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一章 軽薄男は奮闘する

一章 軽薄男は奮闘する

「女王陛下、ラス殿がお見えです」

黒檀の重々しい執務机の前で、羽根ペンを動かしていたツインテールの女性が顔を上げた。こうやって真面目な顔をしていると、彼女はそのレースをふんだんに使った少女趣味の短いスカートを履いていても、キチンと大人の女性に見える。背は、もの凄く低いが。

「もうそんな時間?すぐ行くのです、ルッカサン」

鈍い光を放つ、金色のツタが絡まるようなデザインの椅子を引き、彼女は立ち上がった。

影法師の精霊・ルッカサン――人の良さそうな顔をした初老の紳士は、厚底のブーツで背伸びした、本当は140センチしかない闇を統べる王、翳りの女帝・イリヨナと並び、執務室を後にした。

 ここは、精霊達の住む異界・イシュラースを2分する昼の国・セクルースにある闇の領域。昼の国・セクルースは、太陽王の統治する国だが、時間の流れがちゃんとあり、昼間は太陽が、夜には月だって輝く国だ。その中で、この闇の領域は異質な場所だ。日の光の中でも、月の光の中でも、この領域のすべてのモノはまるでサングラスを通して見たかのように、翳っているのだ。

 かつてはもっとヒドかったらしい。ヒドいという言い方は、この領域以外から見ての感想と言うことになるのだが、ここに暮らす闇の精霊のほぼすべてが、その昔に不満を持ち、今を歓迎しているだから、「ヒドい」という表現は妥当なのだろう。

かつて、初代翳りの女帝・ロミシュミルが統治していたころは、黒白だった。本当に、白、黒、灰色しかなかったらしい。それを変えてくれたのは2代目翳りの女帝・シェラ。3代目翳りの女帝・イリヨナの母に当たる精霊だ。

シェラは、今隣を歩いている腹心、ルッカサンのクーデターにより担ぎ上げられてしまった女帝だったが、彼女は閉じていた為に、他領域と比べると荒れ果て遅れていた闇の領域を、豊かと呼べるまでに引き上げた才女だ。花の姫という、異界同士を繋いでいる大樹・神樹の花の精霊で、元々は光と花の性質を持つ精霊だった。

クーデターによりロミシュミルを討ち、翳りの女帝となってからも、彼女の持つ光の力は失われず、闇の領域は、閉鎖空間からセクルースへ出現した。ようは、太陽王と、常夜の国・ルキルースの統治者である月の精霊・幻夢帝の力を借りなくても、存在を保てるようになったのだ。

そのままシェラが統治していれば、闇の領域はもっと栄え、もっと安定していたことだろう。そんな彼女を手放そうと奔走したのは、クーデターを企てシェラを担ぎ上げたルッカサンだった。

 シェラは、15代目風の王・リティルの愛妻だったのだ。

リティルを守るためにと、その愛を利用され翳りの女帝となったシェラは、愛する夫を手放したまま永遠に愛するという選択をし、リティルもまた、自分を捨てた王妃を忘れられずに、しかし、風の王という立場から、シェラを諦めざるを得ない状態だった。

精霊同士が交わって子ができることは、通常ではあり得ない。

精霊が交わるのは、相手の霊力を得る、霊力の交換という奇跡の魔法を発動させるためだ。その魔法は、婚姻を結んだ精霊同士が行える奇跡で、精霊の婚姻はその魔法のために結ばれるといっても過言ではない。そのことが、精霊は男女間の愛情に薄い種族だと言われる所以だ。

純血二世と呼ばれる、特殊な精霊を交わりによって産み出すことを、究極魔法と呼んだりする。どうやって、安定していた翳りの女帝を娘として産み出したのかは、イリヨナにはわからないが、リティルとシェラはそれを成し遂げてシェラは花の姫へと戻り、風の城で仲睦まじく暮らしている。

 イリヨナは、そんな両親が大好きだ。共に暮らせないことなど、気にもならなかった。

到着したのは、サンルームだった。ガラス張りのその部屋からは、バラの庭園がよく見える。来客をもてなすには、もってこいの部屋だ。

ルッカサンが扉を開くのと、ラスが振り返るのはほぼ同時だった。

「イリヨナ、邪魔しているよ」

旋律の精霊・ラス。風の城の中核である風四天王に名を連ねる、風の王の家臣だ。

金色の長い前髪に左目を隠し、黒い裾の長い上着を羽織った、印象に残りにくい二十代前半の青年の姿をした精霊だ。控えめな微笑みを浮かべる金色のハヤブサの翼を持つ彼は、風四天王・執事と呼ばれている。

「ラス、会ってから話すって、何かあったのですの?」

イリヨナは何かが落ち度があったのかと、緊張気味にラスに訪ねた。それを感じてか、ラスは困ったように笑った。

「最近、魔物が極端に弱くなったから、あなたが無茶をしているんじゃないかと、心配しているんだ」

「え?魔物が弱体化されるのはいいことでは?ええと、イリヨナは無理してないのです。ムラがあるだけで……ので、たぶん、強力な魔物が出る兆候なのです……」

イリヨナは俯いてしまった。

イシュラースには、魔物と呼ばれる凶暴な生物がいる。それは、この闇の領域が産み出してしまっているのだ。闇の領域は、繁栄と衰退の異界・グロウタースに住まう人々や、このイシュラースに住まう精霊達の悪意を消化している。その悪意の残りカスが、イシュラースに漂う濃厚な霊力と結びついて生まれてしまうのだ。

今のところ、それを止める術はなく。魔物狩りは、世界の刃である風の王率いる風の城の通常業務となっている。

「ああ、そういうことか。わかった。伝えておくよ」

ラスは静かに頷くと、静かに微笑んだ。

風の精霊は皆優しい。不甲斐ない女帝のせいで迷惑を被っているだろうに、中核を担う精霊は誰一人イリヨナを責めない。純血二世は12年の幼少期を経て、一人前の精霊となる。いきなり目覚めるという産まれ方をする精霊とは違い、この幼少期の過ごし方で己の進む道が決まる。

幼少期、イリヨナは頑張ったと思う。両親に恥じない娘でありたくて、格好いい長男のインファに認められたくて、ルッカサンの厳しいと定評のあった指導に耐えた。

しかし、一人前となったイリヨナは、風の城のお荷物だった。

「イリヨナ、あなたは頑張っているよ」

ラスの声で顔を上げたイリヨナは、殆ど目線が同じ彼と目があった。

「イリヨナを……甘やかしてはいけないのですの!」

イリヨナは、泣きそうになった大きな瞳を慌ててそらした。

「なぜ?あなたが女帝になって、風の城は恩恵を受けているよ。たまに生まれる大物なんて、リティル達の敵じゃない。あなたは頑張っているよ。ありがとう」

ラスに視線を戻したイリヨナは、何かを言いかけて言葉にならず、その大きな瞳が潤んで涙が流れた。

「気にするなっていうほうが無理かもしれないけれど、あなたは家族だ。オレはいつでも、あなたの味方だよ」

ラスは泣き出したイリヨナの手を取ると、窓際のベンチに座らせた。

 イリヨナは、一人前になったら風の城に行っていいと言われていて、12年目の誕生日――純血二世では成人の日に、ルッカサンに連れられて風の城を訪問した。リティルとシェラ、その他闇の城にこれまで顔を見せてくれていた精霊達に歓迎されたのだが、イリヨナは気がついてしまったのだ。

「成人、おめでとうイリヨナ」

そう言って笑った、紫色の冷たい瞳を忘れられない。

風の王夫妻の養子の次男・レイシの、その体から立ち上った見通せない真っ黒な闇。

レイシ兄様は、イリヨナのことを憎んでいる!その瞬間に悟ってしまった。

なぜだかわからなかった。なぜならレイシは、イリヨナが光を上手く呼び込めなくて、暴走させてしまうとそれをいち早く察知して、ルッカサンが太陽の城に助けを求めるより早く、いつでも駆けつけてくれていた。

彼は、初代太陽王の血を引く、人間との間に産まれた混血精霊の為、太陽光の力を操ることができる。現在の2代目太陽王、夕暮れの太陽王・ルディルの弟子でもあり、ルディルの代わりは十分に務めることができる人だ。

「はあ……焦った。おまえ、相変わらずポンコツだよね」

嫌みを忘れない、冷たい瞳の十代後半の容姿をした青年だが、兄妹の情を確かに感じていた。だのに、なぜ?

レイシとの関係が変わってしまったのは、12年目の誕生日――イリヨナが一人前の精霊となったその日だった。それからイリヨナは、1度も風の城へは行っていない。レイシも、闇の城へ来ることはなくなった。

「オレの闇が見える?」

唐突なラスの言葉に、イリヨナは彼の瞳を見返した。

「体に、蔓のように這う闇……でも、ラスの闇は誰も攻撃しないのです!」

「そんなことない。オレの抱える闇だって、誰かを傷つけるモノになる。ここに、ケルゥかペオニサを呼んで証明しようか?」

風の城は、風の精霊以外の精霊も住まう大所帯な城だ。ケルゥは、リティルを慕って居候している精霊の1人で、再生の精霊・ケルディアスという。

ペオニサは、太陽の城に居候している花の王の息子で、花の十兄妹の次男、牡丹の精霊だ。

ラスは、創世の時代に目覚めた古参の精霊だが、ある理由から転成を繰り返した異色の精霊なのだった。

人間時代、虐待を受けた経験から、極度の男性恐怖症を患っている。それを、克服してはいるのだが、男性に抱きつかれるともれなく暴走する。例外は、風の王・リティルと、副官、雷帝・インファ、補佐官、煌帝・インジュの3人だけだ。ラスにとっては、恩人である3人の風の精霊だ。ラスに抱きついた不埒者は、爆風で吹っ飛ばされることになるのだった。

ケルゥとペオニサは、男色の気はないのだが、なぜか思い出したかのようにラスに抱きついては、吹き飛ばされて笑っている。何が目的なのか、いまいちわからないラスなのだった。

「い、いいえ。で、でも……イリヨナが……行かなければ、闇を刺激しないなら、それで……」

「理由を、聞いた?」

イリヨナは恐怖を浮かべて頭を振った。

「傷つく覚悟をして、理由を聞いた方がいい」

傷つく覚悟と言われ、レイシと、姉であるあの日初めて顔を合わせたカルシエーナに、しらないうちにそれだけのことをしてしまったのだと、改めて思った。

「オレは、あなたの味方だ。オレだけじゃない。リティルもシェラも、インファもインジュも、全員の名をあげる必要はないね?」

「ラスは……今日、それを言いに?」

ラスは瞳を瞬いた。そして、バツの悪そうな顔をした。

「いや、成り行きでこんな話になってしまっただけで、純粋に何か無理してるかと思って。時間ある?あなたとお茶してもいいかな?」

不器用な優しさだ。イリヨナは涙を拭いて笑って頷くと、メイドのナナを呼んだ。


 15代目風の王・リティルは、仕事中毒でも知られる王だった。

風の城の応接間は、どんな来客にも対応できるように、天井もドラゴンが3頭は優に舞えるほど高く、床も巨人が座ってもまだ空きがあるほど広い。殆ど家具のない殺風景な部屋ではあるが、床にはクジャクとフクロウが多数戯れるそれは見事な象眼細工で、見る者を楽しませてくれる。

この部屋には、大きな大きな鏡がかかっていて、その鏡にはゲートと呼ばれる、ここと別の場所を瞬時に繋ぐ、神樹に由来する精霊だけが持つ固有魔法がかけられている。風の城の大鏡は、太陽の城と繋がっていた。

 その鏡を抜けて、明るく華やかな背の高い男性が応接間を訪れた。

「あ、いたいた!おーい、王様ぁ!」

牡丹の花を、両耳の上に髪飾りのように一輪ずつ咲かせた、緑色の半端な長さの髪の華やかな顔の男は、赤みが強く鮮やかなミイロタテハの羽根を羽ばたかせ、十数メートルはある床を飛び越え、聳えるような尖頭窓の下に置かれた応接セットまで飛んできた。

「ん?何か用かよ?ペオニサ」

ワインレッドの布張りのソファーに、中庭を望む尖頭窓を背に座っていた、書き物をしていた小柄な男が顔を上げた。黒いリボンで結わえ損なった、半端な長さの金の髪がサラリと動いた。

「あらら、不機嫌」

「当たり前だろ!誰のせいだと思ってるんだよ」

王様。ペオニサにそう呼ばれた彼――今、金色の燃えるような光が生き生きと立ち上る瞳で睨んでいる、童顔で小柄な、金色のオオタカの翼を背負ったその人は、15代目風の王・リティルだ。

精霊的年齢19才。風の王史上歴代最年少の王である。ちなみにペオニサは24。風の王の長男、インファとは同世代だ。

「ごめんて。親父にも軽く退くくらい怒られたよ。その上あんたにまで叱られたら死ねる」

「いっぺん死んでこい」

「わーお」

軽口しか叩かない花の王の次男に、リティルはため息を付くと、怒りを収めた。

「ジュールが言ったことをオレがもう一回言ってもしょうがねーからな、もう言わねーよ。だけどな、もうやるなよ?」

「へーい」

反省の色の見えないペオニサに、リティルはジロッと視線を向けたが、召使い精霊のハトを呼んで、机の上の書類を片づけた。

 現在風の城は、厄介な事件を片付けるために動いている。魔物狩りは、風の城の通常業務だが、今回は通常から逸脱してしまったのだ。

発端は、未知の魔物出現だった。

魔物も日々新しい個体が出現するが、それは明らかに毛色が違った。というのは、いろいろな生き物の姿が融合したような姿をしていたのだ。通常魔物は、大小あるが、現存する生物の姿を持って出現する。だが、それは、どれにも当てはまらない姿をしていた。当初、対処に当たったのは、風四天王、副官、雷帝・インファと補佐官、煌帝・インジュだった。実力は申し分なく、不測の事態にも対処できる2人だった。しかし、逃げられた。

逃げられることなどあり得ないのだが、この世界には、次元の大樹・神樹のもたらす生理現象で、神樹の精霊の意志とは別に勝手に開いてしまう、不定期ゲートと呼ばれる現象があった。それは、衰退と繁栄の異界・グロウタースと精霊の住む異界・イシュラースをランダムに繋ぐ。

未知の魔物は、その不定期ゲートを通り、グロウタースに流出してしまったのだ。気がついた神樹の精霊が、ゲートの出口を捻じ曲げ、無人島しかない海上へ繋いでくれたため、グロウタースの民に被害は今のところないが、前代未聞の大事件だ。

しかも、その魔物が、変身の魔導具という代物を使った実験で産み出されたことがすでにわかっていた。魔物を屠り、件の魔導具を回収するため、インファとインジュに加え、大賢者と名高い時の魔道書・ゾナが戦いに赴いている。

この大事件を引き起こした犯人。それが、この、牡丹の精霊・ペオニサだ。

 ペオニサは、片づいていく机を見ながら顔をしかめた。

「リティル様ってさ、仕事以外することないの?」

「それ、よく言われるな。……おまえ、また派手な着物だな」

机を挟んで正面に遠慮なく座ってきたペオニサを、リティルはマジマジと観察してしまった。背中はもっと凄いのだろうが、牡丹の花がこれでもかと咲き乱れていた。着物を褒められたペオニサは、こんな状況だというのに嬉しそうにニコニコと笑った。

「凄いでしょう?これ全部刺繍なんだよ?あーあ、いいよねぇ女の子は。こんな綺麗な着物着られてさ」

ペオニサは振り袖の長い袖をクルリと手に巻き付けてその柄を堪能しながら、男らしい所作で足を組んだ。割れた裾の下にはきちんとズボンを履いていた。帯で締めてはいるが、着物は羽織っているだけのようだ。

「着てるじゃねーか。それをいうなら、美形はだろ?おまえなら許されるぜ?」

牡丹の精霊というだけあって、ペオニサは華やかに美しい。しかし、肩幅はそれなりにあり、鍛えているとは言い難いが、華奢でないことは、はだけさせて胸元から見えている黒色のタンクトップ越しにもわかるほどだ。

要は体型は男っぽいということだ。そして背は、190センチを越えている。加えてこの明るさだ。おそらく相当にモテるだろう。

「インファに着てみてほしいけど、花も一瞬で枯れるような目で見てくるんだよね」

そういう瞳も、格好いいけど。と、ペオニサは何に対してだからわからないため息を付いた。

「おまえ……猛者だな」

風の王夫妻の第1子、雷帝・インファ。超絶美形と称されて、同性でも二度見してしまうほど容姿の優れた青年だ。

風の城の副官で軍師だが、お堅い男ではない。ないが、女嫌いな一面も持つため、花から花へ飛び回る蝶のようなペオニサとは対極にいる。顔を合わせば綺麗だなんだとちょっかいをかけるペオニサを、インファは有無を言わせない笑顔で撃退していた。

 ペオニサ達、花の十兄妹の父親は、縁結びの力を持つ花の王・ジュールだ。

彼は、転成精霊で以前は死んでいたというブランクはあるものの、5代目風の王だった。その風の王時代、数多の浮名を流した王でもあり、父王から縁結びの力を色濃く受け継いだペオニサは、相当な女好きだという噂だ。ちなみに花の王に転生したジュールは、大昔の恋を実らせて、現在はたった1人の妻を愛している。11人いる彼の子供達は皆、その王妃との間にできた子供だ。

「よく言われる。ねえ、イリヨナちゃんなんだけど、あれから来た?」

「いや、来てねーよ?」

あれからというのは、イリヨナの成人の日のことだろう。なんだ、あれを心配してきたのか?とリティルは、マジマジと彼の顔を見た。そんなリティルを伺うように、ペオニサは問うてきた。

「理由知ってる?」

「……まあな」

「そっか、そうだよね。リティル様だし」

納得したようなペオニサは、すぐにこの話題から手を引こうとした。

「それだけか?」

闇の城には頻繁に出入りしているペオニサだが、イリヨナから理由は聞くことはできない。娘は何もしらないのだから。

どこで、知ったんだ?リティルは、イリヨナの成人の日の騒動が知られているとしても、彼が理由を知っていることに驚いていた。あの理由は、風の城のタブーの1つだ。調べればわかることだが、ペオニサがわざわざそんなことをするとも思えないし、あれからまだ数日だ。以前から知っていた?彼に話をした者が、風の城内にいることになるが……

「ええ?うーん……うん」

言葉を濁すペオニサを見て、リティルはこの話題をこれ以上突っ込むことをやめた。

これ以上圧力をかけて、風の城から彼の足が遠のくことことだけは阻止したい。今、リティルに別の事を気にかける余裕があるとは言い難いが、ペオニサに逃げられるわけにはいかない理由があったのだ。

「気になるなら、来るのはオレの所じゃねーだろ?」

ペオニサは、イリヨナと親交がある。いや、あるというものじゃない。ペオニサは、これで、イリヨナの剣の師匠だ。行くことを尻込みする理由を、リティルは思い付かなかった。

「いや、オレが行くと、いろいろ……ね」

ペオニサはあからさまに視線を泳がせた。

「ああ?なんだよ?いろいろって」

「リティル様って、案外鈍い?」

「はあ?おまえ……」

イリヨナに懸想を!?リティルの瞳が、射殺さんばかりに鋭くなった。「うへ!」とペオニサは慌てた様子で、首と両手をブンブンと振った。

「いや!オレじゃなくて!オレだったら絶対許さないでしょ!」

ヤダヤダやめてよ!イリヨナちゃんの相手なんて、冗談じゃない!とペオニサはリティルが本気でしたわけではない、イリヨナのお相手説を全否定してきた。

「自覚あるのかよ?そりゃよかった」

フッとリティルは笑ったが、剣呑な空気は晴れてはいなかった。

「怖い。絶対リティル様が一番怖い!」

「風の王が怖くねーわけねーだろ?」

リティルはニヤリと笑いながら、腕と足を組んで背をソファーにもたれさせた。こんなに童顔で小柄だが、これでも風の王だ。少し威圧するほうへ力を使えば、恐れさせることなど簡単だ。

「顔面詐欺師」

「よく言われるぜ?」

力を抜いて笑ってやれば、ペオニサはハアと息を吐いた。あまり虐めてやるのはよろしくない。これでもリティルは、彼のことは買っているのだから。だから2人が真剣に考えるなら、別に婚姻を結んだってかまわないのだ。できれば、別の人を選んでほしい思惑はあるにはあるが。

 気を取り直してたように、ペオニサはポツリと言った。

「……アシュデルだよ」

「ん?ミモザの?」

ミモザの精霊・アシュデル。イリヨナと同じような時期に成人を迎えた精霊だ。花の十兄妹の末弟だ。産まれた年が同じということがあって、イリヨナとは幼少期仲がよかった。彼を闇の城に連れてきていたのは、ペオニサだった。リティルも闇の城で、毎回ペオニサと顔を合わせていた。

リティルもアシュデルのことはよく知っている。といっても、幼少期のころの彼のことをだが。リティル自身も、成人した彼とはまだ1度も会っていない。

それはそれで、不自然だった。

アシュデルは社交的とは言えなかったが、リティルとは面識があり、リティルと並々ならぬ親交のある花の王・ジュールの息子だ。挨拶にきてもおかしくないのだが、未だその素振りはない。まあ、面倒を見ているペオニサが大変なことをしでかしてくれ、風の城の中核を担う風の精霊2人が事態の収拾に向かっている。彼等がいないからという理由で自粛していると、一応納得はできていた。

「そう。オレの弟。気にしてるんだ」

「それこそ行けばいいだろ?」

アシュデルはイリヨナの幼なじみだ。それ以上の関係だったとリティルは思っている。イリヨナがあの日倒れなければ、風の城に来た後太陽の城にアシュデルを訪ねていたはずだった。

「それが……ね」

「まさか、ロリコンだったのかよ?」

純血二世は、12年目の誕生日のその日、すべてが確定する。イリヨナは、本当に直前まで幼くて、このまま幼女で定着するのでは?と思われていたが、背は140センチから伸びなかったものの、精霊的年齢なんと27才のレディとなった。アシュデルもイリヨナ同様童のままだったが、彼はとても魔法の才能があり、成人したらおそらく25は越えた精霊的年齢になると思われた。しかも、このペオニサの弟だ。彼の他の弟妹達も皆見目麗しい。きっと知的な美男子になるのだろうなと、リティルは思っていた。それが、ちょっと変わった性癖を発現していたとは……残念だ。

「ちがーう!オレの弟変態じゃないから!事情があるんだよ!事情が!」

「何だよ?事情って」

「それは……。それより、さ、ラスって、イリヨナちゃんと仲良すぎない?」

また話題を変えるのかよ?何かほしい情報があるのか?と勘ぐってしまうのは、仕事のしすぎだろうか。

「はあ?あいつは四天王の中でも身軽な立ち位置だからな、気にかけてくれるな」

「はあああ。鈍い」

ペオニサは盛大にため息をついた。なんだというのだろうか?ラス?ラスをイリヨナが好きになる?……うーん……想像できねーな。とリティルは首を傾げるしかなかった。しかも、ラスには番がいる。その精霊とすでに結ばれているのに、彼女を袖にしてイリヨナ?ますます考えられない。

「なんだよ?ラスなら結婚してるだろ?」

「ラスがそうでもイリヨナちゃんは?」

「ねーよ」

「ホント?」

「たぶんな」

「恋ってさ、相手がいてもお構いなしだよ?ラスってさ、6属性フルスロットルで、闇魔法に精通してて、静かーに気遣ってくれるよね?めっちゃ大人だよねぇ?」

「そうだな。けど、ラスだからな……」

ラスがイリヨナと?いや、イリヨナがラスを?色恋に明るいわけではないが、イリヨナがラスをというのは、何度想像してもなぜか違和感を覚えた。

では誰なら?ペオニサは…………ああ、なるほど、あり得るからオレ、腹が立つのかと、リティルは思い、落ち込んでいるイリヨナにあまり会いに行けば芽生えてしまうかも?と妙な事を考えて自粛していたと、そういうわけか?とどうやらイリヨナが成人してから会いに行っていない様子の彼の行動を邪推した。

「何その自信。まるで、イリヨナちゃんが誰が好きか知ってるみたいに」

「いや、待てよ。恋愛って、そもそも逃げたら負けじゃねーのかよ?」

イリヨナが誰が好きか?それを大真面目に考えそうになって、いや、待てよ?どうしてオレ、こいつとこんな話をしてるんだ?と我に返った。

「そうだね。そうだね。そうなんだよ、うん」

ペオニサはうんうんと頷いた。

「だったら、やっぱり、おまえがここに来るのは違うんじゃねーのかよ?」

「うん。そうだね、そうなんだよ……助けて……リティル様……」

「はあ?いや、オレか?」

涙目で懇願するペオニサに、リティルはなぜか、イリヨナにアシュデルとの面会の約束を取り付けることを、承諾させられていた。 


 はああああ。

イリヨナは、羽根ペンを握ったまま、机の上に突っ伏した。

「お疲れですかな?女王陛下」

「え?ううん。違うんだけど、はあああああ」

別の机で書類の整理をしていたルッカサンが、優しげに微笑んで顔を上げた。

「ラス殿とのお茶会は、楽しくありませんでしたかな?」

「楽しかった。ラスは聞き上手だから……イリヨナ、癒やされましたのー!インファ兄様にはない、格好良さですの!控えめな笑顔がまたよくって……はああああ好き~って、何日前の話をしているんですの?ルッカサン!」

ガバッとイリヨナは顔を起こして、ルッカサンを睨んだ。

「ハハハ、さようでございましたな」

ルッカサンはナナに「女王陛下にお茶を」と指示を出しつつ席を立ち、幼い少女の容姿をしたナナのいるワゴンから、クッキーの皿を取ると、イリヨナに近づいた。

「ルッカサン……」

再び執務机に突っ伏したまま、イリヨナは彼を見上げないで名を呼んだ。

「はい」

「風の城に、行かなくてはダメ?」

ラスに、レイシとカルシエーナに憎まれた理由を聞きに行けと、そう言われてしまった。傷つく覚悟を持ってとのお土産付きで。

「女王陛下が、すすんで傷つくことはございません。わたしとしては、行かずともよいかと」

「……ありがとう。ルッカサン」

ルッカサンが厳しくない。ということは、きっと、何かある。イリヨナにはわかってしまった。しかし、1人では風の城に行く勇気は持てそうになかった。こんなとき、アシュデルがいてくれたら……イリヨナは、毎日一緒にいた幼馴染みを思い出していた。彼とは、成人後1度も会っていない。あんなに傍にいたのに、どうして来てくれないのかとは思うが、会いに行かないのはイリヨナも同じで……。

 ナナが入れてくれた紅茶で一息ついていると、フイに扉が開いた。

「イリヨナー、軽薄男が来てるけど、どうする?」

ノックもなしに扉を開けたのは、従者のロロンだった。ロロンも、ナナと同じく幼い少年の姿をしている。

「コラ、ノックをしなさい」

「ご、ごめんなさい!で、どうする?」

ルッカサンに睨まれて、ロロンは一瞬扉を閉めかけたが、イリヨナの様子を窺った。

軽薄男……それは、きっと彼だ。

「会いますの!」

イリヨナは嬉しそうに、2つ返事で席を立ったのだった。

 ペオニサは、玄関ホールに待たされていた。ラスはサンルームに通されていたのに、この差はなんだろうか。確かに約束はしていなかったが。イリヨナは彼の姿をきちんと見た。ペオニサだ。変わらない剣の師匠の姿に、イリヨナは心から安堵していた。

ペオニサは、イリヨナの姿を見ると、ハッと目を見開いた。どうしたのかと首を傾げると、彼は言った。

「イリヨナちゃん……レディになってしまって……」

「帰れ」

ロロンがイリヨナの前に両手を広げて立ちはだかった。どうやら、ロロンの目には要注意人物として映っているらしい。こんなだが、イリヨナの剣の師匠だ。しかし、敬意を払う気はないらしい。

「あっはは。ロロン君はいつも厳しいなぁ。リティル様が怖いから、絶対手出さないから安心して?オレ、死にたくないからさ」

リティルの名を出され、渋々ロロンは引き下がった。

「改めて、成人おめでとう。なかなか来られなくて、ごめんね?」

ペオニサの言葉に、イリヨナは首を横に振りながら、嬉しそうに笑った。嬉しい。本当に嬉しかった。ペオニサは、幼少期のアシュデルを連れて、ほぼ毎日太陽の城と闇の城を往復してくれていた。イリヨナが心を許せる、数少ない外の精霊だ。

「ありがとう。イリヨナ、ペオニサよりお姉さんになってしまいましたの」

「あっはは!冗談きついなぁ。……って、マジ?イリヨナちゃんも顔面詐欺師?」

ペオニサはマジマジとイリヨナを見た。

口紅は赤を使ってはいるものの、大きめな瞳とツインテールな髪型、低い背と、少女趣味なレースをふんだんに使った服装、背中に生えたコウモリの翼――真っ白な肌でビスクドールのようだ。精霊的年齢は、十代半ばの女の子にしか見えず、風の王の長男・インファの弟妹達と同じくらいの年にしか見えなかった。

「小さくて童顔でも、27才なのです!でも、経験がモノを言うのは精霊も同じ。これからもよろしくお願いしますの。ペオニサ師匠」

ミニスカートを申し訳程度に摘まみ、淑女の礼を取るイリヨナは、とても27には見えない。精々20……22くらいにしか見えない。

「ま、可愛いからいいか。うちの末弟と比べたら……」

「アシュデル、一緒じゃないのですの……」

イリヨナはガッカリして俯いた。ペオニサ1人なのは、見てわかっていた。いや、もっと前からわかっていた。アシュデルがいたら、ロロンはきっとペオニサのことより、アシュデルが来た!と騒いだはずだから。

「ごめんねー。うちの末弟、成人したら引き籠もり加速しちゃってさ」

「性格が変わるほど変化が!?」

イリヨナがそんなに変わってしまいましたの?と戦慄いた。

あり得るのだ。成人のその日、その前日とはまるで違う姿、性格になってしまうことだって、精霊にはあり得る。イリヨナは、アシュデルがまったく知らない人になったしまったのではないかと、恐れた。会いに来てくれないのは、成人してイリヨナにまったく興味がなくなってしまった。からではないかと。

「え?いや、その……変わったのは性格だけじゃなくて……ってイリヨナちゃん?」

「背が、伸びたのですの?」

「え?うん、まあ、伸びたかなー」

ペオニサは視線を泳がせた。

「裏切り者!」

「え?えええ?」

「ちびっ子同盟を組んでいたのに、背が、伸びるだなんて!それで、会いに来てくれないのですの?裏切り者!アシュデルなんて――」

ペオニサは瞳を見開いた。

「大っきくなったアシュデルなんて、大っ嫌い!」

「うーわー、きつっ……」

ペオニサのそれは、イリヨナの大嫌いへの感想ではない。アシュデルがここへ行けないと部屋に閉じこもってしまったとき言っていた。背が伸びた……と。

だが、背なんて本当は問題じゃない。イリヨナのあれは虚勢だ。会いに来ない理由を、色々考えている。そして、アシュデルに会うことを怖がっている。そんな彼女に、あんな姿のアシュデルを会わせる?しかし、このまま会わないというのも……。

さて、どうしよう?リティルに、イリヨナとアシュデルが会える機会を設けてほしいと頼んだが、イリヨナのこの反応は……ペオニサは、アシュデルの兄だ。例え、可愛かった弟がまったく可愛くない変貌を遂げていたとしても、兄なのだ。

軽薄男。それが皆の評価でもそれでも、花の十兄妹の次男なのだ。


 イリヨナとミモザの精霊・アシュデルとの付き合いは、それこそ産まれた時からだ。

ほぼ同じ日に産まれた2人で、風の王夫婦と花の王夫婦は意気投合?して、お互いに動けるようになるとすぐ闇の城で引き合わされた。

それから定期的に、ペオニサがアシュデルを連れてきた。最初は、女王教育の息抜きだったのだが、アシュデルは興味を示して「ボクもやる」と言い出した。

闇の中核のことを学ぶわけにはいかず、花の王がアシュデル用の問題集を作り、2人は同じ部屋で勉強していた。それはほぼ毎日となり。ペオニサが送り迎えできないときは、闇の城に泊まっていた。彼は物静かで努力家だった。その前のめりな姿勢も、イリヨナの励みになった。

「ボクが、闇のことを習っちゃダメなの?」

大きな丸い眼鏡をかけた小さくて幼い少年は、ルッカサンを見上げてそう言った。

「アシュデル様、他属性のことに、深く関わってはなりません」

「どうして?インファ兄は、闇のことを知っているよね?」

風の王の副官を引き合いに出し、アシュデルは食い下がってきた。このとき彼はすでに、花のことにかなり精通していた。だから知っていたはずだ。光と大地と相性のいい花の精霊と闇は相性が悪いということを。

「インファ様は、風の王の副官です。風という精霊のことをご存じですかな?世界を守るため、インファ様は学んでくださったにすぎません」

「物は言いようだ。どうすれば、許してくれるの?」

ルッカサンは困ってしまった。そして、苦し紛れに言ってしまった。

「そうですな。イシュラースの三賢者の末席におられる、時の魔道書・ゾナ殿に認められたなら、闇のことをお教えしましょう」

時の魔道書・ゾナは、風の城に居候している精霊だ。どんな属性の魔法も、瞬く間に紐解いてしまう魔導のエキスパートだ。

ゾナは、風の城の応接間の、暖炉のそばの肘掛け椅子が定位置だというが、滅多に人前に姿を現さない隠者で、気難しい人物だと噂で聞いていた。そんな人が、まだ成人前の、未熟な精霊を相手にすることなどないと思っていた。

 しかしそんなある日、リティルと共に、見たことのない精霊が闇の城を訪問した。

「ルッカサン、聞いたぜ?アシュデルに無理難題吹っ掛けたってな」

イリヨナには、あとで相手をするからと笑って、リティルはルッカサンを連れ出した。風の王を立たせたままというのもよろしくないと、ルッカサンとリティル、彼が連れてきたなぞの人物との茶会が始まった。場所はサンルームだ。

「申し訳ありません。アシュデル様を躱すためとはいえ、大人げないことを申しました」

ナナは、嬉々としてお茶の準備をしてくれた。3人の囲んだ丸いテーブルの真ん中には、一口サイズのケーキやら、クッキーやらでタワーができていた。すべてが薄墨をかぶったような色になる闇の領域でも、赤は比較的鮮やかに発色する。赤いイチゴやベリーが、お菓子の上で存在を主張していた。

「まあ、おまえの気持ちはわかるぜ?ただな、うちのゾナが、先生やってもいいって言ってるんだ。どうする?」

リティルに促され、お伽噺の挿絵にあるような、つば広の三角帽子をかぶった、ローブ姿の若い男性が帽子を脱いだ。コバルトブルーの落ち着いた知的な瞳が、ルッカサンに合わさった。

「オレが、そのゾナだ。以後お見知りおきを、影法師の精霊殿」

「あなたが、時の……魔導書……殿」

時の精霊と言わないのにはわけがある。彼は、魔導書に宿った意志なのだ。魔人と呼ばれる特異な存在であるらしい。故に、時の証を手に入れ精霊へ転成しても、本体は魔導書なのだ。

「こいつはな、オレのグロウタースの民時代の先生なんだ。根っから教師だぜ?」

15代目風の王・リティルは、少々特殊な生まれだ。グロウタースのある大陸で、14代目風の王に産み出された精霊だ。リティルは、風の王として完全に覚醒する前、このゾナの――時の魔導書となる前の、まだ魔導書の賢者だったころのゾナに色々と教わった過去があった。

「闇魔法は素人同然だがね。その分、光魔法には精通しているよ」

これはもしや?とルッカサンはリティルを見た。

「ああ、闇の領域に光が入って、ここも様変わりしただろ?今までは魔物が出なかったけどな、ここにも出る可能性が出てきたんだ。ちょうどいい機会だからな、ゾナに城の機能とか見てもらおうと思ったんだ」

これほどありがたい申し出はなかった。殆どの精霊がそうであるように、闇の精霊のほぼすべてが戦う術を持っていない。そのうえ、長らく閉ざされていた為に闇の城に防御の機能があるのかさえ知っている者はいないしまつだ。

「それは、ありがとうございます。我々闇の精霊は、自衛の手段を殆ど持っておりません。まして、魔導には疎く、このわたしも、恥ずかしながら……」

恐縮するルッカサンに、ゾナは和やかに笑った。

「それは、腕が鳴るというものだ。任せたまえ。ただ、オレが出しゃばると丸裸にしてしまうのだが、目をつぶってくれたまえよ。知ったことについては、口外しないと誓おう」

「はは、こういうヤツなんだよ。魔導狂いの引き籠もりなんだ。アシュデルのこと、隠れ蓑にすれば、ゾナも仕事がやりやすくなるんだ。闇のこと、当たり障りなく教えてやってくれねーか?」

闇の精霊達は皆、3代目翳りの女帝が風の王の娘だということはもちろん知っている。だが、やはり、他属性に大々的に介入されるのは抵抗を持つものだ。それは、種族としてのプライドだ。持ってもらわなければ困るが、事が起こる前に助けるには障害となる。

アシュデルが内容が違うとはいえイリヨナと学ぶことは、闇の精霊達に受け入れられている。そこに家庭教師がついても、不審には思われないだろう。

「女王陛下にも、是非とも手ほどきしてもらいたいですな」

「おや、いいのかね?これは、久しぶりに楽しい時が過ごせそうではないか」

「ハハ、よかったなゾナ先生。知りたがってた闇の上級魔法も紐解けるんじゃねーか?」

「うむ、ラスは天才肌で、構築式がいい加減なのでね。実際に触れられるとは、願ってもない機会だよ」

三十過ぎの容姿のゾナが、子供のようにウキウキしているのが、初対面のルッカサンにもわかった。

「しばらく帰ってくるなよ。どうせ城にいても、寝てるだけなんだからな」

リティルはヒョイッと一口サイズのチョコレートケーキをつまみ上げると、頬張った。

「失敬な。瞑想といってくれたまえ、瞑想と」

ゾナは競うかのように、ベリーのふんだんに乗った一口タルトを手に取り囓った。

気難しいと聞いていたが、実際の彼はそんなことはなかった。ゾナは城の運営、組織的なことにも精通していて、ルッカサンは大いに助けられることとなるのだった。

 思惑の果て、大賢者・ゾナに師事することになったアシュデルは、大賢者の弟子を名乗れるほどの魔導士となるのだった。成人した暁には、どれほどの属性が定着するかわからないが、弱いながらも6属性が使える精霊が誕生するのでは?と言われるほどの逸材となっていた。

「アシュデル、あなたは魔法使いだったのね」

休み時間に、バラの庭園でお茶をしているときも、アシュデルは魔導書を手放さない。眼鏡の度が合っていないのか、目を眇めて見ているので、目つきが凶悪に悪い。こんな凶悪な顔、彼の兄の華やかなペオニサとは似ても似つかなかった。

「そういうイリヨナは、ちっとも上手くならないね、魔法」

魔導書から目を離さないでアシュデルは答えた。これで集中できるのか疑問だが、アシュデルはイリヨナが話しかけるといつでも答えてくれた。

「その代わりに、剣はそこそこ使えるのですの!もやしっ子のアシュデルとは違うのです!」

イリヨナがペオニサから剣を習うことになったのは、偶然だった。アシュデルの付き添いで来ているペオニサが、リティルに暇だからというぞんざいな理由で、相手をさせられて戦っているのを見たからだ。オオタカと蝶の空中戦。リティルが大いに手を抜いていたのだろうが、ペオニサもなかなかに強かった。そして何より、憧れてしまうほどに2人の戦いは美しかった。ペオニサに師事することになったのは、リティルは殆ど来られないからだ。最初「オレなんてお遊びだよ?」と渋られたのだが、リティルに了解を取ることを条件に許してくれた。

普段、派手な着物を着ているペオニサだが、剣を教えてくれるときはピッタリしたパンツスタイルで、あ、この人格好良かったんですの!と不覚にも思ってしまった。

アシュデルはというと、壊滅的だった。

「はいはい、光魔法のテスト頑張って」

アシュデルは魔導書を隣の椅子に置くと、凶悪な目つきで紅茶を飲んだ。……目つきが悪くなければ、幼い容姿ながら彼もいい男の部類なのだが……言わないが。

「きいい!イリヨナ頑張るのです!」

 アシュデルとは学友だった。何でも言い合える、友達だった。

2人に、恋愛感情はなかった。これからも、ずっと友達だと思っていた。

大嫌いなんて、嘘だ。ちびっ子同盟なんて出任せだ。

ただ、一人前になったのに会いに来てくれないアシュデルに、失望していた。風の城で、手痛い拒絶に遭い、恐怖心を抱いてしまったイリヨナは、自分からは到底太陽の城へ行くことはできなかった。


 なぜ、こんなことになったのだろうか。

興味本位で様々な力に手を出した罰なのだろうか。

「アシュデルー、起きてるー?」

淡い光の中、顔を上げたアシュデルは、視線だけを開いた扉に向けた。部屋に差し込んできた白い光に、横長の瞳孔が途端に細まる。

「ああ、またこんな真っ暗にして。少しくらい、出ておいでよぉ」

そう言いながらも、兄――牡丹の精霊・ペオニサは扉を閉めた。光を遮られ、部屋は途端に薄闇に沈む。

「おわ!こんなところに本の山が!」

ペオニサは途端につまずき、床に魔導書の山が崩れた。

「光魔法くらい、使えるでしょう?」

「あっははー。面倒い」

兄はこういう人だ。だが、崩れた本を直すのと光魔法を使うのと、どっちが面倒なのだろうか。ペオニサはきちんと倒した本を元通りに積んだ。元よりも整頓されているくらいだった。

「リティル様にさ、イリヨナちゃん連れてきてもらう算段つけた。いつになるかわかんないけど」

「余計な事を」

「余計じゃないよ?いいじゃないか、ありのまま見せたって」

イリヨナは、この姿を見ても驚くだけで拒絶したりしない。わかっているが……

「背が、伸びた……」

そんな理由じゃない。

「そこ?でも、そこなんだね。いいじゃないか。それこそ、男の方が背が高いのはいいことだよ?」

「兄さんはいつも恋愛的な意味だよね?……きっと話しづらい。身長差で」

でも、なぜ会ってはいけないと心がブレーキをかけるのか、アシュデル自身もわからない。こんな姿になってしまって、未だ心は動揺しているのかもしれない。

「花のない子だね~」

ペオニサは、椅子の上に詰まれていた本を丁寧に床に下ろすと、その椅子に腰を下ろした。花のないことは認めるが、コッソリ官能小説を置いていくのはやめてほしい。この兄は、グロウタースで官能小説家をしているのだ。それを知っている者は殆どいないと思う。

「兄さんに花がありすぎるんだよ。あの魔物――」

「ああ、怒られた怒られた!おまえの代わりに、怒られといてやった」

もう終わったよと、ペオニサは笑った。

「……ごめん」

「いいって。気にすんなよ」

「……兄さん」

「うん?」

「これは、呪いなんだろうか?」

 闇の中、ペオニサの隣で大きな塊がモソリと動いた。こんなもの、背が伸びた~で済まされない。こちらをじっと見つめていたペオニサは、お手上げだと暗い天井を仰いだ。

「専門外。もうさあ、ゾナ先生かインファに相談した方がいいって!」

「師匠もインファ兄もボクの尻拭いで、グロウタース」

「あらら、帰ってきたらオレ、殺されるぅ!」

殺されるならインファがいい!と楽しそうな兄の様子に、アシュデルは心配になった。この人は、大変な時ほど軽口を叩くのだ。

半軟禁状態のアシュデルには、風の城の雰囲気がどうなっているのか、わからなかった。ただ、太陽の城の雰囲気はわかる。はっきりいってよくない。父であるジュールは捨ておけというが、アシュデルはリティルにタレコミたいのを必死に我慢しているのだ。兄弟でさえ、あの魔物を生み出したのがペオニサだと信じている。できるわけないでしょう?とアシュデルは思うが、それくらいこの兄は信用がないのだ。

「ボクが包み隠さず言うよ。勝手に、自分のせいにするんだから、そんな目に遭うんだ。兄さん、ただでさえインファ兄に嫌われてるんだから、やめてよ」

幼少期に闇の城で顔を合わせていた雷帝・インファは、アシュデルにとっても優しい兄さんだった。だが、当時からペオニサには冷たかった。当然だ。誤解とはいえペオニサは、インファの嫌いなタイプの人種なのだから。

敵とみなせば容赦ないイヌワシの彼が、ペオニサを許さないことはわかっていた。彼等が事を平らげ、グロウタースから引き上げてきたなら、ペオニサはどうなるのだろう?怖くてたまらない。しかし、当のペオニサはアッケラカンとしている。

「あっはは。それ、身から出たサビだからさぁ、問題ないよ。インジュとは仲良しだし」

女の子大好きな時点で、女嫌いのインファとは話が合わないと、ペオニサはお気楽に笑った。それはインファの誤解なのに……そう言ったところで、ペオニサは態度を改めないのだから無駄だった。

「インジュは苦手だ」

煌帝・インジュはインファの息子で、そして、花の王夫妻の第1王女である智の精霊・リャリスの夫だ。グロウタース風に言えばインジュは、アシュデルとペオニサの義理の兄ということになる。風の最強精霊であり、極上の歌声を持つ風の王の補佐官だ。義理の父である花の王・ジュールにも可愛がられている。

幼少期、憧れの姉であるリャリスにくっついて、闇の城に来るインジュとも顔を合わせていたが、女性の様な柔らかな雰囲気の壁を感じない好青年という仮面の下に、何か得体のしれないモノを隠しているようで、子供心に怖かった。

「だろうね。オレは好き。ねえ、そもそもおまえって好きな奴いるの?恋愛要素抜きにして」

インファの方が断然話しやすいのに、この兄ときたらインファには嫌われて、インジュとは友人なのだから変わっている。闇の城で、インジュと何を話していたのかわからないが、腹を抱えて2人して笑っている場面には何度か遭遇していたから、本当に気心の知れた友人同士なのだと思う。あのインジュ相手に、信じられない。

 アシュデルは、好きな人と問われて、しばし考えた。

「……師匠……とラス」

「まさかの恋敵!」

「?」

意味がわからない。ゾナとラスが恋敵?この人は何の話をしているのだろうか。

「キョトンとしない!リティル様といいおまえといい~!」

「リティル様は好きだよ」

「あーはいはい。あの人嫌いな人、この世から抹殺されるから。オレももちろん好き。損得抜きで。あの風は反則だわ。抱かれたい!」

ボクにも軽口を……と思うのだが、茶化すのはおそらく、兄の優しさなんだとアシュデルは理解していた。

「ねえ、アシュデル、嫌いな奴は?」

「レイシとカルシエーナ」

「めっちゃ私怨!」

「悪い?」

「悪くない。そういうもんだから。けど……参ったね」

そういえば、闇の城に行くと言っていたなとアシュデルは思い出した。ペオニサは、成人したイリヨナに会ってきたのだ。彼女はどんなになったのだろうか。

「イリヨナは?」

会いたくないわけではない。会えないと思うだけだ。でも、ずっと想っている。イリヨナは大切な人だ。

「気にしてた。あの()は、いい子だ。オレ、イリヨナちゃん贔屓だし。譲れないなぁ。シェラ様のことだって、イリヨナちゃんのせいじゃない」

「シェラ様は……」

「決めたのはリティル様。受け入れたのはシェラ様。誰も悪くない。そこはインファと同意見。か~!格好いいんだよねぇ!インファー!超片思い。マジで抱いてくれねぇかなぁ」

「兄さんとインファ兄は馬があうと思うけどね。すぐそうやって茶化すから、警戒されてるだけだよ。リフラク兄より、脈ありだと思う」

「あっはは。無理無理。オレ、臆病だからさ。いんだよ、インファとはこの距離感でさ。たまに視線で殺されそうになるけど」

そういう攻めた瞳のインファも格好いい。と、笑う兄を、アシュデルは神妙に見つめた。

「兄さん、死ぬのだけはナシだ」

「なーに、言っちゃってくれてるかなぁ?ん?」

笑顔を収めないペオニサが不自然すぎる。軽薄な態度で、しかしそれがすべて嘘だということを、アシュデルは知っていた。この人は役者だ。それも、潜入捜査をするために相当な役者である風の精霊達に匹敵する。

「リフラク兄は、兄妹にも容赦ない」

「兄貴に殺されるって?それこそないない」

花の十兄妹、長男、フリージアの精霊・リフラク。アシュデルが産まれた時にはもう、とっくに成人していた。だから、昔はどんなだったのかアシュデルは知らない。だが、今のリフラクだけ見るのなら、あの人には近づいてはいけない。殺される。ボクはそうなるって知ってると思って、どうして確信しているのかはアシュデルにも説明できない。

「防御はしっかり」

「マジ?」

「執着は怖いって、言ってたのは兄さんだ」

「あの人……なんでオレ?」

「男だからかな?リャリス姉はそんな目で見られてないから。でも、たぶん、インファ兄絡み」

「風の城で……それは……勘弁して……ラス壊れちゃう」

「父さんが出禁にしてるから、当分は大丈夫。だけど、リフラク兄は怖い人だ」

「親父ぃいいい!もっとちゃんと手綱握って!インファ……その、襲われない……よね?妄想はいくらでもいいけど、現実はダメ!引くっ!それが実の兄と、友達のお父さんなんて死ねる!」

「……妄想はいいんだ……。隙を見せない人だよ。インファ兄は大丈夫」

「おまえ、さ」

「何?」

「なんでそんな詳しいの?」

「チェリリ姉が教えてくれる。切実にリフラク兄を止めたいのはチェリリ姉だ」

チェリリと聞いて、ペオニサは警戒気味な鋭い瞳をしたが、すぐに情けない神妙な表情になった。

この人はできる人なのに、なぜ落ちこぼれを気取るのだろうか。アシュデルには理解できなかった。おそらく、リフラクを止める力がある。

だから、次女、コスモスの精霊・チェリリが仲間に引き込もうとしているのだろう。しかし、ペオニサが取り合わず、埒が明かなくて、仲がよくて現在半軟禁中のボクに情報を流しているのだろうと、アシュデルは憶測している。

「おまえこそ、死なないでね?」

「化け物が1人いなくなっても、誰も困らないよ」

「そういうこと言わなーい!おまえはオレの可愛い弟なの!」

ブニッとペオニサはアシュデルの顔を、両手で両側から押しつぶした。

「はは……兄さんだけだ。そんなこと言うの」

「そんなわけないだろ?おまえは、オレ達花の十兄妹の末弟だ」

「兄さん、ボクはここを出ていく」

初めから太陽の城には居場所はない。成人したのだ。どこへ行こうと自由だ。

「アシュデル」

「兄さんも、一緒に行こう?」

「まさかのお誘い!」

「ボクは、本気だ」

ここにいたら、リフラクに殺される。あの人の目は、もう堕ちている。

「わかった。わかったから!あー、インジュ達が帰ってきたらね。そしたら、出てもいいよ。もとより放蕩息子だし」

アシュデルは笑ったようだった。

ようだったといういうのは、暗くて表情が見えにくいからではない。ミモザの精霊・アシュデルのボサボサのくすんだ緑色の長い髪の間から覗くその顔は、馬としかいいようのないものだったからだ。実際に笑ったとしても、皆の目にはそう見えないだろう。

背は2メートルを超す長身で、ひょろりとしていて、腕が異様に長く、こちらも異様に長い節くれ立った指は枯れ木のようだ。その体を丸めて、縮こまるように椅子に座っている。

花の精霊は皆、男性も女性と見まごうばかりに美しい。

こんな、化け物の姿をしているのは、アシュデルだけだ。しかし、彼も成人前はちゃんと人の姿をしていた。幼かったが花の精霊らしい、整った顔立ちをしていた。目を眇めて物を見る癖があり、表情は凶悪その者だったが。

 花の王・ジュールは、イシュラースの三賢者の筆頭だ。

呪いの類いではないかと、調べている。実は、先日のグロウタースでの騒ぎが本当は誰の失態なのか、ジュールは知っている。ペオニサに、功を焦ったアシュデルの失敗をかぶらせたのは、彼なのだから。

風の城がペオニサの失態だと信じているのは、ひとえに彼のこれまでの素行の悪さと、実力を隠しすぎているからだ。いや、リティルと、尻拭いにグロウタースへ行っているインファ達はとっくに見抜いているのでは?とアシュデルは思っている。


 姿を変える魔導具なんてもの、ペオニサでは作れない。それをなぜ魔物に使おうと思ったのか、アシュデルが何を考えているのか、ペオニサには理解できない。

イシュラースの三賢者筆頭である父王のジュールが怒っている内容だって、端で聞いていても理解不能だった。故に、怒っていることはわかるが、ちっとも怖くなかった。アシュデルはあの巨体を縮こませて震えていたから、相当怖かったのだということはわかったが。

「親父、これ、オレがやったことにしといて」

そう言ったのは、どうしてなのか、ペオニサにもよくわからない。

「ペオニサ……!おまえはインファに嫌われているだろう?殺されるぞ?」

「そうだ兄さん!ボクがやったことだ、兄さんがどうしてかぶるんだ!」

提案した途端、父と弟に正気を疑われて詰め寄られた。

冗談ばかりいう父王が、睨むような瞳で言うのだ。殺されるが比喩ではないことは、さすがにわかった。だがペオニサはあえて苦笑した。

「んー。何やらかしたのか、いまいち理解できないから?」

「……バカだったか……」

呻くように呟いたジュールは、ペオニサを残念なモノを見るように見やった。

「親父、それヒドい。あんたらのそんな高度な会話、理解できるヤツそうそういないよ。姉ちゃんがここにいたら、賛同してくれると思うなぁ」

風の城にいる智の精霊・リャリスを引き合いに出せば、2人はチラリと視線を交えた。そこだけは同意を得られたようだ。

「わからないのに、そういう勘だけは働くんだ……」

アシュデルまでもが、両手で顔を覆って嘆くように俯いてしまった。

「大賢者・ゾナの弟子が、危険人物な上にその容姿じゃマズいって。素行の悪いオレなら、おまえか。で済むって!だってさ、インファとインジュとゾナだよ?グロウタースだよ?あの魔物、何か手がいっぱい生えてたよ?あの魔導具作って魔物で実験したのが成人直後の新米精霊だったって知られる方がマズいって!オレがイタズラして、たまたま不定期ゲートに魔物が巻き込まれたってほうが、絶対いいって!」

なんか必死だった。

雲の彼方のように頭のいい2人を、言いくるめられるとは思っていなかった。

姉ちゃん――智の精霊・リャリスに、本気で助けを求めたかった。

リャリスは、風の城に憧れて、成人と同時に風の城の居候になったため太陽の城にはいない上、産まれる前からの恋を実らせて現在煌帝・インジュの妃だ。

ゴミでも見る目でハイヒールで踏んできそうな、妖艶で気高い女性だ。ハイヒールは履かないが。キツい見た目に反して、純情で趣味が魔法薬を作ることな可愛い人だ。

リャリスは風の城で今まさに、未知の魔物のことを遠隔で分析しながら、グロウタースで戦っている3人に情報を送っている。早く、何が起こってこうなったのか知らせなければ、何も知らずに尻拭いに行った雷帝親子とゾナの命が危険だ。

「ね?ね?ねっ!?オレ行くから、あれの設計図、早く出して!姉ちゃんに蔑まれてくるから!ね!インファには……嫌われてるけど、インジュは友達だし、姉ちゃんの夫だし!ゾナはおまえとイリヨナちゃんの先生だ。怪我とかしてほしくないんだよね」

父王にとってインジュは、娘婿だ。インファとは相当な信頼関係がある。ゾナには警戒されているらしいが、兄弟の杯を交わしているリティルの守る風一家の一員だ。ジュールにとっても大切な3人だ。

魔王と呼ばれるジュールが、苦渋の表情を浮かべていた。

ペオニサが、インファを除く、風四天王と仲がいいことをジュールは知っている。スケープゴートに立てることで、しがらみのない友情に影を落とすことになるかもしれないことを、父王は案じてくれたらしい。魔王のくせに、こういうときだけ優しいなんて反則だと思う。さっさと鼻つまみ者の息子を人身御供しろと思う。

「すまんな、ペオニサ。これをリャリスに渡したら、何も言わずに速やかに帰ってこい。一言も口を開くな。誰に何を聞かれてもな」

抵抗するアシュデルを抑えて、ジュールが丸めた羊皮紙を手渡してきた。これが、変身の魔導具の設計図のようだ。ペオニサには理解できないが、イシュラースの三賢者・次席の姉、リャリスなら紐解けるだろう。

「あっははー。親父の謝罪なんて珍しいモノ見られたし、いいよ。じゃあね!」

「兄さん!」

ペオニサは、華奢なミイロタテハの羽根を羽ばたかせて、風の城に急いだのだった。

ジュールの言いつけ通り無言を貫いて、変身の魔導具の設計図を持ってきたペオニサに、リャリスとリティルが不審そうな視線を向けていたが、逃げた。逃げ足だけは速いのだ。

ペオニサが帰って来ると、入れ替わりで今度はジュールが風の城へ向かった。

そして、一連の事件は、ペオニサの引き起こした物とされたのだった。


 ペオニサは、面倒くさがりだ。

だから、本来こんなに要注意人物とは関わらない。

歯車が狂ってしまったのは、末弟が産まれてからだ。弟妹はお腹いっぱいくらいいるのだが、ミモザの、丸くて小さな黄色の花が髪に咲くその子を見た時、あ、オレ、この子守る。と思った。理由なんてわからない。ただ、花の十兄妹の長兄からは、絶対に守ると誓った。

それまでは、何となく風の城と付き合っていた。

風の城とだって、危機感さえなければ、行こうとすら思っていなかった。

 フリージアの精霊・リフラク。美形と言えば美形なのだが、可愛い面立ちをした、男だ。彼に上目遣いに涙に潤んだ瞳を向けられると、誰でも言うことを聞いてしまうようなそんな魔性がある。

彼も、昔から怖かったわけではない。

むしろ、格好良かった。剣の腕も魔法もそつなく使いこなして、あのまま真っ当に行けば、風の城の雷帝・インファと並び称される精霊になっていただろう。

だが、そうはならなかった。

嫉妬って怖いとペオニサは思った。

 リフラクは、インファに傾倒していった。

芸術品のようなその存在。

隙のない気高い立ち居振る舞い。

風の王を支えるその手腕。

多くの精霊達を惹きつける、知識。

そして、自分と同じ長兄ということ。

最初は純粋な尊敬だったはずだった。それがいつの頃か変わってしまった。

 狂っていくリフラクを止めようとしていたのは、コスモスの精霊・チェリリだった。生まれが2年しか違わないチェリリにとって、兄のリフラクは一番近い兄妹だった。チェリリはインファを追いかける兄を、常に励ましていた。相棒でもある彼女は、ペオニサからすれば、近すぎない?と思える献身ぶりでリフラクを支えていた。

しかし、どんなに頑張ろうと、インファがリフラクを見ることはなかった。

当然と言えば当然だ。インファにはすでに、インジュがいる。息子だということを差し引いても、誰も代わりにはなれないほどインファをよくわかっていて、そして支えていた。それだけでなく、インファには支えてくれる家族の存在があった。今更、外から自分の懐に入れなければならない能力などありはしなかったのだ。

あ、これ、ヤバくない?

ペオニサが気がついたときには、リフラクは、想いを拗らせていた。まるで、絶対に振り向いてくれない人を想い続けている、歪んだ恋心のような、ほの暗く穢れた感情だった。

 このままでは、インファが傷つけられるかもしれない!そう思った。

気がついたら、ペオニサは姿見を抜けて、風の城にいた。

風の城の応接間に足を踏み入れたのは、成人の挨拶に来て以来だったように思う。それくらい、ペオニサにとって風の城は、近くて遠い場所だった。

「あ、あのさ、インファ!」

ソファーにいた、完成された美術品のような男性が、声をかけると顔を上げた。視線を合わせてきた金色の瞳が、どんな宝にも勝る宝石のようだった。

「何ですか?」

どう警告していいのか、わからなかった。だからか、インファに対しては妙に緊張して、彼が一番嫌うアプローチになってしまった。

「今日も、すげぇ綺麗だね!」

視界の端で、インジュが首を横に振ったのが見えた。「ダメ。それ、ダメです」声が聞こえた気がした。訝しげにこちらを見ていたインファが、ニッコリと微笑んだ。

「抱きませんよ?」

嘘でしょう!?この顔でそんなこと言われたら孕む!と思ってしまっている時点で壊滅的だ。すべてが凍り付くほどに冷えた瞳を見返しながら、ペオニサは弁解を試みる。

「え?待って待って?オレ、あんたにそんなこと言ったことないと思うよ?」

「魅了の力、だだ漏れていますよ?」

まったく笑っていない瞳で、笑みを顔に貼り付けたインファが指摘してきた。

「や、違う違う!これはその……」

緊張して、力の制御ができないだけで……あれ?これ、誤解されて当然では?インファとは最悪となった初対面だったが、インジュとは仲良くなる切っ掛けになるのだから、何がどう転ぶかわからないものだ。

「ペオニサ、その着物、気合い入ってますねぇ。どこ産ですかぁ?」

よく見せてくださいよぉ。と、インジュが笑って手招きする。もとより、インファにかける言葉を見失っているペオニサは、ほぼ初対面でもインジュのもとへ飛んでいくしかなかった。

 応接間から連れ出しながら、インジュは苦笑していた。話ながら速やかに応接間から連れ出すなんて、この人やるなと思ったことを覚えている。インジュは、応接間に面した中庭に出ると、柔らかな微笑みを浮かべたまま、これまで喋っていたことを唐突に終わらせると、話題を変えてきた。

「本当はお父さんに話、あったんじゃないんです?」

見透かすインジュに、ペオニサはもうこの人でいいやと警告した。

「大したことじゃないんだけどさ、花の十兄妹の長男、フリージアの精霊・リフラクに気をつけて。なんか、ヤバイ」

「へえ?ついに壊れちゃいましたぁ?」

柔らかく笑ったインジュの瞳に、狂気があった。

「知ってたんだ……インファに話しかけなきゃよかった……」

もお嫌!ペオニサは脱力した。そんなペオニサを、フワリとした微笑みで見ていたインジュが言った。

「ペオニサって、見掛けによらないですよねぇ?」

「はいい?見掛け通りだよ?女の子大好き、いつでも頭の中お花畑!」

「経験何人です?」

ニコニコと微笑むインジュが畳みかけてくる。

「それ聞きます?オレ、縁結びの力持ちの精霊よ?あと、色欲魔・ジュールの息子!」

どうして、インジュに張り合うようなことをポンポン言ってしまっているのか、意味不明だった。

経験なんてあるわけない。グロウタースの民を孕ませたら、大事だ。女の子達との会話は楽しいがそれだけだ。彼女達に傷は付けたくないし、ジュールと違って生まれてきた子供の面倒なんて見られるとは思えない。だから、ペオニサは、絶対に手を出さないと決めていた。

「ボク、受精させる力の精霊なんで、何となくわかるんですよねぇ」

意味ありげに見つめられ、居心地が悪い。そしてペオニサは、インジュにペオニサは女誑しだという噂が噂にすぎないことを、見抜かれたことを知った。

だが、この噂は、死守しなければならないと、ペオニサの生存本能が警告していた。

「それ、暴いちゃダメなヤツ!あのね!オレの女性遍歴なんてどうでもいいの!とにかく、リフラクはマズいから、インファに言っといて!」

「そんなに緊張しますぅ?お父さんに近づきたいなら普通に話せばいいのに」

インジュは不思議そうだったが、インファに固執するリフラクの手前、ペオニサが彼に近づくことは寿命を縮める行為にも繋がる。警告したかっただけで、金輪際近づくつもりはないのだ。

「あっはは。心のガードが鉄壁なんだよ。オレ、花の遊び人だから特に警戒されてるし。無理無理。リフラクがなんでかはわからないなぁ。あの人、あれでノーマルよ?」

本当に、なぜリフラクが道を踏み外したのかわからない。兄ほどの人なら、切磋琢磨して、雷帝・インファの好敵手になれただろうに。

「知ってますよぉ。お父さんにそんな感情向けた時点で、ボクが殺してます」

格好可愛い顔に、凶悪な笑みを浮かべたインジュに、ペオニサは内心ホッとしていた。

「わーお、守護神いた。じゃあ、オレの出番ないかな?あーあ、心配して損した」

 じゃあ帰ろうとしたときだった。インジュが、唐突に言ったのだ。

「ペオニサ、友達になってくださいよぉ」

「はいいいい?ヤダよ。なんか怖い」

感想は、なんで?なんで?だった。風の精霊、風の城は戦いのエキスパート集団だ。その中でもインジュは、風の最強精霊と言われている。そんな精霊に友達になってと言われる意味がわからなかった。色々サボっているペオニサでは、彼等が生業にしている魔物狩りを手伝うことはできない。利用価値などないに等しい。

そんな精霊となぜ、関係を継続させたがるのか、風四天王、補佐官、煌帝・インジュという輝かしい精霊の考えがまったくわからなかった。そんな混乱するペオニサの腕を、インジュは逃がさないとばかりにガシッと掴んだ。そして、柔らかく微笑んだ。

「病気がちな深窓の令嬢が、バルコニーの君に恋してるんですよぉ」

「な、なに?バルコニーの君って何?」

いきなり何の話?ペオニサは背中を変な汗が流れ落ちるのを感じた。

「病気、たぶん生きる気力があれば治るんですよねぇ。バルコニーの君もその人の事好きなんですけど、踏ん切りがつかないんです」

「う、うん……?」

ゴクリとペオニサは生唾を飲み込んだ。

「縁結び、してくれません?」

思わぬ申し出だった。驚きすぎて、目の前がチカチカした。

「はいい!?や、親父に黙ってはマズイ」

「ジュールさん、忙しいってきてくれないんですよねぇ」

「あ、うん。親父、1人のためには動けない……かな?」

「バイトしません?縁結びの」

「え?え?えええ?ちょっとぉ!?」

「ジュールさん、ボクの義理のお父さんなんですよねぇ。大丈夫ですよぉ」

ジュールが、娘婿に絶大な信頼をおいていることは知っていた。そして、リャリスが、不能な彼にベタ惚れなのも知っている。話だけなら、ほぼ初対面のペオニサはインジュの事をよく知っていた。

が、この女性と見まごうばかりの美貌の精霊が、見掛けとは違うことをペオニサは悟った。悟ったというか、インジュ自身に悟らされていた。彼は、微笑む瞳に浮かぶ感情がクルクルと変わる。こんな、笑顔が複雑な人は初めてだった。彼の思惑なんてわからなかったが、惹きつけられていた。

あとちょっとだけなら、付き合ってもいいかな?と思ってしまうくらいには。

「え?あ、うん、インジュはオレの義兄さんだけどさぁ。ああ、もお!わかった。行くよ。行けばいいんだろ!」

それは、まだ、花の八兄妹の頃だった。

 後日、なぜあんなに強引だったのか明かされた。インジュは、ジュールとリャリスから、面白い次男がいるということを聞いていたというのだ。それで、ほぼ初対面だったのに、名を知っていたのかと合点がいった。

面白いって何?と思ったがインジュは「聞いてたとおりで、ボク、ペオニサの事好きです」と告られた。あまりに裏表ない笑顔で、ペオニサは咄嗟に「オレも好き」と返してしまった。

それからインジュとはずっと友達だ。


 最悪な初対面から今までで、インファの態度はかなり軟化した。

初対面での「抱きませんよ?」発言をからかって「女装して」とか「美人」とか言えるようになったくらいは打ち解けている。その都度、背後にブリザードが吹き荒れるが。

インファも、本気では嫌がっていないように思われるが……どうなのだろうか。顔を合わせると「いつものヤツをお願いします」と言われているような気がするのは、気のせいだろうか。そんなインファの態度に甘えているが。

「え?嘘、シェラ様?」

アシュデルのことを頼んだ手前、リティルのことが気になって、風の城と闇の城と太陽の城をウロウロする生活をしている。

太陽の城と風の城は、鏡に仕込まれたゲートで繋がっている。太陽の城側の鏡は、元玉座があった高い高い階段の上にあった。それを越えようとしたペオニサは、そこで風の城側から鏡を越えてきた者とバッタリ会った。

青い光を返す不思議な黒髪に、丸い白い光の花が咲いている。紅茶色の大きめな瞳の可憐な美姫だ。背に生えたモルフォチョウの羽根は花の姫の証。彼女は、風の王・リティルの愛妻、花の姫・シェラだ。

彼女は今、病で伏せっているはずだ。それが、どうしてここにいるんでしょうか!?ペオニサは焦って、当たりをキョロキョロ見回してしまった。

「大丈夫。心配しないで」

「心配しますけどお!?ただでさえ、インファとインジュがいなくて不安なのに、こんなとこ来ちゃダメでしょ!……って、オレのせいだけど」

優しく笑うシェラに、ペオニサは思わず詰め寄っていた。

「あなたのせいではないでしょう?」

「おれのせいだから!とにかく、帰った方がいいって!リフラクいるし」

クスクス笑うシェラにキッパリ否定しつつ、ペオニサは追い返す気でいた。

今のシェラは、心の闇に当てられてしまう。それは、イリヨナが初めて風の城を訪れたとき、突如として子供達から沸き起こった闇に当てられてしまったことが事の発端だ。

イリヨナと共に倒れたと聞いた。

それから、心の闇を優しさという光に変えているらしいリティル、闇を完璧に封じているインファ、そもそも闇がないインジュ以外とは長く共にいられないと聞いていた。そのうちの2人が、今、不在だ。

ペオニサは自分の闇がどれほどかはしらないが、ここには、超弩級の闇を内包する化け物がいる。花の十兄妹、長男・リフラクだ。あの人の心が闇にドップリなのは、心の闇の形が見える闇の精霊ではなくてもわかる。

インファとインジュが不在のうちに、シェラに何かあったらもう、目も当てられない。

「ペオニサ、わたしはリフラクを驚異だとは思っていないわ?」

「それ、シェラ様の個人的な意見でしょ!ダメだよ。何しに来てんの?」

意外な言葉だったが、そうかと頷く事なんてできなかった。アシュデルから、気をつけてと言われてしまった。信じたくはないが、ペオニサは兄にとって殺したいほど目障りなのだ。付き合いの長い兄弟にまで殺意を募らせているヤツなんて、すれ違うだけでもシェラの体調に悪影響だ。

「アシュデルに会いたいの」

「え?リティル様の差し金?」

真顔で問うてしまったペオニサに、シェラは一瞬驚いたように目を大きくしたが、すぐに微笑んだ。

「いいえ?ウフフ、あんなに毎日会っていたのに、成人した途端に引きこもってしまうなんて、どうしたのかと思っただけよ?」

母親として、娘の友達のことが気になるとシェラは、心が癒やされるような微笑みを浮かべていた。

うっわー癒やされる!とジーンと感極まるペオニサは、それでも引き下がらなかった。

「どうもしないよ。ちょっと、背が伸びただけだから」

「背?アシュデルは背の高さをどうにかしたくて、変身の魔導具を作ったの?」

シェラは変身の魔導具がアシュデル作だと見抜いていた。ペオニサは顔に「作者はアシュデルです。正解です」と顔に出そうになって笑って誤魔化した。

「!?あ、あはははは。い、嫌だなぁシェラ様、アシュデルはただ落ち込んでるだけで……」

「アシュデルよね?」

「ち、違うって、オレだよ!?」

「なぜ隠すの?インジュが不思議がっていたわ」

「……インジュはさ……オレのこと、信用しすぎ……」

インジュの名を出されると、結構痛い。これで、友達関係が終わったかと思うと、寂しくなるくらいには、彼の事が好きだった。

「インファも、あなたではないと信じているわ」

「うっわ……怖っ!オレ、インファに両刀だと思われてるよ?」

インファが性関係が苦手なことは知っている。それは、遙か昔にあの美しすぎる容姿のせいで女性に群がられ、大変な思いをしたからだとインジュに聞いた。軽薄な言動のペオニサが、インファに受け入れられることはあり得ないのだ。

「そんなことはないわ?だってあなた、どう――」

ちょ、嘘!?風の王妃様のこんな可愛らしい唇から、言わせていい言葉じゃないとペオニサは慌てて止めた。そうだった!この人も、花だった。性的魅了の使い手だった!と冷や汗を垂らした。

「言わなくてもいいことあるよね!?インファには嫌われてる!それでいいから」

「なぜ?」

「なぜって……」

この話題ここではマズイ。非常にマズイ。リフラクにこんなとこ、見られでもしたら……

「何してるのぉ?そんなところで」

これって、お約束だよね?そうだよねー。ペオニサは、フフフと笑いながら観念したように目を閉じていた。

途端に、尻拭いでグロウタースに行ったインジュの声が蘇った。

事が発覚してすぐ、インジュは水晶球に通信を寄越してきたのだ。変な魔物が出たからグロウタースへ行くと言っていた。

「ペオニサ、ボクがいないんですからぁ、あんまり無茶なことしちゃダメですよぉ?」

あの頃はまだ、これをしでかしたのは、ペオニサだという情報はインジュには行っていなかった。ペオニサもまさか、アシュデルがしでかしたとは知らなかった。

ごめん、インジュ。オレ、あんたが帰ってくるまで生きてないかも?トホホと、ペオニサは自分をあざ笑った。だが、もういいかもしれない。情報が伝わっている今、インジュがそのまま心配してくれているとは限らない。

ペオニサが死んでいても、あんなことをしでかすヤツだからと思われて、終わりかもしれない。そう思うと、哀しい。

大して強くもないのに、首を突っ込んだあげくがこれだ。しかし、ただでは殺されてやれない。せめて、アシュデルをこの城から逃がさなくては!とは思うのだった。

「何って?風の王妃様とだべり中」

華やかな作り笑いを浮かべて、ペオニサは兄を振り返った。

兄――フリージアの精霊・リフラクは、いつの間にここまで来ていたのか、真後ろに来ていた。インファ云々のくだりを聞かれた事は確かで、エメラルドのような綺麗な瞳に、淀んだ光を宿して、彼は笑っていた。

昔は可愛かったのだ。フワッフワの肩までの緑色の髪に、フリージアが咲いている。

剣も魔法もそつなくて、必殺涙目の上目遣いでどんな情報でももぎ取ってくる。

何でこの人、インファに固執しちゃったの!?と何かの間違いだと信じたい。

可愛くて強かった兄に、戻ってほしい。戻ってほしいのに、何をすればいいのかわからないから、もどかしい。次男の、ただ縁結びの力がちょっと強いだけの精霊じゃ、望むだけ分不相応なのだろうか。今でもペオニサは、壊れる前の兄に戻ってほしいと思っている。

「リフラク――」

え?ちょっとなんでこの人前出ようとするかなぁ!ペオニサは慌ててシェラを背に隠した。目の前の兄からは、闇が見えないペオニサにもわかるくらいの殺気が、ビシビシと放たれていた。

「何?」

可愛いなぁとつられて微笑んでしまいそうな笑みを浮かべて、リフラクはコテンと首を傾げた。ペオニサの背中を、冷たい汗が流れていた。

「やあ、シェラ!なかなかこないから出向いてしまったよ?」

ザッと室内の空気を大袈裟に揺らして、この城で一番華やかな男性がリフラクの背後から飛び上がってきた。花の王・ジュールだ。ペオニサは脱力して座り込みそうになって、何とか耐えた。

「ペオニサ……おまえは、麗しの姫君のエスコートも満足にできないのか?ん?」

圧倒的な存在感で、波打つ緑色の長い髪をなびかせ、信じられないほど優しい顔をした魔王が降臨した瞬間だった。

「ごめん。 美しさを褒めちぎるのに、時間かかっちゃってさ。じゃ、オレはこれで――」

もお逃げたい!ペオニサはこの場を父王に丸投げして、風の城に逃げようとした。しかし、すでに逃げられなかった。ジュールの牽制を無視して、リフラクは口を開いたのだ。

「ペオニサ、インファと…………仲、いいのぉ?」

何?その間!ペオニサは顔が引きつらないように作り笑いを浮かべた。

「ええ?冗談言わないでよ。顔見せる度に刺されそうな視線向けられてるよ。当たり前でしょ?」

ホントの事!本当の事だから!お願い!信じてリフ兄ぃ!と思った。

「アハハハハハハ!そうだろうそうだろうとも。インファは、おまえのような軽薄男は好かん」

ジュールは自身の過去を棚に上げ、言い放った。一線を決して越えないペオニサと異なり、ジュールは越えまくっていた。そんな彼の誘い文句は「わたしの子を産んでくれないか」だ。それを知ったとき、母は、本当にこんな男でいいのか?と思ってしまった。

ちなみに、インファは、そんな女誑しのジュールを頼っているところがある。「ジュールが出てくれるなら、安心ですね」とあのインファに言わしめる父は、イシュラースの三賢者の筆頭で、賢魔王の異名を持つ元5代目風の王なんだなと思う。

「ええ?それ、親父が言うかなぁ?ま、いいや。オレ、姉ちゃんに用事だから」

割り込むようにペオニサの前に舞い降りてきたジュールにシェラを託すと、体力をゴッソリ削られたペオニサは姿見を越えていた。ジュールの後ろから、ほの暗い殺気を放っているリフラクに睨まれていることに、ペオニサは気がつかなかった。


 鏡を越えたペオニサは、うっと息を飲んだ。そして、まだまだこの苦行は終わらないのだと悟った。

風の城の応接間のソファーには、リティルの他に、茶色の短い髪に底冷えする紫色の瞳の青年と、濡羽色の艶やかな髪の赤い瞳が綺麗な美少女がいたのだった。

「ん?ペオニサ、シェラと一緒じゃなかったのかよ?」

「リティル様の仕業?親父が来てくれなかったら、オレ、死んでたんだけど?」

本当に今日が命日だと思った。ブスッとしたペオニサに、リティルは明るく笑いながら爆弾を投下した。

「ハハ、おまえなら何とかなるだろ?あいつが相手でも」

あいつが相手でも?この人、リフ兄がいること知ってて!?もお、信じられない!とペオニサはその場で叫んでいた。

「ならない。ならないから!オレじゃ無理!なんで許しちゃってるの!」

「そりゃ、オレに守られてるだけの女じゃねーからだよ。ほら、こっちに来いよ!」

行きたくない。非常に行きたくない。オレ、すっごい睨まれてる。とペオニサは息を飲んだが、風の王の言葉に逆らう体力はとうになかった。

仕方なく、ソファーまで飛ぶと、リティルはポンポンッと自分の隣を叩いた。隣に座れって!?と思ったが、このまま、風の王の養子達の視線に蜂の巣にされたくはない。ペオニサは示されるままにリティルの隣へ舞い降りた。

「ね、ねえ、シェラ様、ホントに大丈夫?」

「ああ。あいつが大丈夫だって言うんだ、大丈夫だぜ?」

花の姫・シェラは、風護る戦姫の異名を持つ勇ましい姫君だ。そして、元2代目翳りの女帝。そんな人が、弱いわけないかと、ペオニサは一応納得した。

「それより、見ろよ」

それより?この人、王妃様のことそれよりって言った!?とペオニサはギョッとしたが、水晶球に映し出された光景に意識を瞬間奪われていた。

「魔物の方は終わったぜ?あとは、魔導具の回収だ」

小さな無人島のある海上。ゲートを的確に開くことのできる次元の大樹・神樹の精霊が、グロウタースに行ってしまった魔物の出現箇所を寸前で修正した。

魔物の大きさが尋常ではなく。彼女の力を持ってしても、出現箇所を捻じ曲げることしかできなかった。力を一時使い果たして眠りに落ちるその時、風の王に謝る彼女の声を、ペオニサは聞いた。ペオニサだけでなく、多くの精霊が聞いたことだろう。それで、大変なことが引き起こされたことを、イシュラースは知ってしまったのだ。

神樹の精霊の言葉と、あまりに巨大だった魔物を目撃した者が多く。すでに、もみ消せない事態となっていた。

 水晶球に映し出された光景。それは、巨大な魔物の断末魔だった。黒い靄となって体を失っていく魔物。天へ向かって差し出された手の先に、インジュがいた。

ペオニサはインジュに手が届いてしまうんじゃないかと、逃げて!と思わず拳を握っていた。伸ばされた手を見据えたまま微動だにしないインジュの目と鼻の先で、魔物の手が崩れて消えていった。

はああと息を吐いたペオニサは、鋭く睨まれていることに気がついた。顔を上げると、紫色と赤色に突き刺されていた。

「父さん、なんでこいつ出禁にしないの?」

もっともな意見でございます。ペオニサがそれを言いたい。風の王の養子の次男・レイシの紫色の冷たい瞳がリティルに合わさり、ペオニサは突き刺さった剣を抜かれたような気分になっていた。ノコノコ出入りしているペオニサもペオニサだが、ジュールと顛末を話したはずのリティルは出禁の処置をとらなかったのだ。

「ペオニサには、知る権利があるからな」

いや、知りたいけど、親父通せばよくない!?そう思うことは、間違ってないと思う。

「お兄ちゃん達をこんな目に遭わせたから?」

結末を見届けるのが、罰だとそういうこと?それも一理あると、黒髪の美少女、破壊の精霊・カルシエーナに頷きそうになって何とか耐える。

「おまえら、本当にペオニサがこれやったと思ってるのかよ?」

へっ!とリティルは子供達の顔を、愉快な物を見るような目で交互に見た。

嘘でしょう!?ペオニサはギョッとした。さっきほど会ったシェラも同じような事を言ってくれたが、なぜ、潔白を信じてくれているのかペオニサはわからなかった。

「リ、リティル様!?オ、オレだよ?オレがやっちゃったんだよ?」

み、見られない。風の王の養子達の方は見られなかった。

「おまえも大変だよな。安心しろよ?インジュもインファも、ああ、ゾナもそんなこと信じてねーからな。誰がやったにしても、真犯人を捜す気もねーよ」

「あ、そ……」

真犯人を詮索しないと明言され、あからさまに安堵してしまった。リティルの探るような笑みに気がついて、ペオニサは引きつった笑みを浮かべた。

「2人とも、いい加減にその曇った目を何とかしろよ?ペオニサがイリヨナと繋がってるからって、悪者にしてんじゃねーよ。あいつのことを、シェラに頼み込んで産んでもらったのはオレだ。あいつがどうしてこねーのか、考えてやれよ?」

ここで、オレの擁護はマズいのでは?なんで、こんなときに来ちゃうかなぁ!オレ!とペオニサはいたたまれなかった。イリヨナは、兄達の心に波風立てない為に、闇の領域に引きこもっているというのに、これじゃあ逆効果だ。

 レイシの憎しみはもっと根源的な物だ。

レイシは、風の王・リティルに敵対した前太陽王の息子なのだそうだ。

産まれた時に殺されそうになったところを、救われ、リティルとシェラが秘密裏に養子にした。200年くらいは隠し通せたらしいが、ついに露見し、当時、まだ上級精霊でしかなく、歴代風の王としてみてもさほど強い王ではなかったリティルは、前太陽王と全面戦争になった。前太陽王に幽閉されていた初代風の王を見つけ出せなかったら、リティルは今頃代替わりしていただろうほどの戦いだったらしい。

助け出した初代風の王・ルディルが、現在の太陽王、夕暮れの太陽王・ルディルその人だ。ペオニサが居候している城の主だ。

レイシはその時、実の父に会っている。そして、拒絶を受けている。その上、慕っていた養父のリティルを、目の前で実父の手で刺されている。

レイシは、自分に流れる血を拒否した。自分に流れる血を憎み、望んでも得られない風の王・リティルの血を欲して、手首を切った。彼の左手首にはまった金の腕輪の下に、その傷が未だに残っている。

レイシは今でも、風の王・リティルの本当の息子になりたい衝動に襲われ、血への憎しみにたまに襲われている。父を巡って付けられた心の傷は永遠に癒えないのだ。

 それを、ペオニサはなぜかインファから吐露された。

「なんで、オレに言っちゃうかなぁ?」

聞きたくなかったとあからさまなペオニサに、インファは憂いを帯びた瞳で笑った。

「なぜでしょうかね。あなただったから。かもしれませんね」

「うっわ、それ反則。オレの腹ん中、どうとでもしてって思っちゃう」

ペオニサの虚勢の軽口に、インファは途端に色気を纏った痺れるような鋭い笑みを向けてきた。性的なことが苦手なのに、こういう芸当はできるのだから、ペオニサはインファをすげぇと思う。

「どうにか、するほうでは、ないんですか?」

……インファは、顔面凶器だと思う。

なんで隣なんかに座っちゃったかな!?過呼吸になりそうなペオニサを無視して、インファは机に視線を落としながら語り始めた。

「イリヨナは、初代翳りの女帝・ロミシュミルの欠片を使い、産み出された娘です」

初代翳りの女帝・ロミシュミル。無能故に、影法師の精霊・ルッカサンに見限られ、彼のクーデターに巻き込まれたシェラの手で討たれた精霊だ。

シェラはその時、彼女から闇の王の証を奪い取って2代目翳りの女帝となった。

3代目翳りの女帝・イリヨナが産まれることになったのは、シェラを取り戻したかったリティルと、2人に夫婦に戻ってもらいたかった者達の想い、思惑の果てだとインファは静かに言った。

「オレも呆れるほどの女の欠片から産まれたイリヨナを、レイシは愛そうとしていますが、無理なのでは?と、オレ自身は思っています」

「そんな、身も蓋もないこと……。イリヨナちゃんのとこ、レイシ来てるよ?意地悪だけど優しいって、イリヨナちゃん言ってたよ?」

「妹は、可愛くていい子ですから。助けてくれるレイシに、答えようとしているんですよ。今は、イリヨナの容姿がロミシュミルと似ても似つかないので、レイシの憎しみを刺激していないだけです」

「そうかなぁ」

イリヨナを見るレイシの目は、兄弟の情に溢れた優しさがあると思っているけどと、ペオニサはシャンデリアを仰いだ。

「父と母を引き裂き、苦しめるだけ苦しめた女が、自分が渇望しても得られないモノを手に入れたんです。レイシの怒りと哀しみは計り知れません。オレに、守れるかどうか……」

「……離れて暮らさなくちゃならないのは、この場合救いなんだね。インファは?わだかまりとかないの?」

何気なく聞いたことだった。机に落としていた視線を、インファはゆっくりとあげた。

「ありませんよ?イリヨナは、血を分けた、可愛い妹ですから」

……インファは、顔面凶器だと思う。

心の底からイリヨナを思っている微笑みだった。

 オレも、守りたい。アシュデルのこと。

どうしてなんて、わからない。けど、守ってやりたいと思った。軽々と越えていくのだとしても、今は、兄として末の弟を守りたいと思った。

「あっははー。なーに言っちゃてるのかなぁ?リティル様は!」

おかしそうに笑ったペオニサに、皆の視線が集まった。こんなことでアシュデルを守れるなら、鼻つまみ者の放蕩息子を踊って見せよう。

「あと魔導具回収するだけ?さっすが雷帝親子と大賢者様だね!やらかしたときは焦ったけど、何とかなってよかったよかった」

うんうんと頷いたペオニサの首に、黒い艶やかな髪の毛が絡んできた。見れば、怒りを滾らせた赤い瞳をギラつかせて、カルシエーナがペオニサに向けて自在に伸び縮みする髪を操っていた。父王の手前、瞬殺することを躊躇ったのがわかった。

「あっはは。怖いなぁ。カルシエーナちゃん。これでもオレ、反省してるよ?もうしないから、許して?ね?」

「おまえなぁ……」

リティルが隣で大きなため息とともに、前髪をガシガシと掻いていた。怒りの矛先を外してくれようとしたことはわかっていたが、万が一真犯人は誰だ?と、この2人が思うことだけは阻止したかった。

ペオニサは、笑ってみせた。

「ごめんね、リティル様。インファには、ヨロコンデ体で払うって言っておいてね!」

「言えるかよ!」

リティルから立ち上った風が、ペオニサに絡んだ髪を断ち切った。それを合図に、ペオニサは羽根を広げると大鏡に向かって飛んでいた。

これでいい。これでいいと思っていた。このときは。

異形の姿となった弟に、そんな感情を、向ける権利があるとしても向けてほしくなかった。誰も悪くない。

罪を引き受けたペオニサを、守ってくれようとしたリティルの優しさも。

兄と家族が危険に晒されたと、怒り狂うレイシとカルシエーナも。

そして、異形となったその姿を変えたいと思った、アシュデルも。


 あいつ、どう見ても、インファ好みだよな。

ペオニサが、だいぶ昔に突撃してきて、それからインジュに引きずられて度々風の城を訪れるようになった彼をずっと見ていて抱いた、リティルの感想だ。

最初は、女好きの縁結びの力の強い花の精霊ということで、インファは警戒していた。後に初対面をインジュに聞いたのだが、いや、笑いながら一方的に話してきたのだが、インファに対するには最悪だった。最悪だったが、ねあかで、自分の能力をよくわかっていて、出しゃばらないが、影では努力しているペオニサは、インファに対する謎の緊張感がなければ、インファとも十分友達になれると思えた。

アシュデルが産まれ、彼を猫ッかわいがりしだした姿に、リティルは、インファと急激に距離が縮まると思っていた。インファは根っからお兄ちゃんなのだ。暇さえあればイリヨナの様子を見に行っていたインファと、インジュ抜きで顔を合わせる機会も多くなったが、リティルの思惑とは裏腹に、2人の距離は縮まらなかった。

これは、ペオニサがインファとの距離感をコントロールしているのだろうかと、リティルは思うようになった。兄・リフラクを刺激しないために。

なんだ、インファも承知の上なのか。そう思った。インファとリフラクの間に、何があったのか、彼が微塵も何も見せないためにリティルではわからない。

だが、ペオニサは明らかに、リフラクを恐れている。

「あのお兄さんより、ペオニサの方が強そうですけどねぇ」とは、インジュの言だ。

インジュは、リフラクがインファに対して決定的なことをしてくることを、待っている節がある。大義名分を手に入れたら、即殺すつもりなのだと、リティルは察している。インジュは、命を奪えない戒めがかかっていて、命を奪えば罰を受けることになるのだが、それすらいとわないくらい、リフラクが存在的に許せないらしい。

いったい、何があったのか。気にはなるが、詮索はしない。ジュールにそれとなく聞いてみたが、好きにすればいいと素っ気なかった。自分の子とはいえ、すでに大人だ。元風の王であるジュールは、行く末を静観する気のようだ。

リティルも静観してはいるが、インジュが斬るというのならオレがヤル。くらいには思っている。まあ、当事者となりうるインファがそれを許さないだろうが。

 いや、今はリフラクの事より、ペオニサのことだ。

昼行灯が表に出ちゃダメだろ?と思う。

あいつが本気になれば、風の王の懐刀と称される、レイシともそこそこやり合えるはずだ。その実力を上手く隠しているくせに、今回の騒ぎは彼の流儀に反するだろう。突いてみたが、ペオニサは頑なだった。「あれぇ?バレちゃった?」という反応を期待していた。そうだったなら、どんなによかったか。

「ペオニサのこと、注意しといてくれません?」グロウタースへ向かったインファ達に、事の顛末を伝えたとき、インジュはいつになく神妙だった。

「まったく、彼らしくありませんね。背負いきれないモノを、背負っていると思われます」インファは怒っているようだった。

「ジュールの策なら、あの厄介な長男をスケープゴートにしてこれを機に抹消しそうなものだがね。ペオニサの独断かね?なんにせよ、慣れないことをしたものだよ」ゾナが珍しく心配していた。同じ生徒を教えて教師仲間とでも思っているのかもしれない。

表向き、ペオニサのせいで迷惑を被った3人からよろしくされ、リティルは苦笑いだった。思いの外、一癖も二癖もある3人から愛されているペオニサのことが、面白かった。

「ペオニサがやったって、信じてねーのな?」とリティルが言うと、3人は真顔で、

「ペオニサじゃありませんよぉ」「彼ではないですね」「彼であるわけがあるまいよ」と口を揃えた。そして改めて「ペオニサをよろしく」と言われた。

うーん、清々しい友情だ。

 アシュデルか……。わかっていたことだが、リティルは真犯人を確信した。

そうなのだとしても、頑なすぎる。シェラが探りを入れてくれたが、結局アシュデルには会えなかった。リフラクに遭遇し、ジュールに保護されてしまったから、それどころではなかったのだが。

太陽の城から戻ってきたシェラが「ペオニサを、風の城へ保護できないかしら?」と言った。リフラクは、そんなに要注意なのだろうか。あのジュールの息子だぜ?あのジュールが、子育てに失敗するなんて、信じられないとリティルは未だに半信半疑だ。

だが、インジュが殺害の機会を狙い、インファが警戒のあまり、ペオニサと親交を深められないでいる。腹心として最も信頼する3人のうちの2人が敵だと思っているのだ。それは、重く受け止めなければいけない。

アシュデルを守っているらしいペオニサを風の城に引っ張るには、アシュデルを動かすしかない。イリヨナと引き合わせるとき、やっとアシュデルに会えるだろう。

 ペオニサとアシュデルの保護を急いだ方がいいな。

リティルは、グロウタース組の動向の監視をラスに託し、ペオニサのお願いを果たすために闇の城を訪れた。

通されたのは、サンルームではなかった。落ち着いたしつらえの、談話室だ。

「父様!」

成人したイリヨナは、もう胸には飛び込んで来てくれなかった。それはちょっと寂しいなと思うリティルだった。

「今まで来られなくて、ごめんな」

駆け寄ってきたイリヨナの両手を、リティルは取った。厚底ブーツのおかげで、リティルよりも10センチ背の高くなったイリヨナは、ゆっくりと首を横に振った。

「いいえ。わかっているのですの。イリヨナのせいで……」

ん?リティルはしょげるイリヨナの様子に首を傾げた。

「あんな、手がたくさんある未知の魔物を生み出したあげく、それがあろうことかグロウタースに落っこちてしまうなんて……翳りの女帝失格なのですの!インファ兄様とインジュ、ゾナ先生が対処に向かったとか。イリヨナ、こんな体たらくでは、レイシ兄様にますます嫌われてしまうのですの……」

「いや、あれ、おまえのせいじゃないぜ?」

え?とイリヨナは涙ぐんだ顔を上げた。

魔物は、闇の領域が産みだしている。どうやら、イリヨナは自分の未熟さが招いた事だと勘違いしているらしかった。あんな話題になっていたのに、彼女の耳に入っていないことに、ルッカサンが一枚噛んでいることを、リティルは察した。あの事件の犯人はペオニサということになっているからだ。信頼する剣の師匠があれの犯人だとは、言い辛かったのだろう。

「あー、っとな、誰かが魔物にイタズラしたんだよ。そこに運悪く、ゲートが開いて流出しちまったんだ。大丈夫だぜ?魔物は狩ったからな。3人とももうすぐ帰って来るはずだ」

「そ、そうなのですの?ああ、よかった……」

イリヨナは安堵とともに、床にヘタリと座り込んでしまった。

「はは、ラスのヤツ言わなかったのかよ?」

「イリヨナも聞かなかったのですの。あ、でも、ずっと落ち込んでいたのではないのですの。ペオニサが何度か来てくれたのですの」

浮上させてくれた!と、イリヨナは明るく笑った。曇りのない笑顔に、リティルは頷くと立たせてやる。

 すでに、お茶の用意が調っている、灰色のテーブルクロスの引かれた丸いテーブルについた。

「ペオニサ、いい奴だよな」

「はい!あんなだけど、強いんですの!女性物の着物なんて着崩していないで、ビシッとしていればいいのに」

「はは、あれは、あいつのプライドなんじゃねーか?」

「ビシッとしていれば、もっとモテるのですの!違うのかしら?ペオニサは、楽しいんだけど楽しい時間を提供してくれるだけ。みたいな気がするのですの」

恋愛という感じではないと、イリヨナは言った。それには、リティルも同意する。

「あながち、外れてねーんじゃねーかな?あいつがいると、場が華やかになるよな?」

「はい!哀しいことも、忘れさせてくれるのですの!あ、違うのですの」

「ん?」

「イリヨナ、ペオニサが好きというわけでは……」

モジモジした娘の様子と、イリヨナちゃんに手出すわけないでしょ!?と必死だったペオニサの様子が重なってしまった。

「ハハハハ!」

「父様!」

「いや、悪い!おまえにもちゃんと情緒があって、よかったな」

「で、でも、恋は、怖いのですの」

「ああ。だけど、おまえは知るべきだぜ?例え、叶わなくてもな」

「はい。多くの翳りの中に、あるのですの。イリヨナが知らなければ、悪意は悪意のままになってしまうのですの。きっと、消化してみせるのですの!」

イリヨナは意気込んだ。

「あんまり、1人で頑張るなよ?辛くなったら、辛くなくても、水晶球でだって会えるからな?」

「はい!みんないるから、大丈夫なのですの」

コロコロと笑うイリヨナは、リティルが知っている、幼かったイリヨナと同じだ。面立ちが、ロミシュミルに似ているというだけで……。レイシもわかっているはずなのだ。ずっと、イリヨナのことを、見ていてくれたじゃないか。

治まらないのか?傷口を開き、溢れ出した憎しみは、そんな12年を塗りつぶすほどなのだろうか。

イリヨナはイリヨナだ。そう思っているのは、そうしか見えないのは、リティルだけなのだろうか。魂の輝きが見えるリティルには、例え、双子だったとしても見間違えることはない。イリヨナの魂の輝きは、まったく光っていなかったロミシュミルとは比べものにならないくらいの輝きを、太陽に匹敵する輝きを放っていた。

なぜ、それが見えない?成人したイリヨナの姿を見たときから、レイシの魂の輝きは衰えていっている。わかっているのに、リティルではどうすることもできないでいる。

ここまでだ。そんな割り切り方はジュールのようにはできない。

闇が、心を蝕んでいる。

見えていないのは、レイシとカルシエーナそして、不甲斐ないがリティルとシェラのもう1人の娘であるインリーだ。その3人は、シェラを花の姫に戻すため、翳り異の女帝を娘として産もうという提案に難色を示した者達だ。そして彼等はイリヨナの兄弟だ。

「こればっかりは、力になれねぇ」そう頭を下げてきたのは、カルシエーナの番である再生の精霊・ケルディアスだ。精霊的年齢三十代の大人な彼だが、彼も姉弟には恵まれていない。ロミシュミルに似ているイリヨナを拒否するカルシエーナを、持て余している。

リティルは1度は翳りの女帝の父親になることを諦めた。しかし、3人を納得させることができないまま、強行せざるを得ない事態となり、イリヨナは産まれたのだ。

イリヨナが、兄達に嫌われるいわれはない。娘は、闇の王を巡る事案の最大の犠牲者だ。それが未だにわからない、理解しようとしない3人を、リティルもまた持て余していた。

「なあ、イリヨナ、おまえに会いたいって言ってる奴がいるんだ。会ってやってくれねーか?」

この一言が地雷になるなんて、誰が予測できただろうか。

突然立ち上がったイリヨナの顔が、見る間に赤くなり、そして次の瞬間にはその大きめな瞳から涙が溢れていた。


 破壊音を響かせ、リティルの後ろで白磁の壺が粉々に砕けた。

破片とともに、活けられていたバラの花が水ともに床になだれ落ちた。

「父様のバカあああああああ!」

目の前には泣きじゃくりながら怒り狂う、イリヨナがいる。彼女は、波立つ黒髪のツインテールを振り乱しながら、哀しみばかりを募らせ濡れた黒の瞳で、リティルを真っ直ぐに睨んでいた。リティルはなぜこうなったのか、理解できていなかったが自分が彼女の地雷を踏んだことだけは、辛うじてわかっていた。

「待てよ!イリヨナ、どうしてそんなに怒るんだよ!」

イリヨナの手が、こちらに向かい闇色の球を投げつけてきた。リティルはヒョイッと躱して、愛娘に声を投げた。

「イリヨナは、父様が一番好きなのですの!それなのに、なんで他の殿方の求婚を受け入れろと言うのですの!?」

「へ?まさかの恋敵がオレか!?」

いやいや待て!どうしてそういう話になった?オレはただ会いたいと言ってるヤツがいるって言っただけだ。それなのにどうして、結婚しろという話しになったのだろうか。

「もちろん、父様は父様であって父様以外の何者でもないのです!けれども、イリヨナは哀しいのです!まだ、父様が一番な子供なイリヨナでいたいのです!」

闇の城を訪れると、イリヨナは確かに「父様ーーー!」と満面の笑みで胸に飛び込んで来てくれていた。しかし、それは、血を分けた親子であっても、1属性を司る精霊の王という互いの立場上、共に暮らせないが為の寂しさ故の行動だと思っていた。

闇の球を避けたリティルの足が、ついさっきまで和やかに飲んでいた粉々のティーカップの残骸を踏む。

 風の王であるリティルは、娘が大人の精霊となる12年間、仕事の合間に足繁く闇の領域を訪れていた。他の子供達に与えた以上の愛情を傾けてきたが、それは、共に暮らせない引け目からの行動だった。それが、彼女の異性の価値観を歪めたのか?と焦ったが、どうやらそうではないらしいことを知り、ホッとしたのも束の間。

彼女の怒りを静める術は、見つかっていなかった。

「ま、待てよ!何も結婚しろとは言ってねーよ!ただ、会いたいって言ってるヤツがいるって――」

言い方がマズかったかもしれない。

まさか、精霊的年齢二十代後半で定着した娘が、父親の庇護を未だに欲しているとは思わなかった。背は、子供ほどに低いが。

しかしリティルには、父親が「会わせたいヤツがいる」と言えば、見合いの話だと思ってしまうだなんて、そんな娘心は残念ながらわからない。

 そもそも、不老不死で、子供を産み、次代へ繋げるという概念のない精霊という種族は、男女間の愛情に薄く、恋愛感情がない者も少なくない。そんな種族なのに、なぜにそんな発想になるのかもリティルにとっては不可解だった。リティルには王妃がいて、イシュラースで一番仲睦まじいと言われているから、イリヨナがそんな両親を見て、恋愛、そして結婚に夢を持ち、憧れていることは何となく理解できたが……やはり娘心は理解できはしなかった。

 リティルがハッと身構えた時にはすでに遅かった。

戦闘には狭い部屋、防御はあまり得意ではないという悪条件が重なってしまった。特大の闇の球に、リティルは触れる以外になくなってしまった。

「はっ!と、父様?」

自身の放った巨大な闇色の球がリティルを巻き込んで、パンッと蝶の鱗粉のように弾けたのを見て、イリヨナは我に返った。

当たるなんて思わなかった。風の王である百戦錬磨の父に、自分の拙い攻撃が当たってしまうなんて思いもよらなかった。

 青ざめるイリヨナの前で、鱗粉のような闇が晴れた。

「きゃああああああ!父様!」

陶器も欠片や、花、水で汚れた床に、黄色い毛並みの猫が、キョトンとした顔で座っているのをイリヨナは見たのだった。


「魔物って不思議だね」

一緒に勉学に励んでいたアシュデルが、そんなことを言ったことがあった。

「いろんな姿で、産まれてくるんだね」

「そうなのですの。なぜか、鳥の姿では産まれないんですの」

「ふーん」

どうして今、そんな会話が頭の中に再生されたのだろうか。

混乱しながらイリヨナは、キョトンとしている黄色い猫の首に下がっている、鏡に触れた。これには、ゲートが仕込まれている。リティルの首にあったときは、もっと大きかったのだが、猫の体型に合わせて縮んだらしい。魔導具とは不思議だ。

「誰か!誰か助けて!」

泣きながら開いたゲートは、風の城の応接間に繋がった。

 1度しか来たことのない風の城の応接間。

見回すと、眩しい聳えるような尖頭窓の下、ワインレッドのソファーに誰かが座っていた。

「……イリヨナ……」

「レイシ……兄様……」

レイシの笑った顔なんて思い出せない。だって彼は、いつでも仏頂面だったからだ。眉根を潜ませて訝しげに見つめる冷たい紫色の瞳に、イリヨナは涙が引っ込んで、蒼白になった。カタカタと体が震える。

「イリヨナ、大丈夫?」

ソファーから金色の風が鋭くイリヨナの前に舞い降りてきた。

「ラス……ラス!イリヨナ、イリヨナ――!」

視界を遮るように舞い降りたラスに、イリヨナは蹌踉めいた。

「落ち着いて。何かあった?リティルは?」

肩に触れてくれた手から、ラスの体温を感じて、イリヨナはしゃくり上げながらも何とか平静を取り戻した。

「と、父様を、猫に――変えて……変えて、しま――」

ラスの右目が「え?」と潜められて、イリヨナの腕に抱かれている黄色い猫に合わさった。

「リティル?」

ラスは僅かに動揺して、肩に触れていた手が、イリヨナから離れていた。

「どうすれば――いいの、か――わからなくて……!あああああ!」

イリヨナは、ギュッと猫を抱きしめて泣いていた。

「大丈夫。大丈夫だよ?」

「本当に、そう思ってんの?」

 ラスが、慰めようと再び手を伸ばした時だった。真横から走った黒いモノが、イリヨナを襲っていた。

「きゃあ!」

弾かれたイリヨナは、床に尻餅をついていた。ラスが鋭く視線を向けると、そこには黒いワンピースの美少女が、赤い瞳に怒りを滲ませて立っていた。彼女の生き物のように蠢く髪が、猫を攫っていた。

「ラス、やっぱりそいつはロミシュミルなんだよ。父さんをこんな目に遭わせたんだ。決定でしょ?」

リティルを奪い返したカルシエーナに並び、レイシが立った。

「オレはそうは思わない」

ラスはイリヨナとレイシ達の間に立った。そして、躊躇いなく前髪を掻き上げた。

 露わになったラスの左目は、白目までをも真っ赤に染まっていた。金色の風が彼の足下から巻き起こり、彼の羽織った裾の長い上着を巻き上げ、風が去る頃には、黒いマントに燕尾服という服装に変わっていた。

「ボクも、同意見だよ?レイシ……アンタの陳腐な憎しみ、そろそろ目障りだよ?」

旋律の精霊・ラスは、二重人格だ。今、表にいる彼はジャック。ラスの、殺戮の衝動だ。

「ねえ、そんなに血が大事なら、今ここで、アンタの血を一滴残らず絞り尽くしてやろうか?」

ジャックが腕を鋭く振るうと、その指の爪が長く伸びた。

「はあ?舐めるなよ?殺人鬼野郎」

「フフフ、アハハハハハ!舐めてるよ?半端者のライオンなんて、サーカスがお似合いだ。この子が誰かもわからないくらい、頭の中身も、獣になっちゃったんだよね?これを機に、行けばいいよ。ああ、その前に……その曇りきった目!置いていけ!」

ジャックは仕掛けていた。呆然としたイリヨナの目には、ラスが一瞬消えたように見えた。いつも静かに喋るラスが、あんなふうに高笑いする姿なんて初めて見た。

「イリヨナ……」

「母様……?ああ嫌!」

座り込んだまま立てないイリヨナは、そっとそばに来た気配に視線を向けた。未だ心の整理のついていなかったイリヨナは、叫んでいた。

「待って、イリヨナ」

怯える娘をシェラは落ち着かせようと、ゆっくりと床を這うようにしてイリヨナに近づいた。しかし、怯えきっていたイリヨナは、泣きながら「来ないで!」と叫んでいた。

「ロミシュミルって、どうして……?イリヨナは、イリヨナじゃない?」

「イリヨナよ?あなたは、イリヨナ。わたしとリティルの血を分けた娘よ?」

「ならばどうして、どうして、レイシ兄様は……イリヨナを――憎むのですの!!!」

ハッとシェラは飛び退いていた。イリヨナから立ち上った闇が複数の球を呼んでいた。

「イリヨナは!イリヨナは!」

シェラは襲いかかってくる闇の球を避けた。いけない。リティルを猫に変えてしまって、その上、レイシとカルシエーナに会ってしまったことで、彼女の心は限界を超えてしまったのだ。錯乱している彼女に、声が届かない。

「きゃあああ!」

母の窮地と思ったのだろう。カルシエーナの髪の毛が、イリヨナを襲っていた。鞭のように振るわれた髪が、イリヨナを打ち、その小さな体が宙に舞う。

「カルシエーナ!やめなさい!」

キッとシェラに睨まれたカルシエーナは怯んだ。が、すぐに「どうして?」と怒りを滲ませた。カルシエーナの体から、闇が立ち上るのをシェラは見た。襲いかかってくる哀しみと怒りに、シェラは何とか耐えたが、ガクンと膝が折れてしまった。今は、カルシエーナと押し問答している場合ではない。シェラは、イリヨナを見た。

「イリヨナ……!」

イリヨナの意識はまだあったが、朦朧としているようでシェラの呼びかけに答えなかった。

その様子をチラッと見たジャックは、チッと舌打ちすると、ラスの口調で叫んだ。

「っ!2人とも、やめろ!」

ジャックは両手の爪を納めると、前髪を掻き上げた。途端に、金色の風が弾けて服装がラスに戻った。ラスの体の周りに6つのオーブが回転しながら現れる。一つ一つ、色の違う力がこめられている。

『退けない。退けないんだよ!』

レイシの姿が、ライオンに変わっていた。その背には、ガラスのように透き通った空の色をした翼が生えていた。ライオンは四肢を張ると、口を大きく開ける。

ラスはその様を見据えると、闇のオーブを体の前に回し止めると、両手で触れた。

ライオンの咆哮と共に、灼熱の白い太陽光のビームが打ち出されていた。ラスはそれを、真っ向から受けていた。床を、足の裏が滑ったがなんとか耐える。

「くっ!シェラ……!イリヨナを!」

シェラは、養子の2人から放たれた心の闇の入り乱れる中、力の抜ける足を叱責してイリヨナに駆け寄った。

「嫌、嫌ああああああ!」

叫んだイリヨナから闇が放たれていた。

――大丈夫よ?イリヨナ……

シェラは、闇が放たれる前にその闇ごとイリヨナを抱きしめていた。

「か……母様……?」

イリヨナの目の前に、優しく微笑む母の顔があった。何も心配いらないというふうに、ゆっくりとシェラは首を横に振った。その、真っ白に光り輝く微笑みが、イリヨナの見開いた目の前で消失した。

「母様!」

イリヨナの目の前に、真っ白な綺麗な猫がちょこんと座っていた。

「!くっ!レイシ……!」

その光景を盗み見たラスは、窮地を脱する方法を考えていた。だが、レイシは憎しみに心の目を曇らせていても風の王の懐刀。実力は折り紙付きだ。そんな彼と風四天王に名を連ねるラスがぶつかれば、双方無事ではすまない。それでもやるしかない。イリヨナは絶対に守らなければならない。翳りの女帝であり風の王夫妻の血を引いた愛娘。そして、その成長をずっと見てきた家族なのだから!

「ラス!リティル様!」

ここにはいないはずの者の声に、カルシエーナに未だに髪で捕らえられていたリティルが、風で髪を切り裂いた。ヒラリと空中で一回転したリティルはカルシエーナの頭の上に落ちて、彼女に悲鳴を上げさせた。

それを無視して猫はカルシエーナの頭を踏み台に、ジャンプする。レイシの眼前へ。

『うわっ!』

急に視界を塞がれたレイシは首を振る。ビームの軌道がラスから逸れて、天井壁へと注がれる。弾かれたラスは、バランスを失って倒れる所を、誰かに腕を取られ支えられた。

「反属性爆弾はなしね!」

腕を捕らえて転倒しないように支えてくれたのは、ペオニサだった。なぜだろうか。ペオニサの表情は険しく、汗が滴っていた。すぐにイリヨナに顔ごと視線を向けてしまったペオニサの汗を、確かめる事はラスにはできなかった。タタッと黄色い猫が駆けてくる。

「行くよ!」

ペオニサはラスの腕を引き寄せ、放心するイリヨナの腕を取る。そこへ、白い猫と黄色い猫が合流し、ゲートが開いた。

瞬間、3人と2匹の姿が掻き消えていた。


 ラスは、視界が翳るのを感じた。

ここは、闇の城?ラスが状況を把握しようとしたとき、隣の気配が傾いだ。

「ペオニサ!」

ドッと床に倒れた彼の背中には、細く長い虫ピンが数本突き立っていた。

「ひっ!」とイリヨナが息を飲んだ。

「は、あははは……どさくさに紛れて……暗殺、されるなんて……思わなかった……」

「誰に?」

ラスは倒れたペオニサの顔に、顔を近づけた。ペオニサは、ゼエゼエと息を苦しげに吐きながら、ラスを情けない顔で見上げた。

「兄貴」

「リフラク?なぜ?」

ペオニサは首を横に、僅かに振った。そして咳き込む。僅かに口から血が流れた。

「さあ?ねえ、ラスぅ……これ、抜いて……?」

これとは、虫ピンのことだろう。しかし、抜けば……とラスが躊躇うと、ペオニサは言った。

「痛いんだ……あとさ、体に入ってる違和感、半端ない……」

ラスは顔を歪めると、頷いた。見れば、彼のミイロタテハの羽根が根元から引きちぎられたかのようになくなっていた。こんな怪我で、あの場に乱入してくれたのか……。ラスは、小さく息を吐き、止めた。

イリヨナにペオニサの体が浮かないように押さえさせ、立ち上がって虫ピンに手をかけると、1本、一思いに引き抜いた。

上がる悲鳴。ラスは、2本目に手をかけ、引き抜く。ペオニサは悲鳴を上げた。

3本、4本と引き抜く間、耳を塞げないイリヨナは静かに泣いていた。

「――終わったよ」

「……っ……あ、りが、とう……アシュ・デル――の、こと……頼――」

「わかったよ。だからもう、喋るな」

細い虫ピンだが、抜かれたことで、血が噴き出していた。見る間に、彼の艶やかな牡丹の咲き誇る着物が、赤く色づいていく。

「昔……は、あんなじゃ、なか――た……どこで、ま・ちが――ちゃった……かな……?アシュデル……ごめ――一緒……いけな――」

フッと、ペオニサの瞼が彼の緑色の瞳を、隠してしまった。


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