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谷中愛ものがたり  作者: 悠鬼由宇
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第二章

あんなに美しい女性は初めてだった。


物心ついてから女性と口をきいた記憶が無い。母親と妹を女性とするなら話は別であるが。

信州の片田舎で生まれ育ち、高校生までは地域の神童として知られていた。大学は東京大学理科二類に現役で合格し、二年間の教養課程を経て三年生より農学部環境資源学課程に進み、卒業後は大学院の森林科学研究室の森林植物学専攻室に在籍している。

幼い頃からキノコに興味を持ち、裏山で二十種類のキノコを発見し分析分類し、県の夏休み自由研究に応募し見事特賞を獲得した。高校生になりカキシメジとチャナメツムタケの独自の見分け方を発表し、内閣総理大臣賞を受賞した頃には

「房州にさかなクン在り、信州にキノコくん在り。」

と全国レベルの知名度を誇っていた。

勉強とキノコを何よりも愛し、女性には全く興味を持てない青春時代を送っている。その現役女子高生の妹曰く、

「キモいを通り越して、キノい。うわ、キモ…」

そんなキノい紀野光治の外見は、名前と違い全く光っていない。身長百八十センチ、体重九十キロ。その巨漢のお陰で不良に絡まれた経験はない。髪はセミロングで散髪は年一度、万年寝不足状態の故に目がカエンタケを食した人のような死相を呈している。

兄に全く似ていない美人現役女子高生の妹曰く、

「生きているのがドクツルタケに申し訳ない、そう思わない?」

…妹さんも若干意味不明な存在な様で。


そんな紀野光治が美し過ぎる東大生に声を掛けられ心肺停止状態になったのは無理もあるまい。今彼は同じ敷地内の東大病院の六人部屋のベッドの上で、あの彼女は本当は存在しなかったのでは、自分の空想の賜物だったのでは、との疑念を抱いている。

ピロ ピロ ピロ

ベッドサイドのスマホが鳴動している。きっと横山が心配してくれているのだろう。奴はフィールドワークの達人で、紀野が尊敬する唯一の同世代の男だ。

岩手県でのフィールドワークにて、紀野がどうしても見つけられなかったホンシメジをあっさり見つけ出した時には、思わず合掌してしまうほどだった。

若干イケメンなのが唯一の短所なのだが、その性格の良さに免じて許しているのである。もしも妹の性格が良かったなら、是非弟になって欲しかった程である。

奴には大きな借りができてしまった、A E Dを持ってきて俺を蘇生してくれたのだから。今度最高のブナシメジを採ってきて食わせてやろう、そう決心しスマホを手にする。

『先程は大変失礼いたしました。法学部法学科四年生の竹岡百葉です。』

病室内に血圧異常上昇の警報音が高らかに響き渡った。


『その後お加減は如何でしょうか。』

はあはあ。貴女のせいで、あまり上手く在りません。


『実は紀野さんに折りいってご相談がございます。ご研究がお忙しいとは存じますが、近日中にお時間を作っていただけないでしょうか。』

な・ん・だ・と…

こんな俺に、あんな美少女が…

生来臆病者の紀野はこれは間違いなく美少女詐欺であると断定し、病室を出て電話室に入り、横山に電話を入れる。

「いや、普通の子だと思うぞ。ちょっと可愛過ぎるけどな。え? わたしわたし詐欺? チゲーし。ええ? 裏を取れ? 法学科に知り合いいたっけなあ… ああ、高村! ちょっと聞いてみるわ。後で連絡するよ。」

なんていい奴。来月にでも奥多摩でマイタケを採ってきてやろう。そう決心する。


『私は上野にあるしまだ法律事務所でアルバイトをしておりまして、ある案件で紀野さんのお力添えが必要なのです。お忙しい中大変恐縮ですが、ご返信をお待ち申し上げます。』

怪しい。怪し過ぎる。これは絶対に美少女詐欺に違いな……

早速横山から電話が入る。

「ああ、聞いた聞いた。スッゲー地味な子らしいぞ。友達と呼べる存在ゼロ。なんでも谷中に住んでいて本郷まで徒歩通学だと。五月の司法試験の一次試験? 楽々突破だって。え? そうそうバイトで法律事務所って、なんで知ってんだ? ああ? ああそう。ふーん。じゃ、お大事にな。」

本物だ。これは本物の秀才美少女だ。

ああ、どうしよう… 女子とメール、ラインその他一切やり取りをした経験のない紀野はベッドに戻り、身悶える。

と、兎に角。返信を認めなければ。

震える指でスマホを操作し、なんとか返信らしき文章を構築していく。

あとはこの送信ボタンをタップするだけだ。

ああ、そんな勇気が俺にはない。無理だ、あんな可愛い子とこんな不細工な俺が連絡をやり取りするなんて…

削除しよう。俺は身の程を知る男だ。キノコだけが俺を愛してくれているんだ。そんな意味不明な言葉を呟きながらメッセージを削除しようとし、うっかり送信してしまう。

「ああああああああああー」

絶叫が病院内に響き渡り、看護師長にもう帰れと言われ泣く泣く帰宅するのであった。


     *     *     *     *     *     *


「ブヒャヒャヒャー ああ、マジウケるー 何コイツ、最高おもろいんですけど。ももっちを一眼見て心肺停止って、どんだけ旱なん。そんでもって、この返信。あー、笑い疲れたー、ももっちお腹すいたあー」

相変わらずの口の悪さに顔を顰めながら百葉は、

「私が一生懸命見出した知り合いなんだから! そんなに馬鹿にしないでくれる?」

羊は笑い過ぎて溢れた涙を拭きながら、

「いやいやいや。何この『明日時間有リ』って返信。大正時代の電報かっつーの。ウケるー。有りの『り』がカタカナだし。相当テンパってんなあコイツ、ちょっと会ってみても良いかもー、で? どん位ブサイクなん?」

百葉は包丁を羊に突き付け、

「失礼でしょ。人を美醜で判断してはいけません。」

「はーいはいはい。ったく、その台詞は自分がブサイクって自覚アリの人の発言なんだけどなあ。最近はコンタクトにして更にキレイに見えてんだから。も少し自覚を持って、あと責任感も持ってだねえ、そんでウチの根性なしの父親にガツンと…」

羊のブツブツ独り言が全く耳に入らず、明日何時にに事務所に来て貰おうか、一緒に行った方が良いか、お茶菓子は何が好みか、そんな事を気にしている百葉なのである。


定時に仕事を切り上げてきた龍也が帰宅する。羊の指令の通りに帰宅後即シャワーを浴び、食卓につく。

「へえ、下平目のホイール焼きか。ほお、ガーリックバター風味が食欲をそそるねえ。早速頂こうかな。」

何故に父は毎食毎食、ウザい程に食材を気にし味付けに言及するのだろう。羊は自分の父の食事時の言動が気に入らない。男は黙って食え! 本気でそう思っている。だって定食屋に集う谷中の男達は、出されたものは美味かろうが不味かろうが沈黙のうちにかき込み、十分後にはいなせな様子で店を出ていく。

働く男はこうでなければならない、幼い頃から外食に慣れ親しみ、谷中の働く男どもを眺めてきた羊には、己の父の食事姿がどうしても許し難い。

あと数年経ち羊が思春期に入れば、この父の言動が食事を作ってくれている百葉への思いやりなのだ、と気付くであろうが、時期尚早なのである。

そんな羊が不貞腐れながら付け合わせのマイタケを突いていると。

「ああ、そうだ。百葉ちゃん、キノコの栽培農家のことなのだがー」

思いを込めて調理している百葉は心をピンク色に染め、ボーッとしていたのだが。

「え? キノコ農家、ですか?」

「うん。実はさ、昔の上司が今神奈川で農家をやっているんだ。それで久しぶりに連絡を取り、ちょっと聞いてみたんだよ。」

百葉がグッと机に乗り出す。

「そうしたらその彼が、シイタケなら裏山で作っている、ってさ。」

「ホントですかあ!」

「ああ。そんな大きな農家じゃないぜ、殆ど自給自足みたいな生活している人だから。」

「うわ、早速明日所長に話してみますよ。ああ、その農家さんは昔の上司ってことは?」

「そう。元自衛官。」

「それならば、口も固いのでは?」

「ああ、地域の農協にも参加していない位だからね。」

「素晴らしい! それなら田村さんも喜びますよきっと。」

龍也は優しく微笑み、百葉は感謝と喜びを混ぜた笑顔を龍也に返す。

ふむ。悪くない。羊は少しだけ満足すると下平目を一気にほうばった。


「へえー、そのキノコ栽培っていうのが、霊芝? って薬草の話だったんだ。おい羊、霊芝って知ってるか?」

「万年茸、または霊芝草と呼ばれ、古代中国で延命の霊薬として紹介されて以来、薬用のキノコとして重宝されている。直接食すのではなく煎じて飲まれる。生息地は主に湿気のある山林。主に免疫力を高める効果、生活習慣病、高血圧などの改善効果、更にはアレルギー症状の緩和などが期待される。って感じじゃね?」

「さ、さすがだな… 俺も飲もうかな…」

「へえー、そうなんだ。勉強になるわあー」

龍也が急に顔を引き締め、

「ところで。その中華料理店の名前って、何て言うんだい?」

「御徒町飯店、ですが。」

龍也の顔が一瞬強ばった気がした。

「そこのオーナーの田村さんと言う方のオーダーなんですよ。って、あれ、これって守秘義務なのかも… やばっ 羊ちゃん、あの、呉々も…」

遅かりし由良之助… 既に目がギンギンに煌めいている羊は、

「ええ、ええ、誰にも言いませんとも。それで? その御徒町飯店のオーナーが何故にそんな貴重な霊芝を手に入れられたのですかねえ。」

額に汗を感じながら百葉は、

「ああーん、これ以上言えないよ… 所長に怒られてしまうわ。それ以前に法曹人としての守秘義務が…」

羊は邪悪な笑顔で、

「ここだけの話にすれば良いのです。秘密厳守がモットーの自衛官でかつ元々人嫌いの父。そして『谷中のタングステン』と噂される程に口の固い私。全然問題ないのですよぉ、さあ百葉さん、話してみましょう、楽になりますよお、イッヒッヒッヒッ」

タングステンの意味が分からないし。それに人嫌いなんて失礼にも程があるっ! ムッとして百葉は羊に、

「信用問題だよ。たとえ信用できる家族であっても、業務上知り得た個人情報その他を開示してしまったら、島田所長の信頼を失ってしまうわ。そんなことは私には出来ない。」

キッパリと言い切る百葉に、

「はあー、そーですか。ま、ももっちらしいわな。しゃーない。で、父さん、その中華料理店に何か曰くあるの?」

龍也は羊をジロリと眺め、

「子供に必要のない話だ。」

部屋の気温が五度は下がる言い方に羊と百葉はゴクリと唾を飲み込む。ああ、これは関わらない方が良いヤツだ、二人の本能がそう告げ、慌てて夕食を掻きこむのであった。


夕食後、片付けも終え入浴も済ませ、あとは寝るだけである。百葉はスマホを取り出し、紀野にメッセージを認める。

『明日の午後、以下に添付した住所にお越しいただければ幸いです。大まかに何時頃に来訪可能でしょうか?』

メッセージを送付し、ニュースでも読もうかと思いきや。即レスが来る。

『十四時ヲ希望ス』

百葉は苦笑いし、時計を見てまだ所長が起きている時間と確認してから真琴に電話をかける。

「十四時……ね…分かった………わ… 五月蝿い! 少し黙りなさい!」

いきなり怒鳴られてスマホを取り落としてしまう。何… 私何かした? まさか、守秘義務…

「ああ、御免なさい。店が煩くて周りもウザいのよ。ったくいい歳をしてだらしのない。って、いい加減になさい。事務所の部下の子、ええそうよ、竹岡さん。…ハア、無理言わないで。ああ、竹岡さ… 貴方たち、これ以上業務の邪魔をするなら退出させた上、二ヶ月間出入り禁止とします、いいですか! ああ、竹お…… ブチっ」

直電でなくメッセージにすれば良かった。

門前仲町の真琴の住まいは一階が居酒屋で真琴の母親が経営しているそうだ。二階部分に母と息子と三人で同居しており、やがて息子の遺伝子上の父親が刑期を終えて出所したら、母親は近所の知り合いの家に引っ越すとの事。

ちょっと複雑な家庭なので近寄り難い感じがしていたのだが、名門高校に通う息子の驚くほどの誠実さと優しさに、この家族も捨てたものではないかもしれない、と思い始めている今日この頃であった。のだが。

これは、酷い。所長が電話をしているのを邪魔したり囃し立てたり。更には知りもしないくせに私をダシにして喜んだり。

お店の環境が悪い、即ち客層が悪いのかもしれない、さぞや所長の母親も苦労をしている事だろう。何でも十数年前からたった一人で居酒屋を切り盛りしてきているそうだ。門前仲町という下町のお店だけに、常連客の客層が相当悪いのではないだろうか。

百葉は少しだけ真琴に同情し、明日の事を丁寧にメッセージに認め送付する。


     *     *     *     *     *     *


幾多の山奥を闊歩し、数多のフィールドワークを経験し、紀野光治は方向感覚には絶対的な自信がある。ので、昨夜送ってくれたマップの情報により、いとも簡単に『しまだ法律事務所』に到着してしまう。

そう。その絶対的な方向感覚とは相反し、彼の時間感覚はあまり通常の感覚ではない。彼の中には、日の出、南中、日の入。この三つしかない。午前九時三十分とか午後二時四十五分などは彼の感覚外の事象に過ぎず、従って昨日『十四時』と送ったがそれは彼にとって南中から約二時間後くらい、と言う意味なのである。

午後二時になっても紀野が現れず、十五分過ぎてもエレベーターが上がってこない。

「私、ちょっと下に見に行きます!」

と言ってエレベーターのボタンを押そうとした時。エレベーターが上昇を始める。やがてこの階で停止し、ドアが開くと紀野がボーッと立っている。

来ている服は先日同様、山に課外授業にでも行くような軽装である。日除け帽、Tシャツ、アウトドアパンツ、足元だけはしっかりとしたブーツを履いている。

そんな紀野だが。百葉を見た瞬間。

「うわあーーーーーーーーー」

と言う声とともに無情にも扉は閉まりエレベーターは降下を開始してしまう。百葉は慌てて非常階段を駆け降り一階のエレベーターホールに行くと、中で紀野がしゃがみ込んでブルブル震えている…

「紀野さん、大丈夫ですか?」

百葉がエレベーターに乗り込み声をかけるも、紀野は頭を降りながら動こうとしない。仕方なく百葉は四階のボタンを押し、

「じゃあ事務所に上がりますね、このビルすぐに分かりました?」

返事は無く、変な唸り声が漏れるのみ。

「結構古いビルなんですよ、こないだなんかネズミが出たんですよ。」

返事は無く、妙な唸り声が漏れるのみ。

「さあ、着きました。しまだ法律事務所へようこそお越しくださいました!」

返事は無く、スッと立ち上がり百葉を置いてさっさとエレベーターから降り、事務所の扉を勝手に開けて中に入っていってしまう。

うーむ、少し変わった人だ。大丈夫かなあ。この時点でもそんな認識力の百葉であった。


「貴方が紀野光治さん、ね。噂は聞いているわ。キノコの事に関しては格物致知なのよね?」

「? はあ。まあ。」

所長とは話すんだ… ちょっとショックを受けている百葉。

「早速だけど。霊芝って、ご存知よね?」

紀野は視線は窓に向けたまま、

「霊芝とは、菌界担子菌門真正担子菌網タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属の一年生のキノコであり、本草綱目などでは赤芝、黒芝、白芝、黄芝、紫芝に分類されている。含まれる主成分としてはアミノ酸、βDグルカン、カルシウム、リンなど。ミネラルが豊富で免疫力を高めたり美肌効果が期待される、です… 他に何か?」

あれ… 何かデジャブ… 羊ちゃんと似てるかも。なんて本人が聞いたら怒るだろうな、などと思いながら百葉は軽く吹き出す。

「成る程。ところで、貴方霊芝の栽培法にも造詣が深いのかしら?」

「実際に栽培したことはないけど。理論上の栽培法は知ってますよ。」

「そう。ではお願いがあるのだけれど。」

一瞬視線を真琴に向け、紀野は首を右に傾げる。

「はあ?」

「ある霊芝を栽培して欲しいの。それと成分の分析も。出来るかしら?」

紀野の目に小さな光が灯るのを百葉は見逃さない。

「はあ。さっき言ったけど霊芝にも種類があって、それがどの霊芝なのか…」

「えーと。金芝、って言っていたかしら。」

紀野は左に首を傾げ、

「そんな種類は聞いたことがありませんよ。」

真琴は頷き、

「何でも中国の山奥で最近発見された新種らしいわ。」

紀野の目が明確にキラリと光る。

「ほう。それでモノは何処に?」

「近くの知り合いが保管しているわ。今から見に行きたいかしら?」

「それは、もう。」

真琴は百葉に顎でサインを出し、百葉は即座に御徒町飯店に連絡を入れる。


「ところで貴方出身は?」

「信州ですよ。山奥。」

三人は昭和通りを南下しながら軽く自己紹介を始める。

「そう。今は何処にお住まい?」

「本郷の大学の学生寮。もう五年経つんだなあ。」

「そう。将来は何を目指しているの?」

「まあこのまま研究を重ねていって、大学に残れればいいかなあ。」

「所長。紀野さんはこの世界では『キノコ君』と呼ばれている程の有名人なのですよ。」

「あらそう。貴方は抜山蓋世の雄、と言ったところかしら。」

「? 所長さんは、ウチのO Bでしたっけ?」

「ええそうよ。二〇〇三年卒、甲府の弁護士事務所で一昨年まで働き、この春から上野で事務所を開設したの。」

「へえ。」

「竹岡さんは、私の学友の紹介で来てもらっているのよ。」

紀野は一瞬百葉をチラ見し、即座に赤面し、すぐに視線を前方に移す。

「若いけれどそこそこ優秀よ。和衷共済して切磋琢磨なさい。」

「?」

「ところで、竹岡さん。」

「はい?」

「そろそろ御徒町飯店が見えても宜しくて? この交差点は入谷と表記されているのだけれど。」

「……あ。」

「…タクシー代、貴女持ちならクビを保留しますが。」

「私にっ 出させてくださいっ!」

「それが得策ね。これも哀矜懲創と思って頂戴。」

「……」

「??」


タクシーを拾い御徒町飯店の前に停めてもらうと、丁度約束した時間である。なけなしのお金をタクシー代に費やし反ベソ状態の百葉が最後にタクシーから降りる。

店はランチの営業時間を終了した後で、店内には一仕事を終えた店員達がマッタリと寛いでいる。

今日も変わらず派手な出立ちの田村が三人を迎え、

「で。キノコの栽培の農家の人かい?」

真琴が首を振り、

「この彼は東京大学農学部の大学院生である紀野光治さんです。田村さんがお持ちのキノコを検査し最適な栽培法を示唆して貰います。」

蛍光オレンジのワンピースに身を包んだ田村が、驚いた顔で

「へえ、キノコ・ウジ。あんた、ピッタリの名前じゃないさ、こりゃあいいわ、ワッハッハ」

キノコ氏…

不覚にも今まで気づかんかった…

笑ってはダメ。親御さんが思いを込めて付けたであろう名前を笑っては…

拳を握りしめ、人差し指と中指と薬指の爪を掌に突き立てて必死に堪える百葉の横で、

「本当ね。気づかなかったわ、流石田村さん。ほっほっほ。」

と上品に爆笑する真琴である。申し訳なさげに百葉が紀野を見上げると、全く気にするそぶりを見せずに、

「いい匂いだなあ。なんだか腹減ってきたなあ。あのう、まだ注文できますかね?」

「ああ、いいともいいとも。好きなもん頼むといい。おい、ジャン、给这家伙做一顿饭(この人に何か作ってあげな。)」

その張さんは思いっきり面倒臭そうに立ち上がり、

「何するの?」

と思いっきり不機嫌そうに吐き出すと、

「そうだなあ、麻婆豆腐定食、がいいなあ。あ、ご飯大盛りね。あと辛めでいいからね。」

うわ… 空気読まなさすぎ…

百葉が唖然として紀野を見上げる。するとその視線に気付き紀野は頬を染め、俯き無口になってしまう。

「はっはーん。ああそうだ、お嬢様も何か食べるかい? ウチで食べるの初めてだね。ご自慢の麻婆豆腐にするのがいい。」

羊ちゃんの大好物。そして、羊ちゃんの亡き母親の十八番であった麻婆豆腐。千葉家に居候を始めて以来、羊の希望に沿って百葉も四川風の麻婆豆腐をよく作るのだが、本場のコックが作ったものを食べたことはない。

気が付くとゴクリと涎を飲み込んでいる。

「で、では、私は辛さは普通で…」

「はいよっ おい張。再加上一份豆腐(麻婆豆腐を追加ね)」

不貞腐れていた張は百葉を一眼見て口笛をピューっと吹き、突如ご機嫌な様子で厨房に入っていく。

「先生は。ダイエットしなくてはならないね。」

真琴は表情を凍らせながら渋々頷き、テーブルに出された冷たいお茶を啜るのであった。


「さあさあ。東大の学生さん達め。召し上がりなさいよ。東京で一番の麻婆豆腐だ。」

東京一って… プッと吹き出しながら百葉はいただきますをしてからスプーンでひと匙掬い、口に放り込む。

あ… この味…

羊ちゃんが大好きな味! 山椒と八角がよく効いたスパイシーな風味と柔らかな辛味。うんうん、とうなずきながらほうばっていると。

「辛っ でも旨っ これは堪らないな。大脳皮質を刺激されちゃうよ。」

早速額に大粒の汗を溢しながら紀野がやや興奮状態で食い付いている。そんな姿を恨めしそうに真琴が眺めているので、

「所長、一口如何ですか?」

「け、結構よ。私辛いの苦手なの。よく二人ともそんな辛い物をパクパク食べれるのね。味蕾が欠如しているのでは?」

「島田さん。辛味は味蕾でなく痛点で感じる痛みですから。」

今や滝汗状態の紀野がボソッと呟く。

「ならば、痛みに鈍感な野蛮人と言ったところかしら、あなた方は。」

真琴がプイッと横を向きながら吐き捨てる。

へえ、所長は辛いモノN Gなんだ。それは知らなかった。

しっかりと覚えておこうと思いつつも、旨味のある辛さに我を忘れてスプーンを口に運ぶ百葉である。そして何気に百葉と初お食事なのも忘れ無我夢中で辛さと格闘中な紀野なのであった。


「ふうん。アンタがキノコ博士か。そうか、わかった。」

百葉が紀野のプロフィールを田村に紹介すると、納得した様子で田村は頷いた。

「じゃあ、来週までに金芝用意しておくよ。取りに来る水曜日でいいかい?」

紀野は目がキラキラとなり、

「来週、水曜日。時間は?」

「この時間だよ。」

「来週、水曜日、この時間。よし分かった。島田さん、いいかなそれで?」

真琴はしっかりと頷く。

「その後、極秘裏に金芝の栽培を開始して宜しいのですね。」

田村が深く頷きながら、

「ああ頼む。それからその農家なんだが。」

おい、到这里来一下! と厨房の奥に声をかけると、一人の若い女性が現れる。

見た感じはどう見ても十六、七歳。全く化粧っ気がなく、それこそキノコカットの短髪だ。肌はやや色黒だが出来物一つないツルッとした綺麗な肌であり、黒縁メガネの奥の目はクリッとして可愛い感じだが何処かよそよそしさを隠せない怯えた様子にも見える。

「この子をその栽培の時に手伝わせられるんだ。いいかい?」

真琴が眉を顰める。田村はジロリと真琴を睨め付け、

「まあ、見張りみたいなもんさ。それにちょっとは役に立つことよその子は。農家の娘だったからねえ。分かったかい?」

そう言うことなら先方に聞いてみます、真琴は百葉に目で合図し百葉は軽く頷く。

帰宅したら即千葉さんに聞いてみなければ。百葉はスマホに忘れないようにメモする。

「あ、一ついいですか。貴女日本語は話せるかしら?」

百葉が問いかけると、

「少シ。イケマス。」

真琴に眉を顰めると真琴は肩をちょっと上げて譲歩すべし、と合図する。

「分かりました、先方には伝えておきますので、こちらの準備が整い次第ご連絡いたします。宜しいでしょうか?」

田村は満足そうに頷く。

真琴と百葉が席を立ち、慌てて紀野がそれに続くと田村が彼の背中をバシリと叩き、

「頼んだよ、キノコウジ! アンタにも分け前たっぷり渡すことね。」

咳き込んだ後にハアと呟きながら紀野は二人の後を追って店の外に出る。

「では紀野さん、私達はここで。来週の水曜日に直接ここで待ち合わせましょう。宜しくて?」

紀野は首を二回縦に振り、それじゃあと言って昭和通りをJ Rの駅方面に渡って行った。

「さあ事務所に帰るわ。私が何を言いたいか分かるわね。」

「間違いありません。事務所はこちらです。違ったらクビで結構です。」

何かつまらないわ。そう呟いて真琴はさっさと歩き出す。半分呆れつつその後を追いながら、ふと通りの反対側を眺めると、紀野がこちらをじっと眺めていた。百葉がペコリと頭を下げると慌てた様子で駅の雑踏に消えていった。


     *     *     *     *     *     *


「へえ。そんなことになったのか。」

ヒレトンカツを口に放り込みながら龍也が言うと、

「本当に勝手ばかりですみません。先方は大丈夫でしょうか…」

「うん、大丈夫だと思う。それより、このトンカツソース、オリジナル? 百葉ちゃんが作ったの?」

「ああ、ええ、ネットのブログに出ていたので…」

「いや、深いコクがあって肉に良く合うよ。美味しい。」

百葉は一瞬で顔を赤らめ、ありがとございま、と呟く。

龍也はアサリの味噌汁を旨そうに啜り、

「それでは。来週の金曜日にその霊芝を受け取り、次の日に俺の友人の農家の所に持っていく、その流れで間違いないかな?」

「いいと思います。」

「その時に。その若い中国人の女性も連れていく、のだね?」

「そうなると思われます。」

「そうか。じゃあ車でい…」

「お父上どのーーー!」

羊がたまりかねた様子で席を立ち上がって、

「どうかこの哀れな羊をば、その遠征にお連れくだされ! 思えばコロナ禍となり早二年、ありとあらゆる旅行行事が中止、延期となり家に燻り続けた結果、羊はこのような煤けた子供と相成り候。このままではこの純粋な子供の心が汚濁してくことは必然。どうか、どうかこの見窄らしい羊めを同行させてもらえはしないだろうか!」

な、なんで最後は上から目線… 百葉はプッと吹き出す。龍也をチラリと眺めると、

「ダメだ。これは国家機密に関わる重要な任務だ。」

「ハア? それって公の仕事なのかなあ。防衛大臣か内閣総理大臣が指示した任務なのかなあ。まあいいけど。ただ、そのご友人の農家に着く頃に野次馬だらけになってなければいいですな。」

百葉は口に含んでいた味噌汁に咽せてしまう。

「皆さんスマホを振り翳し、新種の霊芝はどこだあー、なんて騒ぎにならなければ重畳ですな。」

龍也は椅子の背もたれに身を委ね、

「絶対に。口外しないな?」

「お父上様、何を仰います、この谷中のオリハルコンと呼ばれた羊が人に話してしまうなんて、月が谷中に落ちるよりも有り得ませぬ。」

「そんな物質はこの世に存在しないし、月は谷中に直撃する事は断じて有り得ない。」

「…そんな頑固者だと、ももっちはあの農学生と付き合ってしまうかも知れないね…」

百葉は驚き、

「ハア? そんなことある筈ないじゃん!」

だが、龍也の表情は凍り付き、視線だけがキョロキョロ動いており… よし。あと一息だ。

「柔軟性。これが今の若い女子に好かれる一番のキーワードだとも知らない自衛官。ああ、哀れななり。娘の些細な願いを退けたばかりに大事なものを失おうとしていることに気づきもせず… ああ、いつになったら人は知性のみを追って進むのだろうか…」

龍也はキョトンとし、百葉は堪えきれず爆笑する。そして、

「貴方に出来る事、或いは夢見ている事があるのならば今すぐに始めなさい、向こうみずは天才であり力であり、魔法なのだ。」

羊は満面の笑みで両手をかざし、百葉とハイタッチする、食卓の上で。

「千葉さん。私からもお願いします。羊ちゃんも連れて行ってあげましょう。」

そっくりな二つの顔に臨まれ、龍也は暫し思考し、そして

「お前ら。向こうでは俺の言うことをちゃんと聞くんだぞ。いいな?」

「「イエッサー」」


「あらそう。貴女の同居人親子も同行するのね。守秘義務はちゃんとして頂戴よ。田村さんはその辺うるさそうだから。」

百葉は深く頷き、

「所長は同行されませんよね?」

「無理ね。貴女にお任せするわ。」

そう言いながら立ち上がり、

「千束の吉原さんに接見して来ます。戻りは二時間後よ。」

パラリーガルの旭が書類と鞄を渡し、真琴は事務所を出て行く。

「百葉ちゃん。大分慣れたみたいね。」

「もう四ヶ月経ちますから。」

「あの先生、大変でしょ。」

「いえ… まあ… あれ、旭さんは先生と長いのでしたっけ?」

旭はお茶を淹れながら、

「そ。もう七年かな。でも東金先生なんか、もっと… あれ、何年経ちますっけ?」

今日は事務所に珍しくもう一人の弁護士である東金士郎が書類仕事をしている。草臥れたスーツにボサボサの髪。細面で銀縁眼鏡の奥の目は吊り上がり、薄い唇の右下にあるホクロが印象的、というか正直キモい。普段は無口でボソボソと喋り、百葉とは殆ど業務以外の会話をした事がない。見た目は酷薄、と言うのが正鵠を得ているが、実際にはそれ程冷酷な性格では無いらしい。見た目で損をするタイプ、百葉はそうファイリングしているー

「僕と 先生は もう 二十年以上 かな。まだ僕が大学のゼミに いた頃に お会いしたのが 二十歳の頃だから」

へえー。それは初耳だ。百葉は興味を持ち、

「東金先生は所長と同じ事務所でずっと働いてこられたと伺ったのですが? どこか外資系の大手だったのですか?」

初めて東金と業務以外の話をする。少しの怖さと大いなる興味。

「僕と 先生は ずっと山梨の 小さな事務所に 居たんだよ」

あら意外。東金はこう見えて裁判に非常に強いと旭から聞いており、相当高級事務所で鍛え抜かれたものだとばかり思っていたのだ。

お茶を三つ淹れた旭が、

「先生が甲府の事務所を辞めて東京に戻ったのがー二年前かしら。それまではずっと単身赴任だったのよ。」

受け取った熱いお茶を啜りながら百葉は驚きの念を禁じ得なかった。

「すると、翔君は居酒屋をやってらっしゃるお婆様と、ずっと?」

旭はお茶受けの菓子をポリポリ齧りながら頷く。

「翔が三歳になった頃かな、門前仲町の実家に戻されて。それからずっとお母さんと翔は二人暮らしだったの。」

「所長のお父様は?」

「ずっと昔に病気で亡くなったとか。偉いよねお母さん。丁度家を改築して居酒屋をオープンした頃に翔を引き取って、大事に育てて。しかも天下の開聖に入れちゃって。一度お会いしてみたいわ。あれ、東金先生はご存知ですよね?」

東金は轢き殺されたネズミを見るような目で、

「 ああ 不幸ながら」

百葉と旭は頭にクエスチョンマークを浮かべ、

「先生、所長のお母様の居酒屋さんに行った事が?」

東金は殺人鬼に切り刻まれた惨殺死体を眺める表情で、

「 ああ」

「えー、一度行ってみt―」

「やめておけ!」

急に大声で東金が叫ぶ。百葉と旭は硬直する。

「あの家族に 不用意に 近付いては 危険だ やめて おきなさい」

二人は背筋を冷たくしながらコクリと頷く。


「わ、私は甲府の事務所で所長と東金さんの補佐をしていてね、お二人が東京の事務所に二年前に移られたのをキッカケに私も東京にやったの。そして同じ事務所でお世話になったのよ。」

新しいお茶を淹れながら、旭が百葉に自分の来歴を話してくれる。もうこれが三度目なのだけれど…

「そこで二年間お勤めして。この四月にこの事務所を立ち上げた時には、よくぞここまで、と思ったものよ。まあ、お二人の実力と実績ならば大手の事務所にいた方がずっと活躍できたでしょうけど。」

所長と東金。二人は市井の弁護士、と言う言葉がピッタリの民事専門、しかも裕福で無い人を主な顧客とした法曹だ。正に百葉が目指す姿に寸分違わず一致している。

もっと二人のことが知りたい、そう百葉は思うのだが。

「ねえ。私もお二人のプライベートって、あまり知らないのよ。その仕事ぶりは嫌と言うほど知らされて来たのだけれどね。」

飾りっ気のない清潔な服装の旭が溜息混じりに答える。

「まあこれからゆっくりと扉を開いて行けばいいんじゃない? あ。丁度うってつけの子が来たわよ。いらっしゃーい。翔くん!」

「お邪魔しまーす。母に頼まれた資料をお持ちしましたー」

この場をパッと爽やかにするオーラを背に、真琴の息子の島田翔が笑顔で入ってくる。


「こんにちは翔くん。資料ってキノコの本?」

「お疲れ様です竹岡さん。そうです、神田の古本屋を回って集めて来ました。ってこれ裁判に使うのですか?」

不思議そうな笑顔の翔。母の真琴とは似ておらず、真っ黒で軽くウェーブのかかった髪、利発かつ優しそうな深い瞳、スッと通った高い鼻。背は高く百八十センチ程はありそうだ…

あれ?

彼の後ろでキョロキョロしている制服を着た女子がいる…

「あ。僕の彼女の金光葵ちゃんです。都立日々矢高校に通っています。将来、弁護士になりたいそうです。」

栗色の髪をお洒落に後ろでまとめ、化粧をバッチリと決めたやけに目力のある少女である。意志の強そうな高い鼻がヒクヒクと動き、東金を見つけると、

「あー。お店で時々意識無くしてるおじさんじゃん! えーおじさんマジ弁護士? ウケるー」

見てはならないモノを見る目付きで東金が彼女を視る。ゴクリと唾を飲み込む。

「オジさーん。ウチ冷えキャラメルマキアートが飲みたいかもー ヨロピクー」

百葉と旭が口をあんぐりと開けて彼女を見守る。すると。なんと東金が強ばった顔で席を立ち、

「アイス キャラメル マキアート だね。うん 買って くるよ」

と言って出て行くではないか…

「サンキュー オジさん!」

あの気難しそうな東金さんを顎でパシらせた…

何者?

翔に視線を送ると、

「ああ、彼女、僕のお婆ちゃんのお店をよく手伝ってくれているんです。それで時々東金さんが母と一緒に… 」

「そーそー。あのおっさん、翔ママの目盗んでウチのお尻触るんですよお。」

「「えええー」」

「だからこれくらいトーぜんの義務? って感じかな。ねー翔きゅーん」

と言いながら翔の腕に擦り寄る女子高生。

正直、翔には似合わないと百葉が眉を顰めていると、

「葵ちゃん、この人が今東大法学部の四年生で司法試験の短答式は既に取ってる、竹岡百葉さん。四月からここを手伝ってくれているんだ。」

世間で言うギャル風な葵が目を大きく開け、

「うわ… 弁護士の卵ちゃん… てか、何この人めっちゃ可愛いんすけどー」

「あ。竹岡です。よろしく。」

「金光っす… うわ… スッピンでこの肌… 目とか整形? いや天然か… 整ってるわあー こんな綺麗な顔、初めて見たー 綺麗すぎる弁護士事務所の事務員― わお…」

自分の美しさにひたすら感心している女子高生に苦笑いしながら、

「そ、そんなことないよ。金光さんも、とっても可愛いわよ、とっても都会風で。うん。」

と・か・い・ふ・う…

葵が無音で口を動かし、やがて

「ぶヒャヒャヒャひゃ! 都会風って、チョーウケるー おねーさん、どこの田舎モン?」

「ちょ… 葵ちゃん、失礼!」

百葉は少しもムッとせず、寧ろこの明朗快活さに心打たれながら、

「あー、私、三鷹の児童保護施設で育ったからさ、そーゆーお洒落なことさっぱりでさ。えへへ。この服も一張羅でさ、ああ、三年前の入学式の時に今の同居してる人が買ってくれたやつだしさ。それにs― え?」

自虐的に述べていると突如葵の大きな化粧済みの目から大粒の涙が転がり出てきて。

「う ウッソ… おねーさん 家族… いない の?」

百葉はオロオロし、

「そ、そうだよ。五歳の時に二人とも交通事故で…」

「そこから… 東大… 嘘で しょ… おねーさん どんだけ どりょ くと… 苦労… 信じ らんない… う う うう ううう…」

翔がやれやれと言う顔で葵を軽く抱きしめる。葵の啜り泣きがギャン泣きになり、百葉は更にオロオロしたものだ。


「全く騒々しい。一体何事なのかしら?」

扉が開き、真琴が帰ってきた。

「お母さん、資料持ってきたよ。」

「あら有難う。領収書は旭さんに渡したわね? それとそこの化粧崩壊少女はここに何の用かしら。一分千円で要件を伺うわ。」

一気に泣き止んだ葵がスッと背筋を伸ばし真琴に正対する。

「あらお義母さま。翔くん即ち御子息に植物専門の古書売買業者を紹介した私ですが何か? それと一度事務所をお邪魔したくて。中々趣き深く古色騒然としたオフィスですわね。」

それってメッチャ古臭い事務所じゃん、って言ってるよねこの子。百葉は思わず腹を抱えてしまう。旭を見ると呆然と固まってしまっている。

「先程、東金とすれ違ったのですが。彼を小間使いしたのは見苦しい化粧崩れの女子かしら? ならばその代金として一万五千円程請求させて貰おうかしら。」

葵は大きな溜息を吐き出しながら、

「お義母様には敵いませんわ。それならば別の弁護士事務所に東金氏の公然わいせつ罪とストーカー被害について相談に行かせて頂きます。」

「その件は本件と関係のない事象なので却下します。それよりもその行為自体が脅迫罪の疑いがあると看過せざるを得ません。」

「被告人の行為は明白であり物的証拠も提出出来ます。また証人の召喚も可能であり供述書の作成も速やかに行えますがー」


百葉は呆然として真琴と葵のやり取りを眺めている。翔が百葉に近寄り、

「気にしないでください。この二人、会うといっつもこんな感じなので。」

呆れ顔で呟く翔に、

「彼女、凄いね… あの所長にこれだけ言い返せるって…」

「はい。凄いんです、僕の彼女。」

満面の笑みを浮かべる翔に、百葉はただただ頷くしかなかった。

「それより。何ですかキノコに関するお仕事って? 母に聞いてもちっとも教えてくれなくて。」

「ああ、ある依頼人さんから、キノコに関する依頼があったの。ごめんね、それ以上は…」

「成る程。差し詰め、珍しいキノコを見つけたから栽培して売りたい、なんて依頼じゃないかな。相変わらず穏やかな仕事ばかりで。あははー」

おお、流石所長の御子息、実に鋭い。

「そう言えば翔くん、京大目指しているんだって?」

「そうなんです。三年前に家族で京都に行って、あの土地に惚れちゃったんです。」

「京都かあ。修学旅行でしか行ったことないや。」

「僕もそうでした。あの時は葵ちゃんのお父さんがー小さい旅行代理店に勤めているんですー色々連れて行ってくれて。楽しかったなあー」

真琴と歪みあっている葵を眺めながら翔が懐かしそうな遠い目で語る。

家族旅行、か。よっぽど楽しかったのだろうな。百葉は翔を眺めそっと微笑む。

あれ? 

来週末の三浦半島行きって… 家族旅行じゃね?

うわ… 久しぶりだ、羊ちゃんも言っていたけど、この二年間は殆ど三人で谷中の外に出なかったからなあ。

急に胸が温かくなり、百葉は一人ニヤけてしまう。


     *     *     *     *     *     *


翌週。金曜日。約束の時刻。

百葉、真琴は約束の地にいる。紀野は未だ来ず。

約束の時間から三十分ほど経ち、紀野が御徒町飯店の暖簾をくぐる。

「麻婆豆腐定食、辛目で。」

真琴は眉を顰め、百葉は吹き出し、田村は

「はいよー、定食一丁、辛目マシねー。お水は自分で取っ… って、貴様何しに来たのか知ってるのか!」

紀野はちょっと驚いた様子で、

「だって美味しかったから。」

「…そ、そうか。おい、張、」

「…へい。定食、一丁。」

変な空気を全くものともせずにニコニコと紀野はテーブルに座ったものだった。

真琴は咳払いし、

「では田村さん。霊芝をお預かりしますので。」

今日は蛍光イエローのワンピースをはためかせ田村は厨房の奥に入って行く。

「紀野さん。成分の解析の方、大丈夫ですよね?」

何かに取り憑かれた様子の紀野がハッとした顔となり、

「ええ。いつでも準備オーケーですよ。」

「明日からよろしく頼むわよ。」

「はい。」

「十二時に京浜急行線三崎口駅よ。」

「はい。」

「……」

やがて田村がタッパーを携え戻ってくる。


「成る程。これが… ふうん、これは種菌ボトルならぬ種菌タッパーか。ふむふむ。それではこれを原木で菌糸体培養すればいいか。普通なら秋から冬にかけての作業なのだが。この新種は生育サイクルが大分ずれているんだな。これからコンテナで菌糸体培養を開始して、伏込は十月か? すると収穫は大体来年の二月くらいだな。」

紀野の呟きを必死で聞き取っていた三人は、

「そんなにかかるのかよ。もっと早く出来るよ。だろ?」

「半年、ですか… 長いですね…」

「紀野くん。もっと早急に栽培出来ないものかしら?」

紀野は首を振り、

「恐らくこれ以上早くは不可能ですよ。ま、やってみなければ分かりませんが。どうします?」

田村はゴクリと唾を飲み込み、

「乗りかけた船だよ、アンタに任せたよ。」

「ああ、分かった。ところで…」

「何だい?」

「ご飯、お代わりを。」

「…はいよっ」

真琴が話に割って入り、

「さっき貴方コンテナがどうのこうのと仰ってたようだけれど。それは何?」

「ああ。菌糸体培養の為の、コンテナですよ。キノコ農家なら大体あるかと。」

真琴が百葉を伺い、百葉が軽く頷き表に出て龍也にメッセージを送る。すぐに既読が付き、百葉の電話が鳴る。

「何だろうね、この栽培用コンテナって。どうしても必要なのかな?」

「そうみたいです。先方に用意されてますでしょうか?」

「うーーん… キノコ専門農家じゃないからな。現地で調達出来ないかな。特殊な作りなのかな?」

「紀野さんに聞いてみます。」

「頼む。」


「ああ、そんな専門的なものじゃないんだ。温度と湿度を管理できる保温庫さ。」

真琴を見ながら紀野が百葉に答える。

「もし無ければ、現地で僕が製作するよ。ちょっとお金かかっちゃうけど。」

真琴が皺を深め、

「大体、幾らくらいかかるかしら?」

「コンテナとなり得る箱さえあれば、サーモスタットとヒーターと加湿器と… ホームセンターで揃えれば、五万円くらいかなあ。」

真琴は深く目を瞑り、高速演算する。四十三秒後、

「分かりました。領収書は忘れずに。」

「はい。」

紀野は最後の一掬いを口に入れ、やがて満足そうに頷く。

「やはりここの味が一番だ。なあ女将、現地でこの味を再現して欲しいのだが。」

現地って、三浦半島で? この人一体何を言って…

「ああ、イイよ。おい華花! 拿出做豆腐的材料、好吗?(麻婆豆腐の材料を持って行くんだよ、いいかい)」

奥から細くて若い中国人娘が顔を出し、

「明白。(分かりました)」

「ああ、みんなにちゃんと紹介しなくてはいけない。コイツが林華花。十七歳。おい挨拶しろ。」

キノコカットの彼女が、

「林華花です。よろしうおねがいしたします。」

と辿々しく挨拶すると、彼女をキッと見つめながら

「我的名字是紀野光司。 很高兴见到你。(紀野光治です。よろしく。)」

田村はおおお、と小さく叫び、

「流石天下の東大ね。おい華花、よく働くんだぞ。いいな?」

「私は働きます。」

よし

田村と紀野が頷く。

「それじゃ、明日この子のこと、アンタ頼むわよ。ちゃんと連れて行くんだよ。途中で寄り道ダメよ。いいかい?」

「寄り道はしませんよ。では明日、朝に。」

「…八時に、おいで。」

「…八時?」

「八時。」

「努力してみよう。」

華花がニコリと笑い、

「八時です。お願いしあす。」

紀野はハッとした顔で、

「八時、か。八時、な。よし。八時、だ。」

と呟きながら、店を出て行くのを唖然として見送る真琴と百葉であった。


「紀野さん、彼女と普通に喋ってました、よね?」

「よね。」

「大丈夫、ですよね?」

「よね?」

「紀野さんは約二ヶ月間。そして華花さんは来年二月まで… 大丈夫、かな…」

「それもそうだけど。一番肝要なのは、栽培が成功するかどうか、よ。これで失敗でした、なんてことになったら、ウチは大損よ。」

百葉は首を傾げ、

「どれ位?」

「コンテナ代五万円。紀野君へのバイト代、約三十万円。」

それは… 大した金額である。

「栽培がうまく行ったとして、ウチの儲けは?」

真琴が頭を掻きむしりながら、

「それがよく分からないの!」

百葉は立ち止まる。

だ、大丈夫なのこの人… お金勘定出来るの? ひょっとして見切り発進? 想定採れ高から想定売却額を算出し、必要経費を差し引いて大体これくらい、って計算してないの!?

「それ。貴女やりなさい。」

ええええええ!

百葉は再度立ち止まり、必要とされる項目を次々にググり、頭の中で必死に暗算し…

「ウチの取り分って、三割でしたっけ?」

「そうよ。」

「それならば、約三百万円位かと思われます。」

真琴はあっさりと頷きながら、

「そう。」

と呟く。

あれえ。結構いい報酬額だと思うんだけど。日頃所長や東金さんが得ている報酬額を遥かに凌駕してるんだけどなあ…

珍しく真琴が前を歩いている。そしてよく見るとその右手が力強く握られているのを百葉は発見し、フッと微笑むのであった。


     *     *     *     *     *     *


ドライブである!

ドライブなのである!

百葉は前日の夜、一睡も出来なかった。従って朝の四時にはそっと起き出し、音をなるべく立てぬように朝食と昼の弁当の用意に取り掛かり、七時に羊と龍也が起き出す頃には全ての準備が整っていたものである。

「ももっち… 気合い入り過ぎー ウケるー」

羊が眠気眼で揶揄うも、

「羊ちゃん、早く顔を洗ってらっしゃい。あ、寝癖がついてるよ、ちゃんと直しなさい!」

「お、おお。」

眠気が一瞬で吹き飛んだ羊は慌てて洗面所へ駆け込む。

洗面所には既に龍也が陣取っており。

「父さん。ももっちが。」

「ああ。」

「暴走しないといいけど…」

「お前、頼んだぞ…」

「お、おお。」

嫌な予感しかしない羊なのである。

それでも、流石にまだ小四。そんな羊も今日の日が実に待ち遠しかったのは隠せずに、

「ねえねえ、その友達の家って、ドライヤーあるよね?」

龍也は宙を睨み、

「分からん。」

「えええ… そんな僻地なの? って、場所くらいそろそろ教えてくれてもいいじゃん。」

「ダメだ。国家機密だ。」

「フォージャーかよ、アンタは… で、その人って父さんの昔の上司だっけ? 名前くらいもう教えてよ…」

「車中で。」

はあああああ… 固い。固すぎる。何なのだろう、この父は…

先日も急性盲腸炎から退院した担任に激しく迫られた様だが、何事もなく無事に帰宅していたし。まあ、無事でなく有事であったなら娘として許し難いことではあるのだが。

ダメだ。このままではももっちは永遠の処女となってしまうであろう。秋には国家資格を取得し、来春にはこの家を出て行ってしまうであろう。こんな固くて意固地な父よりももっと柔軟で物分かりの良いイケメンが現れたら必ずそっちに行ってしまうであろう…

いかん。まずい。

これは千葉家の危機である。危機認定だ。

何とか自分の手で竹岡百葉を千葉百葉にしなければ… それにしても千葉百葉。凄い字面である。あれ、まさかももっち、こんな奇天烈な名前になるのを恐れているのでは?

まずい。いかん。

何をしている、岸多総理。夫婦別姓の為の法整備は最優先されるべきではないのか。二年以内に何とかして欲しい。総理官邸の方へ頼む、と首を垂れる羊に首を傾げながら、

「おい。早く支度しろ。百葉ちゃんにキレられるぞ。」

父をキッと睨み、

「ロン、アンタのせいだろうが!」

そう言い放ち風呂場に駆け込む羊を、歯ブラシを咥えたまま茫然と見送る龍也なのである。


「そう言えば。百葉ちゃん、運転免許証を取る気はないか?」

朝方まで降っていた雨が晴れ上がり、今日は一気に猛暑日となりそうだ。龍也が運転する車は首都高湾岸線の大井P Aを通り過ぎ、一号羽田線の分岐を真っ直ぐ進んで羽田空港の脇を通っている。

助手席で夢心地で景色を眺めていた百葉は、

「はい、何でしょう? お茶ですか、今蓋取りますねー」

後ろでスマホゲームに興じている羊がプッと吹き出す。

「あ… そうじゃなくて。運転免許証を取得する気はないのかな? と。」

「へ? 私が、ですか?」

「そう。あると色々便利だぜ。」

「父さん、お酒飲めるしねーーー」

後ろから揶揄うような口調が飛んでくる。

「免許証、ですか。考えても見ませんでした。」

「いやね、もしコイツが中学受験をするならさ。夜遅くに塾のお迎えに行かなくちゃならなくなったりとか。」

「塾なんか行かねーし。中受なんてしねーし。」

「羊黙ってろそれとかさ、来年から社会人じゃないか、免許証があれば何かと仕事にも便利かもしれないぜ、ちょっと地方の依頼人のところに行くとか、さ。」

「飲み会で終電逃した時のお迎えとかねー」

「羊五月蝿いまあ無理にとは言わないけれど。ちょっと考えておきなよ。」

百葉は笑いを堪えつつ、

「有難うございます。友人とかに相談してみます。」

この家族には返し切れないほどの恩がある、百葉はそう考えている。


三年前。春。

大学入学を控え保護施設を退所し、谷中の下宿先の老夫婦宅が目の前で炎上している光景を思い出す。これから住まう場所を目の前で無くし愕然としていた百葉を救ってくれたのが千葉龍也と羊の親娘だったのだ。全くの見ず知らずの自分をあっさりとその日のうちに迎え入れてくれ、剰え必要な衣服、メガネ、生活必需品、学業必需品などを惜しげもなく提供してくれた。

その見返りとして千葉家の家事を担当し、小学生の羊の世話を受け持ってきたのだが、更に千葉家は司法試験受験に必要な参考書、予備校代、受験料なども提供してくれたのだ。

このまま甘えっぱなしでは不味いと思い、この四月から担当教授の世話でアルバイトを始め、なるべく身の回りのものは自分で購入する様にはなったのだが。

百葉はスマホを操作し、標準的な普通免許証の取得に必要な料金を調べてみる。大体、三十万円弱か。これならば、半年もバイト代を貯めれば何とかなるだろう。

スマホから目を上げて外の景色を眺める。鶴見大橋から左手に埠頭が見える。真っ青な空に入道雲が登り始めている、車の車外温度計は三十度を越している。

「うわっ 橋でかっ おおお、あれは海ではありませんか! おおお、さすが港湾都市カワサキ、父さん、横浜はまだですかっ 中華街で肉まんが食べたいですっ あと、噂の焼き小籠包も!」

見慣れない景色に後部座席の羊が興奮し始めている。彼女は我を忘れると何故か言葉遣いが良くなるのだ。

ああ、こんな羊ちゃんをもっと見ていたい。色々な景色を、行ったことのない場所を羊ちゃんに知らしめたい。

「決めました。私、免許証取りますね。」

運転している龍也に笑顔を送る。

心なしか龍也の顔が綻んでいるように見える。


余りの羊のしつこさに、龍也は渋々首都高速を山手I Cで降り、中華街へ車を向かわせる。

「おおおお! あれが山手ですかっ! そして、おおお、ここが元町! これは中々洒落乙な雰囲気を感じさせますっ あああ、こ、ここがあの横浜が世界に誇る中華街!」

龍也は路上パーキングに車を一発で駐車させ、三人は車を降りる。

「うきゃあーー 中華街! かの孫文も匿われていたと言われる東アジア最大の中華街っ むきゃあーー」

そ、そうなんだ、孫文が昔この地にいたのか… 羊ちゃん、初めてなんだねここに来るの。

「そうなんだ。あーあ、いかに俺が育児をサボっていたかバレちゃうよな…」

「そんなことはないです! 千葉さんはしっかりと育てていらっしゃいますよ!」

通りに仁王立ちして指摘する百葉に、

「ところでももっちは来たことあるん?」

「うん、遠足で一回、友達と一回。両親とも何回か来ているみたいなんだけど、その頃の記憶は朧げでねー この媽祖廟は何となく覚えているなあ。」

左手のいかにも中国っぽい八角形の屋根が積み重なった社を眺めながら百葉が呟くと、

「おい羊。媽祖って何だ?」

羊はニヤリと笑い、

「中国通の自衛官を自認していることが恥ずかしくなりましたか、中々殊勝な。媽祖とh―あいたっ 痛ってーなクソジジイ!―媽祖とは、中国北宋時代に実在した女子ですよ。秀才の名が高く若くして神になり主に航海を守る海の神として今も深く信仰されているのですよ。この港湾都市横浜の守護神として最適かと思われますね。」

百葉は腹を抱えながら、ふと思い付き、

「あのっ 三人で写真撮りたいですっ!」

羊は喜び龍也は難しい顔をする。羊が父を押し切り、観光客の一人に羊がスマホを渡し、媽祖廟をバックに数枚撮ってもらう。

「ホイッ ホイッっと。ラインで送っといたよー。さ、皆さん。焼き小龍包を食べねばなりません、タピオカミルクティーも、おっと。手相占いは外せませんな、何処が評判良いのですかねえ、おお胡麻団子が美味しそうですよ、なにい! 点心食べ放題で1980円ですと?」

龍也は羊の首根っこを掴み、

「昼飯は百葉ちゃんが弁当作ってくれてるし。さ、そろそろ行くぞ。」

えええええー と絶叫する羊を引き摺りながら、三人は車に戻っていく。


「父さん。まだ元町が…」

「却下。」

「港の見える丘公園に…」

「却下。」

「赤レンガ街に…」

「却下。」

「野毛の…」

「却下。」

「もおーーーーーーーーー」

「出発。」

後部座席で荒れ狂う羊に、

「私が免許取ったらさ。二人でまた来ようよ。全部連れて行ってあげる。」

羊は恨めしげに、

「約束、デスよー」

「うん。頑張るよ。」

羊は途轍もなく大きな溜め息を吐く。

「な、なによ?」

「右と左を間違える人が、普通免許… 一体いつ合格出来ることやら…」

「ええ、そこ?」

「ま、秋の司法試験の合格発表でささっと合格し、普通免許取得に満身創痍で挑んでくださいね… 骨はウチが拾いますから。ぷっ」

「こら羊。運転免許が司法試験より難しいなんて恐ろしいことを言うな。そして他人に決して言うな。百葉ちゃん、」

腹筋を押さえながら百葉がはい、と答えると、

「乾坤一擲だ。」

後ろから幼い爆笑が放たれる。百葉も思わず飲んでいたタピオカミルクティーを噴いてしまった。


思わぬ寄り道をしてしまい、約束の時刻に近付いているので龍也は制限速度いっぱいで横浜横須賀道路を疾走する。

景色は一転して三浦半島の豊かな自然が百葉と羊の瞳を奪う。

「千葉の館山へ行く景色に似ていますね。」

三年前に三人で行った小旅行を思い出す。本当は泊まりがけで行くはずだったのだが、前日に羊が高熱を出してしまい、日帰りのドライヴとなってしまった。それでも。百葉にとってはかけがえのない思い出であり、今でも心のメモリーに大切に保存されている。

「おおお、あの時は岩牡蠣を食べましたねえ、初めて食べましたよ、おいs―」

「その後腹壊して、七回便所に駆け込んだよな。」

「ハアーー? 誤解です、五回です、なんて失礼な。自分こそ若い女子大生を助手席に乗せて鼻の下伸びっぱなしだったくせに! お店で「若い夫婦ですねえ」なんて言われてテンパってたことをもうお忘れか? ももっちが浜辺で転けた時に全力で助けた時のマジ顔、それとあt―」

「…俺が、悪かった。」

「そうです、その態度こそ大事なのです! 人間万事塞翁が馬。人は常に謙虚に己を省み続けることが大事なのd―」

「「お前が言うな!」」

「久々に頂きましたっ 二人のおハモリ!」

おハモリって…


衣笠I Cを降り、しばらくすると眼前に真っ青な海が拡がって来る。海水浴シーズンにはまだ早く、しかしながら目前の金田湾は早くおいでと誘っている様に思える。

「うみっ!」

一言絶叫した羊は、山道に入るまで無言のまま海を眺め続けている。百葉も眩しすぎる海に目を細めながら、そして時折運転席を眺めながらこれ以上の幸福があるのだろうか、と海神に感謝している。

やがて車は山道に入って行き、その鄙びた風景に羊と百葉は心を癒されていく。こんなに東京や横浜に近いのに、この溢れるほどの大自然。多少手は入っているだろうが、ほぼ原生林に近い深い緑の植生が酷暑を忘れさせてくれる。

羊と百葉はほぼ同時に窓を全開にする、すると熱気を帯びた濃い緑の匂いが車中をあっという間に満たす。その濃い熱気を胸一杯に吸い込んでみる。肺に満たされた濃い酸素がやがて全身に満ちて行き、それを何度か繰り返すと二人の身も心もすっかりこの地の虜となっていた。

そんな二人に小さな笑みを携え、龍也は巧みにハンドルを切っていく。やがて県道から私有地へ向かう一車線の細い砂利道に入り、鬱蒼とした木々をくぐり抜けていくと不意に車は小さな集落に辿り着く。

四軒の家が見える、手前の古びた平屋二軒、その向こうに大きな二階建てが二軒。初めてこの地を訪れた龍也にはどの家が目的地か分からない。

左奥の立派な煙突付きの家屋から、一人の大男が出てくる。

そして、ゆっくりとこちらに歩いて来る。

羊と百葉はこの集落の佇まいと歩いて来る大男の雰囲気に圧倒され、言葉が出ない。誰? 熊? 人間?

二人が手に汗握っている時。龍也が運転席のドアを静かに開き、そっとこの地に立つ。

大男が一瞬立ち止まり、こちらを確認している、やがて男は歩み始めこちらに一直線に歩いて来る。


ほんの目と鼻の先で男は立ち止まる。

「タツ、か。」

龍也は満面の笑みで、

「久しぶり、シンタさん。」

やがて二人は一瞬のうちに一つとなり、激しく抱き合うのであった。


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