越冬2
アルフは狩人では無い。そのため、泥濘でもない乾いた地面に足跡を見付けることはできなかったが、小屋の壁面に大きく抉れた三つの筋が刻み込まれたのだけはさすがに見付けた。言れわずとも爪の痕であった。想像以上に太く鋭い。もしもこの熊が小屋にのしかかってくれば傾くかもしれない。アルフは、周囲に目を走らせたが、いつの間にか梟が再び鳴き始めている声だけしか宵闇の中では分からなかった。
俺で勝てるのか? 未知なる相手にアルフは少々不安を感じた。
冬の便りが届いたのはそれから三日後だった。雪はハラハラと舞い降り、翌朝には深い深い銀世界に風景を染め上げていた。
沢も表面だけ凍り付いていたが、砕けば水の流れがあった。
ギルはその日の午後、食料を背負って小屋を訪ねて来た。
「旦那、王妃様、御不便はありませんかい? 今年は意外と早く降りましたね」
ギルはそう言って背負ってきた荷物の説明をした。山鳥の生肉があったのがアルフには嬉しかった。さっそく焼いて食べようと彼は心に決めた。そしてアルフは、熊のことを伝えた。
「奴がここに?」
「裏に傷跡がある」
アルフが案内すると、ギルは頷いた。
「まさしく、奴ですね、こりゃあ。体格の割りに腹が満たせないものだから冬ごもりもせず、空腹に彷徨っているんだと私は睨んでやすが」
アルフは動物には詳しくない。聴けば、熊は冬越しをするために腹を満たしておくのだそうだ。
「こいつは、人しか食う気は無いらしいですな。旦那、お邪魔かもしれませんが良ければ、三日ほどここに滞在してもよろしいですかい?」
「ああ、頼む」
ヴェラとの二人きりの時間が過ごせないが、脅威は排除すべきだ。それも信頼できる者の腕で。ギルこそ、適任者だ。
ギルは好人物で、愉快な男だった。彼には少し離れた里に妻と娘と息子がいるらしい。ギルの狩人目線の話は、聴く者を引き込んだ。まるで自分まで一匹の獣になったように、野を駆けずり回っているような気分にさせた。
だが、結局、ギルのいる間に熊は現れなかった。
「どうしやす? もう二晩ぐらい待ちやしょうか?」
ギルの言葉を聴きながら小屋の周囲を回っていると、アルフでも分かった。雪の上に大きな足跡が残されていた。
「奴め、来てたのか。忍び足なんて芸当を覚えやがったか」
ギルが腹立たし気に言った。熊もまたギルの狩人談議に聴き入っていたのかもしれない。
「私は足跡を追いやす。どの道、奴を仕留めることが仕事ですから」
「ならば、アルフも連れて行きなさい」
いつの間にかヴェラが後ろに立っていた。
「いや、王妃様、私一人で充分でさぁ。旦那がもしも、命を」
と言いかけてギルは分厚い鎧に鉄球を持ったアルフを見て言葉を続けた。
「旦那も来やす?」
「ヴェラ、一人で待てるか?」
アルフが問うとヴェラは頷いた。
「お行きなさいアルフ、私なら心配要らないわ」
ギルがプロでももしもということがある。それでも、プロと一緒なのだ。この幸運を手にこの結末は見届けなければならない。ヴェラのためにも。
「ギル、迷惑かけるがよろしく頼む」
「分かりやした。行きやしょう」
アルフはギルとともに雪の森へと歩んで行った。
途中、雪に埋もれた女鹿の亡骸を見付けた。アルフでも分かるが、腹を裂かれ、内臓が溢れ出ている。ギルが首の骨が折れているのが死因だとしたが、アルフには分からないことがあった。
「奴は腹を空かせているのでは無かったのか?」
「楽しんでるんですよ、殺しを。生意気にも人間みたいな奴め」
腹立たし気にギルが応じた。
月が上り、追跡は一度中断した。夜は獣の方が有利だからだ。幸いにも雪は止んでいる。足跡が隠される気配は無かった。
翌朝、空が白々とし始めた頃、二人は追跡を再開した。
テンが目の前を横切ったり、山鳥が急ぎ足で草葉へ駆け込むのを見たりもした。
大きな足跡はくっきり残っていた。
「昨夜は意外と近くにいたようです」
ギルが言った。肩に長弓と、以前アルフに向けた特製の大きな矢じりのついた矢の入った筒を背負っている。
無言で追跡していたが、正午頃、急に足跡の向きが変わった。
今まで一直線だったのにも関わらず、そのまま右の林へ折れ、茂みを薙ぎ倒していた。
「こりゃあ」
ギルが青褪めた顔でアルフを見た。アルフもギルが言わんとしていることが分かった。足跡はくっきりと残り、アルフ達を迂回するようにして折り返していたのであった。
「奴め、途中で気が変わったんだ! 王妃様が危ない!」
ギルが声を上げた。野鳥が周囲の枝から雪を落とし飛び発って行った。