15 あれもこれもおかしいよ
アルヴェインが病気になった。
熱があるとか発疹が出たとかじゃないみたいだけれど、絶対に病気。
病気じゃなければ何を罷り間違って、「あの花の見頃が終わるまでには、堂々と隣に立てるよう、俺も尽力するつもりだ」なんていう凄まじい科白が口から出るんだ。
あの瞬間、はああ? と叫ばなかった私は何かの勲章に値する。
いや、口から魂的な何かが出た気はするけど。
しかも無駄にキマっていた。
あの自己肯定感の塊め。
そうやってからかって、私が翻弄されると思ったら大間違いだ。
――とはいうものの、帰りの馬車からその日の晩餐まで、一切記憶にありません。
なんならその夜、夢まで見た。
夢の中ではなぜかアルヴェインはアルウィリスの年恰好に戻っていて、あの凄まじい科白を吐いていた。
真夜中に飛び起き、動悸が収まるまで十分くらい掛かった。
あの馬鹿のせいで……。
とはいえ、私もなんだかおかしい。
あのとき馬車の中で、きゅんとときめいた私の心の一部が、ずっとしこりのように胸の中に残っている。
どうしたんだ、私。
そんなに、三流ゴシップ紙掲載小説への熱狂の容認が嬉しかったのか。
翌日は『ウィークリー・プレジャー』発行日の水曜日だったけれど、やはり『ロルフレッドとティアーナ』は休載していた。
そりゃそうだよね、半日で原稿が出来上がったりはしないもんね、と思いつつ、しかし私はもう冷静。
カトリーヌの協力により、ジョナサンさんはスランプを脱したに違いない、と固く信じて来週を待てる。
しかしながら、同じく『ロルフレッドとティアーナ』の連載再開を待ち望む同志たち、つまりドーンベル家使用人の皆さんは、私ほど固い信念は持てない。
さり気ないつもりだろうが、ハンナをはじめ、「昨日はどうなりました」と探りを入れられること十数回、私は忍耐力の限界を迎えつつある。
来週を! 来週を待てと言うに!
昨日、私に同行していたアーチーも、従僕仲間から追いかけ回されて問い詰められている。
それを見ると冷静になった。
うん……私は一応、この家のお嬢さまだからね。
みんな遠慮して礼儀正しくしてくれていたんだね……。
そう納得し、容赦なく追い詰められて締め上げられているアーチーを窓から見下ろし、合掌。
とはいえ、『ロルフレッドとティアーナ』のお預けを喰らうこと、今日で実に三週目。
みんなのそわそわは臨界点に達しており、そわそわそわ……と蠢いて、私の弟、十二歳のトマスでさえ、「なんだか最近妙ですね」と不思議そうに首を捻っているくらい。
そうね、おかしいわね、ごめんねお姉さまはその疑問を解いてあげられない……。
臨界点のそわそわに擽られながら過ごし、昼下がり、執事から直々に声を掛けられて私はびびった。
ファンの中では良識的なこの人まで、お預け三週目で限界を迎えたのか……!
が、違った。
執事のバートは周囲を気にしながら私に歩み寄って来て、禁制品でも売買するかのように、こそっと私に何かを差し出してきたのだ。
差し出されたそれを見て、真っ先に私が思い浮かべたのは「袖の下」。
だが違う。
驚きに不意を打たれた目玉を正気に戻してよくよく見れば、それは封筒だった。
「お嬢さま、これを」
くいくい、と押しつけられる封筒。
勢いで受け取り、私は目をぱちくり。
「えーっと……?」
言い淀む。
何これ? と見上げると、バートは寛大な微笑みを浮かべてみせた。
「郵便の収受はわたくしの仕事です、お嬢さま」
うん、だろうね。
私もこれが郵便物でない、たとえばパンの塊とかには見えないよ。
首を傾げながら、もう一度封筒に目を落とし――私は「ひぅっ」と息を呑んだ。
手が震え出す。
慌ててバートの袖口を掴み、声を上擦らせる。
「――ありがとう! ありがとう、バート!」
私の手の中にある封筒――ひっくり返せばその封蝋は、見間違えようもなくイヴンアロー家の家紋の意匠。
宛先は私。送り主はアルヴェイン。
アルヴェインの暴走求婚の決着もついていない(というか、双方が互いの出方を窺い、犬猿の仲ゆえに諾否がはっきり決まらない)現状、アルヴェインから直接私に書簡が届いたなど、お父さまに知られれば大ごとになる。
最悪、中身が検められて、内容によっては両家戦争まっしぐら。
バートはそれを止めてくれたのだ!
ありがとう、ありがとう、と、気が違ったオウムのように連呼する私の手の甲を指先でそっと押さえ、バートは優しく微笑んだ。
「この程度のこと、お任せください、お嬢さま。お嬢さまは我々のために出資までしてくださっていますし――」
『ウィークリー・プレジャー』の購読料か。
やった、二十ケントで買える忠誠、なんて得難いんだ!
アルヴェインがどういうつもりで正規ルートで書簡を送ってきたのかは知らないが――何しろ、他人にバレると非常に困るが、私たちは魔法で直接話が出来るから――、昨日の狂気のお祭り騒ぎに巻き込んだことへの腹いせだとしても、それは未然に防がれた。
ざまあみろ、こちとら三流ゴシップで繋がった、使用人さんたちとの一体感は伊達ではないのだ。
二十ケントの出資による、私の使用人さん人気を舐めないでほしい。
勝ち誇ってそんなことを考えていると、バートはなお慈愛の微笑みで。
「サムから聞きました。――お嬢さま、イヴンアローの若君なくしては、夜も明けないと仰せになるほど深いお気持ちだとか」
「…………」
……は?
はい?
誰が? 私が?
サム……サム、お父さまの付き人を務めている従僕。
なんで彼の名前がここで――
「――――!」
っあー!
思い当たって膝を折りそうになる私。
そうだった、そうだった、アルヴェインの暴走求婚直後、夜会から脱出した馬車の中。
「どういうことだ!」と問い詰めるお父さまに、取り敢えず私はそんな話をした。
目が合ったその瞬間から、あの方と運命の恋が始まったんです、的な、恋する五歳児でも真っ赤になりそうなことを言ってのけた。
私もあのときはパニックだった。
あのとき車内にいたのは、私、お父さま、そしてサム。
サムからそんな話が伝わったのか!
ああもう!
記憶を消しておくべきだった!
「…………」
後悔と羞恥に凍りつく私の肩に、バートは白手袋に包まれた手を置く。
あったかい。
でも今はやめて。
違う。違うんだバート。
「そのような深いお気持ちを持たれながら、人目があってはようようお会いになれないとは……お察し申し上げます、お嬢さま」
お察し申し上げないで。
「毎夜涙に暮れられていても不思議ではない中、気丈に振る舞われ、笑顔を絶やされない、そのお心……淑女の鑑と申せましょう」
毎夜ぐっすり寝てるから。感心しないで。
「あのお小さかったお嬢さまが、いつの間にか一人前のレディに……そして恋をお知りになっている。このバート、僭越ながら、感涙が隠せません」
恋を知ってない。
待ってくれ、私は長生きしているが初恋もまだだぞ。
勿体ないから感涙引っ込めて!?
だらだらと冷や汗を流す私。
辛うじて浮かべた強張った微笑に何を見たのか、バートは心強く頷いた。
「お任せください、お嬢さま。お嬢さまの恋、我々一同、全力で応援いたしますから」
ちょっと待って――っ!?
◇◇◇
あの馬鹿あの馬鹿あの馬鹿!
ただでさえ、『ロルフレッドとティアーナ』に熱狂して禁断の恋に敏感になっているうちの使用人さんたちに、凄まじい期待と野次馬根性の種を放り込んでくれやがった。
本人がそれを狙っていなかったとしても、許すまじ。
信じられないこの暴挙。
バートの前から逃げ出して、私は自室に籠もって泣く。
ひどい、ひど過ぎる。
結婚どころか初恋だって経験のない私から、ロマンチックな初結婚はおろか、初恋まで噂の上で奪ってしまうなんて。
ひどい、アルヴェイン、あんまりだ。
そもそも振り返れば、私が馬鹿なことを言い出したのをアルヴェインが本気にしたことから、今回の一件は始まっている。
だがその事実は今だけは無視。
ぐすぐすと自己憐憫の涙に暮れた私だったが、その涙は一分程度で引っ込んだ。
転生十回超えともなれば、涙なんてすぐ枯れるのである。
ともかくも、問題のアルヴェインからの書簡を開けることにする。
ペーパーナイフを取り出して、慎重に封筒を切り開く。
引っ張り出した便箋からは、上品な菫の香りがした。
あいつ、わざわざ香炉の煙に当てた便箋を使っているのか。男性にしては洒落たことをする。
ぺら、と便箋を開いて、一読。
いったん便箋をテーブルの上に置いて、部屋の中をぐるぐると歩き回り、窓から空を見上げたりしてから、またテーブルに戻り、書簡を再読。
――頭の中に文字の意味が入ってこない。
何かがおかしい。
――手紙の内容はシンプルだった。
簡単な時候の挨拶に始まり、「ウォルナット通りでとある画家の個展が開かれている」と記され、「一緒に行かないか」。
ところどころに、「写実主義を好む貴女のお気に召すかはわからないが」とか書いてあって、それはアルヴェインらしい。
私が咄嗟にジョナサンさんを、「写実主義の画家だ!」と誤魔化そうとしたことをからかっているらしい。
つまり、アルヴェインらしいということは、この手紙はアルヴェインが書いたものだということだ。
が、おかしい。
一緒に行かないか、だと?
行けるわけなくない? 私たちだぞ?
イヴンアローとドーンベル、犬猿の両家の令息と令嬢だぞ?
一緒に行って、身許が知れてみろ。
社交界はワンシーズンその話題でざわつくだろうし、「あのご両家に一体何が!?」とかって、不敬罪ものの記事が書き立てられるぞ――それこそ三流ゴシップ紙とかに。
手紙を睨んで五分経過。
そのうち私は思い当たった。
――これは、あれだ。
別の令嬢に送るべき手紙を、間違って私に送ってきたんだ。
なるほどなるほどそういうことね、と納得し、しかしながら昨日ときめいた私の心の一部が、空気を読まずに変な考えを私の頭に差し込んできた。
――あいつの今度の本命は、一体どんな人だろうな?
『は? おまえ宛てだぞ?』
というのが、アルヴェインの第一声だった。
例によって夜。
寝台に腰掛け、サイドテーブルの蝋燭の灯を眺めている私。
魔法を掛けた蝋燭の灯は、私とアルヴェインを繋いでいる。
久しぶりにこの魔法でアルヴェインに接触し、「おまえ、今日、別の令嬢宛ての手紙を私に送ってきたぞ」とにやにやしながら指摘したら――これだ。
「はい?」
頭のてっぺんから出たような声が出た。
「いや、待て、どんな手紙のことかわかっているか? ウォルナット通りの個展についての手紙だが――」
『うん、おまえ宛て』
「――――」
無邪気に肯定され、私は固まる。
「……私宛て?」
『読んでいて、他の令嬢宛てだと思うような文があったのか』
「いや、全体的に……」
『……なるほど、歴代のおまえの名前を、これからは冒頭に書くことにしようか』
呆れたアルヴェインの声を聞きつつ、私はサイドテーブルに置いてある手紙を持ち上げ、蝋燭の頼りない明かりの下で矯めつ眇めつ。
――あ、そういえば、「写実主義を好む貴女のお気に召すかはわからないが」なんて、私あての皮肉が書かれていたんだった。
そっかー、私宛てかー。
私宛て……
「いや、おかしいだろっ!」
声が迸り出た。
私の喉が今日いちばんいい仕事をした。
「馬鹿か? 馬鹿になったのか? いいか、我々は、互いの家の馬車で訪問し合うことも出来ないくらいの家の一員で――」
『堂々と会いに行けなくて、俺もつらいよ』
「からかうなっ!」
目の前にアルヴェインがいたら、私はがくがくと奴を揺すぶっていたかもしれない。
「わかってるだろ! 駄目だろこんなの!」
『そうそう、俺も気になっていたんだ』
と、のんびりと答えるアルヴェイン。
なんだこいつ、頭叩きたい……。
『俺から書簡が届いて、おまえのお父上はなんと仰っていた?』
「なんとも仰ってないよ!」
バート、本当にありがとう!
「そもそも知られてない! 執事が気を利かせて、お父さまに見せる書簡から、これだけ抜いてくれていたんだ」
『ちっ』
なんということでしょう、うちの優秀な執事の優秀な仕事に対して、アルヴェインが舌打ちした。
「おま……、何考えて……」
『うちの父も、ああだこうだでまだ動く様子がなくてな』
アルヴェインの口調が愚痴っぽい。
『さっさと使者でも送って婚約式の日取りを整えれば済む話なんだが、』
「待ってくれ、済まないよ?」
『やはりドーンベルから嫁を貰うというのに抵抗があるらしく、腰が重い』
「だろうね! そのままにしておけよ!?」
『身分でいえば、一応はうちが上だろう。だからうちの動きが鈍くても、世間からは何とも言われんだろうと高を括って、まだ動かない』
「それでいいんだよ! 狙い通りじゃん!」
『俺から書簡がいけば、さすがにドーンベル伯は動くだろう? 諾否も申し渡していないのに、お宅の息子はどういうつもりだ、とか』
動悸がしてきた。
心臓を押さえ、私は寝台に倒れ込む寸前。
「な――なにしてるんだ、おまえ……。両家の揉め事なんて、いちばん避けたいことじゃないか……。
そもそもそれを避けようとして変な策を弄した結果、困ったことになってるんじゃないか……」
戻れるならばあの夜に戻り、変なことを言い出した自分の口を塞ぎたい。
『いや、俺も困っていてな』
アルヴェインが神妙に言い出し、私は背筋を伸ばした。
まずい、アルヴェインが困っているなら放っておけない。
「どうして――あ」
思い当たった。
「もしかして爵位継承か?」
爵位は土地に連動する。
イヴンアロー侯爵も、もちろんイヴンアロー侯爵の称号以外に、複数の爵位とそれに連動する領地を持っているはずだ。
アルヴェインはいずれその領地と爵位を承継する。
アルヴェインには弟君がいるということだから、彼にもお零れがいくはずだ。
そして爵位継承のタイミングは、当主の一存(と、稀に国王陛下のご意向)で決まるが、「結婚したら爵位をやるよ」と言われている貴族の令息は多い。
たとえばイヴンアロー侯が、「十八歳のうちに結婚しないと爵位はやらん」などということをアルヴェインに申し渡していた場合、アルヴェインは今、非常に困ったことになっているはずだ。
結婚できないのに、私なんかに求婚しちゃったせいで。
まずい、と真っ青になる私を他所に、「違うけど」とアルヴェインはあっさりと一刀両断。
違うんかい、と肩を落とし、しかしながら大いに安堵もしつつ、私は額を拭う。
「そ――そうか、良かった……」
『十九になったら、取り敢えずミディグレイ男爵位を継ぐことになっている』
「そうなんだ」
『だからまあ、十九になったらしばらくは、男爵領のマナーハウスにいることになるから』
「そうなのか! 達者でな」
『だからおまえも、こっちにいるうちに、お友だちとは会い尽くしておけよ』
「――――」
おかしい。
今、何かの法則が狂ったことを言われた。
何を、さも当然のように、私がこいつについていく前提で喋っているんだ?
駄目だ、頭がおかしくなる。
私は首を振って、何も聞かなかったことにして話題を戻した。
「――。で、何に困っているって?」
蝋燭の灯の向こうで、アルヴェインがふっと笑う気配があった。
こいつ、私をからかったな……。
威圧を籠めて咳払いすると、「すまん」と笑い混じりの詫びがあって、言葉が続いた。
『付き人に、少しばかり、有り難くない疑いを持たれていてな』




