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二章 死の淵に咲く牡丹


 宝石の精霊・蛍石のセリアは、風の城の応接間に置かれた、虹色の檻を見つめていた。

その中には、馬、としか言いようのない顔をした花の精霊が囚われていた。項垂れて、卵形の壁に身を預けて微動だにしない彼は、言葉を発することができない。

あの時、セリアが力の精霊・ノインと魔物狩りから戻ると、この彼――アシュデルとレイシとカルシエーナが戦っている場面に遭遇したのだ。

「兄さんを、兄さんをなぜ殺した!」

これは現実なのだろうか。応接間への扉を開くと、猫背の馬面の化け物が、涙を流しながら大地の魔法を連発していた。

彼の様子は危機迫るモノがあったが、それに気圧されるレイシとカルシエーナではないはずだ。しかし2人は、普段の様子とはまるで違い、戸惑い、冷静な判断はできていないように見えた。

「何をしている?」

ズイッとセリアの隣で気配が動いた。

濡羽色の短い髪の、額から鼻までを仮面で覆った、ミステリアスで落ち着いた彼――力の精霊・ノインは、ため息交じりに鞘から抜かない黒塗りの大剣を軽く振るった。陽炎を纏った、艶やかな黒い波が、化け物とレイシ達を隔てていた。

「セリア」

ノインが、隣で唖然としていたピンク色の髪の儚げな美人に声をかけた。セリアは、ビクッと我に返ると、緑と青の瞳でキッと前を睨むと、宝石の煌めきを放っていた。彼女の背に、幻のように金でできた翅脈だけのアゲハチョウの羽根が現れて、魔法の発動とともに消えていった。そうして化け物を檻の中に捕らえた。

「何事だ?」

ノインは、その切れ長な瞳に剣呑な光を灯して、詰問するように床に崩れるように座り込んだレイシに問うた。ノインが尋問するような口調で、レイシと話している間、セリアは自身が作り出した檻の前へ立っていた。

 中にいるのは、精霊だろうか?精霊獣……が喋るなんて、聞いたことない。これは、化身の姿?それにしては、人型すぎる。化身に失敗する精霊なんているのかしら?セリアの疑問は尽きなかった。

「あなたは、雷帝妃?」

馬面が顔を上げた。

「ええ、雷帝・インファの妃よ。セリア。あなた誰?」

「アシュデル」

怒りは感じたが、もう暴れる素振りはなかった。それよりも、セリアは衝撃を受けて、言葉を失っていた。

だって、彼が名乗った名は――

「へえ、生き残ったのか」

つぶやきだったのだろうか。セリアは咄嗟に、なぜこんな行動になってしまったのかわからないが、大鏡から出てきた人物と、檻との間に立っていた。

侵入してきた彼は、フワフワした肩までの長さの髪を揺らして、ニコッと一瞬で警戒心を剥ぎ取る笑みを浮かべた。しかし、セリアは警戒した。

彼を知っていたからだ。

「今取り込み中なの、出直してくれる?」

セリアの素っ気ない態度に、フリージアの精霊・リフラクは肩をすくめた。

「弟を連れ戻しにきただけだよぉ。騒がせて悪かったね」

リフラクは、至極真っ当なことを言った。

「いや、彼はこの城で戦闘行為をした。いかに花の王・ジュールの息子だとしても、渡すわけにはいかない」

こちらも至極真っ当だ。割って入ったノインと、リフラクはしばし睨み合った。両者の表情はそれとはまるでかけ離れ、穏やかその者だったが、セリアには飛び交う火花が見えるようだった。

折れたのは、リフラクだった。

「そうだねぇ。わかったよ。彼は一時風の城に預けるよぉ。父上にもそう伝える」

彼はアッサリ退いた。

「ああ、でも、こちらからも枷を嵌めさせてもらうよぉ?」

「ぐ……!がっ!」

スッと檻の中のアシュデルに手の平を向けると、アシュデルが喉をかきむしるようにして苦しみだした。

「ちょっと!何するのよ!」

檻を解くわけにもいかないセリアは、アシュデルが何か魔法をかけられる様を見ているしかなかった。

「大丈夫。命に別状ないからねぇ」

リフラクはそういうと、どこか狂気の宿った瞳で笑うと去って行った。

アシュデルは、声に魔法をかけられ、喋ることができなくなっていたのだった。

 それから、リフラクの手中だった。

太陽の城から、イシュラース中に向かって声明が出されたのだ。

内容はこうだ。

ミモザの精霊・アシュデルが、魔物を故意に凶暴化巨大化させ、それをグロウタースに流出。風の精霊とグロウタースを危険に晒したあげく、翳りの女帝・イリヨナと牡丹の精霊・ペオニサを暗殺。両者の生死は不明。その罪を、翳りの女帝と確執のあった蒼の獣王・レイシと破壊の精霊・カルシエーナに着せようとした。なお、風の王夫妻の失踪にも関与している。

アシュデルの花の精霊とは思われない異形の姿を、空に映し出すというオマケ付きで。 

「太陽の城からの発表じゃ、みんな信じちゃうわね……」

セリアは呟いた。

この応接間で何があったのか。セリアはすぐさま、常夜の国・ルキルースに赴いて、記憶の精霊から記憶を見せてもらった。その記憶は、黄色い蛍石に封じて持って帰ってきている。もうすぐ帰って来るはずのインファに見せる為だ。

コンコン。小さな音に顔を上げると、檻の中で、アシュデルがこちらを見ていた。音は、彼が床を指で叩いた音だったのだ。

何?と見ていると、彼が空中に人差し指を滑らせた。その軌道に緑色の光が灯りながら消えていく。

文字?それに気がついたセリアは額がつくくらい、檻の壁に顔を寄せた。

文字は、霊語と呼ばれている精霊の文字だった。すでに失われて久しい言語だったが、セリアは創世の時代から生きている古参の精霊だ。知識として持っていた。

しかし、反転していることと、すぐに消えてしまうことで、解読は難解だった。

「ペ……オ……ニ……サ……?ペオニサ?」

やっと読み取った4文字を繰り返すと、アシュデルは頷いた。そして、先ほどとは違う文字を綴り出す。

「さ…………が……し………………て。捜して?捜してるわ。でも、ペオニサは……あの傷じゃ……」

記憶を見たセリアは、ペオニサの背中の怪我に気がついていた。何事も茶化して真面目にやらない彼が見せた、本気の顔だった。「逃げ足だけは速いよ?」と笑っていた彼は、本当に逃げ足が速かった。

たった一言、ラスとリティルの名を呼んだだけで、ラスとイリヨナと猫2匹を連れて逃げてしまった。そして彼等は今、行方不明だ。

ノインが闇の城と連絡をとると、ルッカサンが嘘をついている可能性大だが「闇の城も女王陛下の行方を捜しております」と言った。そして、それきり闇の城は沈黙している。おそらく、3人と2匹は行動を共にしている。ペオニサが生きているならだ。

俯いたセリアは、コンコンという音を再び聞いて、顔を上げた。見れば、アシュデルが再び文字を書いていた。

「い…………き……………………て……る。生きてる?知ってるの?」

アシュデルは首を横に振った。願望なのだ。「兄さんは生きてる!」と信じたいのだ。それを感じて、セリアは目頭が熱くなってしまった。

「セリア」

涙ぐんでいたセリアは、急に声をかけられ、慌てて振り向いた。

「……大丈夫か?」

ノインは、アシュデルに何かされたと思ったのだろうか、眉根を潜め気遣ってきた。

「ち、違うの。ちょっと、ペオニサのこと思い出して。どうしたの?」

「ああ、インファと交代でグロウタースへ行くことになった」

「そう」

「どこに監視の目があるか、わからない。そこで一計を案じる」

「?」

「リティルはなかなかに策士だな」

ノインはスッと手の平を開いて見せた。見れば、彼の手の平には、鏡の首飾りが乗っていた。「これ!」とセリアが顔を上げると、ノインは頷いた。

「ああ。ナーガニアの鏡だ。リティルはペオニサと逃亡したとき、これを置いていってくれた」

風の城の内部は、リフラクでは監視することはできない。というか、事が起こった時、すぐさまインファに連絡すると、インジュが嫌そうな顔で「あそこと、あそこ、徹底的に探してみてくださいよぉ。監視とか盗聴の類いがあるなら、きっとそこです!」と言った。

城の住人全員を使って、応接間を調べると、確かに力の痕跡があり、ノインは徹底的に掃除したあと、大鏡を封じた。現在、太陽の城とは行き来はできない状態だ。

「一計って何?」

ナーガニアの鏡にはゲートが仕込まれている。それを使ってゲートである神樹を経由しないでグロウタースへ行くことはわかったが、それは一計と言うほどのものではない。

ノインはフッと笑った。

そして、仮面を外すと、瞳を閉じた。

彼の姿が変わっていく。髪が伸び、下から金色に染まっていった。それに伴い、濡羽色だった翼も金色に染まった。

瞳を開いた、彼の切れ長な瞳も金色だった。

「どうだ?遠目ならば、インファに見えるだろう?」

長い髪をインファと同じ、肩甲骨のあたりから緩く三つ編みに結いながら、ノインはイタズラっぽく笑った。

存在的にリティルの兄であるノインは、リティルの父である14代目風の王・インと瓜二つの容姿をしている。インファは、インよりも年が若く少しだけ背が低いが、よく似た面立ちをしているのだった。

「入れ替わるの?じゃあ、インファがノイン?」

「そうなる。彼なら完璧に演じるだろう」

皆には内緒に。そう言ってインファの服に身を包んだノインは、グロウタースへ向かった。

 しばらくすると、ノインが帰ってきた。

「ただいま」

セリアは笑いたいのを堪えた。声色まで似せられるなんて、さすがはプロの歌手をしていただけのことはあるってこと?と思ってしまった。

「おかえりなさい。……ノイン……ウフフフ」

「ばらさないでくださいよ?さて、欺いてやりますか」

ノインは、インファの声で囁くと苦笑した。

「ええ。でも、何するの?」

ノインに扮したインファは、イタズラを思い付いた子供のような瞳で笑った。そして、ノインの口調でこう言った。

「そうだな。手始めに、アシュデルには死んでもらう」

檻の中で、アシュデルが顔を上げた。


 ズル、ズル、と彼はベッドの上を這い、ついに床に落っこちた。そこへ、様子を見に来た幼い男の子が偶然扉を開いた。

「軽薄男!大丈夫?」

タタタタッと駆けてきた小さな手を、さすがに振り払えずにペオニサは恨めしげに彼を見上げた。

「君、タイミングよすぎ……」

ペオニサは、上半身裸なうえ包帯を巻かれていた。

「逃げようとしたの?ダメだよ?シェラ様のおかげで生きてるけど、まだ怪我治ってないんだから」

腕組みする男の子を見上げながら、ペオニサは体を起こそうとした。

「うん……それは背中が痛いからわかる。じゃなくて!オレ、行かないと――うぎゃあ!」

再び動こうとしたペオニサの背中を、翳りの女帝の従者、月影の精霊・ロロンはペシンッと叩いた。途端にペオニサは、情けない悲鳴を上げて蹲った。

「無理だよ。ラスと猫リティルに任せた方がいいって!」

うう……と呻くペオニサの背中に巻かれた包帯が、じわっと血に染まった。

あの虫ピンには、何か魔法が仕込まれていた。死へ向かう魔法だと言うことは、駆けつけてくれたルッカサンが教えてくれたが、解き方がわからなかった。猫にされたシェラだったが、力までは封じられてはいなかった。力は大幅に抑えられてしまったが、死へ突き進むペオニサの命を食い止めた。

16代目花の姫・シェラは、歴代1癒やしの力の強い姫なのだ。その力は、致命傷も癒やしてしまう。しかし、虫ピンから注ぎ込まれたリフラクの魔力を取り除くことはできず、ペオニサは、血を吐き出し続ける傷を抱えることとなってしまった。

「おや、あなたも男の子なのですなぁ」

開きっぱなしだった扉から、ルッカサンが白い猫を抱いて入ってきた。

白猫のシェラはトンッとルッカサンの腕から降りると、タタッとペオニサに駆け寄ってきた。そして、小さな手をポンッと蹲るその肩に触れた。フワッと優しい白い光がペオニサの背に灯った。苦痛が消え、ペオニサは顔を上げた。

「シェラ……様……」

泣きそうなペオニサの頬を、白猫はペロリと舐めた。

「わわ!リティル様に殺される!」

慌てて身を起こしたペオニサは、途端に痛みに襲われてガクッと突っ伏して、痛みを堪えて小刻みに震えた。

「大丈夫でございます。ペオニサ様」

ルッカサンがペオニサの前に膝を折り、落ち着いた普段通りの口調で言った。

「何がどう、大丈夫だって……?このままじゃ、責任取らされてアシュデルが処刑される!風の城も、インファもここまで大事になっちゃったら、太陽の城も認めてる罪人を殺すしかなくなるじゃないか!」

太陽の城は、アシュデルの罪を認め、裁きを風の城に委ねると声明を出した。

しかし、風の王は失踪中。副官、補佐官はグロウタース。今風の城の実権は、風の王・リティルの兄で、補佐官指南役の力の精霊・ノインが握っている。

ノインは、インファの指示だとして、アシュデルの処刑を決めた。

その決定が、インファの指示だとしているノインの言は、眉唾だとペオニサは思っていた。

ノインは、リティルや風の城の住人以外には冷たいところがある。面倒見がいいという評価だが、彼が面倒見がいいのには思惑がちゃんとある。

リティルの為だ。リティルに被害が及ばないように、彼は常に動いている。

あの姿まで晒され、風の城で戦闘行為を行ってしまったことは真実であるアシュデルを、彼が庇ってくれるとは思えない。それよりも、風の城が機能不全を起こしていないことを示す意味でも、迅速に動くことは重要だ。風の城預かりとなってるアシュデルの処遇を、さっさと決めて事態の終息をはかる。手っ取り早い方法は、吊し上げられたアシュデルの処刑だ。この戦い、リフラクに負けたのだ。彼は、インファが帰って来る前に決着をつけたのだ。

 あの時、イリヨナが風の城で兄妹達と争いになった時、ペオニサにそれを伝えに来てくれたのは、姉のチェリリだった。戦場の詳しい状況付きで。

レイシがやらかした!と何とかイリヨナを逃がさないとと、風の城へ向かおうとしたペオニサは、姿見の間で、背後からリフラクに襲われたのだ。兄は、風の城で兄妹喧嘩が勃発したその瞬間に、インファを攻撃することを思い付いたのだ。そしてそれすぐさま実行に移した。何という行動力、決断力だろう。

「ボクは、インファに勝つよ」

彼が耳元で言った言葉が、脳髄にこびりついている。ゾッとするような声だった。

あの人は、インファに勝つためなら、兄妹の命などどうでもいいのだと、心のどこかで信じていた絆を、甘い心ごと砕かれるのを感じた。感傷に浸っている暇なく、ペオニサは持てる力を振り絞って、闇の城まで逃走してみせたが、そこで力尽きた。死ぬはずだったが、そこまで力尽きさせてはくれなかった。

 兄は――リフラクは、ペオニサが生きていると思っているだろうか。生きていると知れば、どんな顔をするのだろうか。ペオニサはもう、兄の顔を思い出せなくなっていた。

「アシュデル……なんで、引き籠もり君がいきなり凄い行動力見せたちゃうかな……風の城に殴り込みなんて、キャラじゃないよ……」

冷静で、落ち着いていた末弟が、激高して放蕩兄貴の敵討ちに乗り込んでしまうなんて「わーお」としか言いようがない。

「大丈夫でございます。女王陛下は、屈しないお方でございます」

腹の下に手を差し込まれ、ヒョイッとベッドの上にうつ伏せに戻されたペオニサは、翳りの女帝の腹心を見上げた。

 だが、屈しないからといってなんなのか。風の城の決定を覆せるはずもなく。今この場で唯一まともに戦えるラスが奪い返しに行けば、彼の立場が悪くなるではすまない。反逆と取られて、彼まで追われる事になってしまう。

万事休すだ。ペオニサの絶望は深かった。

「ルッカサン!オ、オレ、アシュデルを助けに行くよですの!」

「イリヨナ……口調がブレッブレ。しかも、声が違うし」

ロロンがハアとため息を付いた。「なに?」と顔をしかめながら首を捻ると、部屋の中を大股に歩いてくるペオニサがいた。

「え?お、オレ?」

ペオニサは目を見張った。オレが2人いる!?オレ、実は死んでる?と刹那混乱した。

「見た目だけは合格ですの!こんなところで、アシュデルの考察が役に立つなんて、思いもよらなかったですの」

この声はどう聞いてもイリヨナだ。しかし、目の前に立っているのはどう見ても、ペオニサだ。

「変身……?」

ペオニサは、うろ覚えながら、アシュデルが持っていた変身の魔導具を思い出していた。

「はい!イリヨナだってゾナ先生の弟子ですの!……いえ、殆どルッカサンとラスがやってくれたの……。でもでも!魔法の習得はイリヨナが一番だったのですの!」

ペオニサに変身したイリヨナは、そっと本物のペオニサの手を握ってきた。

「呪われているなら、そうと言ってくれればよかったのに。アシュデル、大っ嫌いですの!でも、絶対に助けて見せる!ペオニサ、見てて!あなたに習った剣、役に立てるですの!」

「イリヨナちゃん……無茶だ……」

『無茶じゃないよ。いや、無茶だけど。オレがいる』

イリヨナの肩に何の変哲もないハヤブサが舞い降りた。

「にゃー」

ペオニサのベッドにピョンッと黄色い猫が飛び乗った。まるで「オレもいるぜ?」と言っているかのようだった。

「リティル様……信じていいの?」

猫の瞳には、燃えるような金色の光が生き生きと立ち上っていた。それは、風の王・リティルの瞳だ。その瞳で見つめられたペオニサは、泣きそうに顔を歪めて縋るように言葉を絞り出していた。

「にゃー」

そう猫は力強く鳴くと、ペオニサの頬をペロッと舐めた。

「ぎゃあ!オレそういう趣味ないから!」

キスされた!と大騒ぎなペオニサを、呆れた目でロロンは見ていた。

「軽薄男……リティル今思考が猫よりだから。でも凄いよ?空は飛べないけど」

「なにが、どう凄いの?」

ペオニサは首を傾げたが、皆は含んだ微笑みしか返さなかった。

『アシュデルの処刑は公開だ。場所も神樹の森で、処刑台はかなり高い櫓の上だ。オレ達風の精霊にとっては、攫ってくださいって言ってるようなものかな?インファの策だって思いたい』

「インファ……」

ペオニサの脳裏に、これで風の精霊なの?詐欺だ!と思える色気を振りまく、風の城の副官の姿が浮かんでいた。普段隙を見せないその人は、突然警戒心を解く。ペオニサは知っていた。とっくに、彼に「あなたは友人ですよ?」と態度で示されていたことを。ただ、ペオニサはそんなインファを、認めるわけにはいかなかっただけだった。リフラクを刺激したくなくて、リフラクが……怖くて……。

「イリヨナ、インファ兄様を信じるのですの!」

……オレの姿で、可愛い仕草はやめてほしい。そう思いながら、両手に拳を握って気合いを入れるイリヨナを、ペオニサは眩しそうに見上げていた。

『ペオニサ、ありがとう。あんたが来てくれなかったら、オレは無傷じゃいられなかった。あなたは、命の恩人だ』

「ええ?そ、そう?でも、まあ、助けられてよかったよ。うん」

くすぐったそうにペオニサは笑った。その瞳が不意に歪んだ。背中が痛むのだろう。シェラが再び魔法を使う。

「あなたのことも、必ず助けてみせるのですの!ルッカサン、ロロン、母様!ペオニサをお願いします」

いや、だから、オレの姿でそういう動きやめて?と深々とお辞儀したイリヨナに思ってしまったペオニサだった。


「これは賭けです」

ノインに扮したインファは言った。

「ペオニサが生きていて、あなたを奪い返しに来るという想定で、この処刑を考えました」

アシュデルは檻の中で、インファの仮面の奥の黒い瞳を見つめていた。

「彼が間に合わなければ、宣言通りあなたの命は失われます」

兄が生きてると、信じている?リフラクの虫ピンを受けて、兄が……ペオニサが生きてると、本気で思ってるって言うのか!アシュデルはインファを睨んでしまった。

異形の者の睨みにも、インファはまったく怯まなかった。

「信じています」

怯んだのはアシュデルの方だった。

「オレは、ペオニサが生きていると信じています。死んでいてほしくない。そう言った方が正しいのかもしれませんが。どう聞いているか知りませんが、彼はオレの、大切な友人でした」

嘘だ。ペオニサはインファに嫌われていると言っていた。茶化さないで話せと、助言していたくらいだったのだ。それなのに、インファは、俯いて辛そうにしている。

信じられないが、その態度に、嘘はないとアシュデルは思ってしまった。

「賭けませんか?あなたの兄が生きている方へ。あなたの命に、オレの願い、賭けさせてください」

嫌だと言ったところで、アシュデルには選択権はない。これは、インファの慈悲だ。

イシュラースを揺るがした2つの大事件の首謀者とされたのだ。そして、騒ぎは大きい。風の城としては、何もしないわけにはいかない。

兄が生きていて、助け出してくれると、その死の瞬間まで期待していられる。生きる希望があれば、死は、きっとその瞬間まで怖くないのだ。

アシュデルは頷いた。

 そして、ここにいる。

異世界を繋ぐゲートの力を操る大樹・神樹の前にそびえ立つ櫓の上に、アシュデルは座らされていた。ミイロタテハの羽根は斬られてしまい、この背にはすでにない。それは、この高い高い場所から、自力での脱出が不可能なことを意味していた。羽根がなければ飛べないから。羽根を奪うとき、インファは「すみません」と謝ってきた。そんな必要ないのに。

手には手錠が嵌められて、体の前にある。人とも動物ともつかない、長い指。太陽の光の下見ると、こんな墨色なんだなと改めて思った。

神樹の森は、不可侵の森。ここには、生き物はいない。魔物も出ない。

そんな森の中、今はたくさんの気配があった。見物に来た精霊達だろう。

「時間だ」

インファがノインの声色で言った。

背後に、大きな気配が音もなく舞い降りてきたのがわかる。

風の王の左の片翼・インスレイズ。風の導きを拒否する魂を狩る、荒々しいフクロウだ。

ボクはこれから、このフクロウの大きなかぎ爪に、体から魂を引きずり出されて死ぬのだ。

それもいいかも。こんな異形の姿で定着してしまって、美しいで有名な花の十兄妹の名を汚す存在で、唯一擁護してくれていた兄のペオニサはもう、いない。

どう生きていいのか、もう、わからない。

俯いたアシュデルの上に、つぶやきが降ってきた。

「顔を上げてください」

インファのつぶやきに、無意識に従って顔を上げたアシュデルは、信じられずに瞳を見開き、息を飲んだ。直後、背後でフクロウの悲鳴が上がった。振り仰ぐと、インスレイズが大地魔法の一撃を受けて、その体を金色の風に返すところだった。彼の鳥は不死身だ。風からいくらでも具現化できる。

「インスレイズ、処刑を急げ!」

インファの命で、そこかしこにインスレイズの気配が生まれ、神樹の前の広場は金色のフクロウの殺気に包まれた。風の鳥の殺気に、見物に訪れていた精霊達の気配が蜘蛛の子を散らすように消えていく。

「っ!」

登場とともにインスレイズに魔法を放った彼は、立ちはだかったインファに、果敢に真正面から切り結んでいた。

――兄……さん……?

アシュデルは震える瞳に、艶やかな牡丹柄の振り袖から片腕を抜き、下に着たピッタリしたタンクトップを晒した、牡丹の精霊・ペオニサの姿を映していた。

バサッと襲いかかってくるインスレイズが、兄の姿を隠してしまう。目の前に舞い降りたインスレイズが、ドンッと金色の風の流星に貫かれた。

「にゃー!」

長剣のインファと切り結ぶペオニサの肩から、黄色い塊が飛び出した。その黄色い塊は、入り乱れて飛ぶインスレイズを次々踏み台にして、あっという間にアシュデルのいる櫓の上に乱入してくる。それは、黄色い猫だった。ふー!と毛を逆立て威嚇する猫は、襲いかかってくるフクロウに、次々に風の流星を放って射落としていた。

――あっ!

斜めにかぎ爪を繰り出してきたインスレイズの爪を、トンッと猫は跳ね上がって躱しながら、真上から風の流星を放って屠る。流星を打ち出す力で空の高みへ運ばれた猫は、しばらく空中だ。そんな猫に襲いかかるフクロウたち。猫はクルクルと宙返りを繰り返しながら、空中で爪を閃かせ、その翼を切り裂いていく。しかし、空中では落下しかできない猫には不利だ。

加勢しようとしたアシュデルは、手錠で霊力を封じられていることに気がついたが、あげた手を下ろせなかった。そんな、憎らしげに手錠を見つめていたアシュデルの目の前で、ヒュッと空気を切り裂いて落ちてきたハヤブサの羽根が、手錠を壊していた。

誰が?と思ったが、捜してはいけない気がして、アシュデルはひょろ長い体を揺らして立ち上がった。足場の少ない足場から見える景色は、目も眩むような高さで、飛べない今は恐怖でしかない。しかし、アシュデルは空を見上げた。そして、猫に群がるインスレイズ達目掛けて、手を突き出した。

フワリと現れる花びら。優しかったのは初めだけ。渦巻いた花吹雪は鋭い刃となってインスレイズを散らし、猫は、真っ直ぐ腕の中に落ちてきた。

「にゃー」

猫は得意げな瞳でアシュデルを見上げると、その馬面にスリッとすり寄った。その「大丈夫だ」と言ってくれているような仕草に、アシュデルは思わず瞳を揺らし、猫を抱きしめていた。

 インファは猫の戦う光景をチラリ、チラリと盗み見ていた。

――父さん

あの黄色い猫は、風の王・リティルだと、インファは確信していた。そして、助かったと安堵した。

「!……っ!」

歯を食いしばり、食らいつくように剣を合わせてくる彼に、インファは視線を向けた。

あの重症からの生還だ。まだ本調子でないのだろう。彼の剣は未熟だった。インファは、嫌がる彼とインジュが手合わせしているのを見たことがあった。癖は確かに彼の物だが、目の前の彼はそのときの彼の剣とは雲泥の差だった。

そんなヒドい怪我を負ったんですか?一言も喋らず、挑戦的な瞳でしかし余裕なく瞳を見返してくるペオニサが、インファは内心心配だった。こんな、戦闘力が落ちるくらい、今無理をしているのだと、胸が痛い。

「――神樹へ向かって飛んでください」

インファの声で呟けば、ペオニサは瞳を見開いた。剣が止まってしまう。インファは、ギリッと剣を合わせた。

「オレを信じてください、ペオニサ」

しっかり名を呼べば、戸惑う彼はやっと口を開いた。

「――兄様……?」

その声を聞き、ハッと瞳を見開く羽目になったのは、インファの方だった。

そして悟った。目の前にいるペオニサは、ペオニサでない事を。ではこの彼は?インファの頭の中で急激にパズルが完成していく。

異形の姿のアシュデル……変身の魔導具……グロウタースに落ちた、闇の力の濃い魔物……風の王夫妻の猫化……目の前のペオニサ……変身魔法!

わかってしまえば、目の前の彼が誰なのか、推測することは容易だった。彼女は、ペオニサから剣を習った彼の弟子だ。癖が同じで、未熟なのも当たり前だ。これは、彼女――イリヨナの剣だからだ。

では、なぜイリヨナがペオニサに扮してここへ来たのか?

わかりきっている。本人が生きているのなら、本人がくる。彼はそういう男だ。彼がこない。それは……彼が、もう……

――そう……ですか……

しかし、今は悲しんでいる時ではない。インファはわざと隙を作る。イリヨナはギュッと口元を引き結ぶと、渾身の力を込めて剣を弾いてきた。

 そしてそのまま、1直線にアシュデル目掛けて飛んでいた。

すぐさま追撃するインファは、緑の弾幕に阻まれていた。この攻撃は、イリヨナではない。彼女が行っているように見せかけられていたのだ。チラリと空に視線を送れば、太陽を背に、1羽のハヤブサが飛んでいた。

ラスでしたか。上手いですね。インファは大地魔法に手こずるフリをして、距離を稼いでやる。

「っ!」

イリヨナは、ぶつかるようにしてアシュデルを攫う。ギュッと抱きついてくるアシュデルの様子に、イリヨナは少しだけ動揺してしまった。

今、イリヨナはペオニサなのでしたの!アシュデルは、ペオニサと間違えて抱きついてきているのだ。そう自覚すれば、いくらかドキドキは治まった。神樹の目の前に作られた櫓だ。このまま高度は下がっても突き進めば神樹に触れられる!触れられればゲートが開く!はず!

あと少し!イリヨナは歯を食いしばった。

「きゃあ!」

真上から襲ってきたツルの鞭に叩かれたイリヨナの腕が、アシュデルから離れていた。慌てて手を伸ばしあう2人に、再び鞭が襲いかかる。2人の手が繋がらない。それでも手を伸ばしてくる彼を見つめながら、アシュデルは先ほど聞いた女性の悲鳴が、耳の中でこだましていた。

――イリヨナ……?

君なのか?どうして兄さんの姿で?どうして兄さんじゃない?兄さん?兄さん!

真っ黒な絶望が、刹那アシュデルの心を塗りつぶしていた。

スッとアシュデルは手を伸ばした。それは、掴もうと伸ばしてくれている彼の手を取る為ではない。彼、いや、彼女の背後に虫ピンを手に迫った者に、一矢報いるため!

アシュデルの手の平から、巨大な牡丹の花が爆発するように生えると、イリヨナの背後に迫ったリフラクを、柔らかな花びらが包み込む。リフラクを飲み込んだ花びらの間から光が漏れたかと思うと、大爆発が起きていた。

――兄さん、仇は、取ったよ……?

アシュデルは瞳を閉じた。その目尻から産まれた涙が、空へ向かって散っていく。アシュデルの体は、深き森の闇へ向かって落ちていった。

彼の服の胸の合わせ目から、黄色い毛並みの猫がひょこり顔を覗かせていた。


 誰かが呼んでいる。

ペオニサ。そう呼ぶ声がする。

ペオニサ?イリヨナはイリヨナなのですの。そう思いながら瞳を開くと、必死な顔で呼びかけるインファの顔があった。

「あ……」

声を上げようとすると、そっとその口に、兄の少しかさついた硬い指先が押し当てられた。「喋るな」と言われた事だけはわかった。

「あは、あははは……生きて、いたなんて、ねぇ!」

思わず声を上げそうになった。庇うようにギュッとインファの腕に抱き込まれ、何とか悲鳴を飲み込んだ。

ペオニサに扮したイリヨナを抱きかかえて座るインファの前には、血みどろのリフラクが立っていた。どうして立っていられるのかわからないくらい、彼はボロボロだった。なぜ?と思って。アシュデルが、よくわからない魔法を使ったことを思い出した。その爆風で、飛ばされて……地面に叩きつけられる前に、どうやらインファに救われたらしい。

ノインの変装をしていたインファは、未だに服はノインのままだったが、髪の長さ色、瞳の色ともに金色に戻り、仮面も付けてはいなかった。

「ペオニサぁ……」

ゾッとした。ペオニサはどうして恨まれているのかわからないと言っていたが、こんな視線を日々向けられていたのだろうか。よく無事だったなとしか、イリヨナは感想が湧かなかった。

「なぜ彼に固執するんですか?」

「わからないよ。インファ……常に頂点であり続ける、あなたにはねぇ……」

血を滴らせながら、リフラクはフラリと一歩歩みを進めた。手には、彼の血で濡れた長い虫ピンが握られていた。

これはかなりいけない状況なのでは?イリヨナは、守るように抱きしめてくれるインファの腕を引っ張った。しかし、リフラクを見据えてインファは座ったまま動かない。

「にゃー!」

唐突に、目の前に、猫が落っこちてきた。そういえば、どこにいたのだろうか。確か、アシュデルの櫓に向かって空を駆けていったと思ったのだが……。

黄色い猫は、リフラクを見上げると、突然まばゆい光と風を放った。それには、インファもイリヨナも顔を庇ったほどだった。

 風と光が去ったのを感じたイリヨナが目を開けると、リフラクがいなくなっていた。いや、猫リティルの足下に何かが、いる?

「甘すぎませんか?父さん」

インファがため息交じりに、声をかけると、小さな手が空を掴むように動く何かのそばに尻を地面に下ろし、前足を立てて座った猫が振り返って「何のことだかわからない」と言いたげに首を傾げた。

あの人はどこ?と不安な気持ちが伝わったのかもしれない、インファが視線をイリヨナに落とした。 

「大丈夫ですよ」

何が大丈夫だというのか。イリヨナは不安げな瞳を、優しく微笑む兄に向けた。

「世話になったな。リティル、インファ」

にゃーという声と、落ち着いてはいるが、華やかで甘やかな声がした。インファに背中を支えてもらいながら体を起こしたイリヨナは、赤子を抱く、波打つ緑色の長い髪の男性の姿を見た。

 今は、物憂げに瞳を伏せてしまっているが、その声に似合いの美人だとイリヨナは素直に思った。その面立ちは、ペオニサに似てる?イリヨナは、彼の背に、黄色と黒の配色の蝶の羽根が生えているのを見た。

「すまなかったな、ペオニサ。生きていてくれて、嬉しいぞ?」

あ!とイリヨナはビクッと身を振るわせた。

「ち、違う!イリヨナ、ペオニサじゃないのですの!」

慌てていた。彼が、ペオニサとアシュデルのお父さんなのだと、やっと気がついたからだ。慌てて変身の術を解いていた。闇の鱗粉のような粉がキラキラと消え去ると、イリヨナに姿が戻っていた。

花の王・ジュールは一瞬目を見張ると、蝶の羽根で目の前まで飛んでくると、膝を折った。

「年頃の娘が、人前に肌をさらすのは関心せんな」

そう言うと、ジュールは赤子を抱いていない左手で、器用に着物の前を合わせた。その仕草で、イリヨナとインファは、イリヨナとペオニサの身長差で、着物が殆ど脱げていたことに気がついた。

「きゃああああ!兄様!どおしましょう!イリヨナ、痴女に、痴女になってしまったのですの!」

「すみません……あなたは背が低かったですね……」

視線をそらしたインファの顔が、心なしか赤い。そんな兄の顔を見たイリヨナは、ますます顔を赤らめて俯いた。

「翳りの女帝、ペオニサは死んだのか?」

あ、この人の瞳はペオニサに似てる……声に顔を上げたイリヨナはそう思って、その哀しみの滲む瞳を見入っていた。そして、ハッと気がついた。

「はっ!いいえ!ペオニサは闇の城にいるのです!背中の傷が治らなくて、母様がつきっきりで治しているのですの。本当は、ペオニサが来たがったんですの……でも、そんな状態で、イリヨナが代わりに……」

「生きて、いるんですか?」

掠れた声が、イリヨナのすぐ隣でした。見上げると、インファが半ばぽかんとした顔をして、イリヨナを見ていた。

「生きているよ。動けないだけで、元気かな?」

笑いを堪えながら、ラスがやっと舞い降りてきて、猫リティルを抱き上げた。

「生きて……いるんですか……。皆さんすみません!先に闇の城へ行きます!」

ラスが控えめな笑みを浮かべて頷くと、呆然とした顔をしていたインファはナーガニアの鏡でゲートを開き、その鏡をラスに預けるとゲートに飛び込んで行った。

「兄様……友情ですの!」

「うん。そうだね。そういうことで、ペオニサの命は保証されているよ。ジュール様、リフラクだけど」

こうしてはいられないと、闇の城へ走ったインファの姿に、イリヨナはキラキラした瞳をラスへ向けた。ラスは控えめな笑みをイリヨナに向けると、ゆっくり視線をジュールへ向けた。その瞳は、険しいモノに変わっていた。

「リティルが魂を一旦抜き、再び体に戻すことで、これまで生きた時間をリセットした。リフラクに、これまでの記憶、経験は一切なくなった。おまえの主君は、わたしの狂った息子に、生き直せと道を示してくれたのだ」

「そう。リティルらしい。今度は間違えないでくれ。……と、すると、ペオニサが長男?」

「フフ、そうなるか。リフラクはこの通り、赤子に戻ってしまったからな」

「ペオニサがお兄様……案外いいのかもしれないですの!」

幼い顔で笑うイリヨナは、精霊的年齢がアンバランスだ。それには意味があるのか?ジュールは、ホッとした笑みの裏側でそんなことを思っていた。


 ペオニサは、ずっとうつ伏せは首が痛いと、ゴソゴソ動いては、背中の痛みに蹲ることを繰り返していた。

「あーあ、インジュ達はいつもこんな目に遭ってるの?オレ、同情しちゃう。こんなの無理。絶対無理!うっ!あ、たたた……」

枕を引き寄せてギュッと腕に抱き込んでいたペオニサは、扉がノックもなしに全開になる気配を感じて、痛みに涙ぐんだ視線を扉に向けた。

「え?インファ?ぶっ!」

微妙に息の上がっているインファの姿を見たペオニサは、次ぎの瞬間、インファに頭を乱暴に押さえつけられて、枕に顔を埋めさせられていた。

「う、あ、あ、~~~息できねぇだろ!うっ!いたたたたた」

ガバッとインファの手を振り払って体を起こしたペオニサは、背中に走った激痛にバッタリとベッドに倒れ込んだ。

「ペオニサ……」

「うん、何?こんな怪我して、バカだなぁとか思ってる?死にかけたっつうの!今も似たようなもんだけど――えっ!イ、インファ?どしたの?」

恨めしげに視線をあげたペオニサは、インファの頬を、涙が筋を作るのを見て、度肝を抜かれた。

え?え?えええ!?!!インファが、泣いてる……なぜに?オ、オレ?いやいやいや、そんなわけないない。てか、この人泣くんだ……。そう思ってペオニサは、恐る恐るインファを凝視してしまった。

「なんですか?オレが泣くのがそんなに――おかしいですか?友人が暗殺されたと聞かされれば、オレであっても驚きますよ。それでも信じられず、一縷の望みを賭けて……再会したあなたが偽物では、絶望します」

涙を乱暴に拭ったインファは、恨めしげにペオニサを睨んだ。その瞳に、ペオニサは狼狽えた。

「う、え?は、はい。すいません?はっ!友人って誰!?オレ!?うあ!いたたたたた」

「あなた以外、誰がいるんですか?ウッカリ、リフラクを殺すところでしたよ」

「あー……殺しちゃった?それでもいいと思うよ?うん。……あの人も、インファに殺されるなら本望じゃないかなぁ?」

「殺しませんよ?わざわざ願いを叶えるのは不本意です。顛末はジュールにでも聞いてください」

顛末をここで教えてくれないなんて、インファはこんなに意地悪だったんだとペオニサは思った。

「生きてるんだ……オレ、まだ命狙われてる?」

「さて、どうでしょうか?その割には、ホッとしているようですが?」

「はは……わかる?あれでもオレの兄貴なわけよ。殺されそうになっても、死んでほしくないなんて、オレ、お人好し?」

ヘラリと笑えば、涙を拭いながらインファは頷いた。

「ええ。正気を疑いますね」

「あっはは。ヒドい。……兄貴ね、昔はあんなじゃなかったんだ……優しくて、強い人だった。憧れてた。兄貴みたいになりたいなってさ、思った事もあったんだ……。なんで……こんなこと、に――」

涙が溢れてしまった。インファの前で、こんな醜態をさらすなんて……と僅かに残った理性が恥じたが、インファが頭に触れてきたのを最後に、理性は消え去った。

普段怖いのに、こんな時だけ優しいなんて、反則だ!と思ったが、今は、その手の優しさに心を委ねたかった。

好きだった……あんなふうになってしまったが、ペオニサはリフラクが大好きだったことを思い出していた。そして、それは、過去形ではない。好きなのだ……今でも、兄が大好きだ。

「……やり直せます。今度は、あなたが示してあげてください」

あなたが示しての意味はわからなかったが、インファの優しい言葉と声が心に染みてしまった。「うん、うん」と涙の合間に、頷くことしかできなかった。

 恐れずに、ぶつかっていたら、もっと違ったんだろうか?それが、ペオニサにはできなかった。どこか、本気にならないように常にブレーキをかけていた。リフラクを越さないように、どうしようもない弟の位置に納まっていたかった。そんなペオニサを、兄は見透かしていたのだ。馬鹿にされていると思っていたのかもしれない。自分よりも実力のある弟――そんなことはなかったのに。リフラクにはリフラクの、強さがあったのに。

「アシュデル……あいつ、無事?」

スンッと鼻を啜りながら、ペオニサはやっと涙を止めた。それを感じたのか、頭に置かれていたインファの手が取り去られた。

「すみません。攫われまして、行方不明です」

「な、なんだって!?うっ!たたたたた」

ガバッと体を起こしてしまったペオニサは、背中の痛みに蹲った。

「すみません。あなたを優先してしまいました」

「……あ、えっと、ホントにオレのこと、心配してくれたの?インファが?」

「疑り深いですね」

遠慮なく睨まれて、ペオニサは視線を泳がせた。

「いや、だって、インファだよ?オレのこと、色気で牽制してたじゃない」

「それはあなたが、そういう方面でオレをからかうからです」

「からかってない!緊張してたっていうか……届いちゃいけない人っていうか……」

「もう、逃げる必要はありませんよ?」

何この人!?なんでこんなにグイグイ来るの!?ペオニサは不機嫌な顔はしても、瞳の温度を失わないインファにソワソワした。

「うわ!オレ、落ちそう!」

「抱きませんよ?」

そのセリフは、最悪な初対面のときに返された一言だった。

「ぶっ!くく……笑わ、せないでぇ……いたたたた」

 にゅっと白い猫がベッドの縁を歩いてくると、タシッとペオニサの肩に前足で触れた。すると、フワッと白い光が彼の背中に灯った。

「怪我が癒えないと聞きましたが、毒の類いですか?」

猫だとはいえ、シェラの魔法はきちんと傷に作用しているように、インファには感じられた。実際に、背中からの出血は止まっているのが、包帯にそれ以上広がらない血の染みでわかる。

「んーん、呪いに近い魔法。血が止まらなくなるんだ。ついでに霊力がどんどん抜ける。シェラ様いなかったら、オレ、確実に死んでたよ。1本でいいのに、虫ピン何本もぶち込んでくれてさ」

「羽根も、斬られたんですか?」

ペオニサの背中に、本来あるはずの蝶の羽根がない。出し入れできるものだが、隠す必要はない。霊力の枯渇で維持できなくなってもしまうが、ペオニサの霊力は回復している。

「あ、うん。凄いよね。一瞬でやられてた」

「こんな怪我で、よくイリヨナ達と逃げられましたね。オレはそちらに感心しますよ」

「あっはは。逃げ足だけは速いんだ、オレ。……これって、治らないのかな?もう、痛いの嫌だよぉ……」

はあ……とペオニサは疲れたように枕に縋った。これは、あまりいい状態ではない。

「失礼します」

「え?何?」

インファは立ち上がると、ペオニサの包帯を解きにかかった。

「調べるんですよ。こういうことは、オレの専門です」

背中に直に触れられ、ペオニサはなぜか焦っているようだった。

「え?え?待って待って。オレ、汚くない?臭くない?」

インファは「はい?」と目を見張って、手を止めた。

「……ペオニサ、オレはあなたの恋人ではありませんよ?同性の友人のつもりでしたが、違うんですか?」

異性なら気にするかもしれないが、同性だ。他人を癒やす能力はないが、怪我の診断くらいはできるインファは、裸など見慣れている。しかし、恋愛ごとにはとことん疎い。ペオニサの心の機微などわからない。

「や、違うくて!そのさ、こんな状態で風呂に何日も入ってないんだって!」

なんだそんなことですか。ジタバタするペオニサを無視して、インファは包帯を解く手を動かし始めた。

「それをいうなら、オレは一戦交えてきましたよ?匂うのは、オレの方だと思います」

「そんな綺麗なあんたは、匂いそうにない!いや、むしろ血みどろでも全然いける!」

またそんなことを!インファは何とも言えない気分になりながら、言い返していた。なぜなのか、ペオニサ相手だとムキになる自分がいるなと冷静な自分が言う。

「それをいうなら、あなたも十分綺麗だと思いますよ?一番ジュールの容姿に近いですし」

ペオニサは、ピタリと唐突に動きを止めた。どうしたのかと伺えば、ペオニサは恐る恐るといったふうにこちらを見ていた。心なしか顔が赤い。これは、照れている?ペオニサが?

「え……ええと、ごめん……オレの発言が間違ってたこと、今やっと気がついた……」

わかっていたことだが、狙っての言葉ではなかったのだなと知った。彼のこれは癖だ。言うのはいいが、言われ慣れていないとそういうことらしい。

「やっとですか。今更なので、改めなくてもいいですよ?」

「慣れました」と言ってやれば、ペオニサは申し訳ないような顔をして枕に突っ伏した。

 インファは再び、やっと静かになったペオニサの背中に触れ始めた。

「ごめん……でも、言っちゃうと思う……むしろ言いたい。言わせて?」

言いたいんですか、そうですか。超絶美形と賞されるインファだが、そんなに面と向かって容姿を褒められたことは殆どない。せいぜい居心地の悪い熱視線を贈られるくらいなものだ。ペオニサくらいのものだ。牽制しても言い続けたのは。冷たくしても傍にいたのは。

「ですから、いいですよ。なぜ、インジュには言わないのか疑問です」

「インジュってさ、そういう感じじゃないんだ。やっぱ、色気の問題かな?」

「あの人は、受精させる力の精霊なんですけどね……オレは、ただの風の精霊です」

「だからじゃないかな?インジュが色気ムンムンだったら、親父も真っ青だよ」

ハハと笑ったペオニサが、ハアと息を吐いた。

「ごめん、なんか疲れた……」

「寝ていていいですよ?あなたを殺させません。明日、また目覚めると保証しますよ」

「あっはは。インファにそう言われると……安心しちゃうな……」

スウッとペオニサは眠りに落ちた。

「……おやすみなさい。必ず助けますから、しばらく寝ていてください」

インファは険しい顔で、寝入ったペオニサを見下ろしていた。

 開け放されていた扉に、気配が立った。

「どうだ、インファ」

入ってきたのは、ジュールとイリヨナ、そして猫リティルを抱いたラスだった。どうやら、話が一段落つくのを待っていた様子だ。

「最悪です。母は偉大だとしか言いようがありませんよ」

苦々しくインファは吐き捨てた。その手元を、ジュールが覗き込んできた。

「眠らせました。これ以上苦痛の中に置いておくのは、忍びないですから」

「この傷で、よく生きていたな。リフラクの虫ピンは、確実に息の根を止めるために幾重にも魔法が重ね掛けされている。それを何本も使うとは。……なるほど?よほど、ペオニサを殺したかったとみえる」

ペオニサの穴だらけの背中を見て、ジュールはこれがなにか気がついたようだ。インファが気がついたことを、彼が見落とすはずはない。しかしこの場では言わなかった。それほど、ペオニサの容態は悪いのだ。

「手近なモノは解きました。ですが、霊力を冒しているこの魔法、オレでは……」

苦しげに視線を落としたインファの肩を、ジュールが叩いた。

「任せろ。わたしの息子だ。死なせはせん。おまえは、リティルを元に戻す術を探せ」

「アシュデルのことは、」

「あいつのことも今は放っておけ。リティルが戻れば、どうとでもなる」

アシュデルを攫った者のことを考えれば確かにそうなのだが、彼の精神は大丈夫なのだろうか?アシュデルのあの姿のことも気になるが……。しかし、インファもいっぱいいっぱいだ。

「父さんに期待しすぎですよ。ですが、わかりました。ここは任せます」

インファは、ベッドにチョコンと座っている白い猫に、微笑みかけた。

「母さん、ペオニサをよろしくお願いします」

インファの伸ばした手に、猫はスリッとすり寄った。

「大丈夫」そう言われた気がした。


 ラスは風の城に戻ってきた。

インファが戻ると言ったのだが、頑なにラスは風の城に戻ってきた。

インファは、最後まで悩んでいた。ラスは、レイシとカルシエーナと揉めている。リフラクがリティルに引導を渡され、対外的な脅威は去ったが、内部には火種が燻っている。

「だからこそ、だからかな?そろそろレイシはあなたから巣立つべきだし、あなたも手放すべきだ。オレなら大丈夫だよ。突っかかってくるなら返り討ちにするから。これでも風四天王だからね。ずっと舐められたままも、そろそろ卒業かな?」

何のことはないように言ってみたが、インファは騙されてはくれず心配顔だった。

「しかし、ラス、それがあなたのスタイルですよ?」

「そうなんだけどね。レイシに、まだ言い足りないっていうのが、本音かな?」

「あれはジャックの言い分ではないんですか?」

この人は時々見誤る。とラスはこんな時インファが心配だ。インジュやノインほど、裏を読めない。まして、仲間のことを信用しすぎる。

「あはは。彼は過激だからね。オレの心を代弁してくれたんだ。オレなら、オレ達ならあのカルシエーナを無力化することもできるしね」

破壊の精霊・カルシエーナは、いわば獣と同じだ。力を示せば脅威にはならない。しかしながら、人の心と知性は持っている。持っているからこそ、仕置きが必要だ。イリヨナにしたことを、ラスは許すことはできない。

「そんなあなたを見た、カルシエーナの顔が見たいですね。カルシエーナは無敵だと思い込んでいますから。エーリュも怒っているんですか?」

「エーリュだけじゃない。セリアも怒っていたし、リャリスは呆れていたよ。ケルゥが1人で宥めてるはずだよ。ノインが行ってしまったから」

ノインがいないのは痛い。四天王の上3人がいない今、風の精霊でなくてもノインがいてくれさえすれば城の統率は取れるのだ。ノインは控えめだが、力の使いどころをわかっていて、統治能力に優れている。イリヨナが助けを求めてきたあのとき、ノインがいてくれていれば、あんな結果にはならなかっただろう。侮られているラス1人では、到底無理だったのだ。リフラクは、結束が固く難攻不落と言われた風の城に大打撃を与えてくれた。彼がこちら側だったなら、そんな心強いことはなかったなとラスは思う。生き直して、こちら側に立ってくれることを願うばかりだ。

「あなたは、レイシを、理解していますか?」

「インファ、どうしてしまったんだ?」

レイシは養子とはいえ第2王子。風の王の懐刀とも呼ばれている。そんな地位にいる者だからこそ、今回の失態には制裁が必要だ。それを、有耶無耶にしそうな発言だとラスは受け取った。

「わかってはいるんです。ですが、割り切れません」

何も切り捨てろと言うつもりはない。今食い止めなければ、レイシはいずれ風の城の敵となる。そこまで堕ちてしまえば、手を下すのはリティルだ。息子を殺すなんてやらせたくない。あの賢魔王・ジュールが、結局リフラクに手を下せなかったように、簡単な事ではないのだ。そうならないように、今行動を起こせと言っているだけだ。取り返しのつかないことになる前に。

「イリヨナを、この闇の領域を見ていて思うんだ。この闇の一部になってしまえば、オレは、本当の意味で楽になれる。でも、しない。なぜだと思う?」

「いいえ」

 精霊は、変化に弱いとインファは感じている。移り変わるグロウタースを見つめ、時に介入する風の精霊であっても惑う。小さな変化が、小さなほころびがやがて致命的な破滅を引き起こす。グロウタースをよく知る風の精霊は知ってるはずなのに、それを自分たちにも降りかかるモノなのだと頭では理解していても、心が追いつかない。風の城が揺らげば、世界は荒廃する。風の城は健全で、風の王の下1つでなければならない。もう、見過ごせないところまできているというのに、インファは認められずにいた。

「光に照らされて、浮かび上がるオレの闇を、大したことないと笑ってくれる人がいるからだ。その中の1人は、あなただよ?インファ。だからオレは、生きていける。闇の中にいては触れられない光に、触れていたい。その一方で、オレの中に光を見いだす人がいる。ペオニサは、いろんな意味でレイシには眩しすぎたね」

ラスは、苦笑した。

ペオニサは、変化だ。グロウタースの民を経験した精霊であるラスは、変化に強い。ペオニサを変化をもたらす者だと認識していながら、受け入れた。それは、簡単なようでなかなかできないことだ。風の城は安定していたのだ。そこに異物が入り込めば、反発が生まれるのは当然だ。ペオニサに対するレイシ達の反応は当たり前だったといえる。ただ、彼が、見た目通りの不埒者ではなかっただけのことだ。

時代が変わる。乗り遅れれば滅びる。グロウタースと繁栄と衰退の異界と精霊達は言うが、このイシュラースだってゆっくりと変化している。不老不死である精霊は、その変化になかなか気がつかないだけだ。現に風の王は15代も変わっているではないか。

「インファ、レイシにも光がある。風の城にこれからも風の王の息子として居座るなら、その光は翳らせてはいけない。カルシエーナは別だけど。彼女の対処の方が楽かな?怯えさせればいいだけだから」

暗い感情を微塵も出さずに微笑むラスは、レイシやカルシエーナよりも1枚も2枚も上手であることをインファは知っている。2人はそれを、本当の意味で理解していないことも。

ラスは、変化しようとしている。新たな風の城の時代のために。リティルはすんなり受け入れるだろう。インファもそれに習わなければ、大きな脅威となりかねない。

「オレは、あなたの弟の地位に甘んじるつもりはないよ。対等だ。インファ。ごめん、今まで言えなかった。オレも甘えてた。あなたの下は、楽なんだ」

はあとインファは情けないため息をついた。見透かされていた。わかっていたことだ。ラスは風四天王・執事。風の王・リティルの兄である騎士・ノインの弟子だ。自分の仕えている者達のことを、誰よりも見ている。

「リフラクは、何を見ていたんでしょうかね?オレが常に頂点にいる?錯覚ですよ。オレは担いでくれる皆さんの上に乗っかっているだけです」

「あはは。的を射てる。だからインファ、任せてくれていい。普段は担ぐけど、今は担ぎ手から外して?」

「ラス……ありがとうございます。城の事は、あなたに任せます」

 と、そんなことをして、ラスは風の城に戻ってきたわけだが、気が重いのは確かだった。

ラスは表に立つような性格ではない。裏から支える方が得意なのだ。それをわかっているから、インファは渋ったのだ。彼が対等に見てくれていることを、ラスはとっくに知っている。

レイシ、仕掛けてきてくれないかな?喧嘩売ってくれた方が、やりやすいんだけど……と控えめだった。

「ラス、あの、よぉ」

応接間で1人、何食わぬ顔でデスクワークしていたラスは、顔を上げた。

そこには、白銀髪の大男がヌッと立っていた。黒の、袖口が大きく空いたロングコートを着こなし、カルシエーナと同じ赤い瞳の大人の男性の彼は、再生の精霊・ケルディアスだ。皆からは、ケルゥの愛称で呼ばれている。

「どうかしたのか?」

無口な2メートル越えの身長の彼が、どこか小さくなっている。隙あらば抱きついてきて、ラスに反属性爆弾を食らっては楽しそうに笑っている男が、ラスを前にかしこまっていた。

「ごめんなぁ……」

「は?ケルゥ……熱でもあるんじゃないのか?それとも今から反属性爆弾か?でも、いつも謝った事なんてないはずだけど」

本気でわからない。ゾナと同じ三十代組の彼は、たまに子供っぽいが中身はしっかり大人なのだ。精霊的年齢20代後半ながら、驚異の安定感を見せるノインにも一目置かれている。

「カルシエーナを止められなくてよぉ……」

「ああ、そのことか。問題あるかな?カルシーはそういう人だよ。欲望に忠実。そうでなければダメだよ。まだオレに怒ってるのか?だったら、話は早いよ。一戦やろうって伝えてくれないかな?」

「おめぇ……」

ケルゥの瞳には心配があった。それはそうだろう。ラスは1度も本気になったことがない。出さなくてもいい状況を、インファとリティルが作ってくれていたからだ。戦闘要員は足りている。師匠のノインにも「おまえは実力を見せるな。侮られているくらいがちょうどいい」と釘を刺されている。ラスは執事として、裏方で動くことを求められているのだから。

「ああ、1人ではやらない。疲れるから。エーリュを呼ぶよ。ファントム・オブ・オペラを相手にしてもらう」

ファントム・オブ・オペラは、歌の精霊・エーリュの殺戮の衝動だ。彼女もとっくに、自分の殺戮形態を掌握している。

いきなりケルゥは脱力して、ラスの足下に座り込んだ。ケルゥの巨体で押され、机と向こうにあるソファーが動いた。

「おめぇの心配なんかよぉ、いらねぇよなぁ」

「心配してくれたのか?それはありがとう。本音は心細かったんだ。オレは影に隠れる小者だから」

「すげぇ小者がいたもんだ?」

「侮られてた方が楽だよ。相手の方から仕掛けてくれるからね」

人知れず返り討ち。ヤルのはジャックだが。暗殺するだけなら、この城でラスの右に出る者はいないのだが、対峙した者は死んでしまうので噂すら立たない。だが、そんなラスよりもリフラクは遙かに上だった。勝ち逃げされたのはインファだけではない。ラスも、苦汁をなめた1人だ。

「無茶すんなやぁ」

「しない。レイシ、どうしてる?」

「あいつはあれで、年齢以上だぁ。おめぇに感情ぶつけるほどよぉ、ガキじゃぁねぇ」

「そうだね。でもそれじゃあ困るんだ。大人ぶってる子供を、これ以上許しておけない」

「兄ちゃんかぁ?」

「違う。インファはレイシを見捨てられない。血がなんだ?生まれがなんだ?この城に、リティルに受け入れられてるじゃないか。イリヨナは、どんなに心細くても、欲しても、この城に、リティルのそばにはいられない。イリヨナのほうこそ、恨みたいはずだ。それを……あいつはバカか?」

イリヨナを見てきた。産まれた時から見てきた。見てきたのはラスだけではない。レイシもずっと見ていた。それなのに、今更過去に負けるのか?そんな男だったのかと失望している。信頼を築くのは難しいが、失うのは一瞬だ。これでも目をつぶってきた。だがもう、見過ごすことはできない。

「ラス?」

「オレは男娼だ」

「お、おい!なに言ってんだぁ!望んだことじゃぁねぇだろう?」

ケルゥはギョッとして、誰もいないのにアタフタと周りを見回していた。

それは、ラスの過去だ。グロウタースの民だったころのこと。金を取ってはいず、一方的だったので男娼とは言いがたいが。

「望んでなくとも、それだけの男を魅了したことは確かだ。そんなオレをそばに置くインジュが、なんて言われてるか知ってるか?」

「き、聞いたことねぇ……おめぇまさか……」

「もみ消してるよ?インジュの耳に入れるなんてそんなヘマしない。オレ自身のためにね。オレが噂を操る影者になったのは、必然だ。最近じゃ、ペオニサもオレの恋人に加わったね」

フフと笑ったラスの顔には、狼狽えるケルゥとは対照的に微塵も暗い感情がなかった。

「お……めぇ……」

「ロロンが言っていたね。オレの持つ闇は、体に絡みつくツタみたいだって。いやらしく這いずり回ってるってね。それはどんな形してるのかな?手の形じゃ――」

「ラス!自分から進んで傷つくこたぁねぇ!」

ケルゥの凶悪犯罪者面が、さらに凶悪さを深めてラスの目の前にあった。

「大したことじゃない。あの日々の地獄に比べたら、事実じゃない言葉だけの噂なんてどうてことない。あはは、だけど……ペオニサ……彼は凄かったよ?」

ラスは肩を痛いくらいに掴んできたケルゥの手を放させながら、何を思い出したのかおかしそうに笑った。

 そして、語る。

「ねえ、ラス、オレが彼氏って気持ち悪くない?」

ペオニサは、神妙な顔で風の城に来たと思ったら、インジュを無視して1人席にいたラスの真横に立った。

「あ……あの噂……ごめん、あんたの耳に入ったのか」

ラスは目立たない容姿をしているが、なぜかそういう噂はよく立てられる。それはきっと、精霊になる前の過去が問題なのだろうが、自分から誘ったことはなく、精霊となったこの体にはそんな傷はついていない。

「何言ってんだ!て、思わずカッとなって、喧嘩しちゃった。で、今、しこたま親父に怒られてきた」

「は?」

ペオニサが喧嘩?強そうには見えないと思って、この着物の下はそこそこいい体だったなと思ってしまった。

「だってさぁ、オレが襲う方だよ?どう見たって、襲われる方だっての!そう思うよね?ね?ねぇ!?」

「ごめん……ちょっと、何言ってるのか……わからない……」

グイグイ来るペオニサが、何に対して怒って喧嘩したのか、ラスは男相手に噂を立てられた事ではないことはわかった。わかったが、何を言っているのかさっぱりわからなかった。

「嘘ぉ?親父も引きつってたなぁ。おかしいなぁ。オレ、間違ってないと思うんだけど?ねえ?インジュ!」

話しを振られたインジュは、あからさまに困り顔だった。

「ボクに振らないでくださいよぉ……あのぉ、そういう噂だったら、ペオニサ的にはよかったんです?」

ぼかすインジュがこちらを気遣っていることは、ラスにもわかった。そして心のにいるもう1人の自分・ジャックが理解するなと警告してきていた。

「え?うーん……非現実は非現実だけど、考えた事なかったなぁ。でもさぁ、ラスって格好いいよね?あんたの恋人って、鼻高くない?」

ボキッと不審な音がかすかに、しかし確かにソファーにいる全員が聞いた。インジュが大慌てでラスを押さえる。ラスの髪に隠れていない瞳が赤く染まっていた。そして、隠さない血塗られた殺気を発している。その手には、折れた羽根ペンが握られていた。

「ラ、ラス!じゃないですね!ジャック、ダメです!殺しちゃ!」

「止めるな。殺す」

ガルルルルと聞こえてきそうな凶暴な顔で威嚇するラスを見て、ペオニサは顔色を変えた。

「えっ!爆弾じゃなくて、地雷だった!?ご、ごめん!ラスはこういう話大丈夫な人だと思ってた!」

「ええ?どうしてです!?どうしてそんなこと思っちゃったんですかぁ!創作ならなんでもいいのは、ペオニサくらいですよぉ!」

「わーお、人を悪食みたいに。オレだって選ぶよ!女の子は可愛い方がいいし、男は格好いい方がいいのは当然でしょ。それから、痛いのはダメ絶対!」

「官能小説の執筆のこと言ってるんじゃないです!これ、現実です!」

「え?現実……現実!?」

インジュに突きつけられて、ペオニサがやっと止まった。インジュはさらに言った。

「やっとわかりましたぁ?みんなが言ってるのは、現実にどうこうって話なんですよぉ!」

「いやいやいや。って、マジ?絵になるかなぁ……なるか。ラス、今度の小説、オレとラスで書いていい?もちろんオレが彼女ね!」

「そうじゃなくてー!」

とインジュが叫んでいた。あまりの話の通じなさに、ジャックが呆れて引っ込んでしまい、ペオニサは命拾いしたのだが、とうの本人はどうにも現実の自分でとは想像がつかないようで、受けるかな?どうかなぁ?と自分の世界だった。

 後日、ラスの過去を知ったペオニサからは、平謝りされた。その時初めて、ペオニサがグロウタースで小説家をしていることを知ったのだった。噂に関しては「うーん、二次創作って考えれば、気にならないかなぁ?まあ、事実じゃないし、オレも作家だしね」と偽りなく笑っていた。

「オレが気持ち悪くないなら、このまま友達でいてほしい。それは、オレが言うべき言葉だったよ。オレが言えないことを、ペオニサは見抜いていたんだ」

「あいつ、軽薄なだけじゃなかったんかぁ。見てて面白ぇからよぉ、ほっといたんだけどよぉ」

「インファも最初は困惑してたね」

「一緒に着物着ようはねぇ!」

ラスは「ははは」と声を出して楽しそうに笑った。

「インジュが笑い転げてたね。顔会わすたびに、綺麗だ綺麗だって言われるから、口説かれてるのかと悩んでたけど、官能小説家だって知ってからは容赦なくなったね」

「小説家ぁ?あいつ、そんなことしてたんかぁ?」

思考がたまにぶっ飛んでると思ってた。とケルゥは言った。

「縁結びの一環らしい。あれで、仕事熱心なんだ。……彼はなぜ、殺されなければならなかったんだ?」

「ラス……」

「彼に落ち度は、何もなかった。それなのに、なぜ?兄弟……だからなのか?ペオニサは、リフラクに悪い感情はなかったのに。殺されたのに、昔はあんなじゃなかったって、そればかりだった。憎まれなければならなかった理由が、オレにはわからない」

「オレ様にゃ、兄弟の情はわからねぇ。物心ついたころから、殺しあってたからよぉ。ペオニサとリフラクとよぉ、似たような関係だったかも知れねぇ。近すぎんのかもなぁ。ただ、そんな哀しいばっかじゃねぇことも、知ってるっちゃ知ってんだなぁ」

答えが出るはずがない。

皆、関係が違うのだから。

リフラクに殺したいほど憎まれたペオニサは、アシュデルには復讐させてしまうほど愛された。当事者のペオニサは、アシュデルがリフラクに復讐したことを知ったら、どう思うのだろうか。


 イシュラースの三賢者の筆頭。その称号は伊達ではなかった。

「久しぶりー!……あれ?なんて顔してんの?ラス」

あのアシュデルの公開処刑から、1週間が経った頃だった。玄関ホールに続く、白い石の扉を押し開けて、派手な着物を纏った華やかな男性が、満面の笑みで乗り込んできた。

「ペオニサ……!」

「ヤダなぁ、幽霊じゃないよ?っと、今日は、さ、ラスに用事じゃないんだ」

ソファーから立ち上がったラスの前に舞い降りたペオニサは、彼にしては真面目な雰囲気を醸していた。

「それはいいけど、インジュならまだグロウタースだよ?」

「それはいいって……連れないなぁ。久しぶりに会ったのに」

「反属性爆弾はやめておいたほうがいい。怪我が癒えたばかりだろう?」

「オレ、それするためにラスに会ってるんじゃないよ!?」

「え?そうなのか?執筆に行き詰まって、頭を真っ白にしてほしいのかと思ってた」

「どんだけ仕事中毒!?リティル様じゃあるまいし、そんな真面目に生きてないよ。今日はね、レイシに会いに来たんだ」

レイシ?と聞いて、ソファーにいたケルゥまでもが立ち上がった。不穏な空気を感じたのだ。

「そ。オレの弟と妹、世話になったみたいだね」

これは、誰だ?ラスは、ペオニサの毒を含んだ微笑みに、ゾッとした。ペオニサのエメラルドのような瞳は、ソファーにいたレイシにすでに合わさっていた。

「はあ?いきなり襲いかかってきたのは、そっちの弟だろ?それに、妹って誰だよ?」

怪訝な顔で、レイシがやっとペオニサを見た。ケルゥとは違い、立ち上がりもしない。

侮ってるな。それがラスの印象だった。レイシの精神は、ここ数十年で廃退した。出会った頃は、もう少し大人だったと思う。理由はわからない。だが、レイシはいつの頃からか、内面を見なくなった。インファに絡んでは睨まれていたペオニサを、取るに足らない男だと思っていても不思議はない。

「イリヨナちゃんだよ。決まってる……でしょ!」

長剣を抜いたペオニサは、トンッと軽く踏みきっていた。ガンッとレイシがいたソファーの背に剣が突き刺さる。レイシは、ソファーから飛び出して、広いホールの方へ逃れていた。

「なんであいつがあんたの妹なんだよ!」

「そんなの、ずっと育ててきたんだからに決まってるでしょ!」

ペオニサは両腕を着物の中に潜らせると、バッと胸の合わせ目から引き抜いた。風の精霊ほどではないが、彼の肉体はそれなりに引き締まっている。黒のタンクトップ越しに浮いた胸筋は、なかなかのものだった。

 ペオニサがグッと右手に拳を握った。

「え?」とラスは目を見張った。ペオニサがレイシに殴りかかったからだ。闇の城でイリヨナに稽古を付ける彼の姿を見ていたが、彼は1度も体術を使ったことがない。それなのに、なぜ拳?

「育ててきた?それで妹?笑える」

「へえ?じゃあ、あんたはリティル様のなんなの?血、繋がってないって聞いてるよ?ああ、妹じゃなくてもいいよね?もらっちゃおっかな?27才のレディなら、手出してもいいよね?」

ペオニサの拳は当たらない。レイシは、十代の容姿をしていても、風の城の主力の1人だ。彼の言葉に、レイシの眉間に深いしわが刻まれる。

「イリヨナちゃん、可愛いし、ちょっと幼い感じがそそる――」

「てめえ!」

踏み込んだレイシの拳が、ペオニサの頬を捉えていた。殴られて、ペオニサの体が揺れたが、パシッとレイシの腕を取った彼は思いっきり額を額に打ち付けた。

「う、あ……いたたたた。ねえ?なんで怒るの?あんたさぁ、イリヨナちゃんのこと嫌いなんでしょ?オレがどうこうしたって、いいじゃない。オレ、嫌われてないしさ。むしろ、好かれてるよ?愛してるよ?って囁いたら、落ちるかなぁ?」

「っ!」

額を押さえて数歩後ろに蹌踉めいたレイシは、キッとペオニサを睨むと、拳を繰り出した。それを、ペオニサは無表情に手の平で受けた。受けた……?風の王の懐刀の拳を、花の精霊のペオニサが?ラスも、見守っていたケルゥも信じられないものを見た目をしていた。

「小っさい手で、すっごく健気で、強がっちゃってさ、オレの代わりにアシュデル助ける為にあの子が何したのか、見えてますか?レイシ兄様?」

レイシの拳を投げ捨てるように放したペオニサは、いきなりタンクトップを脱いだ。そして、その背中を晒す。

「オレ、あの時兄貴に殺されててさ、動けなかったんだよね」

晒されたその背中には、いくつもの塞がった穴の痕が残っていた。傷は塞がっていたが、皮膚は引き攣れて、思わず視線をそらしたくなるくらいの、とても人前にさらせないくらいの痛ましさだった。

レイシは、怯みそうになりながらも叫んだ。あの傷は、ペオニサの実の兄がつけたものだ。その事実は、実父に愛されなかったレイシの心の傷に触れるものだ。

「アシュデルの処刑に乱入したじゃないか。何言って――」

「あれ、オレじゃないんだ。変身の魔法使ったイリヨナちゃんだよ?インファとやり合ったの、オレじゃないんだ。動けないオレの代わりに、イリヨナちゃんが行ったんだ。乱入した兄貴に殺されなくて、ホントよかったよ」

ノインに扮したインファに、邪魔をするなと言われて、レイシとカルシエーナは城から出してもらえなかった。その代わりに、水晶球で見ていろと言われた。

処刑の場にインファの願い通りに間に合ったペオニサが、インファと戦う姿を、レイシ達はここで見ていた。あれが、イリヨナ?レイシは、ただの女の子にしか見えない翳りの女帝の姿を思い出していた。

「ノインじゃなくて、ホントよかった。あの人、きっと容赦ない。オレ相手だったら特に」

レイシの目からみても、拙い剣技だった。暗殺がどうのと聞いていたから、その怪我のせいだと思っていた。

「オレを助けたのはインファだよ?あの人、オレが無事だったって泣いてくれてさぁ。ビックリしたっての!でも、役得だったなぁ」

兄貴が……泣いた?こいつのために?信じられなかった。ペオニサは、尊敬する兄のインファが、最も嫌う人種だと思っていたのだ。

ペオニサがレイシに向き直った。レイシは思わず、息を飲んでしまった。

「ロミシュミルだっけ?ルッカサンが無能無能って言いまくってる初代翳りの女帝。イリヨナちゃん、無能って言葉が当てはまるレディだとは、思えないけどなぁ。ホントマジで、あの子を虐めるならもらっちゃうよ?オレが、寂しくないように愛してあげちゃうよ?オレならずっとそばにいられるしね」

「やめろ……」

「リティル様とシェラ様を猫に変えちゃって、必死に自分がかけた呪いを解こうと頑張ってるイリヨナちゃんは、憎まれなけりゃいけないほど、罪深いかなぁ?兄貴よりいろいろうまくできちゃうことに気がついて、手抜いてたこと気がつかれて、暗殺されたオレは、殺されるほど悪いことしちゃったのかなぁ?」

「やめろ!」

「ねえ!憎んでるあんたならわかるの?オレとイリヨナちゃんが何したのか、教えてくれる!?」

「!」

叫んだペオニサの瞳から、涙が筋を作っていた。

「オレ……兄貴をこれでも好きだったんだ。そんな殺したいほど目障りだったなんて、知らなかった。知ってたら……知ってたら、2度と、兄貴の前に顔出さなかったのに!」

「なんで言ってくんないかなぁ?」絞り出すように言ったペオニサの言葉に、レイシは呆然と立つばかりで、言葉を発することができなかった。

リティルから、イリヨナが来ない理由を考えろと言われた。その言葉が、今、蘇っていた。

あれから1度も彼女が来ないことにも腹が立ってしょうがなくて、ただただイリヨナの存在に憤っていた。イリヨナが、兄の憎しみを知った彼女が、兄の心にこれ以上波風立てないように息を潜めたのだということを、そんなわかりきったことさえもわからなくなっていた。いや、わかりたくなかったのだ。ロミシュミルを彷彿とさせる容姿で、渇望しても得られない風の王・リティルの血を持つ彼女の中身が、あの健気で頑張り屋のイリヨナであると、思いたくなかった。

中身さえもあの女なのだと、姿形だけで憎しみを感じてしまったその心を信じたくなかった。

中身さえもあの女なのだと、だから、憎しみを抱いていいのだと、自分の心を正当化して守っただけなのだ。

 見かねたラスが、ペオニサの腕に触れた。

「もういいよ、ペオニサ」

「だって、だってさぁ!ラス!イリヨナちゃんは、オレと兄貴とは――違うっ!違うよねぇ?」

ボタボタと涙を流すペオニサの頭を、ラスは引き寄せて肩を貸してやる。ラスの意志とは関係なく発動する反属性爆弾が、発動しなかった。

「例え、同じでも違ったとしても、あんたが代わりに傷つくことじゃない。イリヨナの痛みはイリヨナのものだ。レイシの傷みだって。ペオニサには、向かないよ。あなたにこんなこと、似合わない。怒ってるフリなんて、しなくていいよ」

「あんた……なんで憎まないんだよ!そんな怪我までさせられて、アシュデルをあんな目に遭わされて、それで、なんでだよ!」

ラスに支えられているペオニサを、レイシは睨み、そして泣いていた。

「そんなの、兄弟だからだよ!同じ血が流れてんだ!そんな簡単に割り切れねぇんだよ!」

ラスの手から逃れ、ペオニサは怒りの声を上げていた。反射的に紡がれた言葉は、偽りなく本心なのだと、レイシの心に悟らせていた。

体が震えた。足下からすべてが崩れ去るようだった。

血……血が繋がってるから憎めない……?それじゃぁ、オレは?血を憎んでるオレは?ここに、ラスに支えられて立っているペオニサと、実質引導を渡されたリフラク。オレは、どっちの側?そんなこと、突きつけられなくても、レイシにもわかる。

堕ちる?オレは……堕ちる?堕ちていく者を、バカだなと冷めた目で見ていた。そんな者達と、同じに、なってしまう?ペオニサ、アシュデルだけでなくインファをも傷つけて、インジュに命を狙われていたリフラクと、オレは、同類……?

「レイシ、ペオニサとリフラクには、ちゃんと時間があった。初めから命を狙われてたあんたとは境遇が違うよ。同じじゃないんだ。でも、例え初めから憎まれてたとしても、ペオニサは恨まなかったかな?」

「なんでだよ!なんでそう言い切れるんだよ!」

理解できない。リフラクは、ペオニサの大事な者達をことごとく傷つけたのに、どうして、憎まないでいられるのか、レイシにはわからなかった。

「両親や他の兄妹がいたから。外に世界があったから。あとは気質。闇は、ペオニサを掴めない」

「それ、オレがバカって言ってない?」

「言ってないよ。リフラクはあんたが羨ましかったんだね。自分にないモノを、全部持ってる様に見えて、腹立たしかったんだ。そう思われたことは、あんたのせいじゃない。リフラクとは離れるしかなかったんだと思う」

「修復不可能って……それ、身も蓋もない……」

ペオニサは項垂れた。しかし、それが現実だったのだとラスは思っている。心の闇を、ラスは見えない。しかし、心が発する音は聞こえる。彼の音はすでに砕けてしまっていて、憎しみ以外の音を発することができなくなっていた。ペオニサに手を下したその時にはもう、引き返せない場所に立っていたのだ。

あの時、リティルが乱入しなければ、インファは彼を斬っていたと思う。リフラクはもしかすると、そんな終わりを望んでいたのかもしれない。あれだけの人だ。自分の状態をわかっていなかったとは、ラス自身思いたくなかった。

「レイシ、あんたの世界には、憎むべき相手しかいないのか?イリヨナの存在が許せないならそれでもいい。でも、あんたの心にある闇、もうそれ以上育てちゃいけない」

引き返すことができるのは、自分の足しかない。こちらがどんなに行くなと叫んでも、手を伸ばしても、選ばれなければ手助けできない。それは、導くことが1番上手いと言われている15代目風の王であっても。

「オレが願うのは、リティルを、これまで父親でいてくれたリティルを裏切らないでほしい事だけだ」

レイシの前へ立ったラスは言った。

「もし、あんたが心の音を砕くなら、その時はオレが、レイシ、あんたを殺す。あんたにリティルの慈悲は与えない」

「ラ、ラス……!き、厳しくない?」

「厳しくないよ。彼は第2王子だ。シャンとしてもらわないと困る。風の城は、ただでさえ忙しいんだ」

「う、うん……それは、見ててわかるけどさ……」

「ペオニサ、太陽の城に帰るのか?」

リフラクが赤子に戻った今、太陽の城はペオニサにとって安全だ。帰ることができるのでは?とラスは思った。

「え?あー……オレ今、なぜかインファの預かりなんだよね……」

「へえ、じゃあ、風の城?」

ペオニサが泳がせていた視線を、ラスに合わせてきた。

「ラス……インファに黙って出てきちゃったんだよ。たぶん、めっちゃ怒るよね!?か、匿って!オレが起きたら、あの人めっちゃ優しくてさ。怖いんだよ!オレ、今日命日かも」

明日だと思っていたら、1週間経っていて、怪我が治ったのはよかったのだが、心臓が保たない!とペオニサは泣きそうな顔で情けなく訴えてきた。

「あははは……報われないね。2人とも。ペオニサ、インファは本来ああいう人だよ?一旦懐に入れた者には、もの凄く優しいよ」

「ダメそれ!オレ、勘違いしちゃう!」

『勘違い、してもいいですよ?全力でその勘違い、砕きますから』

風が起きた。カシャンカシャンとシャンデリアの飾りが触れ合って、小気味よい音を立てた。バサッと舞い降りてきたのは、金色のイヌワシ――インファだった。

「インファ、どうかな?」

過保護だね。ラスは空中で化身を解き、目の前に舞い降りたインファに控えめに笑った。

「結果は後日です。ペオニサ、ジュールから頼まれた身としては、無断でいなくなられるのは、非常に困りますよ?」

ペオニサは、自分よりも背の低いラスを盾に、小さくなってインファを伺っていた。

「あ、あのさ、なんでオレ保護されちゃってるの?怪我治ったし、兄貴はいないし、オレ、安全じゃない?」

「ジュールも父親なんですよ。しばらくは安全なところで、大人しくしていてください」

「それって、どこ?」

イタズラっぽくインファは、わかりませんか?と笑った。そんな彼の仕草に、ペオニサはドキリとする。インファの微笑みが、甘く、それでいて鋭くペオニサを捉えていた。

「オレの隣です」

ペオニサの吸った息が変な音を立てた。

「うっわ……顔面凶器超絶美形の殺し文句……こ、腰にきたぁ……」

「お気に召したようで、何よりです。それから顔、早く治してください。見るに耐えませんよ?」

ここで、腫れた頬を撫でられていたら卒倒していたと思う。だが、インファはフフと微笑するに留めてくれた。治癒魔法を宿らせた手の平を殴られて腫れた頬に当てながら、この人、全部計算してやってたんだ……と、ペオニサはやっと気がついた。

 もう、無理……足の力が抜けたペオニサを、ラスが支えて座らせるころ、インファは微笑みを収めた。

「さて」

インファは、冷たい風の王の副官の瞳を、立ち尽くしたレイシに向けた。

「レイシ、あなたは太陽の城に出向です。夕暮れの太陽王・ルディルと花の王・ジュールの下で、修行してきてください。期限は無期限です。監視には、ケルゥ、そしてカルシエーナ。ケルゥ、あなたは定期的に様子を報告に戻ってください。3人ともいいですね?」

「お兄ちゃ――」

「発言は許しません。カルシエーナ、あなたの攻撃した翳りの女帝・イリヨナは、オレの愛する妹です。そして、あなたの妹でもあります。姉であるあなたの所業を、オレは許すことはできません。あなたの番の姉が、ケルゥに何をしたのか。それをよく思い出してください」

「わははは。そういやぁ、そうだったなぁ。オレ様なんでこんなに辛いのか、ってなぁ思ってたけどよぉ、そうだったんだなぁ」

「ケルゥ?わ、わたし、ケルゥを傷つけた?」

「カルシエーナ、昔話でもしようやぁ。太陽の城でゆっくりよぉ」

ケルゥはそう言って、凶悪な笑みを浮かべると、カルシエーナとレイシを連れ、大鏡を潜っていった。

 はあと、ラスは息を吐いた。

「無力を感じるよ」

「そうですか?オレは裁判官の役をやったにすぎません。オレには、嘘でも弟を斬るとは口にできません。あなたでなければ、できないことだったんですよ?」

インファは座り込む2人に手を差し伸べ、2人を同時に引き上げた。

「リティルは、想定してた?」

「さあ?あの人はいつでも野生の勘です。ですが父さんは、レイシを確実に殺せます。できれば、そんな未来は見たくありません」

座りましょうか?ニッコリと笑うインファに促され、ラスはお茶を淹れるためにワゴンへ、ペオニサは着物を整えるとインファとソファーに向かったのだった。


 窓際のソファーに座ったイリヨナの膝に、黄色い猫が丸まって眠っていた。

コンコンとノックの音が響き、イリヨナは「どうぞ」と答えた。

扉を開いて入ってきたのは、ルッカサンに案内されたゾナだった。

「やあ、変わりないかね?」

「はい!みんな元気なのですの!……父様も母様もこのままだけど……」

元気に返事をしたイリヨナは、すぐにガクリと落ち込んだ。そんな愛弟子の様子に優しく苦笑すると、ゾナはイリヨナの隣に腰掛けてきた。

「魔導具の解析が終わったのだよ」

ゾナは、卵形の金属なのか石なのか素材のわからないそれを手渡してきた。

これが、アシュデルの作った変身の魔導具……イリヨナは、膝に猫リティルを乗せたままそれを両手に受けてマジマジと見つめていた。

「非常に難解だった。そして、無駄が多すぎる逸品だったよ。アシュデルが見つかったなら、もう一度教えてやりたいと思えるほどのできだと言わざるを得ない」

「先生、先生も難解ですの」

「そうかね?それでリティル、これを君に使おうと思うのだがね」

イリヨナの膝で寝ていた猫が、ピクッと耳を動かした。そして、顔を上げると、ふわあと大きな欠伸をした。

「言った通り、不完全に不完全を重ねたような代物なのでね。今より悪くなるか、好転するか、未知なのだよ。どうする?賭けてみるかね?」

ゾナの言葉に、猫リティルはトンッとイリヨナの膝から跳び下り、チョコンと座り直すとゾナを見上げた。

「賭博師だね。では、やるとしよう」

ゾナはイリヨナの手にある魔導具を手に取ると、猫に向かって差し出した。ぱあっと白い光に、猫は包まれた。

『ああ、やっと喋れるな』

光が弾けると、猫の姿はそのままだったが、リティルの声がした。

「父様?」

声に反応したものの、ソファーを立てないイリヨナの隣に、猫は飛び乗った。

『はは、そんな顔するなよ!別に不自由なかったぜ?』

「嘘ですの!イリヨナ……イリヨナが……!うう……あああああ!」

顔を覆って泣き始めた娘に、猫リティルは彼女の膝に上がると伸び上がってその顔を下から覗こうとした。

『辛かったな。ごめんな?』

イリヨナは言葉を紡げずに、首を振った。

イリヨナは、猫を抱きしめると「ごめんなさい!」と繰り返して、泣いたのだった。

 イリヨナが泣き止むのを待ち、ゾナが険しい顔で口を開いた。

「リティル、ペオニサの事なのだがね」

『ああ、早くシェラを元に戻さねーとな』

「父様、ジュールが治したのでは?まだ、何かあるのですの?」

『……背中に残った痕、あれ、魔方陣なんだよ』

「え?」

「死を刻むと書かれていたね。今はインファが術の進行を抑えているが、時間の問題なのだよ」

「そ、そんな……!」

『シェラなら、傷跡を消せる。そこまで周到だったなんて、舐めてたぜ』

「魔法は、術者を殺せば解けるが、そうまでして、リフラクは殺されたかったのかね?」

『どうだかな。ジュールの話じゃ、あの虫ピン1本で致死量らしいぜ?現にシェラがいなけりゃ、ペオニサは闇の城に逃げた時点で死んでたんだ。それだけ、恨みが深かったってことじゃねーのか?まずったか?死にそうなペオニサに力を使い渋ったのに、リフラクを助けて、今またペオニサは死に1直線状態だ。オレ、どっちの味方なんだろうな?』

「イリヨナは、父様の判断は間違っていなかったと思うのですの。あの場で、父様が割って入ってくれなかったら、兄様はリフラクを殺してた。それは、ペオニサも望まなかったと思うのですの」

『……あいつ、どうしてる?』

「インファがついているよ。ただ、あまり保たないと思われるのでね。覚悟はしておいたほうが、いいかもしれない」

「インジュでは、癒やせないの?」

『試したんだ。そしたら、力が弾かれちまった。かなり高度な魔法だぜ?名指しで魔法を無効化するんだ』

「そんなわけのわからない魔法、誰も構築しないがね。この場合は非常に厄介だとしか言いようがない。花の精霊達は軒並み全滅だよ。しかし、なぜシェラ姫の名だけなかったのかね?あの時点では、姫はまだ猫ではなかったと思うのだがね」

『リフラクの情だと思いてーな。よし!オレが何とかするぜ』

「はあ、今度はどれくらい眠るつもりかね?君がいないと、インファの調子が悪くなるのだよ。自分を安売りするのはやめたまえ」

『そうは言ってもな。……インファに任せるか?』

「まだその方がマシだと、オレは思うがね」

うーんと、猫リティルとゾナは重苦しく押し黙ってしまった。


 自分がそんな状態だとはつゆ知らず、ペオニサは机に向かっていた。

ここは、闇の城だ。ルッカサンが、アシュデルに付き添ってきていたペオニサに用意してくれていた部屋だった。

ペオニサは、紙の上を滑らせていた万年筆をふと止めた。そして、顔を上げる。

「ねえ、インファ、なんでずっとここにいんの?」

出窓に片足をあげて枠に背を預けて座っているインファは、熱心に分厚い本を読んでいた。インファはペオニサが彼の預かりになってから本当に、ずっと一緒にいる。というか、執筆を始めたペオニサは殆ど部屋から動かないため、インファも一緒に部屋にいる状態だった。

「いけませんか?」

本から視線をあげたインファは、僅かに首を傾げた。

くっ……何しても絵になる!とペオニサは、悶えたいのを我慢した。彼のおかげで創作意欲が沸きに沸いて、絶好調なのは嬉しいが、まだ、風の王夫妻を元に戻す方法は見つかっていない。それなのに、こんなところにいていいのだろうか。ペオニサの知っているインファは、常に仕事しているイメージなのだ。

「いけなくないけど、仕事、いいのかなぁって思っちゃって」

「仕事、していますよ?」

「え?そうなの?」

「ええ。変身について、調べています。ルッカサンがアシュデルに教えた、闇の知識の中にヒントがないかと思いまして」

「変身の魔導具の設計図、見た?」

「ええ。解析は終わっていますが、不完全だったようです。オレの今の知識では理解しかねる箇所があったので、それをどうアシュデルが導き出したのか、考えているんですよ。ここは静かですからね、はかどります」

インファはニッコリと微笑んだ。

「オレのことが、気になりますか?」

「えっ?い、いや?観察対象が堂々と目の前にいると、目のやり場に困るっていうか、悶えるって言うか、見つめちゃうって言うか、はああああ、あんた綺麗だね!」

ペオニサは、満面の笑みでインファの容姿を褒めていた。

「気が散りますか、そうですか。フフ、あなたはオレの容姿が気に入っているんですか?」

「そりゃ、インファの顔が好きな奴は多いと思うよ?あ、オレ、すげぇ失礼。ごめん」

「オレがこの顔でなければ、あなたはオレに、興味を持ちませんでしたか?」

「うーんそうだなぁ……たぶん、もっと早く友達になってたかなぁ?」

「そうなんですか?」

インファは意外そうな顔をした。

「うん、だってさぁ、そしたら、変に緊張することもないじゃない。あ、でも、インファがその顔でよかったよ?見てるだけで、創作意欲が湧くからさ!って、オレ、すげぇ失礼……なんでこんなかなぁ!インファ!勘違いしないで?オレ、あんたのこと好きだからさ!」

言い切ると、インファはなぜか視線をそらした。そうしてややあって、こちらに視線が戻ってきた。

「……あなたのそれは、好意を勘違いするレベルですよ?」

「え?……?……!??や!違うくて!こ、これは口説いてるんじゃなくて!純粋にって言うか、あれ?オレ、ヤバイ人?」

「ええ、おそらく」

「うわ……自覚してたけど……うわ……」

「安心してください、ペオニサ」

「?」

「それくらいでは、オレは嫌いませんから」

凄みのある笑みで見つめられ、ペオニサの顔の温度が急激に上がった。

「!?か、確信犯!あんたさぁ……オレをどうしたいのよ?」

「どうもしませんよ。……書けそうですか?」

「あ、うん。ホントはかどるなぁ。インジュといてもはかどるけど。インジュ、帰ってきたんだっけ?」

インジュが戻ってきているということは、ゾナも、インファと交代したノインも戻ってきているということだ。風の城は、平静を取り戻していることだろう。ラスも肩の荷が下りたろう。

「ええ。呼びますか?」

「え?いいよ。忙しいでしょ?インファがこっちにいるから」

「そうですか」

 2人は同時に自分の手元に視線を落としていた。

カリカリと、万年筆の切っ先が紙の上を滑る音が、かすかにしていた。そこに、ページを繰るペラペラという音が重なるだけの静寂が、部屋を支配していた。

時折静寂を裂くのは、2人の集中から思わず零れる小さなつぶやきだけ。

心地よい時間。笑いが絶えないインジュとは違う、執筆するには理想の空気感だった。

ペオニサは、書いた言葉を黒く塗りつぶして万年筆を置いた。どうしたのかと、インファがゆっくり顔を上げる。インファを前に、ペオニサは怯んだがもうこれ以上見て見ぬ振りはできなかった。

「ねえ、インファ、オレ、いつ死ぬの?」

「風の精霊に、死について問うことはマナー違反ですよ?」

本を閉じたインファの言葉に、ペオニサは原稿用紙に視線を戻した。問うてはみたが、答えが怖い。花の精霊は、治癒の力を持つ者が多い。ペオニサも当たり前のように持っている。だからわかるのだ。自分の体の状況くらい。

「あっはは。そっか、優しいよね……風の精霊は、さ。インファ、オレが死んだらさ、オレのこと忘れて?」

「あなたのような、個性の強い人を忘れることはできません」

あんたの中に残ってもいい?忘れることはできないと断言してくれたインファの言葉に、泣きそうになってペオニサは耐えた。風の精霊は、魂の運び手だ。風の精霊に導かれれば、迷わずに輪廻の輪に還ることができる。そして、輪廻の輪に還った魂は次の生を約束される。インファがここにいるのは、看取るためだとペオニサは思っている。

「じゃあさぁ、オレの死に際、見ないでよ。オレ、あんたの中に、残りたくないんだ」

「約束しかねます」

「約束してよ。オレはね、インファ、哀しみで終わりたくないんだ。風の精霊のあんた達には特に――」

気配が動いた。ペオニサが顔を上げると、背中がフワリと体温に包まれた。前に回ってきた腕に、驚きすぎて声が出なかった。

え?オレ、もしかして、もしかしなくても、インファに抱きしめられてる!?なぜに!?とペオニサが気を失いそうになっていると、背後のインファが呟くように言った。

「あなたの背中の傷は、魔方陣です」

耳元で囁く声が、感情なく真実を簡潔に告げる。

「え?」

「死を刻む。そう書かれていました」

どうりで、治っているはずなのに、背中がところどころ熱を持っているはずだ。鏡に映して見てみたが、そのミミズ腫れにしか見えない傷は不自然に途切れている箇所があったり、繋がっていたり、何か法則があるような気がしていた。文字だったのだ。薄々、そんな気はしていた。霊語を読まなかったのは、心のどこかでまだ性懲りもなくリフラクのことを信じていたからだ。

本気で殺したかったわけじゃないと、思いたかったのだ。自分は死なないと、思いたかったのだ。

「そっか……インファがさ、抑えてくれてんの?」

「そうです」

「それで、そんな優しかったんだ」

「心外ですね」

「あっはは。無理しないでよ!あんたが歯の浮くようなセリフ連発って、違和感ありすぎ!オレみたいなヤツ、あんた生理的に受け付けないでしょ?」

「ペオニサ……あなたの中でオレは、どんな人格なんですか?」

「すげぇ頭がよくて、女嫌いで、でも、時と場合によっちゃそんなこと度外視して演じちゃう策士。思いっきりもよくて、冷酷無慈悲。それから優しくて――」


「傷つきやすい」


「わかっているなら、話は早いですね」

インファは抱きしめる腕に力を込めた。逃さないように。インファは後ろにいて、ペオニサは振り返らない。2人は互いの顔を見なかった。

「インファ、ダメだよ。あんたが知ってて今まで動かなかったのは、あんたにリスクがあるからだろ?それすると、動けなくなるからだろ?リティル様がいない状況で、そんなことになったら、誰がイリヨナちゃんを守るんだよ?」

「そんなあなただから、オレは諦められないんですよ。ペオニサ、苦痛に耐える覚悟を決めてくれませんか?」

「うわー、やっぱ痛いの?でも、うん、やるよ!オレ……死ねない。オレみたいなヤツの為に、泣いてくれるあんたを置いて、逝けないよね?」

「泣いていませんよ」

「あっははー。強がり!でも、ありがと。あんたの友人なんて、恐れ多くてさ、良い夢見れたよ」

「オレが嘘をついていると言うんですか?」

「インファ、オレは官能小説家の女好きの放蕩者だよ?あんたがもっとも嫌う人種じゃないの?それに、住む世界が違うじゃない。こんな何度も死にかける世界なんて、オレの世界じゃない。異常だよこんなの。もう、こんな目に2度と遭いたくないんだ」

「わかりました。あなたに関わるのはこれっきりにします。ですが、そんな最低なあなたに、翼1枚を賭けます」

「え?ま、待って待って!聞いてない!」

「発言は許しません。行きますよ!」

「ちょっと!ダメだろ!翼なんて――!」

インファは答えなかった。抗議するペオニサは、身の危険を感じて体を強ばらせる。途端にインファの風が、ペオニサの中に流れ込んできた。

インファルシア――霊語で猛る風という意味だ。その名の通りの猛り狂う風で、体をバラバラにされそうな激痛に、ペオニサは絶叫するしかなかった。苦痛から逃れようと無意識に暴れる体を、インファは押さえつけるように、抱きしめていた。

「イ……ンファ……!ごめ――ん……!!」

うわごとのように叫んだ言葉に、インファはフッと微笑んだ。

「構いませんよ?これはオレの、我が儘ですから」

その謝罪は、何に対してなんですか?オレの友でいることに怖じ気づいたことですか?それとも、翼1枚賭けさせたことですか?どちらにせよ、寂しいと思ってしまった心が酷く痛いと、インファは瞳を閉じた。


 ………………ハッと、ペオニサが目を覚ますと、見慣れない天井だった。闇の城とも太陽の城とも違うようだが、ここは……

「あ、目覚めましたねぇ。全然動かないんで、死んだかと思いましたよぉ。ああ、精霊って死んじゃうと、塵も残さず消えるんでしたぁ」

お気楽で明るい声が、途端に降ってきた。

「インジュ……?」

ペオニサがまだ重い瞼を引き上げてボンヤリ見上げていると、頬を、白い猫のシェラがペロリと舐めた。

「はい。ボクですよぉ?大丈夫です?ボクがいない間に、散々な目に遭ったらしいじゃないですかぁ」

茶化すように言い放つ彼が、顛末をすべて知っていることをペオニサは知った。

「うん……生きてる……」

インジュの顔を見ていると、これまでのことが夢だったのでは?と思えてしまった。それくらい、ペオニサにとっては非日常すぎた。いろいろなことがありすぎた。

「背中の傷は、シェラが元に戻ったら消してくれます。それまでは、安静にしててくださいねぇ?」

背中の傷――痛みも熱もないが、皮膚が引きつっているのがわかった。その感触が、これまでのことを現実なのだとペオニサに突きつけてきた。ペオニサは、腕で両目を覆った。

リフラクに殺されかけて、アシュデルが行方不明で、すべてを画策したリフラクは赤子に戻って、インファがペオニサを友人だと言ってくれて……

「インファは?」

何も考えずに問うていた。思えば、支離滅裂だった。あんたを置いて逝けないと言ったと思ったら、あんたの嫌う人種でしょ?と言ったり……何が言いたかったのか何がしたかったのか、思い返してもわからない。

「お父さんなら闇の城ですよぉ?魔法を解くために、リティル達と闇の領域の奥に行くって言ってましたねぇ」

「――っ!」

ベッドから飛び出そうとしたペオニサを、インジュは片手でベッドの上に仰向けに倒していた。何が起こったのかわからないくらいの、早業だった。

「お父さんと、2度と会わない契約をしたって聞きました」

のし掛かるようにして、片手でペオニサの肩を押さえたインジュが、真上から見下ろしていた。彼の長い髪の一部が、ペオニサの上に肩から流れ落ちていた。

「契約……?な、なにそれ……?なんだよ!それ、そんなの交わした覚えなんて……!」

――わかりました。あなたに関わるのはこれっきりにします

殴られたようにインファの言葉が脳裏に蘇った。あの言葉は、売り言葉に買い言葉ではないことを、ペオニサは悟った。

「インファ……?そこまでする……?ちょ、ちょっとちょっと!契約違反のペナルティ、オレの中にないんだけど!?」

契約は双方にリスクを負うモノだ。そのはずなのに、契約を交わされた感触はあるのに、破った場合どんな責を負うのか探しても見つからなかった。

「ああ、そうでしょうねぇ。お父さんが負ってますからねぇ」

インジュは、ペオニサの上から退いて座り直した。

「嘘ぉ……あの人……オレの渾身の強がりをなんだと思ってんだ!オレが嫌だって言ってんだから、オレに課せばいいじゃねぇか!オレが……どんな想いで……」

どんな想いで、関わりを絶とうと思ったのか――

「わかってますよぉ、お父さん。ペオニサは、力のない自分がウロウロしてたら、弱みになるとでも思ったんですよねぇ?現にリフラクに利用するだけ利用されてますしねぇ。その通りですけど、言われたお父さんは、哀しかったと思いますよぉ?ペオニサの命を守る魔法の対価に、これからの友人としての時間を賭けちゃうくらいには」

あ、これは死ねないなと思えるくらい守られている感覚がする。インファが賭けたのは、時間だけでなくあの美しいイヌワシの片翼もだ。奪うだけ奪って、こんな安全なところで最大限の命の保証なんて、いらないのでは?と思うのはペオニサだけではないはずだ。

「と、けない?この契約、破棄できない?オレ、インファを傷つけるつもりは!って、傷つけちゃったよね……」

あれはない。支離滅裂なあの言葉達はきっと、繊細なインファを傷つけた。ペオニサは顔を覆った。

「だから、わかってますって。対価があれば、より強力な魔法をかけられます。ボク達は、生きてほしいんです。その願いのためなら、痛みは、いくら負っても平気です!ペオニサ、あなた、それくらいヤバかったんですよぉ?」

「リフラクのこと、恨んでいい?」

「そこまでされて恨んでないペオニサが、ボクはちょっと羨ましいです。レイシにも、なんで?って聞かれてましたよねぇ?本当に、血が繋がった兄弟だからってだけの、理由なんです?」

そんなにおかしいのか?と思う。皆が皆、リフラクを嫌っていい恨んでいいと言う。しかし、ペオニサにはそんな必要はなかった。手を出されたのは、暗殺されたあのときが最初で最後だ。あんなの通り魔みたいなものだった。

「理由なんて、ない。そういうもんだろ?あの人が破滅した今となっちゃ、余計にさ。オレはたぶん、ヒドいヤツなんだ。なんだかんだ言って、眼中になかったんだ。インジュと会ってさ、縁結びするようになって、兄貴とは住む世界が変わった。小説書くようになって、余計にさ。剣と魔法はオレにとって息抜き。同じ土俵に上がらなければ、あの人の方から興味をなくすと思ってた。10人兄妹いんだよ?なんでオレなわけ?」

ペオニサには放蕩息子という自覚がある。ペオニサよりも優秀な兄妹はたくさんいる。だのに、なぜリフラクは固執したのだろうか?その疑問は、今もある。こんな取るに足らない弟になぜ?と。

「助けてほしかったのかもです」

インジュの声は静かで、そして憂いに満ちていた。

「――え……?」

「ボクは、ボク達の世界の外にいるペオニサに、救われてましたよぉ?ボクもグロウタースで歌手してましたけど、命の危機も体の苦痛もない世界は、楽しくて、救いでした。そんな世界を守ってるんだってですねぇ、守る力があることに誇りすら感じました。姿を晒さないといけない歌手業は、ずっとは続けられません。今は思い出でしかない世界ですけど、ペオニサは、精霊でありながら永遠に続く世界の中にいるんです。羨ましいなって、思ってます。お父さんも、ボクと同じなんですよぉ。ボクの相棒でピアノ弾いてたんで」

ペオニサは知っていた。彼等がある事案でグロウタースのある大陸に潜入し、人間の歌手をしたことを。その大陸に行けば、未だに彼等の『インサーフロー』の歌を聴くことができるのだ。実際に、映像も見た事があった。百年以上経っているのに、色褪せずに映像板の中で歌う姿を見た。

「惹かれてたのは、お父さんの方なんですよぉ?」

「ないないない!ないって!ないよ!オレ、ただの官能小説家よ?そんな売れっ子でもないし、中途半端だよ?インファが惹かれるような要素ないって!むしろ、引かれるだよ!うん」

「ボク達風の精霊には、死なないように精神を支えてくれる要素が、沢山必要なんですよぉ。心の闇を照らす光です。ペオニサは、ボク達風の、光になってくれてましたよぉ?これからも、ボクとラスの、光になってもらいますけどねぇ。で、リフラクなんですけど、ボク達風と同じだったのかもって思うんです。何も気がつかないフリして、絡んでほしかったんじゃないんです?ペオニサが言う、昔みたいに」

インファに感じていた謎の緊張感。それは、リフラクに対しても、いつしか感じていたモノだった。何度玉砕しても、インファには「綺麗だね!」と言えたのに、リフラクには何も言えなくなった。

「兄貴、今日も可愛いね!」と、いつから言えなくなってしまったのだろうか。そう言うと、リフラクは困ったような照れたような顔をして「おまえも可愛いよ、ペオ」と笑ってくれた。可愛くて、優しい兄だった。

そうなの……?そうだった?兄貴……あんたにオレは、必要だった?

「オレの――」

「違いますよぉ。ボク達が勝手に求めただけです。お父さんもリフラクも、表面上強そうなんで、可哀想だなって思いますけど。リフラクはお父さんの同族です。だからって、おまえも同じ所に堕ちてこいなんて、なんなんですかぁ!堕ちるなら、自分だけ堕ちてくださいよぉ!ペオニサには悪いですけど、ボク、お父さんに手を出したら殺してやるつもりでしたよぉ」

ペオニサは、首を横に振るだけで精一杯だった。嗚咽で喉が詰まって声が出なかった。

助けられたかもしれないなんて、知りたくなかった。もう、リフラクもインファも手の届かないところに行ってしまったのに!

「オレ――バカだから、わっかんないよ!なにそれ?なんなの?それ!あの兄貴が?インファが?オレのこと、当てにしてた?嘘ぉ……いない方が……いいんだと、思ってた……」

「やり直せますよぉ?」

「どうやって!兄貴は赤ちゃんに戻っちゃったしさぁ!オレは一生!インファに会えないのに……!」

ペオニサはインジュに両肩を掴まれていた。白、青、緑が混じり合う不思議な色の瞳が、涙の止まらないペオニサの瞳を覗き込んだ。

「みんな、生きてます」

インジュは言った。

「!」

「生きてますから」

言い聞かせるように、もう1度。

「インジュ……」

「死んじゃ、ダメなんです」

「!……っ……」

「とりあえず、生きててくださいよぉ?」

「それだけじゃダメだろ!何でもする……何でもするからさぁ!契約解除の方法、教えて!」

「その背中が治ったら教えてあげますよぉ。だから今は、風の城の、ボクのそばにいてくださいよぉ?死んじゃうと困るんで」

柔らかくインジュは笑った。その顔を見ていたペオニサが、ハッと何かに気がついて、見る間に青ざめた。それを真っ正面から見ていたインジュは「どうしたんです?」と首を傾げた。

「ヤバイ!や、闇の城行かなきゃ!」

「ええ?ダメですよぉ!何言ってるんですかぁ!」

今までの流れは何だったんだ!?とインジュに驚愕されているのはわかったが、行かなければならなかった。

「忘れ物!忘れ物したんだって!ああああああ!あれ見られたら、嫌われる!絶対インファに記憶から抹消される!存在的に死ねる!違うのにぃいいいい!オレ、恋愛小説しか書けないだけなのにいいいいいい!」

インジュは、危機迫るペオニサの様子に困惑しつつ、忘れ物のことを聞き出して、闇の城にお使いに飛ぶのだった。


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