第一章 背中の女
雪菜はいつも何の相談もせずに決めてしまう。
そのことが常に気に入らなかった。
大事なことでも、俺の協力が欠かせないことでも、自分一人で話を進めていって、行動に移す直前とか、新しく何かが始まる直前になって俺に話を持ってくる。
そして俺に拒否権はない。
口では嫌と言ったところで、いつもなんやかんやと彼女の言うことを聞く羽目になる。
そして、その日も。
俺は差し出された財布を意味も分からず受け取った。
革の馴染んだピンク色の長財布で、中央の留め具はリボンの形をしていた。
女物の財布で、俺の物ではないことは確かだった。
単刀直入は結構だが、今回はいくら何でも突然過ぎだ。
家のチャイムが鳴ってからまだ一分も経っていない。
俺は玄関を開けたところで左手はまだドアノブを掴んでいたし、右足はスリッパを求めてたたきを彷徨っていた。
雪菜は挨拶もなしにいきなり財布を渡してきて、咄嗟に受け取ってしまった俺は説明を求めて、手元の財布と彼女の顔を交互に見た。
癖のないさらさらの髪の毛を短く切り揃え、すき気味の前髪からはつるりとしたデコを覗かせている。目が大きく、鼻筋がすっと通っているため、それだけ髪を短くしても子どもっぽさは微塵も感じられない。
ティーシャツにジーンズという格好が洗練されて見えるのだから美人は得だ。
俺はそんなことを考えながら説明を待った。
「よろしく!!」
彼女はそれだけ言うと、背を向けて歩き出す。
「ちょっと、ちょっと!!」
俺はすぐさま彼女の腕を掴んだ。
「何? バイトに遅れそうなんだケド……」
二重幅の大きな目が俺を見据える。まるで俺がおかしなことをして、雪菜の手を煩わせているかのような態度だった。
「いや、急に財布渡されても困るんだが、なんだこれ?」
「それ、あたしの財布」
「くれるのか?」
「あげるわけないじゃん。預かってて」
「なんで?」
「なんでって、今朝言ったじゃん。昨日、バイト先の控室に“背中の女”が入ってきたんだって。うちのバイト先ってほら、控室の鍵開いてるじゃん?」
「まあ、何となく想像は付くけど」
俺はここからすぐ近くにあるラーメン屋を思い浮かべた。マンションの一階部分がラーメン屋なのだが、店内は狭く、駐車場の横にある控室に入るため一度外に出なくてはいけない。
「分かるじゃん? “背中の女”が控室の鍵が開いてるって知ってるんだよ? 財布なんか置いとけないじゃん」
「財布だけで済めば良いいけどな、まだ捕まってないんだろ?」
俺は財布を玄関の靴箱の上に置いた。
「捕まったらニュースになるでしょ。バイトが終わるまで預かってて」
雪菜はそう言うと、ついでとばかりに俺にスマホを握らせた。
帰りに取りに来るつもりだろうが、何でも預かると思っていることも、スマホや財布を俺がのぞかないと思っていることも気に入らない。
覗かれても平気だと思っているならなおさらだ。
「スマホくらい持ってったらどうだ。不審者がうろついてるんだったら、ラーメン屋から俺の家の距離だって安全とは限らんだろう」
「大丈夫。寛人が帰りは迎えにきてくれるから」
「俺は迎えに行くなんて一言も言ってないぞ?」
「でも、来るじゃん」
俺は一瞬目を閉じて、雪菜を迎えに行こうか考えた。
でも、答えは最初から決まっていた。
十時からはAI原めもりちゃんの配信が始まる。平日の数少ない楽しみ。俺の生きがいと言っても良い。
「行かない」
「ううん、寛人は迎えに来るの」
耳の後ろあたりにモヤモヤとした不快感が広がっていく。
「行かないぞ」
「行くんだって。寛人は十時になったらバイト先に迎えに来る。だから、あたしはさらわれたりしない」
雪菜は不安そうに俺を見上げた。何でも一人で決めるくせに、いざ話がこじれることを予感すると急に懇願するような顔をする。そのくせ決定事項のような口調はやめない。
モヤモヤがさらに激しくなる。
「ああ、分かった。分かった。迎えに行くよ。だからさっさとバイトに行け。遅刻するぞ」
俺は手の甲で雪菜を追い払った。
「うん、ありがと!! じゃあ、あとでね。よろ~~」
雪菜は安心したように頬を緩ませると、機嫌よく手を振って駆け出していく。
俺はそれを見送ると扉を閉めて、ため息をついた。
十時だって? 行くわけないだろう。配信が始まるところを見逃してしまう。
たかが数分見逃したくらいなんだと言うかもしれないが、その数分にした俺のコメントが読み上げてもらえるかもしれないのだ。
それにあの言い方が気に入らない。
忙しいところ悪いんだけど、迎えに来てくれない? と申し訳なさそうにするならまだしもだ。
「行かないからな」
俺は一人で宣言した。
あんな言い方でも約束をすっぽかしたら俺が悪いのか? 雪菜が俺の家まで来る途中に、“背中の女”に飛び乗られたら? 俺は一生後悔する?
馬鹿馬鹿しい。そんな確率がどれだけあるって言うんだ。
耳の後ろのモヤモヤが気になってしょうがない。
靴箱に置かれた雪菜の財布が目についた。俺は衝動的にそれを掴むと、財布の中身を確認した。千円札が七枚入っている。配信サイトのアカウントに投げ銭用のお金が入っていないことを思い出す。
俺は耳の後ろをトントンと叩きながら、財布を掴んでコンビニに向かった。