【博士先生】
金曜日の夕食後、英莉子たちは十九時に予約を入れている例の動物病院へと向かう準備をしていた。
「二人とも、そろそろ病院に行くわよー」
「お父さんは?」
「仕事終わりに直接向かうって言ってたから、駅前で落ち合う予定」
先日リリポートで購入した止まり木に身をゆだね、すやすやと寝息を立てている銀仁朗を見ながら桜が質問する。
「ねぇ、銀ちゃんは連れて行かないの?」
「今日は先生に話を聞くだけだし、銀ちゃんもさっき寝たばかりだから、お留守番しててもらおうかなって思ってる」
「そっか。じゃあ、ひとまず三人で向かいますかー」
時刻は十八時五十分。最寄りの駅前ロータリーに着いた三人は、健志の帰りを待っていた。
改札を抜け、帰路につく多くの人々の中に、健志の姿を見つけた桜が、元気よく手を振る。
「あ、あれパパじゃない? おーい、パパ~」
「みんな、お待たせ。電車が少し遅れてたんだけど、予約の時間にはまだ余裕がありそうだね。ちょっと早いけど、すぐそこだから行こうか」
健志は、駅の南改札を出てすぐ右側にある、白を基調とした清潔感のある建物を指さした。それを見て、桜が言う。
「あぁ、ここかー! 前からあるのは知ってたけど、『ABOアニマルクリニック』って書いてあるから、ずっと『エービーオー』って読むんだと思ってた」
「昔は『アボどうぶつクリニック』って表記だったんだよ。でも、どこかの悪ガキがイタズラして、『ボ』の字の点々を取っちゃったらしいんだ。そうなると、どうなるかわかるよね?」
「……最低だね。どの時代も、くだらないことするおバカさんっているんだなぁ」
桜の意見に深く頷き、英莉子も同意する。
「ママも、全然笑えないようなことで騒ぐ男子って本当に嫌いだわ」
「わかるー。うちのクラスにも、でかい声で叫んでるだけで面白いと思ってる男子がいるんだけど、ただの雑音でしかないんだよねー」
健志も腕を組み、過去を顧みるように私見を述べる。
「いつの時代も、男子ってのはアホな生き物なんだよなぁ。でも、いつか気付くんだ……『これじゃ女子にモテない!』ってことに」
「パパは、それに早く気づけたから、ママと結婚できたってことだねー」
「そ、そうかもしれないなぁ」
「パパがアホじゃなくてよかったー。そうじゃなきゃ、桜はこの世に生まれて来れなかったわけだしねー」
英莉子が冗談めかした言い方で応える。
「そうねぇ。私もアホな男子は嫌いだから、パパがアホちゃんだったら、見向きもしなかったかも」
英莉子の言葉に健志は胸をなで下ろし、ホッとした表情で笑った。
「アホなことせず、真面目に生きてきてよかった~」
そんなやりとりを続ける三人に、玲が冷静に一言物申す。
「ねぇ。入口の前で喋ってたら邪魔だし、そろそろ中に入らない?」
三人は顔を見合わせ、苦笑いを浮かべながら同時に「そうだね」と応えた。
入り口の自動ドアが開くと、健志を先頭に一行は病院の中へと入った。
受付では、ピンクのユニフォームを着た女性が笑顔で元気よく声をかけてくる。
「いらっしゃいませ、こんばんは」
「十九時に予約していた大原です」
「あ、お電話いただいていた件ですね。十九時まで少しありますが、今は空いていますので、そのまま診察室へどうぞ」
「ありがとうございます」
受付の女性がふと周囲を見渡し、首を傾げながら尋ねた。
「あの……今日は、連れて来られてないんですか?」
「え? あ、あぁ。今日は先生に色々とお話を伺えればと思いまして、私たちだけで来ました。ご迷惑をおかけします」
「いえいえ。ただ、ちょっと興味があっただけで……」
「で、ですよねぇ。また何かありましたら連れて来ますので」
「ぜひっ! あ、すみません、大きな声出しちゃいました……。では、こちらへどうぞ」
受付の女性に案内され、一行は診察室の前へと向かった。女性が白いスライド式のドアをコンコンと二回ノックし、来訪を告げる。
「先生、ご予約の方がいらっしゃいました」
「はい、どうぞー」
「失礼いたします。阿保先生、お久しぶりです。以前、ポロンがお世話になりました大原です」
「あぁ、柴のミックス犬じゃったのぉ。覚えとるよ。長生きしてくれた子じゃな。君も当時は中学生くらいじゃったが、随分大きくなったのぉ」
「はい、おかげさまで。先生に覚えてもらえていて光栄です。今日は、先日妻からお電話でもお伝えしたかと思いますが……、うちでコアラを飼うことになりまして。飼育について何かアドバイスをいただければと思い、参りました」
先生は、椅子の背もたれに寄りかかり、頭の後ろで手を組みながら本音を話しだした。
「いやぁ、その電話をもらった時、正直イタズラかと思ったんじゃよ。でも奥さんからポロンちゃんの話を聞いて、あの大原さんがそんなイタズラをするわけがないと思ってな。それで、お話を受けることにしたんじゃ。ほっほっほ」
英莉子はにこやかな表情で、健志に囁く。
「あなた、ポロンちゃんに感謝しなくちゃだね」
「そうだね。今度実家に帰ったら、ポロンの好きだったチーズをお供えしなきゃだね」
「とはいえじゃ。私も長いこと獣医をやっておるが、さすがにコアラを診たことはない。アドバイスと言っても、大したことはできんかもしれんぞ」
「ですよね。犬や猫とはまったく違いますし……。無理を言って申し訳ありません」
軽く頭を下げた健志に、先生は「謝る必要はない」と擁護した。
先生は話を続ける。
「じゃが、私の旧友に東京で動物園獣医師をやっとる奴がおってのぉ。昨日電話で話を聞いてみたんじゃ」
「えっ、そんなことまで……。お手を煩わせてしまい恐縮です」
「いやいや、久々に旧友の元気そうな声が聞けて、私も嬉しい限りじゃったよ。もっとも、そやつにも最初はイタズラを疑われたがの。ほっほっほ」
「あははは……」
先生はデスクの中から資料を取り出し、それをめくりながら話を続けた。
「さて、まずはコアラの生態について話していこうかの。コアラという名は、アボリジニの言葉で『水を飲まない』を意味するらしい。その名の通り、ほとんど水を飲まん。主食はユーカリの葉っぱで、水分補給もそれでまかなっとるんじゃ。じゃが、ユーカリの葉には油分が多く消化に悪い。さらに毒もあるときた。普通の動物なら食えたもんじゃないのぉ。それでもコアラがユーカリを食べるのは、他の動物と競争せんですむからじゃな。これはパンダが竹や笹を食べるようになったのと同じ理屈じゃ」
先生は玲と桜の方を見て、にっこり笑いながらクイズを出した。
「さて、ここでお嬢ちゃん達にクイズじゃ。パンダとコアラの共通点は何じゃろうか?」
「えー、なんだろぉ? 可愛いとか?」
「それ言うと思った。パンダは中国、コアラはオーストラリア……。うーん、なんだろ? わからないです」
「妹さんの答えは、あながち間違いではないぞ」
「マジか、やったー!」
小さくガッツポーズをする桜を見て、先生は楽しそうに笑った。
「ほっほっほ。パンダとコアラの共通点は……ズバリ、弱いことじゃ! ここで言う弱さとは力ではなく、生存競争においての弱さじゃな」
「あー、確かに。強いイメージはないなぁ」
玲が素朴な疑問を投げかける。
「でも、なんで両方ともあんなに可愛い姿になったんですか?」
「それはじゃな……実は正確な答えはわかっとらん。私が思うにじゃが、パンダもコアラも、人間に守られながら生き延びてきた生き物じゃ。つまり、人が『守ってあげたい』と思うような可愛い姿に進化したんかもしれんのぉ」
「可愛いは正義だもんねー」
「ふむ、面白い表現じゃな」
桜は先生を見つめながら、ふと気づいたことを玲に囁いた。
「ねぇお姉ちゃん。先生って、アレに似てない?」
玲が小声で聞き返す。
「アレって?」
「あの、名探偵コ◯ンに出てくる博士だよ」
「あっ、似てる‼」
玲は共感のあまり、思わず大きな声を上げた。すかさず英莉子が二人を注意する。
「こら、あなた達! 少し静かにしてなさい」
当の先生はというと、怒るどころか、大きな笑い声を上げだした。
「ほっほっほー。それは阿◯博士のことかな。実は、よく言われるんじゃよ。昔、小さい子が待合室に置いてあった名探偵コ◯ンの五巻を持ってきて『この後ろに書いてある絵って、先生だよね』と言ってそのイラストを見せられた時は、みんなしてゲラゲラ笑ったのぉ」
「ですよねー! しゃべり方とか、なんなら名前もちょっと似てるし」
「こら、桜! さっきから先生に失礼でしょ。どうも、すみません」
英莉子に続き、健志も頭を下げ、話を続けてもらうよう求める。
「娘達が話の腰を折って申し訳ございません。お話の続きをお願いします」
「いいんじゃよ、問題無い。さて、コアラはとても弱い生き物じゃ。故に食べ物で別の動物と取り合いになったら絶対に負けてしまう。だから誰も食べようとしないものを選び、それをエネルギーに変えられるよう進化したんじゃ」
コアラが生き残るために厳しい道を選ばざるを得なかった進化の過程を知り、桜は「なんか可哀そうだなぁ」と呟いた。
「それもコアラたちの選んだ生き方なんじゃよ」
玲は、質問をするために小さく手を挙げた。
「先生、質問してもいいですか」
「はい、どうぞ」
「ユーカリ以外にコアラの食べられるものってあるんですか」
「いい質問じゃな。ユーカリ以外にも、アカシアやティーツリーを好んで食べる個体もおるそうじゃ。基本的には草食動物なので、肉や魚は止めた方がよい。食べたら消化不良を起こすからの。人間の食べているようなパンやお菓子も与えてはならん。ただ、コアラ自身が好む野菜や果物なら、ある程度は構わんだろうが、与え過ぎないよう注意すべきじゃな」
「わかりました。ありがとうございます」
「他に気になることはあるかな?」
そう言われて、英莉子が質問した。
「私からも、一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
「はい、奥さん。一つでも二つでもどうぞ」
「うちの子が病気になった際は、こちらにお世話になっても宜しいのでしょうか」
「もちろんじゃ。まぁ、私の知識でどうにかできたらええんじゃがな……。必要とあらば、友の助力も借りるかもしれんがな。ほっほっほ」
「そう仰っていただけると大変助かります」
「少しでも心配事があれば、いつでも来て下され」
「ありがとうございます。そうさせて頂きます」
再度、玲が手を挙げ尋ねる。
「先生……。ちょっと変な質問してもいいですか?」
「ん? 変な質問とな? 私に答えられるかのぉ」
玲は銀仁朗がコテコテの関西弁を流暢に話す姿を思い浮かべながら、恐る恐る先生に問いかける。
「あのー。コアラって、喋ります……か?」
「ほぉ? コアラが鳴くか、ということなら鳴くことも当然あるぞ。見た目に反して、とても低音で鳴きよる。近所迷惑になるような音量を出すことは、まず考えられんがの」
「あ……あ、はい。あ、安心しました。あははは」
正直、期待したような回答ではなかったが、それ以上聞くべきではないと悟り、苦笑いを浮かべることしかできなかった玲であった。
「最後に一番大事な助言をしておこう。いいか、濫りにコアラを飼っていることを他人に話してはいかん。SNSへの投稿などもってのほかじゃ。すぐにメディアの餌食になるじゃろう。
今後、うちに来るときにコアラと一緒に外出することもあるかもしれんが、その姿をできる限り人目に晒さぬよう注意するのじゃぞ。当然、うちの関係者には箝口令をだしておく。そこは安心してくだされ。私からは以上じゃ」
先生からの忠告を聞き、桜が自信なさげに口を開く。
「桜、喋っちゃいそう……。コアラ飼ってるなんて、絶対自慢したいじゃん」
「そうじゃのぉ……。なら、こういうのはどうじゃ。『知り合いから、高齢のウサギを引き取って飼うことになった』と話すのじゃ。この話をお友達にしたら、きっとウサギを見てみたいと言われるじゃろう。そしたらこう言う。
『おじいちゃんウサギだから、人がたくさん来るとビックリして死んじゃうかもしれないって、動物病院の先生に言われたんだ』とな。これなら納得してくれよう。少し嘘をつくことにはなるが、こうでもしないと大事になりかねん」
「コアラをウサギに言い換えるんだね。それならできそう!」
「新しい家族を迎えたこと自体、あまり大きな声で言わんほうがよい。気をつけなされよ」
「ありがとうございます、博士先生!」
桜から、突然『博士先生』というあだ名を付けられた阿保先生は、驚きのあまり一瞬真顔になった。だがそれも束の間、破顔した。
「博士先生とな……ほっほっほー! 本当に面白いことを言う嬢ちゃんじゃのぉ~。気に入った! 嬢ちゃんだけは特別に、これからも博士先生と呼ぶことを許可しよう」
「ありがとー、博士先生。これから銀ちゃんをよろしくお願いしまーす」
「銀ちゃん? あぁ、コアラの名前かの」
「そう、銀ちゃん。本名は銀仁朗って言うらしいけど、銀ちゃんの方が可愛いでしょ?」
「なるほど。おそらく毛色に由来しておるのじゃろうな。では、ウサギの毛色も銀色で話を通しておくとよい。
いいかい、これは人を欺くための嘘ではない。時には何かを守るために必要な嘘もあるんじゃ。友達に嘘をつくのは、あまり気持ちのよいものではないかもしれんが、家族を守るためだと思って我慢しなされ」
桜は博士先生からの忠告に、深く頷いた。
「わかった。頑張って銀ちゃんを守ります。今日は本当にありがとうございました」
「また近々、銀ちゃんを連れて来なされ。私もコアラの生態には興味があるし、簡単な健康診断程度なら問題なくできるじゃろうからの」
健志は椅子から立ち上がると、姿勢を正して深々とお辞儀をした。
「そう言っていただけると本当に助かります。本日は貴重なお時間を頂き、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします」
「天国のポロンちゃんにもよろしくお伝えくだされ」
「はい、ありがとうございます。では、失礼いたします」
病院からの帰り道。英莉子が健志と仲良く腕を組みながら阿保先生とのことを話していた。
「健ちゃん、先生とてもいい人だったね」
「そうだね。本当に良い先生だよ、あの人は。昔に比べて、恰幅が良くなってたから……さらに阿〇博士にそっくりになってたなぁ、ははは」
「あなたまで……。たしかに似てたけど」
桜が二人の会話を聞き、元気よく話し出した。
「でしょー! 最初からずっと思ってたんだよ。どっかで見たことあるけど、誰だ誰だーって。めっちゃモヤモヤしてたんだけど、気づいたときは、めっちゃテンション上がっちゃった!」
呆れたような顔つきで、玲がツッコミを入れる。
「アハ体験か。桜があんなこと言い出して、先生に怒られなくて本当によかったわ」
「お姉ちゃんも、大きい声で『似てるー』って騒いでたじゃん。でも、博士先生は優しいからいいんだよー」
「そ、それでも失礼だったのは確かでしょ! あんたはもう少し大人になりなさい」
「お姉ちゃんだって、まだガキンチョでしょー」
「あんたよりは何倍も大人です~」
「三年だけじゃん違いなんて」
「年齢の差じゃなくて、中身の問題です~」
英莉子が、また始まったという感じで頭を抱えた。そして二人に雷を落とす。
「二人とも、外で大きな声出さないの! まぁでも、阿保先生は本当に優しくて信頼できる方だと思うわ。今度は銀ちゃんも連れて、改めてご挨拶に伺わないとね」
「きっと受付のお姉さんが喜ぶねー。帰るときの圧がすごかったし……」
玲は、動物病院を出る際に受付のお姉さんが次の来診予約を取ろうと必死になっていた姿を思い出す。
「あー、あのお姉さんね。相当見てみたいんだろうね、銀ちゃんのこと」
ワイワイと談笑しながら歩く三人をよそに、健志は夜空を見上げながら呟いた。
「何かを守るために必要な嘘もある……か。深いなぁ」
「どうしたの、健ちゃん?」
「いや、先生、いいこと言ってたなぁって思ってさ」
「……え、何急に? もしかして、私たちに何か隠しごとでもあるの?」
英莉子からそう言われ、健志は急にあたふたしだす。
「いやいやいや、ないよそんなの」
「その慌てっぷり……逆に怪しいわね」
「だからないって……たぶん」
「何よ、たぶんって」
「いや、ありませんよ。全然……まったく」
「ふーん。まぁ、それが家族の体裁を守るための嘘かもしれないわねぇ……」
「勘弁して下さいよ〜」
二人の会話を傍観していた桜が、やれやれといった感じで発言する。
「うちのパパって、本当にママに頭が上がらないよねー」
「まぁ、そこが愛すべきところなんじゃないの、知らんけど」
「パパはパンダとかコアラみたいに可愛くはないけど、守ってあげたくなる感じが良かったのかもねー」
「お母さんは、お父さんの保護活動家ってわけか……それウケるね!」
姉妹は、すっかり暗くなった街並みの中、明るい声で笑い合った。
不思議と四人の周囲だけが、ほんのり温かな光に包まれているように夜闇を明るく照らしていた。
コミカライズ・アニメ化目指して描きました
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