第一章 背中の女
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ぽつり、ぽつりと雨が降り始め、アスファルトの濡れた匂いが周囲を満たした。
ホームを降りたときは西の方に見えた雨雲が、今では切れ間なく空を覆っている。
予報では昼から降ると言ってたのだが……。
「ヤバい、ヤバい。これ買ったばかりなのに!」
「走ろう」
雪菜と俺は家までダッシュした。
家に入ると脱衣所にあったハンドタオルを雪菜に投げた。
「誰も居ないのか?」
僅かに濡れた髪を拭いながら、居間を覗いたが、父と母はいなかった。
「まったく雨降るって言ってたのに」
俺は顔を顰めると、ベランダに出て洗濯物を取り込んだ。
片っ端からハンガーを掴むと、家の中に投げ入れる。雪菜はソファに座って今日撮った写真をチェックしていた。
「なんだ、あれ。この雨の中何してるんだ?」
ベランダから前の道を覗いたところで、俺は思わず声を上げた。
視線の先には三十代後半だろうか、冴えない中年男性が小柄な女性を負ぶっていた。ローブのようなものに身を包んでいるが、そのシルエットからでも二人だと判別がつく。女性の足がローブの隙間からすらりと突き出している。
フードを被った女性が男の肩に首を乗せるようにして何かを囁いている。それに男は笑みを浮かべて答える。
この雨の中ずぶぬれになるのも気にせず。
「背中の女?」
俺は小さくつぶやいた。
よく見ると大きな男だった。最初に見かけたときはそうでもなかったが、改めて見たときには、男の身長が優に一メートル八十を越していることに気が付いた。
「あっ……」
「何?」
「いや、別に大したことじゃないんだけど」
男はローブの下にスウェットを履いていた。グレーのシンプルなスウェットでゆったりとした裾から細い足首がちらりと見えた。それが次の瞬間、にゅっと裾が持ち上がり、生白いふくらはぎが露わになったのだ。
「今、あの男の人、大きくなった」
「えー? どういうこと?」
「いや、一瞬で成長したような気がして」
やっぱりさっきより大きい気がした。
最初は自分より少し大きいと感じる程度だったが、今や見上げるほどの大男になっている。
背中の女だと思ったが、二人は楽しそうに談笑しており、強引な様子はない。ゴミ箱荒らしの問題はあるが、それだけで警察に連絡したものか。
いや、警察になんか連絡したら、何かと対応しなくてはいけないだろう。聞き込みや面通しなんかさせられたら、プラモデルを作る時間がなくなってしまう。
俺は関わり合いになるのをやめて、部屋の中に入った。
意識はプラモデルの方に傾いていく。
「ほら、俺の部屋に行くぞ」
「えー、ソファーでゆっくりしてようよ」
「駄目だ」
雪菜の手を引いて自室に入ると、プラモデルの箱をレジ袋から出す。セロハンテープを切って蓋を開けた。
中には説明書、パーツ、カラーリングシールが入っている。
「だめだめ、寛人、それがおっちょこちょいなんだよ。何も考えずに次々箱から出すから、何が入ってたか分からなくなってパーツを無くすんだよ?」
「パーツは全部、板にくっついてるじゃないか」
「それを無くすのが寛人なんだって。まず説明書を読んで中身を確認する!」
「は、はい……」
「それと寛人、ニッパーとヤスリは?」
「え? ヤスリ?」
ニッパーはパーツを切り離すのに使うのだろうが、ヤスリが必要だとは思わなかった。
「ほら、パーツを外したときに、継ぎ目が残ってたらダサいじゃん。だからそれをヤスリで削るのよ」
「なんで、そんなこと知ってるんだ?」
「昨日調べてきたからよ」
雪菜は常識だと言わんばかりに胸を張った。
「調べてきたのか?」
「そりゃあ、初めてやるんだったら調べるでしょ」
「そ、そうか」
これは雪菜と一緒にやって良かったと思った。
「あんたは落ち着いて一つ一つの作業に集中すればいいの。ね、雪菜様に任せておきなさい」
俺たちはこんな調子で、雪菜現場監督の元、慎重にプラモデルを組み立てていった。
いつの間にか作業興奮というのか、ゾーンに入って二人で黙々と作業をして、気が付いた時には組み立て始めてから、六時間がたっていた。
「で、できたー!!」
手の中には“暗黒戦駆グレートスター・タイプ404”が、小さいながら確かな存在感を放っていた。
めもりちゃん(俺はもう彼女がめもりちゃんだったと決めつけている)が美人と評したスリムな機体は表面の質感も相まって大変に美しい。
プロトタイプ特有の剥き出し感も完全に再現されていて、ベルトから無雑作に突き出したリボルバーは寒々しいくらいだ。
「めもりちゃん、ありがとう! 俺の子ども心を解放してくれてありがとう!」
俺は涙を流しながら、その機体を押し戴いた。
「本当に好きな人はそこから艶を調整したり、ペイントを施すみたいだけど、寛人はそのままが良いよ。素人が変に凝って失敗するよりもさ」
「ああ、そうだな」
俺がショーケースに機体をしまおうとしたときだった。
ゴゴゴゴゴゴゴオオオ……。
突然、地鳴りが始まった。
地震だと思った瞬間、下から激しい突き上げをくらい、部屋全体が大きく揺れた。
「じ、地震?」
縦揺れが横揺れに変わり、激しい衝撃に家が傾くのが分かった。
「ひやっ! 早く机の下に隠れないと」
「もう間に合わない! とにかく棚の前から離れろ!!」
俺はグレートスターをテーブルに置くと、雪菜の手を引いて本棚の前から避難させた。
次の瞬間、棚が大きく傾き、中の本が雪崩となって落ちてきた。
あっ、と思った次の瞬間、揺り返しが来て本棚が大きく傾く。
そこから先は一瞬の出来事でどうすることもできなかった。反動をつけて倒れた本棚が、窓ガラスを割って、部屋の外に飛び出した。
窓枠に鋭いガラス片が残り、歯をむき出しにして笑う怪物のように見える。
素通しになった窓からは何件か先の家から煙があがったのが見えた。激しい横揺れはなおも止まらず物が部屋を飛び交う。
「あっ! グレートスターが……」
テーブルからはじき出されたグレートスターが、割れた窓を飛び越して、外に落ちて行った。
俺はなすすべもなく、ベッドに捕まっていることしかできなかった。
揺れが収まったと同時に、床に落ちた二人のスマホが鳴り始めた。俺はそれを無視して、部屋を出た。
「ちょっと、寛人、どこへ行くのよ」
「窓からグレートスターが落ちたんだ。拾わないと」
「そんなのどうだっていいじゃん!! 避難する準備しないと。津波が来るかも」
「でも、今拾わないと、どこへ行ったか分からなくなる!」
俺にはそれが何よりも優先するべきことだった。
あのグレートスターを失くしてしまえば、俺は過去の存在を何一つ証明できなくなる。
ゆかりが好きだったことも、ゆかりと雪菜の三人で秘密基地で遊んだことも、そんなことがあったと知っているだけの過去になっていた。
お別れの日に、俺はグレートスターをゆかりにあげた。
そのことが、グレートスターの不在が、かろうじて過去と俺を繋ぎとめていた。
だけど、あれがあれば俺は何もかもが不安になった夜に、引き出しからそれを取り出して眺めることができるのだ。
あの機体を失くしてしまえば、また逆戻りだ。
「馬鹿じゃないの!? とにかく避難する準備しようよ」
「嫌だ!」
雪菜が心配そうに後をついてくる。
俺は玄関から外に出ると周囲を見渡した。
酷いありさまだった。
目の前の建物は、誰かが踏みつぶしたようにぺちゃんこになっている。道にはガレキやガラスが散乱し、アスファルトは異常に隆起していた。
俺は二階の窓の下に走っていった。ブロック塀が壊れ、がれきの山を成している。
「クソ! この下とは言わせないよな?」
俺は歯を食いしばってブロック塀をどけた。
「ねえ、寛人、そんなことしてないで、早く逃げる準備しよ?」
雪菜は玄関から心配そうに首を出す。
あちこちで悲鳴が聞こえ、どこかのマンションが倒壊したのか、物凄い音が天を切り裂く。