国境へ向けて
マクリードを退けたのは良いが、これからの旅は厳しいものになるだろう。老王がヴェラという飾りを必ず取り戻しに動くに決まっている。この目立つ格好では行く先々にも迂闊には近寄れない。
「ヴェラ」
「何です?」
「すまん」
アルフは思わず罪悪感に駆られて述べた。するとヴェラは彼女には珍しく微笑んだ。手を握り締めて来て、頭を肩に預けた。
「地の果てまでも参りましょう」
兜越しに耳元で囁かれるその言葉にアルフは身が震えた。武者震いというやつだ。そうだ、俺はヴェラを愛している。それが答えでは無いか。誰にも渡すものか。いつかきっと老王の魔手が届かぬ地に辿り着くだろう。まずは隣国スターン。エリストールとは敵対していないが、この国ならばしばらくは暮らせよう。
「まずは国境を目指す」
「ええ」
ヴェラもまた覚悟を決めている。とは言え、おそらく経験の無い野宿生活の連続が負担になるだろう。どこかで限界が来る。しかし、時計の針は動き出したのだ。彼女を守り、彼女と添い遂げる。
重たい鎧を雷鎚の如く、嫌でも音を立ててアルフはヴェラと足を進めた。途中、運良く事態を知らない旅商人と会い、背嚢ごと、保存食を買い占めた。このことは秘密だと言わんばかりにアルフは通常の三倍の金を支払った。
2
夕暮れ、街道脇の森へ入り、灌木を薙ぎ倒して小さな広場にした。ヴェラはアルフの広げた外套の上に座り、しきりに足を気にしていた。見れば、靴擦れを起こしていた。これは辛いだろう。
「私なら大丈夫」
薪拾いから戻ったアルフにヴェラは言った。強がりなのか本心なのか、あるいはその二つだろう。ヴェラのことは考えていた。
保存食のビスケットと乾燥した果物をヴェラは食べた。乾燥肉は一齧りし、アルフに譲った。味が濃いらしい。薪狩りの途中で見つけた沢へアルフはヴェラを案内した。
「ここの水は飲める。ただし冷えている。あまり飲み過ぎぬように」
アルフが言うと、ヴェラは腰を落として水を掬って飲んだ。
「美味しい」
ヴェラがしみじみとした口調で言った。彼女はこちらを振り返った。
「アルフ、私は水浴びがしたいの」
「いや、水が冷え過ぎている。風邪を引くぞ」
「少しでも清潔な姿で居たいの。あなたの隣を歩くのが臭くてみすぼらしい女では駄目だわ」
「いや、臭くてみすぼらしくて構わん。俺はあなたのにおいが好きだ。それに靴擦れに染みる」
ヴェラは逡巡するように沢の流れを見て立ち上がった。
「戻って休もう」
二人は手を繋いで寝床へと戻ったのだが、人の声がし、足を止めた。アルフは兜の下から耳を澄ませた。燃える焚火の前に見えるのはとりあえず五つの人影。更に耳を覚ませていると、不審者達の言葉が聴こえた。
「便所にでも出たんだろう。待ってりゃ帰って来る。ヴェラ様には傷を付けるなよ」
「鉄球アルフが相手だ。気を抜くな」
「馬鹿が、アルフは自ら死を選んだも同然だ」
「何だって?」
「奴の得物は鉄球だ。こんなに木があれば鎖が引っ掛かり放題だ。破壊の傭兵もここが年貢の納め時だろうよ」
このまま逃げるのは容易い。食料などまた運が巡ることを願ってその時に買えば良い。しかし、靴擦れを起こしているヴェラを歩ませるのは胸が痛む。
「ヴェラ」
アルフは声を潜めて言った。
「君を抱き上げてここから離れる。来い」
だが、月明かりが祝福するヴェラの瞳は冷厳そのものだった。
「私のために退かないで。私は戦うあなたが好きよ」
少し見詰め合い、アルフは頷いた。どの道、この連中も追っ手になるのだろう。どこかで叩き潰さねばならぬ運命だ。
アルフは足を進めた。装備の重さのせいで大胆な足取りになってしまう。枯れ落ちた小枝を踏み潰しながら、彼は進んだ。
賊達が顔を上げこちらを見る。
「アルフ!」
賊らが驚き狂喜し得物を引き抜く。剣ばかりだ。槍が邪魔になることを見越していたのは褒めてやっても良かった。
「やい、アルフ! 王妃様はどこだ!?」
アルフは鉄球を頭上で振り回した。木が打ち砕かれ、追っ手達は初めて、誤算と破壊の傭兵の異名を知った。自らの死と共に。
鉄球は鎖をしならせ木々を圧し折り、追っ手達の顔面を打った。首があらぬ方向に曲がったそいつは二度と起き上がらなかった。
「この野郎!」
まだ四人いる。アルフは鉄球を大きく頭上で振り回す。森の中には竜巻が吹き荒れているような太い風の音色だけが木霊した。
二人がかりで押し寄せてきた。アルフは鉄球を引き距離を測って薙いだ。
周辺の木々ごと鉄球は二人の追っ手を殴打し、吹き飛ばした。頭は兜ではなく帽子だったため頭蓋骨の折れる音がよく聴こえた。
その時、一人が弓矢を向けてきた。
気付いた時には矢が飛んでいる。それでもアルフは目を見開き鉄球を戻して顔を守り矢を弾いた。
その芸当と周辺の有様に二人の追っ手はゆっくり後退を始めた。
「逃がしては駄目よ」
ヴェラが言い、アルフは鎖を長く掴んで頭上から投げ付けた。真っ直ぐ飛ぶ鉄球は一人の胸に激突し、尚もアルフはこの場から敵を逃さぬために、鉄球を横に払った。鎖が残る一人の頭にあっという間に巻き付いた。そしてきつく巻き付いた鎖は敵の頭を締め上げ、熟れたトマトのように四散させた。
アルフは鎖を戻した。
「アルフ、さすがね」
ヴェラが静かにそう言った。
「今夜はここで寝ましょう。死体が死霊になってもあなたが居れば心配は要らない」
ヴェラは歩き出し、地面に敷かれたままのアルフの緑色の外套を身体の上に乗せた。
アルフは敵の死体を調べていた。誰の差し金か。老王が気付くには早すぎる。太守のマクリードは死んだ。次に地位のある者は誰だったか。
「アルフ、御出でなさい」
ヴェラが外套の片端を持って誘った。
「あなたが好きだと言った私のにおいをあなたの身体中に擦りつけてあげるわ」
その誘惑には勝てず、アルフは身を起こしゆっくり甲冑を脱ぎ始めた。そして月と星と、物言わぬ賊どもの死体が見守る中、二人は外套の中で、濃密に抱き合ったのであった。