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情報化社会

作者: 雨水月

 ヨシノリは悩んでいた。

 

 最近、彼の頭を支配する一つの疑問。この世界は本物なのか?それとも、偽物なのか?


 11月7日のことだった。灰色の雲が空を覆い尽くした午後、彼はスマートフォンの画面を見つめながら、ふと指を止めた。いつものようにタイムラインをスクロールしていた指が、まるで意志を持ったかのように動かなくなったのだ。彼は、SNSを見ることを止めた。意味が無く、時間の無駄だからである。しかし、それ以上に、彼にはある思いがあった。

 

「偽物の怒りが俺を支配しようとする。全く関係ない出来事が偽物の感情を俺に引き起こすのだ」


 世界のどこかで起きている戦争の映像——瓦礫の山と泣き叫ぶ子供たち。知らない芸能人の不倫事情——週刊誌の見出しが躍る白々しいスクープ写真。そして、赤信号を無視して交差点を突っ切る白いワンボックスカーの動画。運転席から身を乗り出して怒鳴り散らす中年男性の歪んだ顔。それに寄せられる、質の低いコメント。「こいつマジでクズ」「死ねばいいのに」「こんな奴が親だったら子供がかわいそう」——文字の羅列が彼の網膜に焼き付くたびに、脳は条件反射のように感情を引き起こした。そして、彼にこういわせるのだ。


「なんてひどい奴らだ、こいつらは最低の人間だ」


 心臓が早鐘を打ち、顔が熱くなり、拳が自然と握りしめられる。まるで自分が被害者であるかのような、まるで自分の大切な人が傷つけられたかのような、激しい怒りが湧き上がってくる。


 しかし、その感情が偽物だったことに彼は気づいた。


 ある日、実際に町で、自転車に乗った高校生が歩道を猛スピードで駆け抜け、杖をついた老人にぶつかりそうになる場面を目撃した。老人はよろめき、危うく転倒しそうになった。高校生は振り返りもせず走り去っていく。しかし、それは彼に何ら怒りを引き起こさなかった。ただ、平坦で乾いた感想が心に浮かんだだけだった。現実の出来事は、なぜかスマートフォンの画面越しに見た映像ほど彼を動揺させなかった。


 この世界はつくられた世界だ。放課後の教室——誰もいなくなった机と椅子が整然と並び、夕日が斜めに差し込む静寂の空間——のような虚無を、意味がある舞台のように取り繕っているのだ。黒板に残されたチョークの跡、窓ガラスに映る自分の顔、廊下に響く自分の足音。全てが作り物めいて見えた。


 そして、彼はSNSアプリを消した。アイコンが画面から消える瞬間、まるで重い鎖が外れたような軽やかさを感じた。最初に彼は虹を探し始めた。


 虹は本当にあるのか?ヨシノリはそれを見たことが無かった。写真でも、映像でも見たことはある。だが、自分の目で、この現実の空に架かる虹を見たことは一度もなかった。もしかすると、虹も偽物の一つなのではないだろうか。


 そして、ある雨上がりの夕方——ついに彼は虹を見つけた。


 しかし、彼は違和感を覚えた。空に浮かぶそれは、ネットで見慣れた鮮やかな七色のアーチとは程遠いものだった。色彩はくすんでいて、境界線は曖昧で、まるで古いブラウン管テレビの画面に映し出された映像のようにざらついて見えた。出来の悪い人工物が、巨大なスクリーン上に投影されているみたいだった。完璧すぎる写真の虹を見慣れた目には、現実の虹は粗雑で、安っぽく、偽物めいて映った。


 彼は立ち止まり、空を見上げながら考えた。なぜ現実の虹は、写真や動画で見るもののように美しくないのか?なぜこんなにも......作り物めいているのか?


 そして、自分の頭で考えて一つの結論にたどり着いた。虹は誰かが、霧状の装置か何かで大きなドーム状の世界に映し出しているに違いない。この世界全体が巨大な舞台装置で、空も雲も、そして虹さえも、どこかの管制室から操作されているのだ。


 次に彼が探したのは、そのドームの境界線だった。


 週末、ヨシノリは市内で最も高いビル——地上32階の展望台——に向かった。エレベーターで昇りながら、彼の胸は期待で高鳴っていた。ついに「この世界の端」を見ることができるのだ。


 展望台から見渡した景色は、しかし、彼の疑念を更に深めるものだった。遠くの山々の稜線が妙に平坦で、まるで巨大なセットの背景のように見えた。雲は規則正しいパターンで動き、風向きとは無関係に同じ方向へ流れていく。そして何より、地平線が完璧すぎる弧を描いているではないか。自然の地形にしては、あまりにも幾何学的だった。


「やはり、そうだったのか」


 彼は確信を深めた。この世界は巨大なドームの中に作られた人工環境なのだ。


 その日から、ヨシノリは日常の中で「証拠」を集め始めた。飛行機雲は常に真っ直ぐで、自然な風による歪みが全く見られない。鳥たちの飛行パターンも決まりきっている——朝は東へ、夕方は西へ、まるでプログラムされたかのように。駅前の人々の動きさえも予測可能だった。午前8時には背広を着た男性たちが北口へ向かい、午後3時には主婦らしき女性たちが南口のスーパーへ向かう。あまりにも規則正しすぎる。


 ある夜、彼はネットで「ドーム世界 真実」と検索した。するとそこには、同じような疑念を抱く人々のコミュニティがあった。「覚醒者の集い」と名乗る掲示板には、彼と同じ体験をした人々の書き込みが無数にあった。


『私も虹を見ました。写真とは全然違う、安っぽい投影でした』

『飛行機雲の正体は、ドームの天井に設置されたプロジェクターです』

『政府は私たちを巨大な実験施設で飼育しているのです』


 その中で最も説得力があったのは、「真理探求者T」という人物の投稿だった。彼は膨大な「研究資料」を提示していた。気象データの不自然な規則性、人口統計の作為的な操作、メディア報道のパターン化——全てが政府による情報統制の証拠だというのだ。


 ヨシノリは夜通しその資料を読み耽った。そして、一つの巨大な構図が見えてきた。


 政府は国民を巨大なドーム施設に閉じ込め、完全に管理された環境で「理想的な社会実験」を行っている。メディアは洗脳装置であり、教育は従順な被験者を育成するためのプログラムだ。SNSでさえも、国民の思想を監視し、不満を適度にガス抜きするための装置に過ぎない。


 そして、虹のような「自然現象」も、実験の一部として人工的に演出されているのだ。


『我々は檻の中の実験動物だったのか』


 その夜、ヨシノリは生まれて初めて、自分が本当の意味で「目覚めた」と感じた。


 翌週から、彼は行動を開始した。最初は駅前でのビラ配りだった。手作りのチラシには「政府の嘘に気づいてください」「この世界は偽物です」という文字が躍っていた。通行人の多くは足早に立ち去ったが、中には足を止めて聞き入る人もいた。


「あなたも薄々気づいているでしょう?この世界の違和感に」


 ヨシノリの言葉は、次第に人々の心に響くようになった。週末の公園では小規模な集会を開くようになり、「真実を知りたい人々」が集まってきた。主婦、学生、退職した老人——様々な人々が、彼の話に共感し、賛同者となっていった。


 彼らは自分たちを「覚醒者」と呼び、「眠り続ける羊たち」を目覚めさせる使命感に燃えていた。ヨシノリは、ついに本物の感情——怒り、使命感、連帯感——を手に入れたのだった。それがSNSで感じていた偽物の感情よりもはるかに強烈で、現実的だったからこそ、彼は自分の信念がより確固たるものになったと確信していた。


 ヨシノリは47歳だった。


 中卒で、20代の頃から町工場で旋盤工として働き続けてきた。母子家庭で育ち、母親はパートを掛け持ちしながら彼を育て上げたが、3年前に癌で亡くなった。恋人はできたことがなく、同僚たちからは「変わり者」として距離を置かれていた。狭いアパートの一室で、コンビニ弁当を食べながら過ごす夜が、彼の日常だった。


 工場では、学歴のある若い現場監督に怒鳴られることが日課だった。「ヨシノリさん、そんなやり方じゃダメでしょう」「もうちょっと頭を使って考えてくださいよ」——そんな言葉を浴び続けて20年余り。彼の心の奥底には、社会への、そして自分を見下す人々への深い憤りが蓄積されていた。


 だが今は違う。彼は「真実を知る者」として、街角に立っていた。


「政府の嘘に騙されてはいけません!この世界は作り物です!」


 駅前の雑踏の中、ヨシノリの声が響く。手作りのチラシを握りしめながら、通行人に向かって叫んでいた。


 その時、一人の女性配信者が彼の前に立ち止まった。スマートフォンを手に持ち、画面を自分に向けてライブ配信をしながら、彼を嘲笑するような笑みを浮かべていた。


「はい、皆さん。また変な人を発見しましたー。陰謀論おじさんです」


 女は20代半ばくらいで、派手な化粧とブランドものらしきバッグを身につけていた。画面の向こうの視聴者たちに向かって、まるで動物園の珍獣でも紹介するかのような口調で続けた。


「どんな妄想を語ってくれるんでしょうかー?」


 コメント欄には嘲笑の文字が流れる。「きっしょ」「こういう人マジで無理」「病院行けよ」。


 ヨシノリは激昂した。これまで積み重なってきた屈辱、工場での罵倒、社会からの無視、母親の死への絶望——全てが一気に噴出した。


「証拠を出せと言うのか!見ろ、この虹を!この空を!全て作り物だ!なぜ気づかない!」


 彼は空を指差し、周囲の人々に向かって叫んだ。声は嗄れ、顔は真っ赤になっていた。


「SNSは怒りの生産装置だ!政府が国民を分断するために作った洗脳装置なんだ!お前もその被害者だ!目を覚ませ!」


 だが、女は画面を見ながら一笑に付した。


「はーい、典型的な陰謀論者でしたー。皆さん、こういう人には近づかないでくださいねー」


 その瞬間、ヨシノリは女のスマートフォンを叩き落とした。画面が地面に叩きつけられ、ガラスが砕け散った。


「何すんのよ、このキチガイ!」

 女は金切り声を上げた。周囲の人々が集まり始める。誰かが警察を呼んだ。駆けつけた警備員がヨシノリを取り押さえようとした時、彼は暴れた。殴り合いになり、女の頭部が地面のコンクリートに激しく打ち付けられた。


 救急車のサイレンが響く中、女は血を流したまま搬送されていった。その後、病院で彼女の死亡が確認された。


 しかし、ヨシノリはその場から逃げていた。群衆に紛れ込み、裏路地へと姿を消したのだ。だが、彼が気づかなかったのは、事件の一部始終が複数の人々によってスマートフォンで撮影されていたことだった。


 事件から数時間後、動画は既にネット上に拡散していた。「陰謀論おじさんが配信者を殺害」「キチガイ中年の暴行現場」——センセーショナルなタイトルと共に、彼の顔がくっきりと映った映像が何万回も再生されていた。コメント欄には嘲笑と憎悪の言葉が溢れかえっていた。


「こいつマジでやばくない?」「早く捕まえろよ」「陰謀論者って結局こういう奴らなんだよな」「死刑でいいでしょ」


 翌日、彼の名前と顔写真が全国ニュースで報道された。工場の同僚たちも、近所の住人たちも、彼を「殺人犯」として認識した。アパートの前には報道陣が押し寄せ、彼は身動きが取れなくなった。


 ヨシノリは再び逃げた。今度は情報社会そのものから。


 携帯電話を川に投げ捨て、所持金をすべて現金に換え、人里離れた山奥へと向かった。もはや「真実を広める」ことなど不可能だった。彼は完全に孤立した。


 それから数ヶ月後の夜、都市の片隅で、ヨシノリは周囲を見渡した。ネオンサインが乱舞し、無数の文字が踊っている。「脱毛サロン50%OFF」「医学部受験なら○○予備校」「整形で人生変わる!」「即日融資・審査なし」「婚活パーティー開催中」——文字、文字、文字。情報の洪水が街角を埋め尽くしている。


 コンビニの前では、スマートフォンを見つめる人々が立ち止まっている。電車の中でも、歩きながらでも、人々は小さな画面に釘付けになっている。そこに流れる無数の文字列、映像、音声。彼らの表情は一様に無表情で、まるで何かに操られているようだった。そして、その画面の中には、まだ彼を探す情報が流れ続けているのかもしれなかった。


 街角の大型ビジョンでは、また新しいニュースが流れている。また新しい事件、また新しい憎悪、また新しい標的。人々の注意は既に彼から離れ、次の「面白いコンテンツ」へと向かっていた。


 LED広告の光が彼の顔を照らす。「あなたの人生、これでいいの?」という美容整形クリニックの宣伝文句が、点滅を繰り返していた。


 ヨシノリは思った。


 文字の中に世界があるのだろうか?我々が見ている世界は本物なのか?

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