第七章
「こんなにしょっちゅう行かなくても良くね? てか、私一応受験生なんだけど。」
と言いながら車窓の景色に見惚れている羊に、
「どうしても、信太さんに直に報告したいって、た… た… 龍也さんが仰るから… きゃ」
助手席で耳まで真っ赤になりつつ、百葉が呟く。
「お前は黙って後ろで勉強しろ。」
厳しい口調だが顔がニヤけながら龍也が言う。
そんな二人の余りのぎこちなさに吹き出しながら、
「はーい。後は若い人同士でどうぞってか。ウケるー」
そう言うと読みかけの日本史の参考書に目を移し、程なく没頭し始める。
そんな羊に微笑みながら、
「恵比須の皆さん、驚くでしょうね、きっと。」
「そうかな。」
「ハナちゃん、ビックリするだろうな。あの子興奮すると中国語になるから何言ってるか分からないんです、た… た… 龍也さんは、」
若干車が横にブレる。
「え、なに?」
「中国語、いつ覚えたのですか? 最初ペラペラ話していた時、本当にびっくりしたんですよぉ。」
「ああ。習志野での部隊の訓練課程の時に。」
「ふぅん。信太さんも一緒でしたよね?」
「うん。俺の隊の小隊長だったんだ。」
「確か信太さんは防衛大学卒業されたとか? 凄いエリートだったのですよね?」
「そう。ああ見えてガリ勉秀才タイプだったとか。」
「ですってね。陽菜ちゃんにずっと勉強教えてたって。」
「俺も訓練過程で色々教わったなぁ。中国の歴史とか、日本と中国の経済関係とか。最初会った時は絶対格闘専門の筋肉バカだと思ったんだけどね。実はその小隊では俺の次に若かったんだよ。他の隊員は当時で三十前後だったからね。だから俺が信太さんにとって唯一人の年下の部下だったの。だから可愛がってくれたんじゃないかなぁ。よく飯奢ってくれたし、一緒に飲みに連れて行ってくれたり。懐かしいなあ。」
後部座席で参考書が落ちる音がしたので振り返ると、
「父さん… ロン、あんたこんなに長く喋れたんだ… 知らんかったよ… マジウケる! ギャハハハハー」
「ちょ… 羊ちゃん、失礼だよ、ちば… た… た… 龍也しゃんに!」
大黒埠頭を過ぎるまで、羊の爆笑は収まらなかったものだ。
恵比須に到着し、集落の人々に婚約の話を告げると、皆心から祝福してくれる。
「おおおおおおおおおおお! おめ! やったじゃん、ももっち! 千葉っち。いつ入籍よ? 式はどうするん? 子作りは順調に進んで?」
大興奮する磯部京。
「司法試験合格に婚約。貴女ほど幸せな女性はいないと思うわ。本当におめでとう、仲良くやっていくのよ。もしマンネリに悩むようならいつでも相談しなさい、色々なプレイを伝授するわ。」
相変わらずの鳥山琴音節に全身真っ赤になってしまう二人。
「あらあらあら。信太ちゃんに続いて貴方も。ホント仲の良い兄弟ねあなた達。百葉ちゃん、良かったね、おめでと。そうそう、百葉ちゃんにピッタリの韓流ドラマあるのよぉ、教えてあげるわ、ちょっといらっしゃい。」
と百葉の手を取り家に上げようとする水田香。
「結婚、するのか。そうか。そうなのか。おめでとう。日本の結婚式、見てみたい。爆竹作ってやる、だから呼んでくれていい。祝いの剣の舞、見せてやってもいい。」
物騒なことを言いつつ、珍しく笑顔で話す林花華。
そして。
「そうか。良かった。」
信太らしい一言に何故かホッとする龍也と百葉なのである。
「今夜は、飲み明かすか。」
「いいね。朝まで飲もうか。」
「だな。」
「だね。」
まるで本当の兄弟のような二人を見守る集落の人々の嬉しそうな顔。
恵比須の太陽の日差しは大分和らいできて、集落を通り過ぎる風も涼しさを感じるようになった。季節は夏から秋に移ろい始めている。
その夜、盛大なお祝いの宴が開かれた。
京が恵比須漁協から貰ってきた旬の秋魚と紀野が本気で採りまくった旬のキノコの鍋は、水田家自家製味噌による味付けが最高で龍也も百葉も物も言わずにかき込んだものだった。
更に水田家秘伝かつ秘匿の自家製ドブロクが振る舞われ、百葉は苦笑いしながら一口、また一口と口に運んでいた。
龍也は信太を庭の隅に誘い、コップに入った酒を軽く交わす。
「先週の件は報告を受けたよ。被害ゼロでいいんだよね?」
信太がコップを啜りながら、
「ああ。江田島がよくやってくれた。」
「ボートに乗っていた四人、身元分かったよ。浙江省の人民解放軍海軍所属の特殊部隊、通称『暴鮫』のメンバーだったよ。」
「知らねえな。やり手だったのか?」
「ああ。東シナ海でベトナムの漁船を沈めまくってた奴ららしい。海上戦のプロだよ。」
「さすが江田島だな。ああ、城島と会ったぞ。」
「ジョーさん。元気だったかい?」
「ああ。明日にでも挨拶行ってこい。」
「恵比須漁港で働いてるんだっけね。」
「そうだ。」
「漁師姿、めちゃくちゃ似合いそう。」
「漁師、そのものだ。」
二人は吹き出す。
ふと空を見上げると、半月がうっすらと裏山を照らしている。虫の音が辺り一面から響き渡り、夏の終わりと秋の始まりを感じさせる。
「お前も、よく、頑張ったな。」
信太がポツリと呟く。
「ははは。人生で一番緊張したよ。」
「だろ。」
「だね。」
虫の音が二人の言葉を掻き消す。
「シンタさんはいつ入籍するんだい?」
「向こうが卒業したら、かな。」
「そっか。」
「お前は?」
「向こうが卒業したら、かな。」
音もなく龍也の脳天に信太の軽いゲンコツが落とされる。
「真似すんじゃねえ。」
「バレたか。」
「ってことは、来年の三月、か?」
「うん。そのつもり。」
「そっか。式はどうすんだ?」
「それな。式場探すの面倒くさいから、ここでやらせて貰おうかな。なんてな。」
龍也が笑いながら言うと、
「悪くねえ。」
「マジかよ? ま、向こうの気持ち次第だけどさ。」
「だな。」
「だね。」
二人は言葉を止め、暫し虫達の祝音に浸るのであった。
「も、も、は、ちゃん。おめ、でとう。」
紀野がハナを見ながらどうにか祝辞を述べる。
「ありがとうございます紀野さん。まさかこんな展開になるなんて夢にも思ってなかったので未だに朝起きたら『夢だったのでは』って思っちゃいます。」
「キノコ、お前ちゃんとお祝いの品をあげたのか? 先輩ならきちんとするでなければな。」
ハナが刺身をつまみながら言うと、
「そうだハナ、お祝いの品、何がいいと思う? 俺にはサッパリ見当がつかないんだよ。何故ならさ、俺の周りで婚約した奴なんていないからな。」
「そんな大変なことは自分で決めろ。人に頼るな馬鹿者が。お前は今後常識社会を学ぶが大事なのだぞ。」
「そうだ、時計なんてどうだろうか。二人の時を永遠に刻みますように、との願いを込めてだ。如何なものかね?」
「中国では人に贈ってはいけない一番は時計なのだが。この国では構わないのか?」
「そうなのか。分かった少し調査してみよう。姫と千葉氏の常の愛に相応しい品を選びたいのでな。」
「それがいい思いだ。すこーしだがお前は進歩しているようだ。その体勢を続けるがいいな。」
唖然としながら百葉が京に問いかける。
「この二人。こんなに喋るんだ。私、紀野さんがこんなに喋るの聞いたの初めてだよ…」
京はキョトンとして、
「そっかな? ああ、ハナがぶっ倒れた時以来、こんな感じかも。」
百葉は眉を顰め、
「ハナちゃんが倒れた? 何それ?」
「ももっち達がいない時にさ、ハナが夜に海辺でカツオノエボシ踏んづけて、毒針が足に刺さって倒れたんよ。」
紀野と話し込んでいるハナを眺めながら百葉は驚き、
「カツオノエボシって… 確か猛毒の?」
「そーそー。コイツ、保険証持ってねえから病院にも行けなくて。シンタが持ってた薬注射して何とか回復したのさ。うん、あれはマジでヤバかったわぁ。」
「そうだったんだ。でも、きっかけは何であれ、これほど仲良くなれたのなら、怪我の功名って奴なのかもね。」
「だな。時々大喧嘩してウザイけどな。」
京が笑いこけながら言った後。
「で、結婚式やんの?」
「えええ… まだ決めてないけど。龍也さんはどうしたいんだろう。」
「アホか。やるに決まってんだろ。絶対やれ。で、私を呼んでくれよー」
「呼ぶ呼ぶー、絶対来てよ。あ、彼氏も一緒にね、神様だっけ?」
「はははは… ユート元気にしてっかなぁ。来月帰ってくるんだよなぁ。」
遠洋漁船に乗り五ヶ月。百葉が未だ見ぬユートを思い浮かべ切なげな表情の京。
様々な愛のかたちが秋の恵比須の夜に交差するのである。
* * * * * *
翌早朝。
二日酔いの龍也の足取りは不思議と軽い。京と百葉、龍也の三人は恵比須漁港への海辺の道を歩いている。
朝日は全く顔を出さず、空一面を厚い層雲が覆っている。天気予報では昼過ぎから少雨模様となるようだ。海風は涼しげで気温もそれ程上がらないだろう、過ごしやすい初秋の一日となりそうだ。
海沿いの県道の山側の木々は、気の早いものは葉が色付いている。そんな自然の移り変わりを感じていると、やがて小さな漁港が見えてくる。
丁度一艘の中型漁船が停泊しており、魚の水揚げ作業中のようだ。
近付くと十名ほどの漁協員が作業しており、その中に龍也は懐かしい顔を見付ける。
「おっはよぉー、手伝うよぉー」
京が瞬く間にその集団に同化すると、遅れて百葉も作業に入っていく。二人の美少女が入ったことで作業効率がグンと上がり、あっという間に水揚げが終了する。
漁協長らしき老人が京と百葉に
「朝飯、食ってくべ?」
と咥えタバコで言うと
「もっちー、ゴチソーさん。」
「わー、ご馳走になりまーす」
満足げに頷き、龍也の方をチラリと見て、
「アンタも一緒にどうだ。働いてねえ奴は本来食わせねえけど。ま、婚約祝いってやつだ、ガハハハ。」
こんな田舎の漁港にまで百葉との婚約が広まっている… きっと作業中に京がベラベラ喋ったんだろう。
苦笑いしながら龍也はそっと頷く。
漁協の古いコンクリート造りの建物に皆が向かう中、その屈強な中年男が満面の笑みで龍也に近付いてくる。
「久しぶりだ、タツ。元気だったか?」
海上自衛隊の特殊部隊に所属する城島二佐が標準語で話しかけてくる。彼は大阪出身の関西人で普段はバリバリの関西弁なので、龍也はちょっと吹き出しながら
「ジョーさん。お久しぶり。元気そうで。」
二人は人の流れから徐々に離脱しながら、
「まずは婚約おめでとさん、ったくあんな可愛い女子大生、しかも東大生やって? お前それ犯罪ちゃうか、こら。」
「ジョーさん、関西弁出てるぞ。」
「誰にも聞こえへんやろ。それにしてもここええとこやな。すっかり馴染んどるよ。」
笑い声を立てながら龍也は、
「ああ、すっかり馴染んでたぜ。地元の人と区別できねえくらいにさ。それより、先週はお疲れ様。一応報告書は読んだけど、どんな感じだった?」
二人は立ち止まり、周囲に誰もいないことを確認する。
「海保から連絡入ったんがヒトゴーサンマル(十五時三十分)頃かな。レジャーボートに乗った四人組が恵比須の通称追い剥ぎ浜に向かっていると。付近で釣り人を装ってる三人に連絡し、俺も現地に向かったんよ。手筈通りに三人は水に潜り俺は丘で待機。しっかし奴らアホやったで、見るからに胡散臭い格好や。全然レジャーさが感じられん出立ちでな。ホンマにプロか思ったわ。ボートが磯につく寸前で行動開始、四匹とも秒殺やった。拍子抜けもええとこや。その後は報告した通り、俺がボートを沖まで出し、ウチの船に四匹を受け渡して終了。実感として、精鋭とは思えんくらいのダボやったかな。但しー数で来られたらあかんかったかもな。そやから水際までに叩く事がお勧めやね。」
龍也は深く頷きながら、
「成る程。海保に伝えておくよ。それにしても、江田島にかかったら『暴鮫』も形なしだね。東シナ海辺りでは最強と恐れられている奴らなんだけど。」
「ベトナムやフィリピンの漁船虐めて楽しんでる奴らなんて、楽勝や。」
「引き続きよろしく頼むね。」
「任せとき。これ終わったら、シンタちゃんと飲むで。あ、結婚式、絶対呼べ。ええな、上官命令やで。」
「上官? あそっか、城島二等海佐どのでしたな、失礼致しました。」
「それで良い、千葉一等陸尉。ギャハハー」
二人は肩を組みながら漁協の建物に向かう。
朝食を終えて三人が漁協を出る頃に、小雨がパラついてくる。
「あのオッサン、あっという間に馴染んでるなぁ。千葉っちの知り合い?」
「昔の知り合いさ。」
「ふぅーん。それよりさ、結婚式呼んでよ! 絶対!」
龍也は顔を赤くしながら、
「わ、分かったよ。どいつもこいつも全く…」
うわ… するんだ、結婚式! 百葉は喜びと驚きと緊張で赤面しつつ変な表情になる。
「京ちゃんはいつ結婚するの?」
「んーー 知らん。来月ユートが帰ってきたら、聞いてみる。」
「結婚式、呼んでね!」
「お、おお。そうだな、うん。」
京までも赤面してしまう。
龍也はふと思い立ち、
「そう言えば、君のフィアンセの話、俺知らないんだ。よかったら馴れ初めとか教えてくれないか?」
嘘である。最初の恵比須訪問前に、集落の人々に関しては概ね洗っている。恵比須集落に住む四家のうち、磯部家には磯部京及び同居人である綿積悠人の二名がいる事、そして綿積に関しては四国出身の東京の大学生であり、思想的宗教的に特異なしと報告を受けている。
当初、そんな彼が昨年の秋突然この地を訪れそのまま居着いたことを不審に思い、彼の実家、バイト先、住んでいた寮の環境などを徹底的に調べたが、全くのシロであった。
信太曰く、
「寺の婆さんの予言通りさ。」
裏山にある寺の住職の母親がその一年間を占いそれを正月三が日に村人に披露するのだとか。昨年の三が日、この地に海神が現れ地を潤し人を豊かにする、と占ったそうな。すると秋口にふらっと恵比須の海岸を訪れた大学生がおり、名前を聞くと
「綿積」
と漏らしたとか。村人は
「え? 海神? おおお! 予言通り!」
と言って大歓迎。そんな『ワタツミ』違いに大いに戸惑いながらも、なんだかんだで結局彼はこの地に居着いてしまったとか。
「あん時はビビったわー。夕方磯に行ったら人が倒れててさ。半分水に浸かってて見つけるの遅かったら沖に流されてたぜ。信太に手伝ってもらって家に運んで手当てして。そしたらその内目を覚まして。名前聞いてビックリだよ。そんで色々話したらさ、就職活動? に大失敗して、どこにも就職出来なかったから海に飛び込んで死のうとしたんだと。」
龍也は眉を顰める。シンタさん、そんなこと言ってなかったぞ?
「ところが目を覚ましたら絶世の美少女が介抱してくれていて、その子に一目惚れ。ま、それがアタシなのは言うまでも無し。話を聞いたら余りにも可哀想なので、仕方なく彼の面倒を見てあげることにして。家に帰りたくないって言うから、家に泊めてあげていたらそのまま居着いちゃって。」
信太曰く、
彼は意識が戻り、帰ろうとしたのを京が必死に引き留めた、と。
「まあ仕方ないじゃん、ちょっと病んでた感じだったし。目を離したらまた海に飛び込んじゃうかもしれないし。ウチはアタシ一人暮らしだったからさ、父ちゃんと爺ちゃんは死んじゃったしババー… 母親はここを出て行ったきりだし。それから面倒見てあげたのよ。だけどさぁ、何日かしたらアタシが寝ているとこに忍び寄ってきて… マジで怖かったよぉ…」
香曰く、
食事を届けに行ったら、真っ昼間から彼に跨りパンツを脱がそうとしていたのは京であったと。
「でもさ、お正月のお告げ通り。ユートが来てからシンタは明るくなったし、ヒナとも上手くいったし。明がやって来てここも明るくなったし。いいこと尽くめなんだ。それにさ、釣りの達人なんだよぉ、アタシでも中々釣れない金アジをチャチャっと釣ったりさ、漁協の奴らでも釣れない真鯛を何枚もチャチャっと釣ったり。」
ほう、やっと事実を。
龍也は深く頷き、百葉は何度も頷く。
「じーちゃんの遺した借金があったんだ。それを返すにはマグロ漁船に乗るのが良いって言って、そんで四月に出港したんだ。へへ、来月アンタらに会わせてあげるから。早く会いてえなあ、楽しみだなぁー」
来月、か… パンダ(梁派の工作員)がこの辺をウロウロしている時期だ。
巻き込まれたら大変だ。
彼には全てが終わってから戻ってきてもらおう。
龍也はそう決め、船橋絵梨花への指示を洗い出すのである。
* * * * * *
翌十月に、梁派の動きは無かった。
本国での主流派との勢力争いが原因と思われる。秋の党大会において、二期続いていた現勢力の三期目継続が決議され、反主流派の洗い出しと追い落としが活発化し、反勢力派はその動きに対応すべく国内に力を集中せざるを得ない状況であった。
日本に於ける活動低下に伴い、江田島と習志野の監視体制は解除され、恵比須には束の間の平和が訪れている中、金芝は非常に順調に生育している。
「この調子なら、今年中に収穫できると思うよ。年末には世界中が驚くだろうね、前代未聞の免疫力向上をもたらすキノコが大量に収穫された、ってね。」
小畑家のリビングルームで紀野が若干自慢げに信太とハナに語る。
渋茶を啜りながら信太は軽く頷き、ポンポンと紀野の肩を叩く。
ハナは目を細め嬉しそうな顔をした後、急に顔を曇らせる。そして、
「それなら年末には御徒町飯店に戻ることになりそうだな。」
逆に紀野は顔を輝かせ、
「そ、そうか。」
「ああ。そして…」
「そして?」
大きな溜め息混じりに、
「中国に、帰ることに、なる。」
紀野は持っていた空のマグカップを膝の上に落とした。
「たっぷり給料もらった。これで田舎に帰れる。家を建てられそうだ。父も母も喜ぶだろう。」
無表情かつ無機質にハナは呟く。
「ハナ、実家に… 中国に帰るのかい? 日本にずっといるんじゃないのか?」
首をゆっくりと振りながら、
「そうはいかない。帰らねば、ならない。」
紀野はショックを受けた。
てっきり彼女はこのまま日本にいるものだと思っていたのだ。
「そんな話、聞いてないぞ。初めて、聞いた。」
「お前が聞かないから、話してなかった。」
信太はそっと腰を上げてその場を離れる。二人の声は徐々に荒くなっていく。
「当然、戻ってくるよな、日本に?」
「そんなの、分からない。まあまず、戻れないだろう。」
「ダメだ、戻ってくるのだ。」
「アタシだって!」
ハナが絶叫する。
「帰りたくない! 日本に居たい!」
紀野は下唇をギュッと噛み締める。
「居たいよ、日本に。ずっと、いつまでも。」
「それなら。居ろよ。」
「居たいよ。」
「行くな、よ。」
「行きたく、ないよ。」
ハナの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。それが、最近すっかりツルツルで綺麗になった手の甲にポトポト落ちては弾かれている。
ハナは眼鏡を外し、紀野の胸に縋り嗚咽する。それを紀野はそっと抱きしめる。
小畑家のリビングにある薪ストーブをぼんやりと見つめる。これを使い始める頃ハナはこの地を去り、東京に戻り…
このストーブがふんだんに使われる頃ハナは日本を去り、中国に戻り…
そして。このストーブが使われなくなる頃ハナは日本を忘れ、俺を忘れ…
嫌だ。
ダメだ。
そんなの…
気がつくと紀野も嗚咽が止まらなくなっており、若い二人の嘆き声が小畑家に木霊する。
目頭を抑えながら信太は家を出て、大きく深呼吸をする。そして辺りの景色に目を配る。
山は色付き始め風は秋風をこの集落に運んできている。畑の方から刈り取った下草を燃やす白い煙が流れてきている。
「シンタさん、なぜに泣いているのですかね。さてはヒナさんにみくだりはんをつきつけられたのでは? だからしょくじの後はちゃんとはをみがけとあれほど。身だしなみをキチンとしなければ女子にきらわれますよ。」
学校から帰ったばかりの明が信太を見上げながら捲し立てる。
「ん? 小畑家から泣き声が? さてはキノコとハナちゃんをしかりつけましたか? ただメシぐいの役立たずなのは仕方ないですが、もう少しどりょうを大きくもたねばなりませんよ。」
信太は涙を裾で拭い、明をひょいと抱き上げ、
「おやつに焼き芋でも食うか。」
「おおお! それは良いかんがえかと。ちょうどたき火をしているようですのん。しかしながらC O2さくげんのかんてんでは、野やきはひかえるべきかと。ですが今日は大目に見ましょうかね、おいしいやきいもにめんじて。ああ、それはそうとーー」
信太はギュッと明を抱きしめ、ゆっくりと畑に向かって歩いて行く。
* * * * * *
十一月。
市ヶ谷の陸上自衛隊情報科の会議室で課長の香取一等陸佐は渋い顔で船橋絵梨花二等陸尉の報告を聞いている。先月配属された横芝三等陸尉は必死で報告書をノートパソコンに入力している。
船橋絵梨花の報告がひと段落した所で龍也は小さく舌打ちをし、
「いよいよ本腰を入れて攻めてくる、のか。」
昨年配属された飯岡三等陸佐がゴクリと喉を鳴らし、
「金芝の生育状態は? 今年中には収穫出来そうなのか?」
龍也は頷き、
「先日の報告では、来月中旬には収穫出来るそうです。ウチとしては御徒町飯店の田村を通して北京の主流派に引き渡し、その代金の代わりに日本での既得栽培権を得る予定です。」
報告書を入力しながら横芝が、
「すると来年以降は我が国で金芝を栽培し、流通させると?」
「そうなるだろう。当然、北京の幹部連中用に一定数は貢がねばならんだろうが。」
「それでも、大量生産すれば、莫大な利益になるんじゃないですか?」
龍也は深く頷き、
「船橋の予想では、三年後には五十億の利益になり、以後倍々ゲームになる。だよな?」
船橋絵梨花は興味なさそうな顔で、
「あくまでぇ、独占的に栽培出来ればぁの話ですけどぉ。タバコや医療用大麻みたいにぃ、国の専売事業になるのならぁ、十年後には売上高は一兆円を越すんじゃないかなぁ。」
「「「「「一兆!」」」」」
船橋を除く全員の顎が大きく開かれる。
「あの、三浦のド田舎で今やってることが、将来的に我が国の、いや世界の未来を大きく変える、だと… そこまでとは、思わなかった…」
飯岡が興奮気味に捲し立てる。
「流石、鬼龍。やることが半端ないな。」
龍也は首を振りながら、
「それも、収穫まで守り通せれば、の話です。それで船橋。第三波はいつ頃、どれぐらいの規模を打ち込んでくるんだ?」
「絵梨花ぁー、美味しい和三盆の砂糖菓子が食べたいかもぉー」
飯岡と横芝がズッコケながら龍也を伺うと、
「いつ? 規模は?」
「えーーーー、教えなぁーい」
龍也がスッと立ち上がり、船橋の背後に回る。飯岡と横芝は固唾を飲み込む。まさか、あの人民解放軍を恐怖に陥れた『鬼龍』が、本気で怒っている?
「船橋。」
「なぁにー?」
龍也は絵梨花の耳元でそっと囁く。
「銀座 菊廼舎の冨貴寄でどうだ?」
絵梨花はカッと目を見開き、
「タッちゃん… 本気なんだね… うん、南わかったよ! えっとぉー、次は二十人くらいで押し寄せると思うよぉ、まだ日本に入国してないから少なくとも今月末から来月の頭くらいかにゃあ。」
色々な意味で飯岡と横芝は驚愕している。何なのだこの二人は? 陸自開設以来の天才S E、そして世界に恐れられている冷酷無比な元特殊部隊隊員。それも、どちらかと言えば上司である千葉龍也の方が部下の言いなりになっているのでは……
「分かった。課長、その線で準備を進めましょう。今回は習志野だけで作戦を立てましょう。海からはその大人数では来ないでしょうから。」
香取課長は頷きながら、
「そうだな。その人数で一気呵成に攻めてくるだろう。周辺への配置も考え直さねばな。よし、以上だ。おい千葉、一服行くぞ。付き合え。」
何も言わず龍也と絵梨花が立ち上がる。
「ふーきよせ、ふーきよせー」
「船橋五月蝿いそれで課長、収穫を終えたらもう恵比須では…」
香取がiQOSの薄い煙を漂わせながら、
「ああ。苗床ごと農水省が引き取る。その後国の管理の下、ガンガン栽培していくそうだ。」
「そうですか。」
「今回の収穫を精査してな、専属の公団だか公社を設立する動きもある。当然、マッシュ(紀野)には今後も協力を依頼する。」
「じゃあー、今日の夕方、買いに行こっかぁ、タッちゃん!」
「お前黙ってろハナはこの後、中国に戻るんですかね?」
「どうだろうな。北京の人事は俺にも分からん。案外、マッシュを取り込んじまおうって、日本に残すかも知れねえな。」
「有り得ますね。何年か一緒にいさせて、子供でも作らせて。そして家族ごと北京に、って感じですかね。」
「逆によお、日本に帰化させちまってどっぷりキノコ妻にはめ込んじまうか。」
「そうなったら、ウチで引き取って格闘戦の教官やってもらいましょう。」
「あのねタッちゃん… 絵梨花、やっぱり空也の最中が食べたいかもぉ…」
「さ。仕事戻るか。」
「ですね。」
二人は立ち上がるとさっさと歩き出す。
「待ってぇー、待ってよぉー、タッちゃーーん……」
「と言う訳だから。また情報が入り次第、連絡するよ。」
「ああ。」
「ところで、紀野くんとハナちゃん、どんな感じだい?」
「ああ… なんか見てて、辛えわ。」
「それって?」
「これが終わったら、ハナは本国に帰るだろ?」
「北京の判断次第だな。でもそうなる可能性が高いだろうね。」
「こないだよお、二人で抱き合って泣いてたぜ。」
「…マジか?」
「紀野はてっきりハナは日本に出稼ぎで来てて、何なら日本に定住すると思ってたらしくてな。」
「ああ…」
「そんでハナの奴もすっかりこっちとアイツを気に入っちまって。」
「そっか…」
「堪らねえな。切なすぎてよ…」
己が最高の幸せを手に入れたが故、他人の幸せに妙に敏感になっている様子だ。だがそれは龍也も同様であり、暫く二人はハナと紀野の今後について深く話し込んだものだった。
「そう言えばハナの奴、お前らとデズニーランド行くって張り切ってたぞ。」
デズニーって… 龍也は軽く吹きながら、
「ああ。百葉ちゃんとハナちゃんが約束したらしい。」
「そっか。おい、ちゃんと連れてってやれよ。」
「あはは、考えておく。」
「ハナにとって、一生の思い出になるかも知れねえんだから、な。」
恐らくハナは帰国したら、当分、いや二度と日本には戻らないだろう。激化する主流派と反主流派との防波堤役として、主流派幹部の専属ボディーガードに昇格するかも知れない。
そう考えると中国帰国前に、紀野とのいい思い出を作ってやるのは吝かでない。
「そうだね。年明けにでも、四人で行ってくるよ。あ。シンタさんもヒナちゃん誘って来ないか?」
「行かねえよ。」
「そっか。確かに似合わねえな、シンタさんがディズニーで、って。」
「うるせえ。それよりよ、京の奴も凹んでてウザいのだが。」
同棲している綿積悠人の遠洋漁船をマニラ沖でフィリピン海警に拿捕してもらったのだ。乗組員は全員拘束され、釈放されるのは年明けと報告を受けている。
「非戦闘員は、少ない方が良い。それだけさ。」
「なるほどな。鬼だなテメエは。」
「シンタさんに言われたくねえわ。それよりさ、俺たちの式、来てくれよ。」
「ふっ ああ。」
「そっちのも必ず行くからさ。」
「ああ。」
「それまでにフラれてなければ、な。」
「馬鹿野郎。テメエもな。」
一方的に切られた電話に苦笑いしながら龍也はスマホを胸ポケットにしまった。
* * * * * *
十一月下旬。
「あーららー こりゃ大変かもぉー」
香取課長が読んでいた新聞越しに、
「どうした。何か動きがあったのか?」
「えーと、全部で十八匹が、入国しましたぁー。」
課員全員が席を立ち上がり、絵梨花の元に集まる。
「中型のバスを予約したみたいですぅー、三匹一組で行動なうー、別々のビジホに滞在なうー。」
「身元照会できるか?」
「チョロいって。ちょい待ちぃー」
二時間後。
「こ、これは……」
香取が十八名の身元がプリントされた紙を見ながら絶句する。
「『蛇龍』って… 人民解放軍の特殊部隊じゃないですか。どうして外務省は入国させやがったんだよ…」
「こっちも一本縄じゃねえからな。梁派に打たれてる官僚がいたんだろ。畜生。」
「武器は持ち込ませてないだろうな? 銃撃戦にでもなったら、内閣ひっくり返るぞ!」
香取課長の額に汗が滲む。龍也が絵梨花に、
「持ち込み手荷物、別送品、全て洗い出せ。」
「ほーい。」
船橋絵梨花のその後の調べで、別送品として横浜港に上がっていた貨物が発覚し、至急取り押さえることに成功する。
「サブマシンガンに狙撃銃… 手榴弾に迫撃砲。戦争しに来たのかコイツら。日本を舐めくさってるぜ。クソが!」
飯岡三佐が吐き捨てるように言う。香取は頷きながら龍也に、
「これで奴らは丸腰って訳だ。『蛇龍』はどう手を打ってくる?」
腕を組み、目を細めながら龍也は、
「日本では武器の入手は困難。時間も無いし。手に入れたとしても暴力団がらみで精々九二式数丁でしょう。あとはナイフに自作の爆弾か。格闘戦になると相当手強いですよ、確実に狙撃銃で一人一人削っていくしかないかと。」
皆はシーンとなる。日本の海辺の片田舎で、自衛隊開設以来の壮絶な戦闘が行われる…
ゴクリと唾を飲み込んだ香取が、
「現地の一般(人)への被害想定は?」
「集落の皆は事前に避難させます。周辺は県警の協力の元一般道を封鎖し立ち入り禁止にしたいですね。現場にはシンタさん、ハナの二人だけに居てもらいます。」
「それでいい。お前は、どうする?」
全員がゴクリと唾を飲み込む。魚釣島のヒーローがまたもや日本の危機を救う?
「現場入り、します。」
全員が大きく息を吐き出す。
「習志野の囮として、か?」
「相手は特殊部隊なので。現場で派手に動いて敵を散らせば、習志野が一匹ずつ潰していきますよ。」
船橋絵梨花が急に立ち上がり、龍也にしがみ付く。
「いや… 死んじゃいやだよぉー」
絵梨花を乱暴に引き剥がし、
「ばーか。死ぬ訳ねえだろ。」
呟く龍也の冷酷な眼差しに、情報部員達は頼もしさを感じると共に背筋が冷たくなったものだった。
十二月。師走に入った。
「いよいよ、来週か。予想ではいつだ?」
船橋絵梨花が両手を顎に添え、
「バスの予約が月曜から金曜日まで。来週は火曜日が雨予報なんですよぉ、だからその辺じゃないですかぁ?」
「奴らの動きは? 携帯電話の傍受はやはり無理なのか?」
「そーそー。相手もおバカではないですからねぇ。毎日ちょこちょこ近所を徘徊してまーす。」
「通報して、パクれないのか?」
「無理ですねー、一応外交官扱いでの入国になってますのでぇー。」
「外交特権の行使ってやつか。となると、やはり現地で現行犯でやるしかねえか。」
「ですねー、向こうがアクション起こさない限り、こっちは手も足も出ましぇーん。」
「雨の火曜日、か。シンタさんに伝えておこう。」
香取課長が頷き、
「来週いっぱい、集落の人を退去させろ。」
「そうですね、伝えておきます。」
船橋絵梨花がパソコンをチャチャっと操作し、
「箱根の豪華旅館、四部屋抑えましたよぉ。」
龍也は絵梨花の頭をクシャクシャにしながら、
「よくやった。予約票を俺に転送してくれ。」
「ほーい。」
飯岡と横芝はこの流れを呆然と眺めながら、
「なんか、この人たちすげえな…」
「ですね。僕らもああなれるのでしょうか?」
「無理だな。何せ俺がここに赴任して以来、船橋が口をきいてくれた事、一度もねえんだ…」
「…自分もです… 目を合わせてくれたことも一度も… まずはそっからでしょうか?」
「だな。」
「ですね。」
来年こそは、と決意を新たにする二人である。
「転送した通り。日曜夕刻に出発してもらい、金曜の昼にチェックアウトしてもらう。どうかな?」
「分かった。皆に伝える。」
「庶民では泊まれない豪華な旅館だぜ。大丈夫だよな?」
「ああ。大丈夫だ。金かかったろ?」
「彼らの命に比べたら安いもんだよ。それとー紀野は絶対に…」
「ああ。その週は来ないように伝える。」
「頼むね、俺からも念を押しておくから。」
不意に信太が鼻笑いし、
「久しぶりだ、な。お前と連むのは。」
龍也もニヤリと笑いながら、
「ああ。楽しみだね。相手はあの『蛇龍』だぜ。足手纏いにならないように気をつけるよ。」
「言っとけ、鬼龍。」
「うるせーな、鬼熊。」
二人は笑いながら同時に電話を切った。
「えええええー、来週いっぱい、出張だって? 保護者会どうすん?」
秋刀魚の干物焼きを頬張りながら羊が膨れっ面をする。
「ああ、大丈夫だよ私。来週は試験中だからバイト無いし。」
冬瓜の煮付けを咀嚼しながら百葉がニッコリ笑う。
「ももっち… まあ、良いけど。でも、大丈夫? みんな知ってるよ、婚約話。ママ友の根掘り葉掘り追求に耐えられる?」
「うわ… 」
「父さんなら、いつもの冷酷な顔で顰めっ面しとけば、誰も聞きに来ないからアレだけど。下手したら、結奈ママ辺りに刺されるかもよ。まあ気をつけて頂戴な。」
「あはは… まさかね… それより、た・た・龍也さん、出張はどちらへ?」
未だ慣れない百葉なのである。
「済まない。極秘事項なんだ。」
「ほーん。御国のためにってか。ま、体に気をつけてきてなー」
「おお。百葉ちゃん、申し訳ないけど、保護者会頼むね… あの、護身用になんか持ってくか?」
羊が思わず味噌汁を吹き出し、
「やるな、ロン。今年イチおもろかったぜ!」
百葉は苦笑いしつつ、前から気になっていいたことを口にする。
「ところでさ、時々羊ちゃん、た・た・龍也さんのこと『ロン』って言うよね? それって?」
羊はキョトンとし、やがてああと納得顔で、
「私の母さんがさ、この人のこと『ロン』って呼んでたんだよ。」
「シェンメイさんが… 」
「因みに、龍也の龍の字を中国語で『ロン』って言うの。だから、ロン。Repeat after me, Ron !」
百葉は口をパクパクさせ、
「ろ・ろ・ロン!」
羊はズッコケながら、
「ダメなのか… 中国語読みでも…」
そんな二人を目を細めながら眺めている龍也は、
「最近、紀野くんと話したかい? 様子どうだった?」
百葉は首を傾げつつ、
「先週、横山先輩と三人でたまごサンド食べましたが。特に普通でしたよ。」
「そうか。来月、いよいよ金芝の収穫だね。」
「ああ、その話になりました。収穫したら週末に恵比須に行く事がなくなるだろうって、寂しそうでしたね。それと、ハナちゃん中国に帰っちゃうんですか?」
「どうだろうね、飯店の女将さん次第なんじゃ無いかな?」
「そっかー、ああそれと! 紀野さん楽しみにしてましたよ、ハナちゃんと、四人でディズ…… あっ…」
ディズ? キラリと羊の目が光る。
「ディズって何? 四人って何?」
「そ、それは… えっと…」
羊は龍也に振り返り、
「父さん。説明して。四人でディズって何?」
龍也の目が泳ぐのを見逃さない羊は、
「ちゃんと説明してもらいましょうかね。人が受験勉強で忙しくしている中? いい大人が四人で何処へ行くですって? まさかのまさか、ネズミ遊びをしに行くんじゃ無いでしょうね?」
「ひぃーー」
百葉が思わずうめいてしまう。
「時と場所次第ではこちらも考えがございますから。さ、二人ともリビングのソファーに座って頂戴。」
そう言いながらリビングに飾ってある実の父と母の写真を胸に抱き仁王立ちする小学四年生に、心底怯える自衛官と東大生なのである。
* * * * * *
ひょっとしたら、日本に残れるかも知れない。
ハナが興奮した表情で紀野に告げたのは先週末である。なんでも御徒町飯店のおかみさんから連絡があって、金芝の収穫がうまくいったなら、あと一、二年日本で働かせてやるとの事だったそうだ。
「大丈夫だよな? ちゃんと収穫出来るのだよな?」
紀野も興奮気味に、
「ああ大丈夫。来月の半ばには、大収穫だ。任せておけ。」
その答えにハナは大興奮であった。
長かった栽培もあと少し。十二月に入り毎日大学の研究室へ行く必要のなくなった紀野は、収穫の日まで恵比須にずっと滞在しようと考えていたのだが。
先日、千葉龍也から連絡が入る。
「例の反主流派が恵比須を嗅ぎつけたらしい。来週中に金芝を襲いに来ると思われる。よって来週いっぱいまでは恵比須に行かないように。」
「村の皆は? ハナは?」
「安心して欲しい、箱根の温泉旅館に退避させる予定である。」
イマイチ納得し難かったが、龍也の冷徹な指示と報告に対し、頷き従うしかなかった。
「金芝には指一本触れさせない。だから安心して東京で過ごしてくれ。」
そうするつもりであった。
金曜日の朝、信太から電話が入る。
「タツから聞いたか?」
「ええ。」
「そう言う事だから。こっちには絶対来るなよ。」
「はあ。」
「ハナも、皆と共に箱根に行くのですよね? 安全なんですよね?」
「そうだ。安全だ。」
ホッとしながら電話を切る。
千葉龍也の話によると、相当ヤバい集団が恵比須を襲うらしい、ハナみたいな女の子がいたら即巻き添えにあい、下手をしたら落命するだろう。
正義感に溢れ気は強いがあんなに小さくて非力なハナは、奴らの傍若無人ぶりに激怒し暴言を吐き相手を怒らせ、真っ先に殺されるのではないか。皆と退避できて本当によかった。
そう言えば。
六月以来、ハナと一週間以上合わないのは初めてである。
何もすることがなく仕方なく研究室で土日を過ごしたが、少なくとも来週末までハナに会えない事がこれ程寂しいとは思わなかった。
その夜。
狂おしい程にハナに会いたくなる。そして紀野はハッキリと気付く。
自分はどれ程ハナを愛しているかを。
人を、女性をこれ程深く激しく愛した事はない、それどころか女性を好きになったこともない。
ハナを愛し始めた日々までとそれ以後で、どれ程人生の色合いが変わっただろうか。それまでは確かにキノコの研究は心底楽しかったし家族も優しかった、そして横山という親友も良くしてくれた。
だが今はどうであろうか。
生まれてこの方、今ほど色鮮やかな人生を送ったことはない。真っ青な秋空が美しい。紅葉した木々が美しい。秋雨に濡れるアスファルトが美しい。日々の終わりを告げる夕焼けが美しい。自分の目に入る何もかもが美しい。そしてー
林華花が美しく愛しい。
想いはまだ伝えられていない。伝え方も分からない。
だが。この収穫が終わった時。この想いをハナに伝えよう、無様でも良いから兎に角キミは美しく愛しい、と叫ぼう。
ハナはきっと鼻で笑うだろう。嘘をつくなと怒るかも知れない。
どんな反応でもいい、何と思われてもいい。この溢れんばかりの切ない想いを伝えられるのならば。
大学の寮で悶々としていた紀野は我慢の限界を突破してしまう。箱根のどの旅館か機密事項だからと教えてくれなかった。今から小田急ロマンスカーで箱根に行き一軒一軒探そうか、と思ったが箱根の旅館の数を調べ挫折する。
そうだ、鳥山琴音に連絡してみよう。琴音は教えてくれないだろう、なので明に電話を代わってもらい、何とか聞き出そう。
スマホの住所録を開き、鳥山琴音をタップする。
「あら珍しい、光治くん。どうしたの?」
「明に頼まれていた、ストロンチウムが何とか手に入ったんだ。明に代わってくれる?」
「また変な実験するんじゃ… 明ちゃーん、光治くんがストロン何とかが手に入ったってー。」
明のすっとんきょな奇声が聞こえ、
「キノコさんマジですかホントですか? それ明にくれちゃってよろしいのですか?」
「ああ構わないよ。何なら今から届けに行こうか? ってそれは無理か、そっちって箱根のどこなんだい?」
「ああ今すぐに入手したいものなのですがそれは不かのうかと… りゅうか水そはふんだんにあるのですがねえ、ああここはせんごくはらとかいうとこですよ。」
仙石原か。かなり絞れそうだ。いきなり訪ねてからのハナの驚く顔が見たい。
「ところでハナは硫化水素中毒で倒れてないだろうね、何せ初めての温泉だろう?」
「へ? ハナちゃん? ハナちゃんは……」
電話が奪われ、琴音が穏やかな声音で、
「ハナちゃん疲れてもう寝てしまったそうよ。私たちももう寝るわ、貴方も早く休みなさい。動画やTENGAは程々になさいよ。」
と言って一方的に電話が切られてしまった。
何なのだ? 明の明らかに困惑した声音。まるでそこに初めからハナが存在しなかったが如く。琴音の電話を奪ってからの即切り。ハナに関して何か隠していることは明白だ。
明と琴音の反応から鑑みた、紀野の結論―
箱根に、仙石原にハナは居ない。では何処に?
しばらく考えるうちに睡魔に襲われてしまう。
翌朝、月曜日。
浅い眠りを繰り返していた紀野は昼前に千葉龍也から電話が入りベッドから腰を上げる。
「昨日の夜、琴音さんに電話したそうだね。」
「ええ、まあ。」
「何故?」
「…ハナに、会いたい。」
龍也は思わず息を飲み込む。言い放った紀野は深く吐息を漏らす。
「我慢してくれないか? 本当に危険なんだ。」
「俺が箱根の旅館に行くことが?」
「ああ。奴らがキミを監視していることを忘れないでくれ。」
紀野の背筋が冷たくなる。
「今週いっぱいだ。今週内に必ずケリをつける。だから、それまで我慢してくれ。頼む。」
大きな吐息を混じりで、
「分かり、ました。そう、します。」
そう答え、電話を切る。
ベッドに寝転び、龍也、信太、琴音とのそれぞれの会話を脳裏にポップアップさせる。そしてそこに内在する嘘を抽出し除外し、真実を明らかにしようと頭をフル回転させる。
ヤバい連中。確かにそれは危険な連中かも知れない、簡単に人殺しするくらいの。
奴らの俺への監視。それはある筈がない。俺如きを監視する程時間も資金もないと推測する。それに最近学生寮周辺で不審者を見た試しがない。
恵比須の皆。箱根の仙石原にいる。だがそこにハナは確実に居ない。ではハナは何処に行ったのか? ハナが行くべき場所は何処なのか?
嫌な予感が紀野の胸に湧き上がる。
ハナは何処にも行っていないのでは? 即ちハナは今現在恵比須にいるのではないのか? 何の根拠もないのだが、紀野の直感が首をもたげ警告している。
ハナは恵比須にいる。そしてあのビニールハウスを守っている!
目の前が真っ暗になる。ベッドの上で意識を失う。
夕方、意識を取り戻すが。心の葛藤に苛まれ夕食も取らず部屋に引きこもる。
自衛隊が金芝を中国共産党反主流派の襲撃から守ってくれる。その場にハナがいねばならぬ必要性が紀野にはどうしても理解できなかった。
同じ中国人だから? まさか翻訳要員として? 様々な考えが湧いては消え。浮かんでは弾け。いい加減に疲れ果て、寝入ったのは火曜日の朝方であった。
ビニールハウスに群がる中国人工作員達。手にする火槍が禍々しい。大勢の自衛官がスクラムを組み彼らを押し戻そうとするも、やがて彼らの親玉が叫び、火槍が一斉にビニールハウスに突き刺さる。
ハナが中国語で叫ぶ。園内での火槍のご使用はご遠慮くださいと。それに構わず奴らは爆竹をビニールハウスに放り込んで行く。
やめてくれ、頼むやめてくれ… 俺の育てた金芝が燃えてしまう、死んでしまう…
やがて一本の火槍がハナに突き刺さる。
うわあーーーーー
紀野は目が覚め起き上がる。全身にねっとりした汗が絡んでいる。
これ以上、ここで我慢出来ない。俺はハナのそばにいたい。金芝の側に居たい。
時計を見ると、昼過ぎだ。薄汚れたカーテンを開けると、窓の外は冷たい秋雨が降っている。
寝巻きを脱ぎ外出着に着替え、ビニール傘を携えて部屋を飛び出す。寮の入り口で周囲を見渡し、不審者が居ないことを確認する。
ほら見ろ。俺を監視する奴なんている訳がない。
紀野はタクシーを拾い、品川駅に向かった。
* * * * * *
『マッシュ、車を拾い南方面に向かう 送れ』
『了解。引き続き監視せよ 送れ』
『了解。』
会いたい。早く会いたい。
車窓に打ち付ける雨越しに秋の深まった東京の景色が過ぎて行く。防水機能付きの登山用のジャケットに包まれながら、只管にハナを想う。そうだアイツにこんなジャケットを買ってやろう。三崎口に着いたらワークマンに寄って選んでやろう。
アイツには鮮やかなピンクが似合うかも知れない、いや黄色もよく似合いそうだ。渡した時どんな顔をするだろう。いつもみたいに、つっけんどんな顔で「ありがと」と言うのかな。それとも「こんな色似合わない」と言って拗ねるだろうか。
それにしても、渋滞が激しい、これも師走だからなのか。
イライラを隠せずに紀野は足の貧乏ゆすりが止まらない。
『マッシュの後方に不審車が着いています。乗員二名、前後のナンバーが異なってます 送れ』
『直ちに排除せよ 送れ』
『了解。』
昭和通りの秋葉原を過ぎた頃、後方でガシャンという衝突音が聞こえる。
「あらら、後ろで交通事故ですわ。」
運転手がバックミラーを見ながら言うので振り返ると、白いワゴンの前方に黒い車が割り込む形で衝突している。
雨で視界が不良だからかな、紀野はこのタクシーに衝突されなくて良かったと軽く考え、再び思考を恵比須のハナのことに向ける。
そうだ、冬の作業用の手袋も必要だ、一緒に買ってやろう。ああ、厚手の靴下もそろそろいる季節だ、見繕ってやらねば。
タクシーが品川駅に着く頃には、スマホのメモ帳には夥しい量の買い物リストが書き込まれていた。
『工作員二名確保。銃を所持していました。警察に引き渡します 送れ』
『了解。マッシュの追跡は? 送れ』
『不可能でした 送れ』
『了解。』
京急品川駅から特急に乗車する。
時計を見ると午後二時過ぎだ、三時半には三崎口に着き、ワークマンで買い物をし日没までには恵比須集落に入れるだろう。雨だが平日なので駅前でタクシーを拾おう。
信太さんには激怒されるだろう、こんな危ない時に来るなんて、と。だが行ってしまえばまさか追い返すことはすまい。部屋でハナとじっとしてろと言うに違いない。
ハナは心底怯えているだろう。あんなに小さな体で小さな手で、ずっと一人で言葉も良くわからない日本の田舎に閉じ込められて。そして中国の党の内輪揉めに巻き込まれ、下手をしたら怪我をするかも知れないほどの乱戦に身をおかされて。
千葉さんが言っていた「危険な奴ら」だが、まさか銃を持っていたりはしないだろう、せいぜい夢で見た槍や鎌、ナイフぐらいなモノだろう、それでもそんなものを振り回されたら、あんな小さな女子はさぞや恐怖に震えるに違いない。
猪狩りをしたり漁船に乗り込んで漁に出たり。日本女性にはあまりない勇敢さは認めるが、刃物を持って暴れる人々の側には一人でいさせたくない。自分がしっかりと守ってやりたい。
まあ、俺に出来るのは部屋に鍵をかけて二人で布団を被って身動きしないことぐらいであるが。
電車が横浜を過ぎた辺りで睡魔に襲われ、終点に着くまで深い眠りに落ちていた。
『こちら三崎口 マッシュを発見 パンダ二名が後をつけています 送れ』
『パンダの排除は可能か? 送れ』
『可能です 送れ』
『了解 排除せよ 送れ』
『了解。』
駅前の通りを下って行き、右手にあるワークマンに入る。
スマホに入力した品を全て選ぶと、大きな紙袋四つ分の荷物になってしまう。
「恵比須の小畑さんの方ですよね? 良かったら後でお届けしましょうか?」
それは助かる。まさかこれ程の量になるとは思わなかった紀野は、店主の厚意に甘えることにする。
「夜の八時過ぎでも大丈夫ですか?」
問題ないだろう、紀野はコクリと頷き、会計を済ませタクシーに乗るべく駅に引き返す。
雨は小降りになっており、もうすぐ傘は要らなくなるだろう。湿った冷たい空気は僅かに潮の香を含んでいて、恵比須への郷愁に似た感情に紀野の歩幅は自然と大きくなっていく。
タクシー乗り場には一台だけ停まっている、平日の夕方にしては少ない気がするのだが。
「恵比須漁港の方へお願いします。」
「あれ。信太さんとこの? 毎週ご苦労さんだね。」
何度かお世話になった運転手だ。
発車させた後、運転手が徐に語り出す。
「さっきさぁ、取っ組み合いの喧嘩があったんだよ、二対二のさ。それがその辺のチンピラの喧嘩じゃなくて、格闘家同士のやり合いみたいで。面白かったぜぇ、昔を思い出しちまったわ。」
「昔ですか?」
「ああ。俺は昔、恵比須のカツオちゃんと連んで、この辺で暴れまくってたんだよ、知ってんだろ、磯部勝男って。」
磯部? 勝男? その人って京の?
「そーそー、京ちゃんの親父な。数年前に死んじまった。アイツは喧嘩強かったんだわ、湘南では無敵だった程な。」
知らなかった…… あの美少女の父親がそんな乱暴者だったとは…
「ま、娘もちょっと前までは暴れまくってたし。遺伝子って奴かね、ガハハハ」
「京ちゃんが暴れてたですって?」
「おお。ムカついた体育の先公を半殺しにしたり、横須賀の族(暴走族)の特攻隊長を病院送りにしたり。」
「…マジ、ですか…」
「大マジよぉ。ああ、このまま伝説のスケ番にでもなるかと思ってたけど、最近落ち着いたみてえだな。こないだ見かけたらえらい別嬪になってるし。」
「し、知りませんでしたよ、あの京ちゃんがそんなだったなんて…」
「そうか、俺が言ったって言うなや、ガハハハハ!」
まだまだ恵比須集落のことを何も俺は知っちゃいないんだな、怯え驚きつつ紀野は空いた口をどうにか閉じるのだった。
『こちら三崎 なんとか、対処しました 二匹とも確保済み こちらはサンダーが腕をやられました 送れ』
『了解 至急応援を送る 警察には渡すな 送れ』
『了解 マッシュは見失いました 送れ』
『ビッグベアに伝える 送れ』
「あれえーー なんかこの先通行止めだってよ。聞いてねえし。アンタどうする?」
市道が封鎖されており、雨具を着た警察官が両手でバッテンを出している。
スマホのマップを確認すると、すぐ脇に農道があり、そこを降りて行けば三十分程で恵比須漁港に行けそうだ。
「ここで結構です、あとは歩いて行きますので。」
「そうか。そっから農道行くんだな、雨降ってるから足元気をつけるんだぞ。」
料金を支払い、ワークマンに荷物を託して本当に助かった、とホッとする紀野であった。
封鎖された市道脇から農道に入る頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。両側には畑が広がり街灯はなく、あと少ししたら真っ暗になってしまう状況である。
所々水溜りがあるのを避けながら、早足で漁港方面に向かう。フィールドワークに慣れ親しんでいるので、この程度の悪路は全く問題ない。ただ雨脚はやや強まってきており、荷物を持っていなくて本当に良かった、自分の判断力に満足する紀野である。
二十分ほど進むと両側は木々に覆われ、完全に夜の闇に飲み込まれた。だがこんな自然の中の暗闇は幼い頃から慣れ親しんだものなので、逆に久しぶりの大自然の暗黒を楽しみながら、ゆっくりと歩を進めていた。
やがて急に視界が開け、恵比須漁港の灯が眩しく現れる。同時に吹き抜けの冷たい潮風が頬に当たり、少し身震いをする。
気がつくと雨は止んでおり、傘を畳んで右手に持つ。
ハナを襲う奴はこれで退治しよう、この聖剣エクスキャリバーで!
そんな妄想を膨らませながら漁港前の市道を右折し恵比須集落に向かう。この剣は突き専門スキルが必要なのだ。俺はこの半年で『疾風五月雨突き』のスキルを獲得した、このスキルには『ポイズンマッシュ』効果が付加されるのだ。従ってこの剣先に触れた相手は音もなく倒れていくだろう。
この技を俺の背中に隠れながら見ていたハナは感動し感激するだろう。
「貴方、スゴいよ。本物の勇者だよ!」
早く会いたい、早く守りたい、ハナ!
紀野はもはや小走りで市道から恵比須集落へと向かう砂利道を進む。その砂利道の手前に白い小型のバスが停車している、珍しいこともあるものだ。まさか、例のヤバい奴らが乗ってきたバスじゃなかろうか?
外から車内を覗いてみたが誰もいない。二十人乗り位の大きさだ、まさかそんな大勢が集落に? 急に背筋が寒くなり、それでも足は集落へと進んでいく。
ダーーーン
銃声のような音が山の方から響いてきた。
紀野は思わず立ちすくむ。まさか、銃撃戦…?
握っていた聖剣エクスキャリバーがブルブル震え出したその瞬間。
集落方向から人がこちらに走ってくる音がする。
目を凝らすが暗くて良く見えない、ただ足音が砂利を蹴ってこちらに向かってくる音がするだけだ。
その音が急に立ち止まり、数秒後に金属製の物が砂利道に落ちた音がした。その直後、突然眩しい光と凄まじい音響が紀野を襲った。
耳がキーンとし目が眩んで立ち竦んでいると、黒尽くめの男が紀野とぶつかった。
「你是谁? 但恰到好处。(誰だお前は? でも丁度いい。)」
紀野は後ろから羽交締めにされ、首元にナイフを突き付けられる。
一体何が…
眩しくて、耳が聞こえなくて、何が何だかさっぱりわからない…
誰なのだこの男は? 首元の冷たい感触は、まさかナイフを…
余りの恐怖に聖剣を砂利道に落とし、
「帮助、帮助!(助けて、助けて!)」
と呻くように発声する。
男は紀野を引き摺るように引っ張りながら、磯の方に向かう。
* * * * * *
畜生。
こんな筈では、こんな筈では無かった…
作戦は完璧な筈だった、だが俺たちは全て見透かされていた
平日の雨の夕方、バスでここに来るまでは問題無かった
集落には男二人と若い女が農作業をしていた、こちらは十八名、仕事は簡単な筈だった
そいつらを銃で脅し、金芝にガソリンを掛けて火を付ける、それだけだったのだ
だが
銃で三人を脅していた劉が狙撃された。あれは完全にプロの仕事だ。
ビニールハウスの前に立ちはだかったあの三人…
一人は大きい熊みたいな男、あっという間に孫と珍がやられた。
もう一人の男は最悪だった。隠し持った短剣で王と李の班の六人がやられた。
だが
何なのだ、あの小娘…
ガソリンをかけようとした趙が一瞬で絶命した、猛毒に違いない。その後あり得ないスピードで俺たちを切り刻み…
あの身長なのに、陳の顎を蹴り砕き、周の脳天を踵落としで砕いた
作戦失敗だ、逃げるしかない
山はダメだ、狙撃兵が潜んでいる
海に出れば、真っ暗だしあとは泳いで何とでもなる
ああ、足音が近づいてくる、あの恐ろしい小娘の駆け足が
もう、ここまで、か…
何という奇跡だ!
一般人が突っ立っている、武器は細い剣のみ、こいつを人質に取れば…
スタン・グレネードを小娘に投げつけ男を確保した
あとはコイツを盾に海の方に行けば
クソ、足場が悪い 岩がゴロゴロしていやがる
でも岩を打つ波の音が徐々に近づいているぜ
小娘も手が出せないでいる、本当にこの男がいてくれて助かった
よし、もう少しで海だ、あとはこの男の喉元を掻き切って海に飛び込めば
生還出来るに違いない!
* * * * * *
大柄な紀野を盾にし、最後の『蛇龍』の隊員はジリジリと海へ向かっている。
故に龍也と信太は銃を構えながらも手出しが出来ない状態にいる。
「おい、どうする? このままだとキノコが…」
「…ハナに任せよう。ハナ、頼んだぞ、援護は任せろ」
「明白(分かった)」
ハナの全身から力が抜け、見るからに虚脱状態になる。
真の恐怖に晒されると、人は言葉が全く出なくなる。紀野は嘗てない死への恐怖に晒され、渇き切った口を震わせることしか出来ないでいる。
ハナは真っ黒な海底から響くような低く恐ろしい声で、
「よく聞けキノコ。合図をしたら全力で体を前に倒せ。」
「不要说话 (喋るな)」
『蛇龍』が叫ぶ。喉元に当てたナイフに力を入れる。紀野が痛さでヒッと声を立てる。
龍也と信太は固唾を飲み、紀野とハナを交互に見詰める。
あと数歩で海だ。
このままではきっと……
その瞬間。鋭い刃物のような声で、
「伏せろ!」
ハナが叫んだ瞬間、紀野が
「わあああーー」
と叫びながら上半身を前に倒す。
それにより、背後の蛇龍の男が一瞬…
シュッ
男の喉元にナイフが突き刺さる。
男は物も言わず、仰向けに倒れていく。
龍也と信太が駆け寄り、紀野を引きずり寄せる。
二人に肩を借りた紀野は何度も大きく呼吸する。喉元に鋭い痛みとヌルヌルした感触が気持ち悪い。
目の前に誰かいる。暗くて分からない。
その小さな影が不意に磯場に崩れ落ちる。
その瞬間、雲の切れ間から月が淡い光を磯場にもたらす。
紀野の目の前に、足を抑え蹲るハナがいた。
「ハナ!」
首の痛みを忘れ、龍也と信太を振り解きハナに駆け寄る。
「キノコ おまえ どうして ここに きた…」
声も絶え絶えのハナの足首に、月に照らし出されたカラフルな紐状のものが巻き付いている。
「ああああ! これは、カツオノエボシ! あああああ!」
紀野の絶叫に信太と龍也はハナを囲む。紀野は素手で巻き付いたカツオノエボシの死骸を引きちぎっては海に投げ捨て、
「大丈夫だよ、大丈夫だ、ハナ!」
と叫んでいる。
信太は龍也に、
「注射を持ってくる。心肺停止したら頼んだぞ!」
「分かった。」
立ち上がって集落目指して駆けていく。
チラリと仰向けの蛇龍の男を見ると、目をカッと開いたまま絶命している。
「紀野、どうしてここに来た? 絶対来るなと言った筈だ。」
「だって… ハナが… ハナと…」
「全く、軽率な。まあいい、それよりハナは平気なんだよな、そんな毒はカツオノエボー」
「二回目なんだ! 夏にやられてるんだよ!」
「何だと?」
「だからこれはアナフィラキシーの二相性反応なんだ、だから… ああああー」
「そんな… まさか…」
龍也は唖然とし、真っ白な顔のハナを覗き込む。手首を持ち上げ脈を取るが、今にも途切れそうな弱々しい脈だった。
「おい 鬼龍」
小さく弱々しい声でハナが囁く。
「おまえ さすが 鬼龍だ 蛇龍なんて おまえにかかれば 雑魚だった」
龍也は首を振り、
「喋るな、ゆっくり息をしろ、大丈夫だ、今シンタさんが注射を持ってくる。」
「なあ 鬼龍 アタシは シェンメイ ねえさんより 強かったか?」
「ああ、強かった。断然強かったぞ。」
「フッ そうか 強かった か… うううっ…」
紀野がハナの顔を両手で挟み、
「ハナっ ハナっ!」
目を閉じていたハナが薄らと目を開き、
「キノコ 怪我は ないか? 首は へいk… うううっ…」
「平気だ、大丈夫だ、ハナ! 頼む、頑張れ、ハナ!」
月に照らされたハナは神秘的な美しさを醸し出し、紀野に向かい弱々しい笑顔で、
「そう か おまえが 無事 なら 良かった…」
ハナは目元で微笑み紀野を見つめる。
「一緒にディズニー、行くんだろ? 来月俺と一緒に行くんだろ!」
「ディ ズニー 行きたい 行き たい…」
ハナの目はゆっくりと閉じていく。まるで瞼の中で夢の国を見る為のように…
紀野は何度も首を横に降る。認めない、絶対に。このままハナが逝ってしまうなんて、絶対に認められない!
伝えたい。伝えなければならない。自分の想いを、自分のハナへの感情を!
弱々しくなっていくハナに、絶叫する。
「ハナ! 愛している! 我爱你、華花!」
弱々しく閉じられていた目が一瞬カッと見開かれる。
母亲
私を愛してくれる人がいるよ
お母さんのように私のことを深く愛してくれる人がいるよ
ずっと一緒にいたかったな
いつまでも一緒にいたかったよ
父亲
愛している人がいるんだよ
お父さんと同じくらい愛している人がいるんだよ
ずっと守ってあげたかったな
いつまでも守ってあげたか った な……
私は二人の元には行けないや
だって大勢人を殺してきたから
今日だって十人以上殺したんだ
だから地獄に行って永遠に苦しむんだ。
だから、
ああ
お願いお父さんお母さん
この言葉だけ、彼に残したい
彼に伝えたい
だからあとちょっとだけ
力を下さい
「つきが きれい」
不意にハナの体は軽くなり宙に浮かび、
優しい笑顔の母と父に両手を握られる。
やがて三人は明るい光に導かれ
天高くどこまでも、どこまでも登っていく…
冷たくなったハナの笑顔は、月光に照らされ光り輝いている。その目元に溢れている涙を指で掬い、耳に残る言葉を何度も脳裏で繰り返す。
「月が綺麗。」
まさか、知っていたのか… 俺の大先輩の言葉を…
神々しいハナの死顔を見下ろし、呆然とする。
お前が、お前みたいな子が、俺のことを… 嘘だろ、冗談だろ? なあ、目を開けよ、目を開けて「バーカ、冗談だよ」って言ってくれよ…
俺のことを愛したまま、逝くなよ… そんなの絶対許さないぞ
そんなのお前が辛すぎる… 俺も辛すぎる…
ダメだ、いやだ、ムリだ!
「ああああああああああああ!」
信太がアドレナリン注射キットを持って磯場に入った時。この世のものとは思えぬ悲痛な叫び声が磯場に響いていた。
* * * * * *
『作戦終了。パンダは全滅。こちらは被害者一名 林華花 送れ』
『了解。』
龍也はヘッドセットを海に投げ捨て、真っ黒な海を背に歩き出した。