルヴェインも外行きの笑顔で応じる。
そのまま当然のように歩み寄って来て私の手を取り、彼の腕に掴まるよう促すアルヴェイン。
……いやいや、腕を組んで寄り添って歩くとか、それはもう婚約者の距離感なんですよ。
とち狂ったこの男から礼儀正しく一歩置き、私は目でアルヴェインの後ろを探る。
いたいた、セドリックさん。
今日も今日とてアルヴェインのお供。
とはいえその目は穏やかで、どうやらもうアルヴェインを変な疑いの目では見ていないらしい。
ほっとして緩んだ私の表情を見咎めたように、アルヴェインが悪戯っぽい表情を、私の視界に割り込ませてきた。
「フィオレアナ嬢、誘った俺を差し置いて、他の男を捜されると俺も傷つく」
「からかってらっしゃるのね、ご自由に」
私も応じて、二人して流れていく人波に従って遊歩道を歩く。
ややあって見えてきたのは木を組んだ仮設の舞台。
舞台の上には既に楽器を携えた演奏家たちがいて、何やら最後の打ち合わせ中。
殆どの人は立ち見になるようなので、てっきり私たちもそうだと思っていたら、案内されたのは舞台正面の貴賓席。
数席しかないその椅子に座るよう促され、抵抗する理由もないので従いつつ、私は目を丸くする。
「席まで取ってくださっていたのですか」
何しろ間近に他の人もいるので、普段とは違って猫を被ってそう言うと、アルヴェインは事も無げに否定した。
「いや、最初からあった」
「最初から、と仰いますと」
「この演奏会は俺の家が後援している」
「…………」
なんだって! おい!
そういうことは先に言えよ!
馬鹿じゃん!
絶対にアルヴェインのお知り合い、下手すりゃ親族がここにいるじゃん!
一緒にいるところを見られるじゃん!
戦慄し、椅子の上で腰を浮かせ、周囲を窺う私。
アルヴェインが軽く笑った。
「心配するな、父母は来ていない。父が顔を出すような水準のものではないからな」
「お父上やお母上だけの問題ではない気が……」
「気を揉むな」
アルヴェインから強く言われ、私は渋々とまた腰を下ろしたが、そわそわしてしまうのは致し方ない。
そんな私をまじまじと見て、アルヴェインは何とも言えない微苦笑を浮かべた。
「……やはり、黙っていて正解だったな」
私は打ちのめされている。
ひどい、あんまりだ、裏切りだ。
背後から刺されるとはまさにこのこと。
「……正解、と仰いますと」
「最初からこれを教えていたら、おまえは来なかっただろう?」
柔らかい語調でそう言われ、私は両眼を瞬いてアルヴェインを見上げる。
見慣れているはずの瞳の奥の光が、しかし今は捉えどころがなく見える。
「……どういう意味だ?」
思わず素に戻って尋ねてしまう。
アルヴェインは静謐に微笑んだ。
「さあ、どういう意味だろうな」
はぐらかすように告げられて、私はただただ無言で瞬きを繰り返す。
春にしては冷たい風が吹き、ざああ、と、風に揺れる枝葉の音が伝わってくる。
――こいつのことはよく知っているつもりでいたけれど、私の知らない一面が、どうやらまだあったようだ。




