三章 翳りの大樹
闇の領域は、奥へ行くほど、闇が濃くなる。
「休むかね?インファ」
片手に開いた魔導書から光球を呼び出したゾナは、隣を歩く片翼のインファを気遣った。
「問題ありませんよ。片翼も、一時的なものですから」
インファはそう言ったが、僅かに息が上がっている。猫リティルを抱いたイリヨナも心配そうだ。
『おまえ、ホントに損な役回りだよな』
「今頃インジュが泣かせていますよ。それであいこです」
『拗ねるなよ。本心じゃねーだろ?』
「そうだとしても、傷つきましたよ。嫌いではなかったんですが、残念です……」
本当に損な役回りだ。軽薄な言動を繰り返すド派手なペオニサは、わかりやすく弟妹達に遠巻きにされていた。彼等の兄で風の城の副官であるインファは、リフラクの問題がなくともペオニサを友人だとは言えない立ち位置だったのだ。
『はは、あいつ、背中治ったら契約破棄してくるぜ?』
「できませんよ。ペオニサにとって、オレは、そこまで価値あるモノではありません」
『拗ねるなよ!けど、ペオニサがおまえを落とすとは思わなかったぜ?』
「落ちていませんよ。彼は際どいですからね。オレもウッカリ勘違いしそうでしたよ」
『はは、拗れてるな。今でも友達だって思ってるんだろ?けど、あいつのせいでもあるか。おまえ普段、綺麗だって面と向かって言われねーからな。そりゃ、戸惑うよな』
リティルはペオニサを、変わったヤツだと思っている。綺麗に限らず、格好いいだとか可愛いだとかとにかく褒めるのだ。リティルは、これは褒め言葉なのかわからないが「今日も小さいね!」と言われたことがある。ノインなどは「今日もミステリー」と言われていた。わけがわからないが、彼に笑顔で言われると思わず笑ってしまう。ノインは微笑んで「今日も元気で何よりだ」と返していた。
「まあ、そうなのですの?でも、面と向かっては言わないかもですの」
『はは、普通言わねーよ。恥ずかしいだろ?それを言うのが、ペオニサなんだよな。しかも、インファにはしつこいんだよ』
「女装を強要されたこともあるのだよ」
『ハハ、あれだろ?絶対似合うから着てみてほしいってやつだろ?インジュが爆笑だったぜ。居合わせたかったぜ!』
「ペオニサ……なんて失礼なのですの?」
イリヨナは呆れていたが、おまえも被害者だろ?とリティルは思った。ただ、あれだけ「可愛い!」だの「すげぇ似合う!」と連呼されれば悪い気はしない。幼少期のイリヨナは、勉強の合間にペオニサに着せ替え人形にされていた。イリヨナのこの服装――ゴシックロリータとグロウタースのある地域では呼ばれているらしいが、ペオニサの影響だ。
ペオニサが剣術指南するときは、動きが見やすいようにという配慮をして着替えていたが、普段の彼は片腕を着物から抜いただけで剣を振るう。幼いイリヨナの目には、その姿が格好良く見えていたとリティルは思っている。イリヨナのこの服装では一見戦えないように見えるが、袖は短く、布地を締めるリボンは伸縮性のいいものだし、中がレースで見えないミニスカートの下にはきちんと短パンが履かれ、足を気兼ねなく上げられるようにしている。イリヨナが目指したのは、可愛く剣を振るえる装い。だ。ロミシュミルと服装の路線がかぶってしまったのは偶然だ。彼女を知らないペオニサが似合うと思って着せ替え人形した結果だ。止めなかったのはルッカサンであり風の王夫妻だ。
リティルにとって、1度しか会っていないロミシュミルの服装など、覚えていなかったというのが正しい。成人の日、風の城に挨拶に訪れた娘の姿を見たとき「ん?誰かに似てるな?」と思った程度だった。ノインも、盲点だったと言っていた。彼も、インファほどではないが闇の城には頻繁に出入りし、イリヨナの姿を見ていたのに気がつかなかったそうだ。実はノインは、ペオニサに緊張気味に「ノ、ノイン、あ、あのさ、これ、着てみて?」と言われ、羽織袴姿を披露したことがあるらしい。「ぎゃあああ!すげぇ……鼻血出る!」と膝から崩れ落ちられたらしい。ちょっと見てみたかった。
「からかわれていたんですよ。オレが絶対に乗ってこないことを、わかっていたんです。彼は小説家ですから」
『読んだことあるのかよ?あいつのエロ小説』
響きの変わった名付けをする彼の小説は、どの地域でも異国色が強いとファンタジーにカテゴライズされている。あの名付けは、グロウタースの八百万という島国のものだ。着物で装い独特な文化のある小さな1地域だ。
「ありますよ?それほどでもないモノから、濃厚なモノまでいろいろでしたね」
『ラスに禁句言って、ジャックに殺されそうになったとか聞いたけどな、そっち方面もあるのかよ?』
男性恐怖症のラスに、同性の恋愛話は厳禁だ。戦闘以外ではあまり表に出ないジャックが出たというのだから、きわどい会話だったのだろう。
「何でもアリでしたね。やはり、そちらは不毛ですからね。切なかったです。興味があるのなら、年齢指定箇所を抜いたモノもありますよ?」
「え?宝城十華の本に、そんな本あるのですの?」
イリヨナが食いついた。ペオニサの弟子であるイリヨナは、当然幼少期から彼が小説家であることを知っていただろう。
「そちらは、縦羽三色名義です。貸しましょうか?」
「持っているのですの!?あ、あのあのあの『ハヤブサの恋』は……」
イリヨナは目を輝かせて、食い気味にしかし押さえて問うた。
「ええ、あれはいいですね。宝城十華名義では濡れ場が過激なので、あなたには縦羽三色のほうがいいでしょうね」
『ハヤブサの恋』は、男娼の主人公と彼に恋する女性との恋愛を描いた物語だ。
恋敵は男娼を買う男。彼のぶつける執着にも似た情愛も切ない、同性愛の絡んだ物語だった。性別という越えられない壁のある恋敵に、望んでも報われることのない恋愛を重ねる者多数で、過激な男である恋敵だが、憎まれるどころか涙を誘う役どころなっていた。
宝城十華、縦羽三色共に、人気作の1つだ。
「そうなのですの!隼人と丹治のシーンがもの凄いらしくて、ルッカサンが隠してしまったのですの!」
盛り上がる兄妹を見て、会話に入れないリティルはイリヨナの腕からゾナの肩に移動しながら、感心していた。
『すげーな。やるなあいつ。エロのない方もあるのか。だったらオレも読んでみてーな』
「おや、苦手かね?」
『そっちで盛り上がると、話が頭に入ってこねーだろ?けどインファ、そんな読者だったのかよ?』
インファは押し黙り、僅かな逡巡の後、呟くようにどこか嫌そうに言った。
「……モデルがいいんですよ」
『ん?モデル?』
「いいと言ってしまっていいのかね?」
インファを伺うゾナも、読んだことがあるらしい。
「他人のそら似です。名も、容姿も違いますし。性格が本人を彷彿とさせるというだけです」
「でも、新作のあの主人公は、どう読んでも、インファ兄様ですの!」
『モデルって、そういうことかよ?で?男女なのかよ?』
「はい!でも、官能小説ではなかったのですの。未完ですの。ので、最後はそうなるかも?でも、なりそうにないような?」
「そういう方向へ持っていくことを、躊躇っているのかもしれませんね。おそらく、ヒロインのモデルに原因があると思われます」
『誰なんだよ?』
リティルの問いから、インファは視線を外した。
「一生会わない契約は、お互いによかったのかもしれませんね。どういうつもりなのか、聞きたい気も、しますけどね」
「擁護するわけではないがね、彼は恋愛小説しか書けないのではないかね?」
「そうだとしても、複雑ですよ?」
俯いたインファに、イリヨナが焦ったように言葉を紡いだ。
「兄様、あのお話は、楽しく恋愛しているように読めたけれど、たぶん違うのですの」
「恋愛小説ではないんですか?」
平静を装っているが、インファは明らかにイリヨナの言葉に食いついた。
「恋愛小説は恋愛小説なのですの。でも、ただの恋愛小説じゃないと思うのですの。メモにあったのですの。たぶん、ヒロインの言葉じゃないかと」
「なんと書いてあったんですか?」
「わたしが消えてしまうとしても、あなたがこれからを笑って生きていくのなら構わない。さようなら、大好きな人。グチャグチャと、消してあったから、没にしたんだと思ったのですの。でも、ヒロインのモデルが……そうなら、ひょっとして、思い出のつもりで、でも知られたくなくて、わざと男女に置き換えて書いたのでは?」
『なんだよ、ヒロイン、ペオニサなのかよ?しかもあれか?死ぬと思って書いた話だったってことかよ?じゃあ、結末は変わるな』
「変えられるかね?」
『ああ、変えてくるぜ?インジュが言ってたんだ。あいつの書く話は、常にハッピーエンドだってな。そのヒロインは、主人公の前に帰ってくるぜ?ハハハ、ホントにどういうつもりなんだろうな!』
「はあ、王道なら主人公が抱きしめてキスしますね。してみましょうか?」
「ええ?に、兄様……!」
「大丈夫ですよ。ペオニサは、永遠にオレには会えませんから」
『賭けるか?』
「いいですよ?不可能ですから」
『オレはペオニサが契約破棄してくる方に賭けるぜ?オレが勝ったらインファ、あいつの顔のどっかにキスな!』
「了解しました。では、オレが勝ったら1ヶ月休暇をください」
『ああ!忘れるなよ?インファ!』
「忘れませんよ。父さんこそ、忘れないでください」
「あわわ、先生!いいんですの?あんな賭け!」
売り言葉に買い言葉で決まってしまった賭けに、イリヨナはオロオロとしてゾナに助けを求めた。ゾナは首を竦めるしかない。
「さてね。インファがやると言っているのでね、いいのではないのかね?」
ゾナは、そこまで意地になることかね?と思っていた。
ペオニサはリティルがいうように、契約破棄してくるだろう。彼は本気にならないだけで、その力がある。インファもそれはわかっているはずだ。
その上でこんな賭け。契約破棄したペオニサは、インファに会いに来ることはできない。会いに行けば、キスされるとわかっていて来られるほど、彼は男色ではないのだから。
賭けの期限を決めていないのは、インファを逃さないためなのだろうが、それが裏目にでていることを、リティルは気がついていないらしい。それともわかっていて、わざとなのだろうか。そうだとしたら、かなり悪趣味だ。
やはりリティルは、気がついていないのだろう。
インファの勝ち報酬の1ヶ月休暇。あれは、1ヶ月あれば、インファの方から契約破棄できるというものだろう。素直ではないか。ゾナは、ペオニサを諦めきれないインファを見つめていた。
それはそうだろう。
眉間にしわを寄せて仕事していることの多いインファが、家族ではない仕事関係でもない者を相手に、応接間で楽しそうに笑っているのだ。その緩んだ顔をさせてくれるペオニサを、大事な友人と思わないほど、インファは、薄情ではない。
むしろ、そんなインファを置いて行ってしまったペオニサこそ、薄情だと思うゾナだった。
闇とはなんなのか。
翳りの女帝であるイリヨナも、しっかりと細部まで説明できるほどの理解は、まだない。
『インファ、大丈夫か?』
「ええ、大丈夫です。しかし、これはなんですか?」
立ち止まると、いつの間にか何か、様々な姿をしてるが、現存する生物の姿をしたモノが、体に寄り添っている。中には抱きついてきているようなモノまでいる。だが、感触はなく、こちらが動くとまるで幻のように、闇の中に消えていく。闇と同じ色をした者達だ。
「あまり、目を見ない方がいいと思うがね」
目……。インファは何気なく、正面から腹に抱きついてきた人型のモノを見下ろした。
彼、彼女は顔を上げただろうか。
『インファ!』
ハッと我に返ったときには、目の前に詰め寄られていた。
「ペオニサ…………?」
ペオニサは、背の高い男だ。175あるインファより20センチは高いかもしれない。闇色の手が、インファの頬に触れてくる。
彼は笑った?それを確かめる間もなく、リティルの爪が閃いていた。姿が乱された煙のように揺らめいて闇と同化していく。スタッとインファの肩に降り立ったリティルが叱責した。
『おい!ペオニサは男だろ!それともおまえにはあれが、牡丹に見えてたのかよ?』
牡丹?それは、ペオニサが部屋に置き去りにしていった、新作に出てくるヒロインの名だ。インファは読んではいけないと思ったが、ページを揃えた時に読んでしまった。それから宝城十華の未完の原稿だと気がついたイリヨナが読み、ゾナも読んだのではないだろうか。その後、インジュが回収していったのだ。中身のことは、皆、なんとなく触れなかった。モデルが誰なのかわかったからだ。そして、宝城十華が官能小説家だからだ。
『それとも、あいつに綺麗だって言われすぎて、そっち方面に目覚めちまったのかよ!』
「ペオニサには見えましたが、何をされそうだったんですか?」
本当に、危機感はなかった。ただ、ペオニサだなと思っただけだ。
「愛おしげに、触れられそうでしたの!あ、あれはたぶん、キ、キ、キ……キスしてくる体勢ですの!」
きゃー!とイリヨナは「不潔ですの!」と顔を覆って身悶えた。
「それは、目覚めてしまったのは彼の方ではないんですか?」
『バカヤロウ!縁結びの力のある精霊が、今更そんな不毛なもんに目覚めるわけねーだろ!その気があるなら、とっくに持ってるよ。いいか?あいつは恋愛に関して言えば、すげー冷静なんだぜ?冷めてるとも言うよな』
「そうですね。二言目には違うと言い張っていましたからね」
『それだけじゃねーよ。おまえ、あいつのこと誤解してるだろ?あいつはな――』
「父様!」
闇が膨らむのを感じた。怯えるイリヨナの声で、リティルは会話を打ち切らざるを得なかった。
『レイシ……?』
翼のあるライオンが、こちらを睨み付けているようなそんな感じがした。
「気をしっかり持ちたまえ。どうやら、我々の心の闇を投影しているらしい」
ゾナがイリヨナの前に割って入るのと、ライオンが地を蹴るのが同時だった。ゾナは動じた様子なく、すでに戦闘態勢だ。分厚い、懐中時計の巻かれた魔導書を開いていた。
「恐怖の産物としてその姿を投影されるとは、情けなくはないのかね?レイシ」
ゾナの放った一条の光が闇を切り裂く。眼前に現れた道のように遠くまで照らした光を、闇はすぐさま覆い隠してしまった。
「長居は無用だが、我々は戦いに身を投じすぎているのでね、敵には事欠かないようだ」
ゾナが魔導書を構え直す。インファも槍を抜いた。息を飲んだイリヨナも剣を抜く。
「リティル、インファについていたまえ。オレはイリヨナ嬢を引き受けるとしよう」
「イ、イリヨナ、大丈夫ですの!先生がいてくれれば、千人力なのですの!」
「合流地点はどこですか?」
「この先に、翳りの大樹と呼ばれる木が生えているのですの。闇の力の濃い場所ですの。兄様なら感じられるはず――」
『うわっと!わかった。そこに集合な!気をつけろよ!』
向けられる殺気を覚えている。インファは大きなイノシシのような闇色のモンスターの突進を、飛び退いて避けていた。見やると、イリヨナの肩をグイと引いたらしいゾナの姿が見えた。
もう、これ以上の会話は無理だ。両組は行動を開始した。
片翼ではさすがにスピードが出ない。これは、ゾナ達に大幅に遅れを取るが、仕方ないだろう。
『来るぜ、インファ!』
それにこちらには、今まで殺してきた命達が群がるように殺気を向けてくる。相手は脆いが、数が多すぎる。飛んでいられず、舞い降りたインファは、槍を大きく振るい活路を開く。
『インファ、さっきの、話だけどな!』
インファの肩に爪をかけてしがみ付いていたリティルが、切れ切れに言葉を発した。
「はい?後にしてください!」
インファは休みなく槍を振るいながら地を蹴った。もっともな意見だったが、リティルは伝えずにはいられなかった。
闇は、こちらの心の隙をついてくる。今、一番インファを動揺させるモノがなんなのか、わかっていたからだ。
『大事なことなんだよ!』
行く手を遮られ、インファは再び舞い降りると同時に踏み込んで、闇を払う。その時に巻き起こった風になびいた三つ編みが、捉えられていた。グイッと引かれ、インファはバランスを失う。そこへ、取り憑くように人の手が襲ってきた。
『インファ!』
インファは咄嗟にリティルを掴むと投げていた。足から難なく着地した猫が振り返ると、インファは人型の闇に覆い被さられるところだった。
目の前に来た顔に、インファは睨むような視線を向けていた。
こんな目で見ていたのは、オレですか?あなたですか?
ペオニサが言っていた「オレは官能小説家の、女好きの、放蕩者だよ?」という言葉。それを、インファは事実だと思っている。閨事に手慣れた、花の精霊。それが、インファに見せない彼の真実だと思っている。
「今日も綺麗だね」と会うたびに言う彼は、創作ではなく、インファを使って夢想したことがあるのだろうか。
「あんたがもっとも嫌う人種じゃないの?」その通りだった。グロウタースに行けば、女性を引き連れる彼の姿を見ないようにしていた。そういう空気を持ち込まない、ペオニサにホッとしていた。インファは、本当にインファに対して性をチラつかせる女性が苦手なのだ。
硬いのではない。生理的に受け付けないのだ。セリア以外の女性を。
女性を引き連れて、平気なペオニサが理解できない。花の精霊なのだからしかたがないと、割り切っているだけで、理性で封じた心の底では嫌悪していた。
押し込めた心の蓋が開く。
「あなたと、友人で、いたかったんですけどね……」
いつか、破綻すると、ペオニサは思っていただろうか。キャラクターを構築するように実際の人物を分析する彼は、自分とインファの相容れない部分を知っていた。
だから、早く離れてしまいたかった?決定的な溝ができる前に、逃げてしまいたかった?
目の前にある闇が作り出した、ほの暗さを感じた事のなかったペオニサの瞳が、いやらしく歪んだ。
カリカリと文字を書く音が、かすかにしていた。
風の城の応接間は、もうすぐ夜のとばりが降りて、シャンデリアの光に取って代わられる。今は、夕日が部屋の中を染めていた。
「凄いわね」
低い机では腰が痛いと言ったペオニサの為に、彼専用の机が、ソファーに不格好にくっつけられていた。
「…………………………え?なんか言った?」
「凄い集中力ねって、言ったの」
顔を上げたペオニサは、ソファーに腰掛けていた雷帝妃・セリアに視線を向けた。
「ああ、3時間ぶっ通しでしたねぇ。絶好調ですねぇ」
「え?そんなに経つ?……あ、もう日が暮れるんだ」
ペオニサは万年筆を置くと、原稿用紙をかき集めるとトントンッと揃えた。
「ねえ、どんな話なの?」
興味を持ったらしいセリアが問うた。ペオニサは小さく戸惑った顔をしたが、わずかな逡巡の後小さく笑った。
「………………ま、いっか。自分じゃどうしようもない困難に巻き込まれた女の子が、何でもできちゃう美形の男に助けられる話だよ」
「宝城十華です?」
「うん。でも、純愛」
キスもしないし手も握らない。と、ペオニサは静かに言った。
「宝城十華で?縦羽三色じゃなくてです?」
「うん。これは、宝城十華で書きたいんだよ。そっちが本当のオレだからさ。縦羽三色だと、全部出し切れないから」
「それ、インファのこと書いてた小説よね?闇の城から取ってきてって泣いて頼んでた」
セリアの直球にペオニサは吹き出した。
「ぶっ!インジュ!バラすことないじゃない!そ、そうだけど……非現実だから!」
「ねえ、読ませて」
雷帝妃のセリアに読ませるのは、ペオニサでも抵抗がある様子だった。
「ええ?自分の旦那が他の女の子とイチャイチャする話読みたい?オレ、恋愛しか書けないから、どうしてもそうなっちゃうんだよ!」
「インファがモデルなだけで、インファじゃないじゃない。ねえ、読ませて」
セリアに興味津々に見られて、ペオニサは渋々書きかけの原稿を渡した。
「まだ途中だよ?」
「いいんです?いつもは、一通り書ききるまで嫌がるじゃないですかぁ?」
「あー……これ以上書けないから、いい」
そう言いながら、ペオニサは目が疲れたと顔を両手で覆った。ペオニサは、今し方書いていたページまでもをセリアにわたしてしまっていた。
「え?没なの?」
「そういうことあるの?」とセリアが問うと「たまに」と答えが返ってきた。
「うん……たぶん……ここから先、どうしても思い浮かばないんだよねぇ」
インジュがそっと目配せすると、静かに隣でデスクワークしていたラスが立ち上がり、ワゴンに向かった。休憩だ。
「へえ、すっごくインファっぽい……フフ……やだ、この牡丹ちゃんってペオニサなの?」
セリアは、フフと楽しそうに微笑んだ。
まったく悪気ないセリアの言葉に、んっ?とインジュが鋭くペオニサに顔を向けた。ペオニサは椅子に座ったまま、伸びをしていてインジュの視線には気がつかなかった。
「そ。牡丹ちゃんはまんまオレ。……気持ち悪いでしょ?」
力を抜いて、顔を前に戻したペオニサは、自嘲気味に笑った。
インジュはそんな彼の顔を見て、ああ、そういうことです?と、思い至った。
ペオニサは恋愛しか書けない。そして、宝城十華は官能小説家だ。その宝城十華が純愛で書きたいといったのは、インファとの思い出を残しておきたかったからなのだろう。
際どい人ですねぇ。インジュは呆れていた。これで、インファに微塵も欲望を感じていないなんて、端から見て誰が信じるのか?いや、みんな、なぜかペオニサがノーマルだと信じて疑わない。実際そうなのだが、インジュも疑っていない。これが、花の精霊の本気なのだろうか。
花を咲かせ実を結ぶ、営みを司る精霊は、だからこそ、そういうものに翻弄されないのかもしれない。不能の魔法を自らにかけ、そんなものに頼って戒めているボクとは、レベルが違うのだとインジュは改めて、ペオニサに尊敬に似た念を抱いた。
「そう?娼館の小間使いの女の子って、娼婦じゃないところがペオニサよね。それで、働いてる場所が場所だから、尻軽だって猛に誤解されてるって、フフ、まんまね!」
セリアは、インファとペオニサの恋愛の話を読んでいるというのに、まったく嫌悪している素振りがなかった。嫉妬深いのに、創作だから、ペオニサにさらさらそんな気がないことを知っているからなのか、インジュには母の様子がどうにも信じられなかった。
「だけど、猛は牡丹を受け入れるんだ。男の従業員に囲まれてる牡丹を疑いながらさ」
やだ、なんて顔するのよ!切なげに俯いたペオニサの様子に、セリアも切なくなってしまった。
色恋にトコトン疎いインファは、完全にペオニサを誤解している。まだほんの少ししか読んではいないが、そのことがキッチリ書かれているところをみると、ハッピーエンドが売りの宝城十華が書けないのは、どう考えても悲恋となるからではないだろうか。
リフラクを警戒していたとしても、あのインファだ。懐に入れてしまっていれば、十分ペオニサを守れただろう。それができなかったのは、好色なペオニサを受け入れきれないとインファが尻込みしたからではないのだろうかと、セリアには思えた。
それを、ペオニサも感じていた?だったらなぜ、言わなかったのだろう。セリアは、疑問を容赦なく浴びせていた。
「ねえ、どうして言わなかったの?童貞だって」
「ちょっとぉ!?」
顔色こそ変わらなかったが、ついに決定的なことを言われてしまい、ペオニサはガタンッと立ち上がっていた。
バレていないと思っていたのだろうか?セリアも毛色は違うが、魅了の力を持つ精霊で、ラスは過去の経験でそういう空気に敏感だ。そして、インジュは受精を司る至宝・原初の風の精霊だ。真っ新な空気を醸すペオニサを、放蕩は本当だろうが女誑しの噂は少なくともここにいる3人は信じていなかった。
「ここにいる全員は、少なくとも知ってるよ?リティルは……どっちでも気にしない。わかってないのはインファだけじゃないかな?彼は本当に、そういうことが苦手だから」
ラスがペオニサの机に、紅茶を置いた。
「そうなのよね。だから、あんな容姿でも安心なんだけど。ねえ、経験なくて官能小説家なのが恥ずかしかったの?」
この人直球すぎる!ペオニサは、自身のことを引け目に感じたことはない。欲望のコントロールなんて、ペオニサには朝飯前だ。このことだけは、父・ジュールよりも上手いと自負している。上手くなりすぎて、妄想で満足してしまう変態になってしまったが……。これも立派な職業病かもしれない。
それに、実際と創作では求められるモノが違うのだ。
創作で楽しくても、それを実際にやれば相手に不快感をもたらすことだって多々ある。経験未経験はあまり関係ないと、ペオニサ自身は思っていた。
「そうじゃないけど、そう思わせておいたほうが、インファに近づきすぎないって思ったんだよ!結局暗殺されたけど!……猛が、牡丹の抱える問題を全部引き受けて決別したあと、どうしたらハッピーエンドにできるのか、見当もつかないってね!あっはは。物語の中でも、オレは逃げるしかできないんだ……」
ペオニサは、自嘲気味に笑ったが、何を思ったのか牡丹の花びらを両手に出現させるとその中から蓄音機を取り出した。そして、レコード盤をおもむろにセットした。
「へえ、あんたが作ったのか?」
旋律の精霊・ラスは、楽器の奏でる音のすべて、音を奏でるモノのすべてを司る。音楽を再生する装置にも、目がないのだ。食いついてきたラスに得意げな視線を向けながら、ペオニサは紅茶を飲み干した。
「そ。これの形が好きでさ、レコード盤も手作りだよ」
ペオニサは、さらに覗き込んできたラスにニヤリと笑うと、何もない床に歩いて行った。あれ?かけないの?とセリアは彼の行動を見守っていた。
「本家本元の前じゃ、ちょっと恥ずかしいけどね。行き詰まっちゃったときはこれに限るんだな」
ペオニサは両腕を胸元から引き抜くと、両手に、牡丹の絵が美しい、飾り紐がついた扇を開いて構えた。「奏でろ」と蓄音機に命じると、この場にいる皆がよく知る曲が、蓄音機の金色のラッパから流れ始めた。
「え?『風の翼』?」
インジュもさすが驚いて、立ち上がっていた。そんな友人の姿に、イタズラが成功した子供のような顔で微笑むと、ペオニサは扇を手に舞い踊り始めた。
――風の声が聞こえたなら 瞳を空へ向けよう
――あなたの背には 金色の翼がある
――大丈夫 ぼくが そばにいるよ――……
この曲は、インジュとインファの持ち歌の一曲だ。蓄音機から、インジュの歌声が流れ始める。その声に合わせて、ペオニサは踊りながら声を重ねた。
「……凄い……さすが、大地に属性が近い精霊だけあるよ……でも、歌……?」
ラスが舞うペオニサに釘付けになりながら、呟いた。
花の精霊は、大地に属してはいないが、属性が近い精霊だ。大地の属する精霊は、踊りが上手い者が多い。
歌が上手く歌える精霊は、風の精霊以外実はあまりいない。それは、歌という力が風の精霊の管轄だからだ。風とは、反属性である大地に属性が近い花の精霊が、これだけ上手いのはかなり希有といえる。けれども、素人の域を出ているわけではないが。
長い飾り紐が描く軌跡が、ペオニサを籠の中に閉じ込めるているようだった。形を変える籠の中から歌う彼の姿はまるで、オルゴール付き宝石箱の中で踊る舞姫を彷彿とさせた。曲が終わると同時に、ペオニサはクルクルと優雅に回転しながら床に両手を伏せて腰を落とした。
「素敵だったわ!ペオニサ、まだ踊れる?」
「今はもう無理。歌いながら踊るのって、結構疲れるからさぁ。息が戻ったらね!」
賞賛の拍手を送りながら、戻ってきたペオニサに駆け寄ったセリアが、はしゃいでいた。もっと見たい。十分思わせることができるできの踊りだった。これは、エーリュが見たら、対抗心を燃やしただろうなと、ラスは思った。妻の歌の精霊・エーリュは、歌って踊れる歌手なのだ。
「ペオニサ、歌うだけならできます?」
「え?あんたの前で歌うの?インサーフローのインジュの前でぇ?」
「歌えます?」
真剣なインジュの瞳に、ペオニサは気圧されたが、軽口はやめなかった。
「う、うん、音楽があればなんとか?って、なに?本家本元が指導してくれんの?」
どういう意図?インジュは、ペオニサが普段の戯けたような口調のままで、こちらの腹を探りにきたことを感じた。
こういうとこなんですよねぇ。お父さんのツボ。バカでないバカ。ペオニサはそういう男だ。色々足りてないのに、鋭くて、だから危なっかしい。彼を鍛えてしまったら、インファは怒るだろうか?とインジュは思ってしまった。しかしながら、行ききれなかったのはリフラクのせいだ。その兄がいなくなった今、ペオニサはどうするのだろうか。
「下手でもいいです。ペオニサのそのままの声が必要なんです。たぶんですけど、手遅れだったと思うんで」
インジュは、ペオニサが蒼白で回収を頼んできた小説を、闇の城から持ってきた際、中身を読んではいない。それは、彼が一通り書ききるまでは読まれることを嫌がるからだ。
だから、インファが主人公だと知っていても、読まなかった。ペオニサがヒロインだと知ったのは、ついさっきだ。だから、今まで、あれだけ彼が取り乱した理由がわからなかった。だが、今ならわかる。あれを、誤解しているインファが読めばどうなるか、想像がついているからだ。
「え?何が?」
キョトンとするペオニサは、小説を回収できたことで危機は去ったと思い込んでいるらしい。バカですねぇとインジュは思ってしまった。
机の上に置かれていた彼の小説は、シワが丁寧に伸ばされて、ページを揃えられていた。あれをしたのはおそらくインファだ。
インジュが、ペオニサを保護しろとインファに呼ばれて闇の城に行ったとき、部屋中に原稿用紙が散乱していた。それだけ凄まじい抵抗と、術の応酬だったことは見ればわかった。本の虫であるインファが、良心の呵責はあっただろうが、原稿を揃えた際に、目に飛び込んでくる文字を読んでしまい、そしてすべてではないにしろ読んだとしても、責められない。
「小説ですよぉ。お父さんに読まれちゃってます。それで、壮大に勘違いしてると思います」
男同士ではなかったものの、男女の恋愛として描き直されたそれをみて、インファが何を思ったのか、インジュには本当の所はわからないが、動揺はしただろうと思う。セリアが読んでいるのをチラッと読んだが、これまでの2人のやり取りがまんま男女に置き換わり、それを彼得意の甘酸っぱい文章で描かれていた。
しかも彼は官能小説家だ。インファが、自分とそういうことをすることを想像されたのか?と思っても不思議はない。そしてそれは、インファが最も嫌悪することだ。
「え?勘違いって……オレがインファ狙ってるとかそういうこと!?だよねーだよね!猛はインファで、牡丹はまんまオレだもんねぇ!どいうこと?って思うよね!?」
あああああ違うのにいいいいいと悲痛な声を上げて、ペオニサは頭を抱えてしまった。
「それ以上に悪いことに、お父さん、ペオニサがやりまくってると思ってますし」
「すげぇえん罪!ってそう見せてたのオレだよ!オレぇ!」
シュンと可哀想なくらい肩を落としたペオニサの肩を、セリアは思わず慰めるように撫でた。そして、優しい声色で問うた。
「グロウタースで、女の子侍らせてたのは本当なんでしょう?したかったからじゃないの?」
彼のこの容姿とねあかなこの性格では、相手に事欠かないだろう。現に彼は、グロウタースに多くの女性達に定期的に囲まれに行っていた。それは事実だ。
「ヤリたかったんじゃなくて、話したかったの!それに、オレと縁結んでどうすんの?グロウタースの民同士じゃなくちゃ、意味ないでしょ?恋バナとかさ、恋愛相談かな?してたんだ。ウッカリ惚れられないように牽制してさ。官能小説家・宝城十華の名は役に立ってるよ。なんでもっと早く小説書かなかったかなぁ?って思うよ。うん」
頭を抱えるペオニサが、仕事熱心なことを、セリアは改めて目の当たりにした。すべて、縁結びの一環。本人は否定するが、彼もりっぱな仕事中毒だ。
「インファ……あなた本当にこの手のことになるとポンコツね!ねえインジュ、歌うだけで何とかなるの?もう直接伝えるとか、できない?」
「戦闘中みたいで、話しかけるのは無理です。ので、賭けます。闇の領域は負の感情を煽られちゃうんで、ペオニサが女誑しでも友達でいたいこと、思い出してくれたら、何とかなります!お父さんが諦めちゃうと、ホント永遠に会えなくなっちゃうんで」
「わーお。ねえ、このままでもよくない?オレ、所詮官能小説家よ?なんでも書けちゃうしさ。やってなくても、頭ん中は妄想でいっぱいよ?」
それって、実際より気持ち悪くない?ペオニサは逃げ腰だった。
今更逃げるんです?インジュはイラッとした。この城でインファに出会った時から、ペオニサは端から見たら口説いているとしか言い様のない言動を繰り返している。しばらくは放っておいたのだが、インファが困惑してきているのを感じて、ペオニサにインファに話しかけるなと約束させたのは、インジュとラスだった。
それからしばらく平和だったのだが、インファが驚きの行動に出た。彼自ら、ペオニサに言いたいことがあるなら言ってみろと声をかけたのだ。目の当たりにしたインジュは驚いた。女誑しだと誤解しているインファにとってペオニサは、馬が合わないどころではない、相容れない相手だと思っていたのだ。そのはずのペオニサは、皆の予想に反してインファに認められてしまった。肝心なところを誤解したまま。
おそらく、一番驚いているのは、当のインファだろう。
誤解なんかで逃してなるものか!望まないインファが望んだ人だ。インジュは半ばムキになっていた。
「楽しそうだったんです。お父さん、応接間で、楽しそうだったんですよぉ!貴重なんです。家族以外で、お父さんから笑顔を引き出せる人って!」
「そうね。貴重だわ。わたし、あなたが両刀の変態でもいいわよ?楽しそうなインファには変えられないもの」
フフと心底いい笑顔を浮かべる雷帝妃に、ペオニサは唖然とした。
「お妃様!?まさかの発言!えっと……さ、歌くらい歌うよ?それで、いいなら。オレ……インファのこと好きだからさ。でもさ、今?」
そんなに……そんなにインファって危うい人なの!?と芯が通っていて、強そうなその人の事をペオニサは思った。初めてその姿を見たのはいつだったか覚えていない。だが、強烈にペオニサの心に焼き付いた。一目惚れというのは、こういうのをいうのだと思う。恋愛感情ではもちろんなく、純粋にその美しさに瞳を奪われた。
彼が、超絶美形といわれているのは知っている。こう思うのは、何もオレだけではないのだということをペオニサは知っている。
手の届くはずのない人だった。そのはずのその人は、ペオニサを「友だ」と言ってくれた。対等だと言ってくれたことに、怖じ気づいた。背伸びはいらない。そのままでいいと、そう言ってくれたというのに。
まったくらしくなく、後ろから抱きしめてきた彼の事を思う。
死ではない別れを、覚悟していたのだ。それを、惜しいと思ってくれたことを、今ならわかる。顔を見せて、面と向かって言ってくれていたら、情けなく逃げを打つことを思いとどまれたかもしれない。本当の感情を悟られたくなかったインファが、表情を見られないようにして、感情を殺した声色で告げてくるからペオニサは、感情的になってしまった。怖じ気づいて、インファの顔を見なかったのはペオニサも同じなのに。
だって、わからないよ。オレが口にする、まるで口説き文句に、最高にいい笑顔でばっさり切り捨ててくるだけの関係だったじゃない。けれどもペオニサは、それだけではなかったことを知ってしまっていた。イリヨナのこと、レイシのこと、家族に言い辛いことを、インファは静かに唐突に話してくれた。
助けを求めてた?こんなオレに?オレだったから?一生聞くことはできない問いの答えを、ペオニサはすでに持っていた。
覚悟なんて決まらない。それでも強がって皆を見返すペオニサに、ラスはいつもの静かな微笑みで苦笑した。
「早いほうがいいかな?インファは、傷つきやすいから」
「あ、そだね。立ち直りも早いけど。オレとしては、この小説の誤解だけは解きたいよ」
やっと好感度がプラスになったのに、またマイナスからスタートなんて哀しすぎる。
「嫌われてなかったら、許してくれますよぉ。ラス、曲の中継お願いします。ペオニサ、思う存分歌ってくださいよぉ?伝説のデュオ・インサーフローのヴォーカル・インジュが聴いてあげます!」
「うわー……ハードル高ッ!あっはは、じゃ、もう一回踊るよ。その方がさ、歌いやすいんだ」
ペオニサの息は整ったらしい。嬉々として、何もないホールのようなその場所に再び立ったのだった。
ホールに立ったペオニサは、ふーとゆっくりに息を吐いた。
もう一度会えるなら、謝りたい。そしてもう一度、友達になりたい。
「奏でろ」
ペオニサははっきり、蓄音機に命を下した。
歌?インファは、ペオニサの姿で具現化した闇達に、体を押さえつけられ身動きがとれなくなっていた。その中の1人が、真上から見下ろしてきて、不快感を露わに睨み付けていると、その歌声は聞こえてきたのだ。
この歌は『風の翼』?歌っているのは、いったい……誰?
「ペオニサ?」
インファが呟くと、目の前の闇が揺らいだ気がした。ドンッと近くで風が吹き上がって、猫リティルが上から落ちてきた。仰向けに引き倒されたインファの胸の上に落ちていきながら、リティルは叫んでいた。
『インファ!あいつを誤解してやるなよ!あいつはな、未経験なんだよ!どれだけ女の子侍らせてたってな、手なんか出さねーんだよ!妄想に生きてる変態なんだよ!』
「父さん……まったく擁護になっていませんよ?それではペオニサが気の毒です」
ザアッと音が聞こえそうなほど、目の前の闇のペオニサ達が崩れて消えていった。
「これは、彼に申し訳ないですね。ペオニサの人となりを見ていたはずだったんですが」
『しかたねーだろ?おまえの女嫌いは、トラウマレベルだからな!けどおまえ、妄想はいいのかよ?』
「それは職業病でしょう。彼の小説は、それ以外の所も魅力的ですよ?」
「行きましょう」と立ち上がったインファは、猫リティルを抱き上げて飛んだのだった。
しばらく飛んだところで、インファがポツリと言った。
「宝城十華の方が縦羽三色よりも好きなんですが、伝え損なってしまいましたね」
『エロ作家の方かよ?はは、これは絶対、取り戻さねーとな!』
ペオニサの拙い歌声が、最後の旋律を歌った。
『あーしんどい。ねえ、2曲続けては無理。ちょっと休ませて』
どういう状況で、インジュはペオニサの歌をここへ届かせようとしたのだろうか。取り出さなかったインファの風の中にある水晶球から、彼の不真面目な声が聞こえてきて、思わず笑ってしまった。
それを、聞こえないために知らないリティルに、思い出し笑いと取られたのだろう。肩の猫リティルに不審そうに「おまえ、案外現金だな」と言われてしまった。反論してもよかったのだが、インファはしなかった。
現金だ。彼が色欲魔でないことがわかり、それで心が晴れたなど、リティルの指摘通りだ。
あなたの友人でいる資格がないのは、オレの方ですよ。インファは、自身の狭量を恥じていた。ペオニサは、縁結びの力を持つ花の精霊だ。彼が、自分の体を使って女性達に一夜の夢を見せるのだとしても、それは、花を咲かせ実を結ばせる花の精霊の性だ。精霊としての矜持だ。それを否定して、いいはずがない。ましてや、彼は友人だ。
インファとは違う価値観の中で生きているペオニサを、貴重だと、値踏みしていた。
インファに下心なく近づく者は、ほぼいない。故にインファも、自然とこの者は自分に、ひいては風の城に利益をもたらす者かを、一番に見るようになっていた。
だから、突然やってきて「今日も綺麗だね」と言った彼を当然のように警戒した。花の王・ジュールのできる次男のことは、聞いていたということもあった。ジュールは「あいつはバカだ」と言った。おそらく、だから安全だと暗に言ってくれたのだろうが、リフラクの弟と近づきすぎるのは得策ではないと一線を引いていた。
しかし彼は、インファに対しては失言だと皆が知っている言葉を、繰り返した。インジュはわかるが、いつの間にか仲良くなっていたラスにまで窘められているというのに、懲りずに毎回失言をする。そして落ち込んでいるようなペオニサを盗み見ているうちに、知らず知らずのうちに彼の術中に嵌まっていた。
馴染みのやり取り。というものが、こんなにも安心するとは思わなかった。ペオニサは一時期、失言すまい!と思ったのか、風の城に来ても物言いたげにインファを見るものの、全力で無言を貫いたことがあった。あの時確かに、インファは物足りなさを感じてしまった。
そんなことが数回繰り返された後、我慢できなくなったのはインファだった。
見事な、押してダメなら引いてみろだった。
「ペオニサ、言いたいことがあるなら言ってください」
そう言ってしまった。その時インファは、ペオニサに陥落したと言える。難攻不落の超絶美形、雷帝・インファは、ただの『インファ』として『ペオニサ』というただその人を、友人として欲したのだ。
話しかけられると思っていなかったのだろう。ペオニサはあからさまに驚いて、挙動不審だった。
「あ、あ、ええと、イ、インファ!」
今日もインファを無視してインジュの隣に行こうとした彼は、もたつきながらもやっとインファに視線を合わせてきた。
緊張の瞬間だった。両者にとって、久しぶりの対面だ。
「はい」
「今日もすげぇ綺麗。オレ、心臓止まりそう」
「とめてください。今すぐ。看取ってあげますよ?」
「わーお。贅沢!マジで……死んでもいいわ!」
”死んでもいいわ”?これは意図的?なぜか瞬間そう思った。インファはフッと笑みを深めると、こう返した。
「死んでもいいわですか。それは両思いの異性から言われてください」
お!と、ペオニサが一瞬目を見張り、そして嬉しそうに笑った。どうやらお気に召したようだと、インファはなぜか満足した。
「あ、知ってたんだ?昔、あなたのものよ?を死んでもいいわって訳した人がいたの」
「あなたが知っているとは、意外でしたね」
「あっはは。オレ、これでも小説家だからね!あんたなら返してくれるんじゃないかって、ちょっと思ってた。使い方があれだから、気がつかないかな?とも思ったけどさ」
「小説家なんですか?」
「そ。オレ、官能小説家。最近グロウタースでデビューしたんだ!」
そう言ったペオニサの笑顔は、眩しかった。
グロウタースのある大陸で最近耳にする新人作家・宝城十華だと知ったのは、このときだった。この頃にはすでに、本の虫であるインファは彼の作品を読んでいた。年齢指定箇所を抜いて、書き直した縦羽三色名義の本も読んでいた。
それを、インファがペオニサに伝えたことはない。伝える気もなかった。
インファが一線を引いているのと同じように、ペオニサも何かに怯えともとれる遠慮をして、近づきすぎないようにしているようだったからだ。
リフラクという脅威が去り、彼の遠慮する要素がなくなったはずだったが、ペオニサは逃げた。
彼は、雷帝・インファを追い詰める道具に自分が使われたことが、ことのほか堪えたようだった。こんなことになるなら、もっとキチンと懐に入れておくべきだったと、堪えたのはインファの方だったが、彼はわかっていない。傷だらけで、しかしベッドでウジウジしていたペオニサの姿を見たインファが、どれほど安堵したのかを彼は知らない。
彼の背中を見て、惨たらしいその傷がただ惨たらしいだけではないことは、すぐに悟った。だが、彼を脅かし苦しめる魔法は殆ど、インファの手には負えなかった。悔しさと怒りで、赤子になったリフラクを殺しに行きたいのを必死に耐えた。
リフラクは、インファから勝ち逃げしていたのだ。
『こっそり殺しちゃえばいいんじゃないんです?』心配して通信してきたインジュが言った言葉で、やっと冷静になれた。息子にそんなことを言わせてしまうほど、顔に出ていたのだと、気づかされた。
冷静になったインファは「あのバカが風の城に行くらしい。おまえに、何の断りも入れておらんな?困ったヤツだ」とペオニサの背に、傷で描かれた魔方陣以外の魔法を解呪したジュールから、たれ込まれた。
何をしに?太陽の城ではなく風の城へ行く、彼の行動が理解できなかった。インジュが戻っていないことは、すでに伝えられていたはずだったのに。インファはすぐさま風の城に飛んだ。何をしに行ったのか気になって、インファは姿を見せずにシャンデリアにその身を潜ませた。
まさか、レイシに喧嘩を売りに行ったとは思わなかった。
女誑しのペオニサから、イリヨナを口説いてその体をいいようにするぞ!と言われたレイシの反応は見物だった。ペオニサの言動が、弟を動かすことを祈るより他ない。
ペオニサは、どこまで計算しているのだろうか。
「オレをどうしたいのよ?」彼はそう言ったが「オレをどうしたいんですか?」と問いたいのはインファの方だ。
引き際まで、小説のヒロインのようだった。あの書きかけの小説を読んでしまったことも原因の1つだ。はっきり言って、動揺した。
彼は官能小説家。頭の中で何を妄想しようと、問題ないはずだったが、さすがに、女性として書かれているとはいえ、インファとのことを妄想されたと思ってしまったら、嫌悪が止まらなかった。彼は誰でも抱けるのだと、彼の「綺麗だね」がそんな爛れた想いからだったのだと思ってしまった。
すべてが悪い方向へ向かったのは、インファがそれだけ傷ついていたからだ。
インファにとってペオニサは、雷帝・インファ、風の城から完全に切り離された、インファ個人の唯一の同性の友人だったのだから。
ペオニサへの不信は、リティルからもたらされた、インファにしてみれば、衝撃的事実によって打ち砕かれた。あれだけ女性を侍らせていったい何をやっていたのか、インファには思い至ることはできなかった。そういう意味では、インファも存外頭が硬い。そして、謀ったかのような歌声。インファは彼の声に思い出していた。彼が「綺麗だね!」と言うとき、その声色は純粋で、その先に肉欲を感じたことはない。それは、インファの真実だ。ペオニサが、際どい軽口を叩いても不快に感じたことはない。彼の歌声をそれを思い出させてくれ、インファの自滅を回避してくれた。
さて、主人公として、オレはどういう行動を取ればいいんでしょうかね?そう思うと、楽しくなってしまった。物語のヒロインよろしく逃げた彼は、主人公にどんな行動を望むのだろうか。久しぶりに物語の続きが楽しみだ。
その前に、こちらの旅の終わりが見えた。
「あれが、イリヨナの言っていた木ですか?」
『そうみてーだな。はは、インファ、インジュかペオニサが何かしたのかよ?』
「はい?なぜですか?」
『楽しそうな顔、してるぜ?』
「そうですか?気のせいですよ」
あれだけ濃かった闇が、インファとリティルの行く手から退いていた。仄かな光の中、木というより柱のようなそれは立っていた。
翳りの大樹。
イリヨナも、翳りの女帝として基本的に持っている知識で、それの存在は知っていたが実際に来ることは初めてだった。
「大樹と言うけど、なんだか柱みたい……」
わかっていたことだが、ゾナは強かった。群がるように襲いかかってくる獣の姿をしたモノ――モンスターというのだそうだが、それらをものともしない魔法さばきで、時折現れる翼あるライオンにもまったく怯まず冷静その者だった。
「これに似た質感のモノを、見たことがあるよ。翳りの女帝は、旧時代と関係があるのかね?」
大樹の周りはボンヤリ明るく、闇は入り込めないようだ。
「旧時代?ごめんなさい、わからないのですの。でも、ここには闇の領域のすべての知識があるはずですの!父様と母様を元に戻す術も、必ず!」
イリヨナは意気込んで、金属的な光沢を放つ、人工物にしか見えない細長い大樹を見上げた。そんな彼女を見つめながら、ゾナは、闇の領域のすべての知識……と頭の中で反芻していた。
ノインと、1度話をしてから来た方がよかったようだ。それが、直感的に感じた事だった。ノインはシェラが翳り異の女帝を務めていた頃、腹心・ルッカサンと闇の領域の奥を調べていた。彼が何かを知っていても不思議はない。今回ゾナが同行したのは、たまたま闇の城にいたからだ。ノインは、風の城内部の建て直しで忙しいということもあったが、インジュとラスがいるのだ。彼はいるだけで、あの使い物にならないインファの弟妹達が大人しくなるとしても、こっちだったなとゾナは思った。
フウとゾナはため息を付いた。
「イリヨナ嬢、初代翳りの女帝・ロミシュミルのことを、どれくらい知っているのかね?」
思わぬ問いだったようだ。イリヨナはゾナを見つめて瞳を瞬いた。
「え、ええと……悪い女王だったと……」
イリヨナは、ルッカサンから初代翳りの女帝の行いを教え込まれていた。
彼女ははっきりいって、何もしていない。何もしないというということをした闇の王だった。そのせいで、闇の領域は荒廃し、ルッカサンがクーデターを企てる結果になった。そして、風の王・リティルの最愛の妃は、離婚の末イリヨナが産まれるまで翳り異の女帝を務める羽目になった。ルッカサンは包み隠さず、教えてくれた。両親の偉大さ、優しさを何度も説き、両親のようにあれと躾けてくれた。
「君が産まれるために行われたことを、知っているかね?」
「グ、グロウタースの民が行う方法で、産まれたとしか……」
言葉を濁し、恥じらう素振りを見せるイリヨナが、グロウタースの民の間では子作りと呼ぶ究極魔法を使うにあたって用意されたモノのことを、知らないのだとゾナは確信した。
確信したというのは、今まで問うことがなかったからだ。レイシとカルシエーナの拒絶に、初代翳りの女帝・ロミシュミルが関わっていることは察しているが、それが自分とどう関係しているのか、それをイリヨナは知らない。
それを、オレが告げていいものかね?さすがのゾナも迷ったが、関係のない第三者から告げられたほうが、いいこともある。
「大樹に聞けばいいのかもしれないが、イリヨナ嬢、君は、シェラ姫に殺された翳りの女帝・ロミシュミルの欠片を核として、リティルとシェラ姫の行った究極魔法で産み出された者なのだよ」
イリヨナは、俯いた。彼女の頂いた羽根の細工のされた王冠が、鈍い光は返していた。
「……イリヨナが、ロミシュミルだと、レイシ兄様が言ったのは、そういうことだったのですの……。イリヨナ、知っていたのですの。精霊は、普通にそういうことをしても、赤ちゃんのできない種族だということ……。父様と母様が、何かしたから、イリヨナが産まれたのだということを、知っていたのですの。でも、怖くて……。ペオニサやアシュデルのように、何もしなくても産まれる精霊がいるから。と、考えないようにしていたのですの」
花の王は、妃が望めば、望んだだけ子を持てる。それは、世界に望まれてこの世に目覚めるという産まれ方をする精霊という種族の中では、特異と見られがちだが、実は同じ理に縛られてのことだ。
花は、グロウタースのみならず、このイシュラースにも様々溢れている。
花の王は、それこそこの世界に咲き乱れる花のぶんだけ、子を持てる精霊なのだ。彼の王は、智の精霊1人、花10人で打ち止めだと言っているようだが、どうかわからない。
ちなみに、智の精霊・リャリスと、煌帝・インジュは、精霊の至宝を核に、究極魔法を用いて産み出された精霊だ。
「ゾナ先生、大丈夫ですの。イリヨナ――いえ、私、受け止めていますの。レイシ兄様は、本当にお父様がお好きなんですのね」
ゾナはこれまで、リャリスに似たしゃべり方を意識してし始めたイリヨナに、強がりと背伸びを感じていた。
智の精霊・リャリスは、インジュと共によく闇の城に遊びに来ていた。
知的で、妖艶で、美しい人。煌帝・インジュの愛妻で、ペオニサとアシュデルの自慢の姉。
彼女が来ると、花の兄弟は明らかに喜んでいた。
「姉ちゃん!なになに?インジュにくっついてきたの?それとも、インジュ引っ張ってきたの?なっかよしだねぇ!」
途端にペオニサにからかわれ、リャリスは、糸のような切れ長な瞳な瞳に、微笑みを浮かべた。
「ペオニサ、その軽口2度と叩けないようにして差し上げましょうか?」
「あっはは。怖い怖い。ダメダメ!インファを愛でられなくなっちゃうからさ」
「お兄様のためにも、呪い、謹んでお受けなさい」
「まあまあ、お父さんあれでいてペオニサのあれ、期待してますからぁ」
「うっわー怖っ!そっちのほうが姉ちゃんより数倍怖い!あ、でも、役得?」
「安定の変態ですわね」
「そうなんです、変態なんです」
「2人ともヒドい!泣いてやる~!」
幼心に、ペオニサをなじるリャリスの瞳が、とても優しいことを感じていた。まるで、儀式のような挨拶のようなやり取りと終えると、リャリスは必ず、ペオニサの執筆の状態を聞いていた。順調か?負担はないか?と案じていた。
彼女がここへ来るのは、弟のペオニサを案じてのことだと、幼いながらもイリヨナはとっくに理解していた。
イリヨナも大好きな兄で、インジュの父でもあるインファを”お兄様”と呼んで慕っているリャリスに、イリヨナは憧れていた。 彼女を真似るイリヨナの姿は、微笑ましくもあり、危うくもあった。
「私、ロミシュミルに似ているのですのね」
「オレには、似ていると言い難いのだがね」
「先生は優しいですの」
「いや、事実なのだがね。イリヨナ嬢、これから知識を得るには、何をすればいいのかね?」
「大樹と、同調するのですの。こ、怖いけど、やってみますの!」
イリヨナは、大樹と対するようにその前に立った。時間は、まったくかからなかった。
『あら、代替わりしたのね?』
声は唐突に、その柱から聞こえてきた。
「え?は、はい。三代目翳りの女帝・イリヨナです」
話しかけられるとは思っていなかった。知識が直接流れ込んでくるとか、そういうことを想像していた。
『ふーん、ロミシュミルは失敗したのね。まあ、わかりきっていたわね。記憶はなくなっているにしても、あのルッカサンが許すはずはないもの』
クスクスと、翳りの大樹は不快な笑い声を立てた。
「大樹よ、質問を許してほしいのだがね」
ゾナの言葉に、大樹は「どうぞ」と言った。
「ロミシュミルは、何者なのかね?」
『ロミシュミルは、旧時代唯一の生き残りよ。最後の暴君に懸想した浅ましい女ね』
「最後の暴君とは、ロミスの門番の事かね?その恋は叶ったのかね?」
『ロミス?あら、懐かしい名ね。そうよ。それから、恋が叶うはずもないでしょう?だって、わたしがここにいるんですもの』
「そもそも、君は誰なのかね?」
『ロミシュミルよ?正確には、旧時代に生きていたロミシュミルの記憶。あの女は、性懲りもなく、今度は世界の父に懸想していたわね』
翳りの大樹は、再び不快な笑い声を立てた。
「初代翳りの女帝は、風の王を狙っていたのかね?そうは見えなかったがね」
『あら、そう?』
「風の王に反旗を翻し、奥方に討たれたのだよ」
『それは王妃様に感謝しかないわね。巻き添えを食ったルッカサンは、とんだ貧乏くじね』
「そうかね?彼なら、毎日楽しくイリヨナ嬢の世話を甲斐甲斐しく焼いて見えるがね」
『無事なの?』
「もちろん」
『そう。よかったわ』
「あの、あなたはロミシュミルだと名乗ったけれど、ご自分が、その、嫌いなのですの?」
『そりゃね。ロミシュミルよりマシな人は、ごまんといたわ!なぜロミシュミルだったのよ?そのせいで、わたしはこんなところに閉じ込められてるのよ?』
「あなたは、本当は誰なのですの?」
『ロミシュミルだと言っているでしょう?』
「別の人のようですわ」
『子供をもうけ、命を繋いでいかないあなた達に理解できるかわからないけれど、わたしは産まれられなかったあの女の片割れよ。ロミシュミルは元々双子だった。わたしはあの女にすべてを搾取された妹よ』
「なるほど。では、君のことをロミシュミルでさえ、知らなかったということかね?」
『そうね。旧時代が滅び、この世界が産まれ、わたしはあの女からやっと別たれたわ。けれども。フフフ……わたしも浅ましい女の一部でしかないのね。解放されることはなかったわね』
「あなたは、ロミシュミルになりたかったのですの?」
『誰があんな女なんかに!』
「別の存在になれるとしたら、あなたは望むのですの?」
『望んでもなれないわよ。あの女はこの世界の肉体を得、わたしは得られなかった。それが答えでしょう?』
イリヨナはゾナを見た。
「先生」
「待ちたまえ。感情で動いてはいけないよ。それに、約束したとて叶えられないかもしれないではないか。ぬか喜びは、すでに裏切られた続ける彼女には酷ではないかね?」
「でも、私も、ロミシュミルの欠片から産まれたものですわ。姉妹のような気がしてしまって。私、あなたに何かしたいですわ!」
翳りの大樹に、イリヨナは自身の境遇を語った。
『そう。あなたもあの女のせいで傷ついたのね。けれどもその兄!なんなの!?』
「レイシ兄様も傷を負っているのですの……だから、仕方ないですわ」
『なんて甘ちゃんなの!?怒っていいわよ、あなたは!欠片を持っていたって、あなたはあなただわ!』
長い間ロミシュミルと混同されていた彼女には、イリヨナをロミシュミルと混同しているようなレイシが許せないらしい。イリヨナの知る誰よりも憤って見えた。
「ありがとうございます!そうやって、私の代わりに怒ってくれる人達がいますもの。イリヨナ、幸せですわ。あ、けれども私、やらかしているのですの。あ、あの……父様と母様を、その……猫に変えてしまいまして……解く術がないかと、あなたを訪ねたのですの」
『……』
大樹は黙ってしまった。顔が見えないというのは、こんなにも不安なものなのだとイリヨナは知った。
「あ、あの……?」
『……あなた……世界の父を……風の王を四つ足に変えたの?そんなに、嫌いだったの?』
鳥に化身する風の精霊にとって、四つ足の動物になることは屈辱だ。イリヨナも知っているそれは、闇の知識と呼ばれている大樹にとっても常識だったようだ。
「い、いいえ!大好きですの!で、でも……お見合いを持ちかけられてしまって……子供なのですの……父様の娘で、まだいたくて……」
『………………悪女ね……』
「返す言葉もございません……。あ、あの!魔法を解きたいのですの!」
『解きたい気持ちを込めて、魔法をかければいいのよ』
「え?あ、あの、それだけで……?」
『そうよ?変化の呪いは闇魔法よ。闇が、新たに産まれる命の形を決めていること、知ってるでしょう?』
「解けないのだがね?」
『心の理解が足りないのよ。そうね……『カエル王子』という話と『眠り姫』を読めばわかるわよ?』
彼女の声色からは、子供でもわかるわよ?と言いたげな感情を感じた。
「そんなことなんですか?」
片翼で、インファが肩に猫リティルを乗せて飛来した。
「インファ兄様!聞いていましたの?」
「ええ。ところでイリヨナ、カエル王子と眠り姫、知っていますか?」
2作品ともグロウタースでは有名な童話だ。しかし、イリヨナは眉尻を下げた。
「いいえ。知らないのですの……」
『ああ、読んでやらなかったかもな。図書室にねーか?』
猫リティルがインファの肩で喋ると、翳りの大樹がザワリと反応した。
『か、風の王!?ほ、本当に四つ足に……!』
『ああ?オレのこと、知ってるのかよ?』
『もちろんです!ああ……あなた様に会えるなんて……感激です!』
『ハハ、そうかよ。君ならオレを元に戻せるんじゃねーか?手本見せてやってくれよ。イリヨナは母さんで実践させるぜ?』
『ええ?わ、わたしがですか?……残念ならがわたしには、体がありません』
『作ればいいじゃねーか。作ってやろうか?』
「リティル、安請け合いをするものではないよ」
『何とかなるぜ?人型は無理だけどな』
『叶うなら、風の王様と同じ、猫になりたい……』
『いや、オレ、猫じゃねーよ。オオタカだぜ?』
『も、申し訳ありません!』
『はは、すげー低姿勢だな。君、本当にロミシュミルの関係者かよ?』
『お恥ずかしいです……』
「しかし、闇も旧時代に関係があったんですね」
『はい。ロミスの門の番人と共に、この世界の裏側を守っていくはずでした』
かしこまる翳りの大樹に、リティルは「敬語いらねーよ?」と笑い、彼女は恐縮しつつ、もとのしゃべり方に戻された。
「番人・オリュミスは、長らく錯乱状態でしたからね。ロミシュミルはそちらに引きずられたのではありませんか?」
『甘いです!あの女は、初めからああよ!……あの、ところでオリュミス、とは誰ですか?』
「ロミスの門の番人です。オレの息子が関わりまして、今は正気に戻っていますよ。旧時代の発音は聞き取れませんし、話せないので、呼び名をつけたんです」
『……羨ましい……』
『ハハ、つけてやろうか?名前』
「父さん、スカウトするなら、しっかりスカウトしてください。彼女にだまし討ちは必要ありませんよ?」
翳りの大樹に体があったなら、首を傾げているかもしれない間があった。
『君に、オレの娘の話し相手になってもらいてーんだ。あと、ルッカサンの補佐。あいつ、女王にも言わねーで、1人で抱えてることまだまだあるんだよ。闇の知識の君なら、助けてやれるんじゃねーか?ここにいる、理由があるのかよ?』
『理由なんて、ないわ。ただ、自由に動ける体がないだけ。わたしは、死者なの。大樹というけど、これはどう見ても墓標よね?旧時代の死者は、この世界でも死者でしかないのよ』
『じゃあ、決まりでいいよな?』
翳りの大樹は黙ってしまった。
「あなたの憂いはなんですか?」
『期待に、答えられない……自信ない……』
「風の王率いる風の城に、敵対しないのであればいいですよ?ここからは独り言ですが、あなたがいいえと言ってくれたほうが、オレとしては嬉しいですかね?イシュラースの王などと、15代目風の王を呼ぶ者もいますが、敵も多いんですよ。闇の精霊を掌握できれば、もう少し楽になるんですが」
「はあ……うちの副官は不穏な男なのだよ。闇の領域が治まりきらなければ、嬉々として介入することだろう。隠者の意見を言えば、闇は闇で運営した方がいい。この男の手には落ちない方がいいと、断言するがね」
『じょ、女王陛下がお許しになるのなら』
『ハハ!後ろ向きだな。イリヨナ、どうする?』
「お願いしたいですの!私が未熟なせいで、ルッカサンに頼ってもらえないのです……知恵をお貸しください!大樹様!」
『た、大樹様!?やめて!わたしが悪かったわ!だから、様なんてつけないで!イリヨナ。わたしイリヨナって呼ぶから、だからやめて!』
焦る大樹の声が聞こえたが、イリヨナは顔を上げなかった。
「私、すぐに落ち込んでしまうのですの。だから、そんな私を、諫めてほしいのですの。私が、光を失わないように、助けてほしいのですの!」
『わかったわ!わかったから、顔を上げて!友達になりましょう?ねえ、イリヨナ!』
やっと顔を上げたイリヨナは「はい!」と言って笑った。
『ツェル』
『何?』
『君の名前だよ。君は今から、翳りの大樹・ツェルだ。魂が弱いからな、今すぐには人型にはなれねーけど、精霊獣の姿で霊力を高めていけば、そのうち完全な精霊になれると思うぜ?』
『構わないわ!自由に動けるなら、幽霊でも構わないの!』
『はは、とりあえずは意識体だな。今のオレじゃそれが精一杯だ』
「意識体でも、王にかけられた魔法を解けますか?」
『ええ、それくらいは。でも、いいの?イリヨナがやらなくて』
「オレの友人の命がかかっているので、王妃にかけられた魔法だけでも解いてほしいんです」
『い、命?そんな切羽詰まってたの?ええと……王妃様を優先するわ!意識体じゃ霊力が足らないかもしれないから!……それでいい?風の王様?』
『リティルだよ』
『え?』
『オレの名は、リティルだ。よろしくな、ツェル!』
『!……こちらこそ!』
「父さん、オレがやります」
『へ?ダメだろ?おまえがやったら、翼がなくなるぜ?』
「あなたがやれば、昏倒しますよ?大丈夫です。ペオニサが解放されれば、使っていた霊力が戻ってきますから」
『……いや、やっぱりオレがやる。王と副官が2人揃って本調子じゃねーのは、マズいぜ』
「それは、そうですが……」
『なんか不安があるのかよ?』
「……ペオニサのことです」
『魔方陣が解ければ、太陽の城に戻れるだろ?あいつも一段落だな。おまえ、あんまり過保護にすると鬱陶しがられるぜ?あいつは対等の友達だろ?』
「……了解しました」
インファの憂いはわかる。太陽の城には、レイシとカルシエーナがいて、赤子に戻ったリフラク、そして、彼の相棒だった姉のチェリリがいる。ペオニサの平穏は、戻ってはいないのだ。
だが。とリティルは思う。ペオニサは、太陽の城へは戻らないのではないか?と。そのことに気がついていないようなインファに、こういうとこ抜けてるんだよな。と思ってしまったリティルだった。
『さあて!ツェル、意識体になったら風の王妃の魔法、解いてやってくれよな!』
インファの腕から飛び降りた猫リティルは、翳りの大樹の前にチョコンと座ると、金色の風を放った。
ペオニサは、風の城の応接間で書けない小説と向き合っていた。
「あなたもそんな顔するのね」
「………………え?そんな顔ってどんな顔?」
セリアの声で顔を上げると、彼女は物珍しそうにペオニサの顔を観察していた。セリアは、ペオニサが風の城に滞在するようになってから、ほぼずっと応接間にいる。
補佐官のインジュも、極力そばにいてくれるが、何かと忙しい。それは、執事のラスもしかりだった。けれども。と思う。ペオニサに危害を加えてきそうな者は、この城にはいない。そんな、きっちり守ってもらわなくてもいいような気が、している。が、別に不自由は感じていない。
「眉間にしわ、よってるわよ?」
「えっ!?そんなのよってた?ダメだなぁ。恋愛小説はデレデレして書かなくちゃ!」
セリアにはバレている。インファとペオニサをモデルにした純愛小説が、まったく進んでいないことを。今、平行して書いているのはインファとセリアをモデルにした、官能小説だ。そちらはすこぶる快調だった。
雷帝夫妻の馴れ初めは劇的だ。書かずにはいられなかったのだ。セリアには了解をとっているが、インファにはとっていない。セリアは「黙っとけばいいわよ」と言ったが、書き上がったらインジュを通して聞いてもらおうとは思っている。
「ねえ、アシュデルのこと、どうするの?」
彼がどこにいるのか。それはすでに判明していた。アシュデルは、イシュラースのもう半分である、常夜の国・ルキルースにいる。
ルキルースの統治者である幻夢帝・ルキが、森へ落下したアシュデルを拉致していたのだ。ルキがこんな行動に出たのは、ひとえに風の王と懇意だからだ。
あのとき、猫リティルはアシュデルと一緒に森へ落下した。一部始終をずっと監視していたルキは、リティルを助ける為に扉を開き、ルキルースへ招いていたのだった。そのあと、リティルは、リフラクとインファ達の間の少し頭上に、扉を開いてもらって舞い戻ったのだった。
「あいつにも、時間が必要じゃないかなぁ?今は……太陽の城には戻れないよ。オレも帰りづらいくらいだし」
「あなたは帰っちゃうの?」
「ええ?そりゃ、帰るでしょ!オレがいたら、インファが戻ってこられないよ!?」
「そうだけど。帰り辛いんでしょう?」
「面倒いけど、ただの兄弟喧嘩だよ。殺し合いになっちゃったのは痛かったけどさ」
「言っとくけど、ただじゃないわよ?それ。風のお城は空き部屋も多いし、顔合わせない方法あると思うわよ?」
どうしてこうグイグイ来るのだろうか。同じ屋根の下にいたら、絶対に事故る。事故って被害を被るのは彼女の夫なのに、いいというのだろうか?わ、話題変えないと!とペオニサは思った。
「やめてぇ!グラグラきちゃう!この城ってさ、居心地よくてダメになるよね」
「毒されてるわね。戦ってばっかりの城よ?この部屋でのほほんとしてるあなたは、風の城居候候補ね!いいじゃない。居着いちゃえば。リャリスだって殆ど部屋から出てこないのよ?」
「う、うーん……グロウタースでも点々としようかな……」
表向き、風以外の精霊がグロウタースと関わることは禁止されているが、なぜか花の精霊は黙認されていた。ペオニサは、インジュに引きずられてコッソリ縁結びしてから、インジュがくれる情報で未だに縁結びをしにグロウタースへ行っている。
小説をグロウタースに流し始める切っ掛けが、この出張縁結びだったのだ。
今ではペオニサは、自費出版するための会社を、まだ数個だがグロウタースの大陸ごとに置いている。ペオニサが女誑しであるという噂が広まってしまったのは、会社を置いている街で定期的に行っていた『宝城十華と語る会』だ。
内容は至って健全。ただ、恋愛について集まった人々と話すだけだ。運営してくれている会のスタッフ達――親衛隊と呼ばれている彼女達とも、恋愛に発展したことはまったくもってないのだった。なぜなら、会の掲げる鉄壁の掟に『宝城十華に触るべからず』『宝城十華に懸想すれば即脱退』というものがあるからだ。
「どうしてそうなるのよ!インファのこと好きなんでしょう?」
「好きだけどさ……インファが、友達だって、思ってたんだって知っちゃったからさ……」
「いいことじゃないの?」
「う、うん……もし、もしだよ?インファがさ、インジュやリティル様に向ける様な笑顔を向けてきたらさ、オレ、死んじゃうと思うんだよね」
「そんなの慣れるわよ!過呼吸何回か繰り返せば」
「慣れる前に息の根止まるよ!?あと、うっかり触っちゃったら、オレ溶けちゃう」
「その気持ち、すっごくわかる!でも大丈夫よ。溶けないから」
力強く同意したセリアが力強く言い切った。
「経験者は語る。すげぇ説得力!……うーん、これがたぶん、一番大きいかなぁ?オレさ、インファの弱みになっちゃうよね?実際さ、兄貴に利用されちゃったし」
「ウジウジしてるわね。気持ちはすっごくわかるけど、インファが本気になったら逃げられないから、今のうちに捕まる覚悟しておいたほうがいいわよ?」
セリアは乗り出した背をソファーに戻した。
「オレ、逃げるのは得意よ?セリアと違って、追いかけられる理由ないしさ」
「そう?インファってね、面と向かって綺麗って言われたことないのよ。自分が美形なことはよく知ってるけど。あんまり男の人に、綺麗なんて、使わないわよね」
「言われて気分よかったってこと?」
「インファにそういう言葉使って近づいてくるのは、みんな下心があるから、警戒してたんじゃないかしら?あなた、めげずに顔会わせると毎回綺麗だって言ってたらしいじゃない?それがいきなり言われなくなったって、何か企んでるのか?って言ってた時あったのよね」
「あれは!インジュとラスが、いい加減やめたほうがいいって言うからだよ!オレもさすがに嫌がらせだって思ってたからさ、我慢したんだよ!」
ダメだダメだと思っていても、インファを目の前にすると言わずにはいられない。あの美を、愛でずして何を愛でるのか!?状態だ。
「警戒してたのに、あなたに、言いたいこと言えって言っちゃったって、笑ってたわね。どうして?って聞いたら、なんて言ったと思う?」
「え?……えっと、想像がつかない……」
「あなたが何も言わないと、物足りないんですって!インファは、下心に敏感だから、何もないこととっくに見抜いてたのよ。ねえ、どうして下心ないの?インファの事、好きよね?」
「下心、ありまくりだよ?オレさ、インファのあの容姿が滅茶苦茶好きなんだよね!もおさぁ、愛でないとやってられないくらいめっちゃ好き。それでさ、綺麗だっていうと、もの凄い笑顔で辛辣に返してくるのがもお、たまんないよね!何してても、ホント座ってるだけでいいなんて、すげぇ!あの人何?あー愛でたいっ!」
「それだけ?」
「え?それ以外なんかある?」
天井を仰いで叫んだペオニサは、キョトンとセリアに視線を戻した。
「ほしいとか、返してもらいたいとか、そういうことよ?あなた、容姿を褒めるばっかりじゃない」
「ほしいっていうのは、心とか体のことだよね?それはないなぁ。インファっていう存在を、外から愛でられたら、オレ、それで満足なんだ。それ以上、インファに求めることなんてないよ。あ、契約破棄して、鏡から覗くのはどうかなぁ。それなら、万が一インファに気がつかれても、責は負わなくてすむよね?」
「病んでるわ……見てるだけでいいなんて。でも、そういう所なのかしらね。インファは求められてばっかりだから、何も期待しないあなたに安心してたのかもね。あなたが来ると、場が華やかになるって言ってたわ」
「華やかさなら、インジュがいるじゃない」
「あの子は作りすぎよ!」
「あっはは、言えてるー。セリア、ありがと。でもさオレにも、向き合う時間が必要なんだ。ちゃんと契約破棄して、インファに会いに来るよ。いつになるかわからないけど」
これ、嘘だわ。セリアは吹っ切れたように笑うペオニサが、契約破棄してもインファの前には二度と立たないつもりだと、なんとなく察した。
嫌だわ。こんなところまでわたしと似てるなんて。セリアもインファから、隣に立つ自信のなさから逃げた過去がある。追いかけてきたインファに、ウジウジ隣にいたくない理由を並べ立て、それを論破され、セリアは捕まった。
インファは、ペオニサを手に入れようとするだろうか。
軽口ばかりではぐらかすが、話は合うと思うとセリアは感じていた。
頼れる者はいるが、インファには対等な立場の同性の友人がいない。
ノインは親友という枠なのだろうが、彼は家族だ。副官として、ノインの力をあてにし利用する。ノインには、当てにされる力も利用価値もあるが、ペオニサにはないような気がする。
イリヨナに剣を教えるくらいだから、それなりに戦えるのだろうが、風の城の者で事足りるのだ、彼の手を借りることはまずあり得ないだろう。
利用価値のない、家族以外のペオニサは、インファにとって価値のある者なのだろうか。ペオニサが気後れして、距離を取ろうとするのはきっと、そういうことなのだろう。理解できるが、インジュやラスとは利害のない友人をやっているのに、インファとは築けないとは少し、いやかなりインファが不憫に思えた。
何とか――とは思うが、外野が何をしても言っても、当の本人達にその気がないのなら無意味だ。
それでもと、口を開きかけたセリアは不意に、何もないホールのような空間に、ゲートが開くのを感じた。ペオニサも気がついたようで、身構えるように腰を上げていた。
「お姉様!」
ゲートを越えてやってきたのは、イリヨナだった。
腕にグッタリした黄色い猫を抱いている。セリアとペオニサが駆け寄るより早く、白い猫が駆け出していた。シェラの様子から、リティルの身に何かがあったことだけは、2人察した。
「母様、父様は大丈夫ですの。変化の魔法を解ける、この、ツェルに力を与えてしまったために、その……少し霊力を失ってしまっただけで……」
申し訳なさそうにイリヨナが膝を折ると、シェラはすぐさま眠るリティルの顔を覗き込んでいた。呼吸は正常だが、かなり弱っていることが、ペオニサにもわかった。
「リティル様がそんなになってるってことは……インファ、無事!?」
勢いよくイリヨナの前に座り込んできたペオニサに、一度驚いたように目を丸くしたイリヨナだったが、次の瞬間怒りだした。
「父様のこんな姿を見ても、兄様の心配なんて、ペオニサ……どれだけ兄様しか見えていないんですの!?」
「いや、違うくて!だってさ!インファなら、リティル様がこうなることわかっててやらせないでしょ!?」
「父様が!王と副官が同時に動けなくなるのはダメだって言ったのですの!」
ということは、インファは無事?とペオニサとセリアが思った時だった。
『申し訳ありません。わたしのせいで』
座り込んだイリヨナの後ろから、スルリと庇うように現れたのは、半透明な闇色をした豹だった。
『わたしは、翳りの大樹・ツェルです。わたしの説明は後ほど。王妃様、リティル様より変化の魔法を解くように言われてここへ来ました』
「リティル様は解けなかったの?」
『わたしは、現在精霊獣の意識体という身の上です。一度力を使えばしばらく使えません。ペオニサというのはあなた?風のお2人は、あなたを癒やせる王妃様を先に戻してほしいと、わたしに願ったのです』
「オレ?嘘ぉ……まだ守られてたのか……」
背中の魔方陣は浴室の鏡で見てみたが、インファが完全に魔法を封じてくれていて、なんの危機感も、今現在も感じていない。しかし、風の王がなけなしの霊力を賭けて、このツェルという精霊獣の意識体を寄越してまでシェラの魔法を解くことを優先させたのは、現在進行形で命が危機にさらされているからだ。そんなことにも気がつけずに、のほほんと過ごしていたことに今やっと気がついて愕然とした。
「気にしない方がいいわよ?リティル様もインファも、もっといえば風四天王はそんなこと日常茶飯事なの。もっとも、そんな日常をあなたに知られたくなかったでしょうね。ねえ、ペオニサ、インファの事はともかく、インジュとラスの事は避けないであげて」
セリアはペオニサを慰めてはみたものの、巻き込まれたペオニサが本当に不憫だなと思う。
インファのかけた魔法は本当に隙がなくて、セリアでさえインジュに「何かの拍子ってこともあるんで、ボクがいない間はお母さん、お願いしますよぉ?」と頼まれていなかったらペオニサと同じように楽観視していただろう。
命の危険という状況で、精神をすり減らさないようにというインファの優しさが、図太くなれないペオニサを傷つける。本当に、上手くいかない。
慰めてくれたセリアに、ペオニサは力なく困ったように笑った。
「………………なんで、言ってくれなかった?って言っちゃいそう……答えなんて、わかりきってるのにさ……」
頽れるように力なくイリヨナの前で項垂れたペオニサの膝に、白い小さな手がそっと置かれた。視線を合わせると、白い猫がジッとペオニサの情けない瞳を見上げていた。何か言いたげな瞳だったが、今のシェラは、言葉を発することはできなかった。
『シェラ様、魔法を解きます』
重くなる空気に、見かねたのかもしれない。ツェルは簡潔にそう提案してきた。シェラに異論があるはずもなく、ペオニサの膝から小さな前足が外された。
皆が見守る中、半透明な豹の前に進み出た白い猫は、前足を立て尻を床に下ろして座ったのだった。
『カエル王子』と『眠り姫』。
イリヨナは、自分の理想とする翳りの女帝となるために、創作の物語を殆ど読んでこなかった。ペオニサの書く小説を読んでいたのは、幼少期、彼がアシュデルを連れてくるとイリヨナ達の勉強する同じ部屋で執筆していたからだ。
知っている人が書いた本とあって、興味が湧いたのだ。それでも読み始めたのは成人後だったが。故に、ツェルが例えに出すほど一般的だと思われるその2つの物語を、イリヨナは知らなかった。
今、白猫と半透明な豹を見守るペオニサは、2つの物語を知っているだろうか。彼ならば2つの物語に魔法を解くヒントがあると伝えれば、即解く方法がわかるような気がした。
アシュデルを、ペオニサなら救える気がした。
所在は知れているが、連絡をよこさない彼は今、何を思っているのだろうか。
連絡できない私は、アシュデルとどうなりたいのですの?イリヨナはなぜだか、アシュデルのことばかり考えてしまっていた。
ツェルの魔法は、一瞬だった。
白猫と同じように座った彼女は、見上げる白猫の額にそっと口づけを落とすように触れたのだ。それだけだった。
白い粒のような光が瞬いたかと思うと、光が伸び上がり、彼女の青い光を返す黒髪がフワリと空に踊りそして背中に滑り落ちた。
「母様……」
つぶやきを拾い、紅茶色の大きめな瞳が放心するようなイリヨナに合わさった。
「イリヨナ、よく頑張ったわね」
柔らかく花の綻ぶような笑顔を浮かべたシェラの胸に、イリヨナはたまらずリティルを抱いたまま飛び込んでいた。
「母様!母様……!」
当然の様に抱きしめ返してくれて、頭を撫でてくれるシェラに、魔法が解けたら言わなければと思っていたすべてが、涙に流れてしまった。
「いいのよ、イリヨナ。あなたが背負うことではないの。今はまだ、難しいことなのかもしれないけれど、あなたはあなたを生きればいいのよ?」
「でも、母様……!レイシ兄様は……」
泣きながら、兄を案じるイリヨナに、シェラは困ったように微笑んだ。母親として、シェラには答えようがないように、セリアには見えた。
「レイシか。オレも嫌われてたなぁ」
あら、立ち直った?とセリアがペオニサを見上げると、彼は腕を組んでうんうんと頷いていた。
「ツンケンして敵意剥き出しでさ、ホント怖いよね。好んで会いたい相手じゃないなぁ。インジュとラスがいなかったら、オレ、とっくに排除されてたなぁ。でもさあ、しかたないよね?オレはどう見ても、インファに嫌われてたし、レイシは、インファやリティル様のこと、好きだからね。レイシの反応、オレは悪くないと思うよ」
「あら、レイシの肩持っちゃうの?」
「持ってないよ。見たままを言っただけ。まあ怖いけどさ、レイシに睨まれたってインジュとラスには会いたいし、インファを愛でたいわけよ。小説でいえば、宝城十華はそこそこ売れてるよ?でもさ、いつでも好きですってファンレターもらうわけじゃないわけ。嫌いだって言ってくるヤツもいるんだ。そうだとしても、オレは宝城十華をやめない。それでいいって話」
「ドライね。でも、インファがあなたを嫌いだって言ったら?」
「とりあえず泣く!それで落ち込む。けど、立ち直ったらまた、綺麗だって言っちゃってるかな?好きな人には嫌われたくないけどさ、たぶん変われない。あ、一応努力はしたか。インファが言いたいことあるなら言えって言ってきたのってさ、オレが盗み見るのが気色悪かったからじゃないかなぁ?」
急に後ろ向きね。セリアは呆れた。
「とっくに好かれてたからよ!」
「あっはは。オレはずっと嫌われてると思ってたよ。だからさ、わかんないもんなんだって、面と向かってても腹の内なんてさ。この場合さ、レイシが好きなら、まずはありのままのレイシを見ないとね。うーん、レイシはなんかトラウマあるんだっけ?だと、好かれるのは難しいのかなぁ。嫌われたままでもいい覚悟がいるかもね」
「嫌われたままでもいい覚悟?」
セリアとペオニサの会話を聞いていたらしいイリヨナが、シェラに眠るリティルを託していつの間にかそばに来ていた。
「そ、嫌われたままでもいい覚悟。好きだって意思表示した上で、自分からは関わらないんだ。嫌われてる相手に、こっちからは何も求めちゃいけないからね」
「あの、ペオニサ」
「うん、なにかな?」
「インファ兄様に好かれているってわかった今、兄様に何か求めたりしますの?」
イリヨナの言葉に、ペオニサはあからさまに動揺した。
「んん?ええ?ちょっと待って!なんでそこでインファ?」
「ペオニサの理屈では、インファ兄様はペオニサを嫌ってる相手だったから、何も求めなかったということではないのですの?」
「えっ!えっと……そ、そうだね」
ペオニサは、どんどん動揺していっている様子だが、大丈夫だろうか?セリアは固唾を飲んで見守った。
「兄様は、ペオニサと友達でいたかったって言っていましたの!ペオニサは、兄様に何も望まないんですの?」
「え?えええ?嘘ぉ……。あ、インファって思ってても言わない人だよね?あ、危ない……騙されるところだった……」
危ない危ないと、ペオニサの仕草は演技がかっていた。
「本当ですの!だから余計に、あの小説はどういうつもりだ?って。兄様拗れてしまって、それで、父様と変な賭けをしてしまったのですの!」
「ちょっと待って!あの小説?あの小説って!?あの小説!?」
ペオニサの動揺は限界を超えた。
『ハハ、ペオニサ、おまえ、結末どうしたいんだよ?なあ?牡丹ちゃん』
シェラに霊力を補充してもらったらしい。目を覚ました猫リティルが、シェラの腕から降りてトコトコとやってきた。セリアは「あら、リティル様喋れるの?」とそこに反応していたが、ペオニサはそれどころではなかった。
「わあああああ!あれは!オレ、どう頑張っても恋愛小説になっちゃうわけ!同性のまま書いたらヤバイ展開になるのは目に見えてたから男女にしただけで、深い意味はないんだって!」
『あのセリフ、まだ使うのかよ?わたしが消えるとしても~ってヤツ』
猫でなかったら、きっと意地悪な顔で笑っているだろうなと、セリアは思った。
「えええ!?なんで知ってるの!?あ、あれはその……もう使えないっていうか……オレ、助かっちゃったからね」
「リティル様、リティル様、この人、続きが書けないのよ」
すかさずセリアは目の前で密告した。
『なんだよ、そうなのかよ?なあ、ペオニサ、おまえ、どっちがいい?』
「どっちって、何?悪い予感しかしないんだけど」
ダラダラと冷や汗をかきそうな顔をして、ペオニサは引きつりながらも問うた。
『インファとな、賭けしたんだよ。おまえが契約破棄してインファに会いに来るかどうかってな』
「うん?」
『あいつは、おまえが破棄できない方に賭けたんだ。あいつが勝ったら1ヶ月休暇やることになってるぜ』
「そ……うなんだ……」
『で、オレが勝ったら、インファからおまえにキスしてやれって言っといた』
「えっ?ええっ!?」
『インファが勝ったら1ヶ月休暇ってヤツな、契約破棄するのにそれくらいかかるって事だぜ?つまりな、おまえが解けても解けなくても、インファは契約破棄するつもりだって事だぜ?』
「あ?え?」
混乱するペオニサは分かっていないかもしれない。だが結局のところ、契約がなくなるということは、インファとペオニサの間に障害はなくなるということだ。ペオニサが契約破棄できなかったらインファが解くといった時点で、インファにはペオニサの友人をやめる気はないという意思表示だ。
『おまえ、どっちの結末がいい?』
「ま、待って待って、二択なの?」
『なんだよ?乗らねーのかよ?インファは2つ返事で乗ってきたぜ?』
「インファが?……いやいやいや!あの人ノーマルでしょ!セリアいるし!はああ、危うく騙されるところ――どしたの?イリヨナちゃん」
イリヨナが微妙な顔でペオニサを見つめていた。
「いえ、その……兄様、本当に2つ返事だったのですの」
「!!??!!」
ペオニサが、イリヨナの神妙な言葉に青くなったり赤くなったりしながら絶句して固まった頃、苦笑したシェラが助け船を出してくれた。
「ペオニサ、そろそろあなたの治療をしたいのだけれど?」
「あ、はい、おねがいします」
棒読みでシェラに導かれて、フラフラ部屋を出て行くペオニサと、そんな彼を心配して付き添っていくイリヨナとツェルを見送って、セリアが眉根を潜めた。
「リティル様、インファはともかく、ペオニサをあんまり虐めちゃダメよ?今ちょっと、デリケートなんだから」
よいしょっと猫リティル抱き上げると、セリアはその額をダメよ?と言うようにちょんっと小突いた。
『おまえ、ツッコまねーのな』
「賭けの話?どうせ額でしょう?風の精霊の祝福よね?それとも、友情かしら?いいじゃない。あげればいいわ」
ツンッと顔をそらしながら、セリアはソファーに腰掛けた。
『はは、おまえ、最強だな』
膝に下ろされたリティルは、寂しげな笑みを浮かべるセリアを見上げた。
「インファが望むなら、なんでも叶えてあげたいのよ。ペオニサはきっと、必要な人なのよ」
『帰ってくるぜ?』
「そう。愛妻をほったらかした、埋め合わせしてもらわないとね」
帰ってきたら、うんと慰めてあげなくっちゃね。セリアは、明るく笑ったのだった。
その夜、シェラとリティルは久々に風の城の寝室で寝ることができた。
リティルはまだ、猫のままだったが、ベッドで眠るシェラの足下で布団の上に丸くなっていた。
彼の来訪には、すぐに気がついた。いや、気づかされたというべきだった。
『おまえのほうから、来るとは思わなかったぜ?』
闇の中、背の高い男の影が、部屋の中に立っていた。シェラは目を覚まさない。おそらく、いくら騒いでも城の者が起きることはないのだろう。
「そんな恩知らずじゃないつもりだよ。リティル様、お別れを言いに来たんだ」
リティルはトンッとベッドから降りて、その近づいてこない彼に近づいた。だが、最後までは近づかなかった。リティルは、半分開けたままになっていたカーテンの隙間から落ちる月明かりの中に座った。
『ペオニサには言ったのかよ?今日はまだ、この城にいるぜ?』
「兄さんに言えば、あの人はついてきてしまう。兄さんは、居場所を見つけた。あの人から幸せを奪うことはボクにはできない。あの人だけは、幸せになってほしいから」
『おまえの幸せも、願わねーとダメだぜ?オレは、おまえを不幸にしたくて助けたわけじゃねーんだからな』
闇の中で、彼からかすかな動揺が伝わってきた。リティルは小さくため息を付いた。
『イリヨナじゃダメなのか?あいつは、おまえが来るのを待ってるぜ?』
「ボクは……いけない」
『姿のことか?だったら、何の問題もないぜ?』
「異形だった方が、まだよかったかもしれない」
意を決したように、気配が近づいてきた。彼の姿が、月明かりの中に晒された。
身長は190を超えているだろうか。背の高い彼が、月明かりの中リティルの前に跪いた。左手に分厚い魔導書を開き、大きな右手がリティルの頭にゆっくりと触れた。
長い髪の影になっているその顔は、異形ではなかった。
「リティル様、ありがとう。これは、ボクの感謝の気持ちです」
闇の力を感じた。ブワッと金色の風がリティルから放たれ、リティルの姿は猫から人の姿に戻っていた。
「さすが、大賢者の弟子だな。その姿も、妥当じゃねーか?なあ、おまえの恐れはなんだよ?」
リティルの変化の魔法は、一瞬で解かれていた。座り込んだまま、リティルはミモザの精霊・アシュデルの顔を見上げた。
モノクルの奥の、目つきの悪い深い綺麗な緑色の瞳は、外見の年相応に知的に落ち着いていた。彼の自信のなさの表れなのか、襟足で束ねられた長い髪の一部が結わえきれずに、顔にかかっていた。
外見年齢は四十代。そう見えた。
「イリヨナが……好きだから、彼女の答えが怖い」
「そんなの、会ってみなけりゃわからねーじゃねーか。おまえ、外見だけならイケてるぜ?」
花の精霊は花の精霊だ。二十代の若々しい外見でなくとも、美形は美形だ。あのちびっ子のアシュデルが、こんな色気のある中年になるとは思わなかった。そういう意味では、イリヨナは度肝を抜かれるだろう。
娘の好みはわからないが、美形だけなら見慣れている。その中でも、今のアシュデルは彼女の周りにいなかったタイプだ。どんな反応を示すのか、リティルでは想像すらつかなかった。
「すぐに行けとは言わねーよ。けどな、いつかは会ってやってくれよな」
アシュデルは言葉なく頷いた。そして、立ち上がると背後の暗闇に吸い込まれるようにして、静かに去った。
この夜を最後に、ミモザの精霊・アシュデルは、姿を消してしまったのだった。




