第一章 背中の女
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俺はプラモデルの箱をぼんやりと眺めていた。
俺は七年ぶりかに、グレートスターを手に入れたのだ。
いつ組み立てようかと思案していたとき、テーブルの上に乗せたスマホから通知音が鳴った。
「やっほー、今週の土曜日暇でしょ。ポートレートを撮りに行きたいから、朝迎えにいくね」
文末には悪戯っぽく歯をむき出しにして笑う絵文字が添えられていた。
雪菜は被写体活動をやっていて自分の写真をSNSにあげている。
どうして前日に言って、俺がいつでも協力できると思っているんだ。
それに仮に暇だとしても、俺の気持ちを少しは確認するべきだ。
「おまえはお姫様かっての」
俺はそう毒づいて、机の上に置かれた雪菜の財布に目をやった。
雪菜は今日もバイト前に財布を預けに来た。俺が迎えに行かないと知って、スマホは持って行ったのだが、長財布はポケットに入れられないからとか言って、財布を置いて行ったのだ。
昨日お金を使われた人間に再び財布を預けるのは、どういう心理だろうか。もうしないと思っているのか、俺がもう一度金を盗むか試そうとしているのか。
どっちにしてもいい気分じゃなかった。
「嫌だよ。俺土曜日は忙しいし」
返信するとすぐに既読がついた。
「何するの?」
一瞬で返事が返ってくる。
「プラモデルを手に入れたんだよね。グレートスターの」
「懐かしいねえー。寛人が幼稚園のときに持ってたやつ」
「だから、手伝ってあげられないんだ」
「それ、本気で言ってるわけじゃないよね? 寛人はあたしの被写体活動を手伝うもん」
「大体、土曜日は雨だぞ?」
「朝早くに行けば間に合うもん。で、雨が降ってきたら寛人の家で一緒にプラモデルを作る」
「勝手に決めるなよ」
「寛人は困ってるあたしを放っておいたりしないもん」
耳の後ろがうずうずしはじめる。
「ああ、分かったよ。それでいい」
すぐに既読がついたかと思うと、雪菜は親指を立てたスタンプを送ってきた。
時計を見ると、八時五十五分。そろそろめもりちゃんが配信をする時間だ。
俺はパソコンをつけて、配信が始まるのを待った。
いつもこうやって雪菜に付き合う羽目になる。
早くモヤモヤを紛らわしたかったが、そんなときに限ってめもりちゃんの配信は中々始まらない。
九時十分になってようやく、ストリームサイトからリマインド通知が届き、それと同時に「AI原めもりの社会勉強」というチャンネルに配信中のマークが灯る。
俺はそれをクリックした。
「こんばんはー。今日は昨日言った通り、ハンバーガーを買ってきたよ。さっきまで外出してて、帰りに駅前のマックでフィレオフィッシュバーガーを買ってきたの。でも、食べ比べしたいなって思ったから、今からデリバリー頼むね。めもり何気にデリバリーも初めてなんだよね」
「いやー、それにしても今日は久しぶりに外出したよ。だから、足の関節が壊れてないか心配だなあ。お父さんに頼んで、もっと頑丈なやつにしてもらわないと駄目なんだけどね」
「お父さん? お父さんはお医者さんじゃないよ。めもりはロボットなんだから、お医者さんには治せないよ」
「お父さんはエンジニア。えーっとね、違うんだ。よく言われるプログラマじゃなくて、ハードウェアエンジニアって言うのかな? パソコンとかの外側を作ってるやつ。だから、そういう設計とかが得意なの。だから、めもりの足もお父さんが作ってくれたんだ」
「そう。だから、痛くはないんだよ。別に、関節が壊れてても痛くはないんだけどね」
「この話面白い? もっとする?」
めもりちゃんが心配そうにコメント欄に目をやる。俺は「面白いよ! もっと聞きたい」とコメントした。
「もっと聞きたいんだ。じゃあ、もう少し話すね。めもりの関節は、鉄のレールみたいなところに、円形の鉄がハマってて、それがレールの中を動くことで、足の曲げ伸ばしができるの。でも、そこが摩耗してくると、ハマってる鉄が割れてきちゃうの。その壊れたパーツのまま何回も動かしてると、今度はレールの部分が無茶苦茶になっていくんだって」
「だから、痛くはないんだけど、そのまま動かしてると修理がきかなくなるんだよ」
「そしたらめもり死んじゃうかも。嘘じゃないよ。めもりは替えのパーツがないから、修理が効かなくなると、動かせなくなるでしょ? そしたら、終わりだよ」
めもりちゃんが悲しそうな表情をする。
俺はめもりちゃんの声をぼーっと聞いていた。正直、内容は何でもよかった。透き通った声を聞きながら、モヤモヤを紛らわそうとした。
「寛人は困ってるあたしを放っておいたりしないもん」
ふいに雪菜のメッセージが頭によぎった。なんでも決定事項みたいに話すくせに、常に俺の顔色を気にしているところが癪に障った。
「そうだ。そうだ。今日ね、道歩いてたらファンの方が話しかけてくれたんだよ!! もしかして、AI原めもりさんじゃないですかって。びっくりだよ」
ガタッ――。
俺は慌てて生放送の音量をあげた。
「なんかね、昨日の生放送したでしょ? それで思い出して、ちょっとお買い物に行ったんだけど、その内容を聞いてくれてたリスナーの方が、たまたま同じ店に居て、格好とか声が似てたから、もしかしてめもりちゃん?ってなったらしいんだよ。めもり超うれしくて、そうです、AI原めもりですって返事しちゃったよ。えへへ。ほんとはよくないよね」
そんな対応じゃなかった。
俺が声をかけた女性は、迷惑そうに顔を顰めて、気持ち悪いと連呼していた。その女性は肯定もしなかったし、嬉しいとは微塵も感じていないようだった。
どういうことだ。
俺とは無関係な場所で、別のリスナーに話しかけられたのだろうか。いや、それってどんな確率だ? 同じ日に、めもりちゃんに似た女性が二人いて、二人のリスナーがそれを見かけて、声をかけるってどんな確率だよ。
俺が話しかけたのはやっぱりめもりちゃんで、めもりちゃんはそのことを喋っているんだろうか。でも、配信中は楽しそうにしてなくちゃいけないから、「話しかけられてキモかった」なんて言えずに、嬉しかったと言っているんだろうか。
俺は慌ててコメントを打とうとした。
もっと状況が絞り込めるような情報がほしかった。
何か、質問したい。例えば、どこで会ったとか、どんなリスナーだったかとか。
投げ銭つきのコメントじゃなくちゃ――。
俺は小物入れから財布を手に取ると、中のお金を数えてみた。
「五百……六百……七百……」
駄目だ。やっぱりない。ビットカードは最低千円からしか買えない。
「どうしよう……」
確かめたかった。あの女性がやっぱりめもりちゃんで、めもりちゃんが俺にグレートスターのプラモデルをプレゼントしてくれたとしたら……。
俺は机の上に置いたレジ袋に目をやった。
正直、誰であっても嬉しい。ちょっと変わった女性だったけど、変わっているからこそ、赤の他人に三万円のプラモデルをプレゼントするわけで。
あの女性が誰だったとしても、すごく感謝しているし、滅茶苦茶うれしい。
だが、それがもしめもりちゃんだったとしたら、それは大変なことだ。
めもりちゃんが俺を救おうとしてくれたのだ。
「また雪菜のお金使うか?」
そんな考えが一瞬頭をよぎった。
事は一刻を争う。
話題が変わったら、そのことに関して質問するのは不自然だ。
今からダッシュでコンビニに走れば……。
でも、雪菜が俺を試していることは分かっていた。
雪菜は確実にお札の枚数を数えておいて、財布を取りに来た帰りにお札の枚数を確認するだろう。
あの、俺の顔色を伺うような表情で。
耳の後ろのモヤモヤがこめかみにまで広がっている。
「盗まれるのがイヤなら財布くらい家に置いていけよ」
俺は自嘲気味に笑った。
盗んだらバレるのは確実だ。だけど、バレたからってどうなる。
雪菜は俺と縁を切ったりしない。雪菜が俺を見捨てて他のやつらとつるむようになるわけない。絶交しないんだ。
盗んだからってどうなる。
「なんでも勝手に決めるなよな」
俺はそう言って雪菜の財布を手に取った。
留め具を外して、お札入れを開く。俺は目についた千円札を抜き出した。
そして、その表面をたしかめて唖然とした。
千円札には一枚の付箋が貼りつけられていた。
「バーカ!! 寛人なんて大っ嫌い!」
家を出る前に慌てて書いたのか、文字の幅が足りず、バーカ!!を大きく書いたところまではいいが、そこから文字が小さくなっていく。
やはり俺を試していたわけだ。
無性に腹が立った。
千円札から付箋を外すと、それをぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に投げる。それでも苛立ちは収まらず、俺は雪菜の財布をベッドに向かって投げつけた。