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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

小早川のメランコリー

作者: 小城

「金吾中納言の佩刀は曲者を一刀両断にした。」

そのような噂が、関ヶ原の役の前年1599年に京の町に広がった。

「あの曲者は何者だったのだろうか?」

小早川秀秋は伏見の屋敷で家老の松野重元に聞いた。

「曲者の亡骸はどうされました?」

「真っ二つになって川を流れて行った。」

小早川秀秋は豊臣秀吉の妻、高台院おねの兄、木下家定の子であった。しかし、子がなかった秀吉夫妻の養子となり育てられた。

 件の噂は秀秋が京、高野川の畔を従者と歩いていると、やにわに草叢から出てきた刺客が斬りつけてきた。秀秋はその刺客をさっと避けると、佩刀を抜いて両断した。その切れ味が凄まじかったので、刺客は斬られたことにも気がつかずに、川を泳いで逃げる途中で息絶えたという事件が発端であった。

「(おおかた刀の切れ味を試そうと、自ら刺客を雇われたのであろう…。)」

重元は思った。

 秀秋の佩刀は朝鮮出陣の際、秀吉から贈られた品であった。奇しくも、秀秋はその朝鮮出陣の総大将ではあったが、俄に、秀吉から帰国命令を出されて日本へ戻ってきた。帰国早々、秀秋は養父、秀吉から所領を召し上げられて、代わりに、それまでの半分の知行で越前に転封させられた。幸い、その処分は秀吉の死後、大老徳川家康らの執り成しにより、取り消されて、秀秋は元の筑前国主の身に舞い戻っていた。秀秋19歳の年である。

「家康殿には感謝せねばならない。」

秀秋は家臣にそう言っていた。

「(金吾殿に言われて刺客を雇ったのは、稲葉正成か平岡頼勝だろう…。)」

どちらも同じく秀秋の家老であった。

「(金吾殿は某を避けている。)」

金吾とは右衛門督の唐名で秀秋の通称だった。重元は豪胆で忌憚なく、秀秋に意見を述べるので恐れられているのかもしれない。

 ある夜、重元が私用で深夜まで起きていると、台盤所の方で音がした。重元が手に刀を提げて見回りに行くと、台盤所の片隅で秀秋が手酌で酒を飲んでいた。

「酒の飲み過ぎは体の毒にございます。」

「左様か…。」

重元がそう優しく嗜めると、秀秋はとぼとぼと寝所へ戻って行った。しかし、重元が寝所に戻って一刻程すると、再び台盤所の方から音がした。

「(それほどまでに酒が飲みたいのか…。)」

重元はそんな秀秋のことが気の毒であった。7歳で家督を継ぎ城主となった秀秋は幼少の頃から諸大名との接待で酒を飲んでいた。それ以来、酒を飲まずにはいられない体になってしまったようであった。

「徳川に寝返れば、上方に二カ国を差し上げる。」

「三成が戦に勝てたらば、関白は秀秋殿にお頼み申す。」

家康と三成の開戦が必至となると、秀秋のもとには両名から誘いの書状が届いた。

「どちらに与すべきか。」

「家康殿に御味方なされませ。」

養母、高台院はそう言った。

「(乙名衆の言うことを聞いておれば良いだろう…。)」

 小早川秀秋の軍は伏見城を攻めたあと、近江高宮で数日間、何もせずに過ごした。

「両軍は関ヶ原に布陣したか。」

秀秋も遅れて関ヶ原に到着した。

「あそこが良いだろう。」

関ヶ原へ到着すると、先に松尾山に布陣していた美濃大垣城主、伊藤盛正を立ち退かせて、そこに布陣した。しばらくすると、奥平貞治という者が家康からの使者として来た。

「今しばらく、お待ち下され。」

家老の稲葉正成が相手をしていた。

「家康殿への寝返りは、今一度、お考え直し下され。」

本陣では松野重元が秀秋に嘆願していた。

「ここで秀頼様を裏切れば、末代まで殿は汚名を着せられることになりますぞ。」

「何を言うか!古今、戦の寝返りは武士の武略である!」

秀秋にとって、養母の高台院や家老衆、さらには恩ある大老、徳川家康らの申すことは道理であり、秀秋にとって頼もしい後ろ盾でもあった。

「(時代に乗り遅れてはならない。)」

若武者、小早川秀秋は思った。

秀秋にとっては、目の前のこの重元は口うるさい分からずやの時代遅れの者であった。

「物事には表と裏があります。殿は表しか見ておりませぬ。今一度、ご自身の頭でお考え下さい。」

「余を痴れ者と申すか!」

秀秋は持っていた軍扇を地面に叩き付けた。

「(痴れ者…。)」

それは秀秋自身が感じていたことであった。幼い頃より、酒を飲まされて、自らもアルコールを摂取してきた秀秋の体は蝕まれて、満足な発育を遂げられていなかった。それは秀秋自身が身を持って感じていたことであったが、当の秀秋自身にはどうすることもできない問題であった。

「其方は放遂だ。」

自ら地面に叩き付けた軍扇を拾い上げながら、秀秋は重元にそう告げた。松野重元は手勢をまとめて戦場を引き揚げていった。

「殿。そろそろよろしいかと。」

「うむ。」

西軍が疲れるのを待っていた小早川軍は家老、平岡頼勝の進言により、秀秋が下知することによって、西軍武将、大谷吉継の軍勢に向かっていった。

「人面獣心也。金吾中納言秀秋。三年内に祟りせん。」

小早川軍の寝返りにより、堰を切ったように、西軍の脇坂、赤座、小川、朽木らの諸将も寝返り、西軍は崩壊した。大谷吉継は呪いの言葉とともに自害した。

「(私は正しいことをしたのか…?)」

戦後の論功行賞で岡山55万石への移封が家康直々に申し渡された秀秋であったが、東軍諸将の衆人環視の中で、秀秋の自信は衰えていた。

「島津恐るべし。」

東軍諸将の中にはそう言う者もいた。島津義弘は西軍に与して、関ヶ原で敗走したが、東軍の中央を縦断突破して退却して行った。その勇猛さは鬼島津の名を轟がせた。論功行賞のあと、家康や本多忠勝などの猛将らが集まって、それら西軍諸将の中で負けてなお勇猛だった者たちの話をしていた。その老将たちの輪の中、秀秋は、己の裏切りの活躍を守るように抱えながら、小さく子猫のようにすくみ上がっていた。

 石田三成が捕まった。京の市中を引き回される姿は多くの大名、小名の見聞するところとなった。その群衆の中に小早川秀秋もいた。秀秋の二人隣には黒田長政がいた。長政は関ヶ原の戦いの折、しきりに秀秋に寝返りを勧めて、わざわざ小早川の陣中に大久保猪之助という使者を寄越して来たほどであった。そんな長政が市中を引き回されている罪人石田三成の肩に自らの陣羽織を掛けてやっている。

「(何事か…?)」

そんなことを考える暇もなく、長政が群衆の中に消えると同時に、秀秋の前を三成が横切ろうとしていた。

「太閤殿下の甥御、中納言秀秋よ!貴様が裏切ると思わなかった某がうつけ也!然れど人を欺き騙したるは弓馬の家門にあらざる所業。必ずや後世の恥、衆人の物笑いの種たらんや!」

罵声が聞こえた。目の前の三成であった。

「(何を申しているのだ…。)」

秀秋はそう思ったが、三成のその言葉は秀秋の心と頭に刺さり、秀秋自身を妙に納得させるものであった。

「(小賢しいやつだ…。)」

数秒の後、秀秋の中に怒りが湧いてきた。当の三成は先へ引かれていった。何が腹立たしいかといえば、石田三成がわざわざ群衆に伝えるように言ったこと。三成の刑吏人が、三成が言っている間、わざわざ歩みを止めて、言い終わるのを待っていたことであった。

「不愉快極まりないわ!」

秀秋は屋敷で一人罵声を上げながら酒を飲んでいた。

「何が末代までの恥よ!」

関ヶ原で松野重元が言った言葉も思い出していた。

「愚物共めが!」

秀秋は杯を叩き割った。秀秋の頭の中では、今までの19年間の腹立たしい記憶が連鎖的に次々と舞い踊っていた。

 岡山に移ってまもなく、秀秋は名を秀詮ひであきに改めた。

「何だ、この城は?」

岡山城を間近で見た秀秋は思った。

「(天守は良いが城が狭い…。)」

岡山城は五大老の一人でもあった宇喜多秀家の居城であった。秀秋と同じく、秀吉の養子であった秀家の城は金箔瓦の使用が認められていて、天守に使われていた。しかし、秀秋が目指したのは太閤秀吉の遺城、大坂城であった。

「(いずれ、私は大坂城に住まう。)」

秀秋はそう思っていた。それは秀秋の誇大妄想であったが、それに違わずして、秀秋は領内の改革に積極的に取り組んだ。岡山城に新たな外堀を造成し城域を拡大させた。領内には検知を実施し、寺社の復興や農地の整備を行った。

 入国後、勇んで領国経営を行った秀秋ではあったが、一方で、日によっては、気持ちがしょげ込み、一日中、酒を飲んでいたときもあった。秀秋はうつ状態(メランコリー)を呈していた。一年経った頃には、秀秋のうつ状態はもう数ヵ月も続いていた。

「(体が動かない。)」

それはうつの症状でもあったが、秀秋の体は幼少時からのアルコール摂取により、極度に蝕まれていた。

「(この家の行末は御家取り壊しか断絶であろう。)」

 そんな主君を見限って、家老の稲葉正成は小早川家を出奔した。

「何故、裏切った!」

秀秋はそれでも酒を飲み続けていた。

「私は貴様らの言うようにやってきたではないか…!」

張り上げる声に生気はなかった。

1601年。伏見城に入った徳川家康を諸大名らが訪問した。秀秋も上洛した。

「内府様には御機嫌も宜しく。」

上洛した秀秋が感じたのは、諸大名と自分との格差であった。それは表向きの待遇のことではなく、秀秋内部の心理的なものだった。

「(何だ…?この場所は…。)」

家康の周りには譜代の大名が取り巻いている。地方の大名や小名たちも家康の御機嫌を取るのに急がしそうにしている。そうした中で秀秋は何もすることができず、一人佇んでいるだけである。

「(私が裏切り者のようではないか…。)」

関ヶ原の役以前は、皆が秀秋の周りに集まった。家康もその一人であった。

「(それが、何故、今、このようになっている…?)」

この場にいる人たちは皆が皆、自分たちのことで急がしそうに動いていて、秀秋のことを顧みる者などいない。

「(私は皆の言うとおりにしていたではないか…。)」

秀秋はその場を後にして伏見の屋敷に戻った。

「(皆、私のことなど見てはいないのか…。)」

「(皆、自分のことしか考えておらぬのではないか…。)」

「(今までの扱いは何だったのか…?)」

生気もなく、畳の上に寝転がることしかできずにいた。秀秋の頭には周囲の理解できない事柄に対する疑念が滞っている。

「(私はどうすれば良い…?どこで間違えたのだろう…。)」

それは、秀秋自身が答えを出すことではあったが、当の秀秋にとっては今、最も分からぬことであった。翌日、秀秋は養母、高台院に会いに行った。高台院は関ヶ原の戦いの折、秀秋に徳川家康へ与することを勧めた人物でもあった。高台院は大坂城にいた。

「大方様は御機嫌も宜しく。」

「金吾殿はお痩せになりましたね。」

そうなのだろうか?秀秋自身には分からない。

「大方様。何故、私は斯様な憂き目に会っているのでございましょうか…。」

関ヶ原の戦いの折、秀秋に有用な助言をくれたこの人ならば、何か自分のこの境遇を救ってくれるような新しい助言をくれるのではないだろうか。秀秋はそう期待していた。

「金吾殿は御疲れの御様子。酒を飲むのもほどほどに、ゆるりと休まれてはどうか?」

その後は、大坂の秀頼公の近況や諸大名らの近況を話した。

「岡山での暮らしは慣れましたか?」

「はい。」

「それは良かった。」

半刻ほどして、秀秋は伏見の屋敷へ帰った。高台院との面会は秀秋にとって期待はずれのものになった。

「(何だったのだろうか…。)」

養母、高台院の言葉は穏やかで慈愛に満ちていた。それは秀秋を気づかうのに十分なものであった。しかし、今の秀秋の状況を一変させるようなものではなかった。秀秋は岡山へ帰った。

「(あの方も所詮は御自分のことしか考えていなかったのではないか…。)」

岡山への帰路、秀秋は高台院のことをそう思った。それはうつ状態によるものであったが、秀秋はそのことに気づくことはなかった。

 岡山に戻った秀秋の生活は乱れた。体も病に蝕まれていった。腹には水が溜まり、皮膚には血管が浮き出た。医師も診たが一向に良くなる気配はなかった。家中は乱れ、家老の一人が諍いから斬殺されるということも起こった。

「(結局、人々は自分のことしか考えていなかったのだろう…。)」

寝床で伏せる秀秋の頭にはそのような思考が去来している。自分の周りに人が集まっていたのは、自分が駒としての価値があったからだろうと思った。

「(自分は周りの者のために働いていたつもりであったが、周りの者は私のことなど見てはいなかった…。)」

諸大名らは自分の保身のことに急がしかった。

「(周りの者は優しい言葉をかけてはくれるが、実際は私のことなど考えてはおらぬ…。)」

寝床の中で侍女らの看病を受けながらも、頭の中では一日中、そのような考えが、延々と巡っている。かと思うと、突然、あらぬ記憶が蘇る。


「(人を欺き騙したるは弓馬の家門にあらざる所業。必ずや後世の恥、衆人の物笑いの種たらんや!)」


「黙れ…!三成…!!」

侍女が横で看病をしていると突然、そのような大声を上げる。

「金吾様は、石田治部少輔の亡霊に祟られている。」

そんな噂が家中はおろか城下にも広がった。

1602年。10月。小早川秀秋は21歳の若さでこの世を去った。死因は幼少時代からのアルコール摂取による内臓疾患だと言われるが、石田三成や大谷吉継の亡霊による祟りであるとも言われる。

 7歳より豊臣秀吉の後継者として育てられた小早川秀秋の人生は、常に誰かの駒として存在を左右されるものであった。後年は、そのアルコール摂取が祟って体を壊していった。そんな秀秋が、世間を一人で生きて行くのは困難だったのかもしれない。

 秀秋の没後、嗣子のいない小早川家は断絶した。

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