【幕開け】
二人と一匹の挨拶が済んだ矢先、玄関から元気な声が響いてきた。
「たでーまー」
「あ、桜が帰って来たみたい。お出迎えしてあげようか」
そう言って、玲は銀仁朗と共に玄関の方へと向かった。
桜は玄関で靴を脱ごうと、腰を屈める。すると、普段嗅いだことのない異臭が漂ってきたので、思わず鼻をつまんだ。
「ゔわっ、ぐっぜぇー! お姉ちゃんの靴、めちゃぐっぜぇー」
「違うわ! 失礼ね」
「じゃあ何のにお……うぇぇぇぇー⁉ なにこのぬいぐるみー? チョー可愛いんですけど! 私にもモフモフさせてぇー……って臭っ! オェェェェ~。むっちゃ変な臭いするんですけど」
桜のデリカシーのない発言に銀仁朗は、ため息をつく。
「はぁ~。さっきからおまえらは、わしのことを何度も臭い臭い言いよってからに……。まぁまぁなストロングハートのわしでも流石に傷つくで」
「あ、すんません。……ってゔぇぇぇぇー⁉ めっちゃ喋るじゃんコレ! お喋りできるぬいぐるみとか、ハイテク過ぎるんだけどぉ! お姉ちゃん、これどうしたの?」
ハイテンションな桜とは対照的に、玲は少しためらいがちに応える。
「これから飼うんだよ……」
「ん? まだお金払ってないの?」
「お金は……まぁ払ってないな」
「ダメじゃん。万引じゃん。逮捕じゃん」
あらぬ疑いをかけられた玲は、すかさずツッコミを入れる。
「違うわ! 懸賞で当たったんだよ」
「えー、マジ⁉ すげーな、お姉ちゃん! 超ラッキーじゃん! 桜も喋るコアラ欲しいなー」
「わしの名は銀仁朗やで。よろしゅうに、桜とやら」
銀仁朗は小さな手を差し出すと、桜はその小さな手を指先で軽く握り返し、挨拶をする。
「うん。よろしくね、銀ちゃん」
銀仁朗は目をぱちくりさせた。
「ぎ、銀ちゃん?」
「うん、銀ちゃん。そっちの方が可愛いじゃん。ママー、銀ちゃん臭いから洗濯機に入れていいー?」
桜は廊下の奥へ向かって大声で叫んだ。
「ダメよー、ダメダメ。そんなことしちゃ、銀ちゃん死んじゃうわよ!」
英莉子までもが唐突に銀ちゃん呼びに変わり、銀仁朗は英莉子の顔を二度見する。英莉子の順応力の速さに改めて驚く銀仁朗だった。
「あ、そっか。機械だから洗濯機に入れたら壊れちゃうかー」
「せやから、わしは機械やないて言うて——」
「どうしようかなぁー。お風呂とかで濡らすくらいなら大丈夫かなぁ?」
「(この娘、さっきからわしの話全然聞いとらへんがな)まぁ風呂は嫌いやないし、入れてもらっても大丈夫やで。お湯はぬるめで頼んます」
「じゃあ早速お風呂準備してくるねー。今日も私が一番風呂〜♪」
桜の天真爛漫さに翻弄された銀仁朗は、呆れ顔で玲に話しかける。
「全く……。騒がしい娘やのぉ、君の妹は」
「桜はいつもあんな感じですね。すぐ慣れると思いますよ」
「人間の姉妹いうのんは、こないにも似ぃひんもんなんか?」
「似てる姉妹もいるでしょうけど、うちらは全然似てないですね」
「なるほど、兄弟姉妹言うても、色んなパターンがあるんやな」
玲は銀仁朗との距離感を未だに掴み切れていない様子で、どう話しかけるか迷いつつ話を続ける。
「銀ちゃ、いや、銀仁朗さんは——」
「あぁ、銀ちゃんでえぇで」
「い、嫌じゃないですか?」
玲は申し訳なさそうに尋ねた。
「別に嫌とかやないけど、初めてそんな呼び方されたから、ちょい戸惑ってもうただけや。好きなように呼んだらえぇさかい」
「あ、ありがとうございます」
玲は少し緊張が解けたように肩の力を抜いた。
「あと、敬語もいらん。桜っこみたいに普通にしゃべってんか」
突然出てきた『桜っこ』というフレーズに、玲は思わず吹き出す。
「桜っこ? 何それ、ふふっ」
「わしもあの娘にあだ名付けてやったんや。これでおあいこや」
そう言うと、銀仁朗は両手を組み、ふんぞり返った。
「やっぱり嫌だったんじゃん」
「せ、せやから、嫌とかやないわい!」
銀仁朗は慌てて否定した。モフモフの毛皮で見えないが、銀仁朗の顔が赤らんでいる気がして、それがとても愛らしく感じた。
「ふふっ。銀ちゃん。改めまして、ようこそ我が家へ! これからよろしくね」
玲がそう言いながら、優しく微笑みかけた。
銀仁朗も、笑顔で「おぅ! よろしゅう頼んます」と呼応した。
英莉子はすでに平常モードに戻っているようで、いつも通り晩御飯のリクエストを尋ねる。
「今日の夜ご飯、何か食べたいのある? あ、そういえば銀ちゃん。あなたって何を食べるの?」
「わしの主食はユーカリやで。たまーにユーカリ以外のもんも食いたくなるけどなぁ。例えばティーツリーとか。まぁ、あれもオーストラリアの木やし、似たようなもんやけどな。でも、やっぱユーカリが一番やな」
「そっか、コアラといえばユーカリだったわね。でもどうしましょう……。ユーカリなんてスーパーで売ってないわよ。当然ティーツリーもね。ティーツリーオイルなら、昔お友達のオーストラリア土産でもらった気がするけど、使い道が分からなくて未開封のままでどこかにしまっちゃったわ」
英莉子は眉をひそめて考え込んだ。
「わしの飯やけど、動物園にあるストックを送ってきてくれるいう話やったで」
「ほんとに? それなら助かるわ。玲が私立に通い出してから、うちの家計は学費払うのでアップアップなのよ~」
英莉子の発言に、玲が反応する。
「すんませんね、金食い虫で」
「冗談よ。でも、餌のことは本当に助かるわ。いつ届くのかしら? 今日の銀ちゃんのご飯がないと困っちゃうし」
銀仁朗は自分が運ばれてきた箱を指さしながら応えた。
「その箱ん中に三日分くらいは入れてもろとるから、残りもじきに届くんちゃうか」
「ならよかったわ。じゃあ今日のご飯は野菜炒めならぬ、ユーカリ炒めにしましょうかね!」
英莉子の献立の提案を受け、銀仁朗が慌てて反論する。
「おいおい、やめとき! ユーカリには毒があんで」
「もう、銀ちゃん! そこは『おっ、ええなぁ~。うまそうやの~』くらいのノリツッコミしてくれなきゃ!」
英莉子は銀仁朗の肩を軽く叩いた。
銀仁朗は小声で玲に話しかける。
「玲よ……母上の扱い方、ちょっとムズそうやな」
「でしょ。これもすぐ慣れるよ……たぶん」
「お、おぅ……」
今後の新生活に、本当に馴染めるのだろうかと、一抹の不安を抱く銀仁朗であった。
「さて、銀ちゃんのご飯問題も解決したところで、お買い物に行ってくるわね」
「はーい、いってらっしゃい」
玲と桜が揃って見送った。
英莉子が買い物に行った直後、リビングから『チャラララン♪ オフロガワキマシタ』という電子音が流れてきた。
「あ、お風呂沸いたー。銀ちゃんを洗おーっと」
「私も手伝うよ」
「いいよ、桜だけで大丈夫だから」
「でも、初めてだし……」
「わし、一人でも大丈夫やで。風呂場はどこや。案内だけしてくれへんか」
銀仁朗は部屋中をキョロキョロと見回し、風呂場を探す素振りをする。その姿を見た桜が、感嘆の声を上げた。
「なーんか、マジもんみたいだなー。最近の技術力はスゲーっすね!」
「桜、そのことなんだけど……」
「ん? そのことって、どのこと?」
「いやだから、銀ちゃんのことだよ」
「うん、だから何?」
玲は、少し顔を背けながら、躊躇いがちに、桜に重大な事実を告げた。
「銀ちゃんは……。コアラなのよ」
「うん、見たら分かる」
「いや、たぶん分かってないと思うなぁ」
桜は、玲のもったいぶった言い方にイラッとした。
「さっきから何? 言いたいことがあるならチャチャっと言ってちょーだい!」
玲は軽くため息をつくと、意を決したかのように、大きく息を吸い込み、桜に再び真実を告白した。
「だから、銀ちゃんは本物のコアラなのっ!」
普段大人しい姉にしては珍しい大声だった。 その一言が桜の脳内を真っ白に染め上げ、一瞬思考を停止させた。
「はぁ……? 本物の……コアルァァァァ⁉」
桜の目が大きく見開かれた。
「うん。ぬいぐるみでも機械でもなく、ガチのコアラ」
「きょ、今日って四月一日だったっけか?」
「エイプリルフールじゃないわよ。もう六月でしょうが。コアラのマッチョの懸賞で、コアラが当たるかもっていうやつに応募したら、見事に当たっちゃったのよ」
「えっ、えっ——。じゃあ、さっき話してた、これから『かう』って言ってたのって『買う』じゃなくて『飼う』の方……てこと⁉」
桜は指で空中に漢字を書くジェスチャーをした。
「まぁ……そういうことだね」
「ムァァァァァジか⁉」
桜は両手で頭を抱えた。
「信じられへんのやったら、わしの体チェックしてみるか? 機械やったら背中にチャックでも付いとるんとちゃうか」
「え、いいんすか? んじゃ、チェック入りまーす」
桜は喜々とした表情で、銀仁朗に手を伸ばした。
「じょじょじょ、冗談やがな。あ、あぁ~。そこはっ、あ、あかん。や、止めて~」
銀仁朗はくすぐったそうに身をよじり続けていた。
桜は、銀仁朗の体を念入りに触ってみたが、ジッパーなどあるはずもなかった。
こうして彼が本物のコアラであると確信するに至り、半ば放心状態で「これは……マジもんだね」と呟いた。
「ふぇ~。あっちゃこっちゃ触るから、こしょば過ぎて死ぬか思たわ。ほな分かってくれたところで、はよ風呂行くでー」
桜は玲の袖をちょんと掴むと、小声で嘆願する。
「お姉ちゃん……。一人じゃ無理です怖いです付いてきて下さいすいません」
玲は優しく微笑みながら「はいはい」と言うと、仲良く皆でお風呂場へと向かった。
銀仁朗にとって湯船は大きすぎるので、風呂桶に湯を溜めてもらい、そこに浸かることにした。
「熱っつ! 熱すぎやで! ぬるめで言うたやろがい」
桜は手を湯に浸しながら首をかしげた。
「うーん、人間にはだいぶぬるいんだけどなー。このフサフサの毛がある分、温度調整が難しいのかなぁ?」
「勝手に刈るなよ、わしの最高級毛皮」
「最高級かぁー。どれくらいの値段で売れるかなぁ、コアラの最高級毛皮」
「売ろうとすな!」
「冗談だよー。これくらいの温度でどう?」
「おぉ、ええ感じや。気持ちええわぁ」
風呂桶を湯船替わりにし、くつろぐ銀仁朗の姿を見て、桜は尋ねた。
「なんか、銭湯にいるおじいちゃんみたいだねー。そういや、銀ちゃんって何歳なの?」
「わしは、十歳過ぎてからは、数えんようにしてたさかい、いくつになったか定かやないなぁ」
「ふーん。コアラってどれくらい生きられるんだろ? あとでスマホで調べよっと」
「まぁ、ある程度は長生きしてきたから、生い先長くはないかもやなぁ」
「出会ったばっかりなのに、そんなこと言わないで下さーい!」
「あぁ、そやったな、すまんすまん」
「わかれば宜しい」
脱衣所で待機していた玲が、中の様子を心配して声を掛けてきた。
「桜、大丈夫? 銀ちゃん綺麗になった? 乾かす準備はできてるけど」
「ほな、わしは長湯は好かんから、そろそろ上がらせてもらおうかいな」
「くんくんくん。うん、いい匂い! お姉ちゃん、あとお願ーい」
お風呂の扉が開くと、玲の前に全身ずぶ濡れの銀仁朗が現れた。
「はーい。銀ちゃん拭いてくからこっちに……って濡れ銀ちゃんめっちゃイケメンになったんだけど。ウケる!」
「何でウケんねん! てかなんやねん、濡れ銀ちゃんって!」
「コアラの濡れてるところなんて初めて見たし、軽く衝撃……いや笑劇映像だわ」
玲は笑いを堪えようと銀仁朗を拭く用に持っていたタオルで口を覆った。
「上手いこと言わんでええから、はよ拭いてくれ!」
「ふふっ、ごめんごめん。……ねぇ、今度写真撮ってもいい?」
「あかんに決まっとるやろ!」
「ですよねー」
そんなこんなで、大原家に来ての初めての入浴は、滞りなく終了した。コアラの毛は意外にも短く、生き物の扱いに不慣れな玲でも、比較的簡単に乾かすことができた。
銀仁朗は満足そうに身体の毛を整えながら、新しい家族との生活に少しずつ馴染んでいくのを感じていた。
銀仁朗と玲が脱衣所から出ると、ちょうど英莉子が買い物から帰ってきた。
「ただいまー」
「あ、お母さんお帰り」
「あーら、銀ちゃん。お風呂入れてもらったのね。すごく綺麗になったじゃない!」
「桜っこに洗ってもらったわ。一番風呂、なかなか気持ちよかったで」
銀仁朗はタオルを首に巻き、満足そうに頷いた。
「それは良かったわね。玲、今日は卵が特売だったから、あなたの好きなオムライス作ってあげるわね」
「いいね、よろしく!」
「玲も先にお風呂入っておいで」
「桜がまだ入ってる。あいつ風呂長いんだよ」
玲は妹の長風呂に、不満げな顔をした。
「たまには昔みたいに一緒に入ったら?」
「やだよ、絶対やだ」
「さいですか~。ママはご飯の支度してきます~」
玲が妹との入浴を拒絶することを不思議に思った銀仁朗は、素朴な疑問を投げかける。
「なんで妹と風呂入るんがそない嫌なんや?」
「あいつが悪いんだよ。あいつと一緒にお風呂入ると、いつもちょっかいかけてきて、私がやり返してやったらすぐ泣くんだ。そしたらお母さんが『お姉ちゃんなんだから妹に優しくしなさーい』って怒ってくるし。好きでお姉ちゃんになったわけじゃないっつーの」
「ふーん。玲は桜っこのこと、嫌いなんか?」
「……別にそんなんじゃないけど」
「家族っちゅうもんは、いつまでも一緒に居られるもんやない。失ってから気付くことも、ようけあるんやで……。まぁ、わしが言えた義理やない話やけどな」
玲は、銀仁朗が家族の話をする際に見せる、どこか寂しげな表情を見逃さなかった。しかし、それを深く追求するのはためらわれた。
「ま、喧嘩するんも元気な証拠や。せいぜい仲良う喧嘩したらええわ」
「仲良く喧嘩するって、矛盾してない?」
「喧嘩するほど何とやら、やな」
そんな会話が交わされていたとは露知らず、桜の元気な声が脱衣所から聞こえてきた。
「はーい、おまたー。お姉ちゃん入るー?」
「うん、今行く」
「おっ、お風呂上がりの銀ちゃん、モッフモフ感がハンパないんですけど! ギューしていいですかいいですよね洗ってあげたの桜ですもんね! モフモフいっただきまーす」
「や、や、やめれぃ……ギャ~!」
廊下で桜が銀仁朗をモフモフしていると、玄関のドアが開いた。
「ただいまー」
「あ、お父さんお帰りなさい」
「パパ! 大変だよ、大変! うちにコアラがいるんだよ!」
「玲、桜、ただいま。さっきママからのVINEを見て、電車内で大声上げちゃって、めっちゃ恥ずかしかったよ」
「まぁ驚くよね、普通」
「玲が何かの懸賞に応募してたってのは聞いてたけど、まさか景品がコアラだとは思わなかったな、あははは」
「健ちゃんお帰り。今日の晩御飯はオムライスだよ」
「いいね! 英莉ちゃんのふわとろオムライスは絶品だから、楽しみだなぁ。で、例のコアラくんはどこにいるんだ?」
「こ……ここや」
桜のモフモフ攻撃をかい潜り、足元に倒れ込んできた見慣れない生物の存在に気づき、健志は思わず大きな声を発した。
「うわぁ!」
「そんなびっくりせんでもええがな。ちょいと失礼」
銀仁朗は健志のスーツのズボンを掴み、立ち上がる。
「いや、普通家の中にコアラなんていないし、喋らないし、二本足で立たないし——」
「二本足で立つことも、なくはないで」
「そ、そうなんですか? 動物園でコアラが立ってるところなんて見たことないですし……」
「まぁ、立つ必要があんまりないからな」
「で、ですよねぇ」
「父上も、皆と同じように普通に喋ってもろて構へんで。今日からわしらは家族やし」
「あ、ありがとう、ございます……でいいのかな?」
「そこは『よろしく』でええがな、父上」
「そ、そうだね。よろしく、銀ちゃん……だったかな」
「おう。よろしゅうに、父上」
「ところで英莉ちゃん。コアラの飼育方法って知ってたりする?」
「知ってるわけないでしょ、そんなの」
「だよねぇ、あははは」
英莉子の当然の回答に、健志は自分で質問しておいて、なんて低レベルな問いかけをしたのだろうと、自嘲気味に笑った。
「うーん、どうしたものか……。あ、そうだ! 阿保先生を頼ってみようかな」
「阿保先生って、駅前の動物病院の先生?」
「そうそう。あそこの動物病院、実家で犬を飼ってた時にちょくちょくお世話になってたんだけど、あそこの病院って犬猫だけじゃなく、猿とかトカゲとかフクロウとか、いろんな動物を診てくれるって昔っから有名なんだよ」
「へぇ。だったらコアラの飼育方法についても教えてもらえるかもね」
健志は玲と桜の方に顔を向け、二人に提案した。
「玲と桜も一緒に行こうか。銀ちゃんのお世話、みんなでしなくちゃだし」
「行くー! 桜、お猿さんとか見たいなー。お姉ちゃんは何が見たい?」
「桜、動物園に行くんじゃなくて、病院だよ、病院」
「わーってるし。でも、せっかく行くなら珍しい動物見れたら嬉しいじゃん」
お遊び気分な桜をたしなめるように、健志が注意する。
「桜、玲の言う通りだぞ。物見遊山じゃなくて、勉強しに行くんだからな」
「ふぇーい」
「健ちゃん、次の金曜は早く帰れそう?」
「そうだね。金曜はノー残業デーだから、十九時前にはこっちに帰れるはず」
「じゃあ、後で金曜の午後診で予約入れてもらえるか電話してみるね」
「ありがとう英莉ちゃん。お願いします」
「任せておいて!」
英莉子はそう言って、右手でOKサインを作った。
健志は仕事で疲れた体をソファに預けると、結んでいたネクタイを緩めながら、しみじみと呟いた。
「急だったけど、家族が増えるってのは、やっぱり嬉しいことだなぁ」
「そうねぇ。健ちゃんには明日からのお仕事、一層気張ってもらわないとだね!」
「うぇーん。頑張りたくなーい」
「パパ、ファイトー♡」
「うぉーーーー! 頑張るぞぉ‼」
「チョロいなー、パパは」
「お父さんったら、ほんと単純なんだから」
娘二人に、少々呆れられる健志であった。
晩御飯の準備が整い、英莉子が皆をダイニングに呼び出した。
「オムライスできたよー! みんな席に着いてくださーい」
「わぁ! 僕のオムライスに『FIGHT』って書いてあんじゃんか! 最高かよ!」
「愛情たっぷりオムライスですよ♡」
「尊すぎて食えん……」
「食べないなら桜がパパの分も食べたげるよー」
「あかんに決まってるやろ!」
健志は、大事なオムライスを桜に取られないようにと、両手で死守した。
「冗談だよー、パパ。そんな必死な顔して取られまじとしなくても……」
そんな二人のやりとりを、傍観していた玲が冷静に言う。
「お父さん。袖に付いてるよ、ケチャップ」
「え? あーっ! しかも、FIGHTのFがEみたいになっちゃったじゃん!」
桜がニヤニヤしながら健志を励ます。
「パパ、EIGHT!」
「何だよ~、八って」
終始笑顔だった英莉子も、皆のノリに合わせだす。
「末広がりで縁起のいい数字じゃないの、うふふっ」
「漢字で書いたらそうだけどさ~。ワイシャツにケチャップは付くわ、英莉ちゃんからのエールの文字は意味変わっちゃうわ、ツイてねぇ……」
健志は、がっくりと肩を落とす。その姿を哀れみ、桜が再び健志を励ます。
「パパ。顔を上げて、周りを見てみなよ。パパの周りには、可愛い女子が、こんなにもたくさんいるんだよ! 今日からは、足元にも、銀ちゃんという可愛い家族も増えたしね。最高かよ!」
しょんぼりしていた健志だったが、顔を上げ、目の前に居る家族を見回した。桜の言う通り、眼下にはくつろぎながら、お先にユーカリをむしゃむしゃとむさぼる銀仁朗がいた。
「なんだ……この最高な環境は! 素敵すぎるな!」
桜の言う通りだと思い、健志は急に元気を取り戻した。そんな健志の姿を見て、英莉子が呆れ顔で物申す。
「健ちゃん、あなたが幸せ者なのは分かったから、早くそのシャツ脱いで、水洗いしてきてちょうだい。シミになるから」
ハイテンションから、急に現実に引き戻された健志は「そ、そうですね。直ちにやってきます」と言い残し、ケチャップの付いたシャツを洗いに洗面所へとトボトボと歩いていった。
「この家の人間はみんな愉快やなぁ。退屈せんでよさそうやわ」
「毎日楽しいよー」
玲が冷静にツッコミを入れる。
「毎日うるさいよー、の間違いじゃない?」
「暗いよりいいでしょうがー」
いつもの姉妹喧嘩が始まったので、英莉子が制止に入る。
「はいはい二人とも終了。銀ちゃん、改めてだけど、ようこそ我が家へ。これから、家族仲良く、楽しく過ごして行きましょうね!」
「楽しいのが一番や。わしこそよろしゅう頼んます!」
こうして、大原家に一匹の珍獣が仲間入りをする運びとなった。
コアラと暮らすという、前代未聞のファミリーストーリーが、ここに幕を開けた。
コミカライズ・アニメ化目指して描きました
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