18.素材調達課、初仕事
「ここですよ、クロダ」
セシルに連れられ、クロダは素材調達課の執務室に足を踏み入れた。
中の雰囲気は製品加工課とは正反対。整然と並ぶ机、静かにペンを走らせる人々。紙をめくる音と筆記の音だけが、しんとした空気を支配していた。
「し、失礼しまーす……」
クロダは小声で挨拶したが、誰一人として反応はない。無視されているのか、本当に聞こえていないのか――誰も顔を上げず、ただ黙々と作業を続けていた。
「クロダ、あそこがあなたの席です」
促されるまま腰を下ろすと、机の上には薄いマニュアルが一冊置かれていた。
「明日から、素材売買の窓口を担当してもらいます。まずはそのマニュアルを読み、業務内容を理解してください。不明点があれば、質問を」
セシルはそれだけ言い残し、自席へと戻っていった。
(バルド課長と違って、穏やかで理性的な人だ。ただ……ああいう人ほど、なんとも言えない"圧"があるんだよなあ……)
クロダの脳裏に、ふと日本時代の記憶がよみがえる。いつも穏やかで優しく、誰からも好かれていた先輩が、ある日突然「こんな会社、二度と来るか」と捨て台詞を吐いて消えた――あの背中が、妙に重なった。
気を取り直して手元のマニュアルを開く。
中には、窓口業務の流れが、信じられないほど細かく記されていた。あらゆる工程に対して補足説明が隙なく詰め込まれていて、疑問を挟む余地がない。
(こんな完璧なマニュアル、見たことがない。これ作った人、絶対優秀なんだろうな……)
クロダは静かに感心しつつ、ページをめくり続けた。セシルは「分からなければ聞け」と言っていたが、そんな必要性は感じられなかった。
◇
ガタガタッ!
突然、椅子を引く音が一斉に鳴り響いた。クロダが驚いて顔を上げると、課のメンバーが次々に席を立ち、帰り支度を始めていた。
(えっ……な、なんだ……?)
訳も分からず周囲を見回すが、誰もが当然のように準備を整え、次々と部屋を出ていく。
そんな中、セシルがクロダのもとに歩み寄ってきた。
「クロダ。今日はもう終業です。帰って構いませんよ」
「えっ……? でもまだ……」
クロダは壁の時計を見上げた。時刻はまだ17時だ。
(もしかして……新入りの俺を和ませようとする、課長渾身のジョークだろうか?)
クロダはそう思って咄嗟に愛想笑いを浮かべた。
「またまた課長、冗談きついですよ~! 17時の鐘は、『ここからが本番だ』の合図じゃないですか!」
「……そう言うあなたの存在自体がジョークだと思いますけどね。……とにかく、もう定時です。これ以上の業務は不要です」
クロダはセシルの冷たい眼差しに背筋を凍らせた。
(え、マジ? 課長、本気で言ってる……? ドッキリとかじゃなく……?)
信じられない思いだったが、セシルの目は本気だった。
「い、いやあ、そうですよね! 定時過ぎてまで仕事なんて、バカみたいですよねー!」
「……私はこれから少し残務があるので残りますが、何か言い残すことは?」
すっと細められた目に、クロダは思わずたじろいだ。
(や、やばい! やらかした! こ、こんなときは……逃げるに限るっ!)
クロダはバネのように立ち上がり、セシルに向かって深々と一礼した。
「し、失礼しますっ!」
そして返事も待たず、執務室から脱兎のごとく逃げ出した。
◇
(製品加工課なら、残業ネタは鉄板だったんだけどなあ……課長用に、別のネタを考えよう……)
一人反省会をしながら廊下を歩いていると、他部署の職員たちが忙しそうにすれ違っていく。
(そりゃあ、まだまだこれからが本番、って時間だもんな……本当に、帰っちゃっていいのかなあ……)
クロダは後ろめたい気持ちで少し背を丸めながら、ギルド会館の外へ出た。
時刻は17時、空は夕焼けに染まっていた。
(夕焼け……この世界から消滅した概念だと思ってた……まだ、この世界に存在してたんだなあ……)
とぼとぼ歩いていたクロダの脳内に、ふとアイデアが浮かんだ。
(そうだ! 今度、課長を飲みに誘うのはどうだろう? これだけ早く帰れるなら、飲み会もできるだろうし。よし、そうと決まれば、早速店の下見だ!)
クロダは一気に元気を取り戻し、夕暮れの街へ足を向けた。あちこちで、店の客引きが声を張り上げている。そのうちのひとつが、やけにくっきりと耳に残った。
「創作料理! 完全個室! スライム食べ放題!」
(なかなか、よさそうな店だなあ。今度課長を誘ってみよう……!)
クロダは自分の企みを胸に、ニヤリと笑った。




