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墜ちないイカロス  作者: 関宮亜門
第3章 プレミアム・ハンド
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08 マリア・タラノヴァの日常……と、非日常

 目の前に広がる光景。

 そのあまりの美しさに、マリア・タラノヴァは、柔らかく目を細めていた。


 舞台は、何の変哲もない公園。


 太陽の優しい光の下、一面に広がる緑色の芝生の上をを、転げ回るように遊ぶ子供たち。その中には、マリアの愛息、アンドリューの姿もある。


 ああ、はしゃぎ回る子供たちの姿は、まるで天使のようだなあ……。


 と、マリアは考えて……いるわけがない!

 断じて、そんなわけがない!

 彼女が考えるのは、ただ、


 ……ああして子供が自分で遊んでいるうちは、私は休めるなあ。


 ということだけであった。

 軍隊から復員して以降、マリアは、前よりも真面目に子育てに参加するようになっていた。


 そして、その大変さを思い知った。

 愛と憎しみは表裏一体、などとはよく言ったものだと、近頃のマリアはつくづく思う。


 てっきり「自分を裏切った元恋人はものすごくムカつくよね」という意味だと思っていたのだが、そうではなかった。もっと深い意味があったのだ。


 深い意味というのは、つまり……イタズラばっかりしてちっとも言うことを聞かない憎たらしい子供であっても、やっぱり自分は子供を愛しているということ……いや、そんなダメなところも含めて子供を愛しているのだ……とか、そんなような意味である。


 近頃は、もし子供に手がかからなくなったら、それはそれでつまらないよね、などとさえ思えるようになった。


(……ん? これって、ダメな男に騙されるダメな女と、全く同じ思考回路じゃ……いやいや! そんなわけないでしょ! だって子供だよ、子供!)


 思考が変な方向へ行きかけたので、マリアは考えるのをやめ、携帯を取り出した。

 その中には、先日の旅行で撮りまくった家族写真が、星の数ほども詰まっている。


 SHILF首都にあるテーマパークへと遊びに行ったその旅行は、マリアにとってはひどいものだった。それは旅行というより、時間と労力を投じて両親とアンドリューを楽しませるための行事と言った方がよく、マリア自身はほとんど楽しむ暇がなかった。何もかもアンドリューが、次いで年老いた両親が最優先。マリアは自分が行きたかったアトラクションには行けず、買いたいものもろくに買えなかった。


 ……けど、いまはそれでも良いと思える。

 もちろん、このままずっと、自分を押し殺し続けるつもりは全くない。


 けれど、自分のワガママを通すのは、子供がもう少し大きくなってからでも、遅すぎはしないだろう。


(ふむ。いまのうちから、ママの誕生日にはプレゼントを贈るように教育しておこうかな。将来は、服ぐらいなら買ってもらえるようになるかも……

 んんっ? あれ、もしかしてこの考えって邪悪かな? いやいや、普通だよね?

 だって、あの子が父親みたいなクソッタレになることだけは、絶対に阻止しなきゃ……そのためには、もっとこう、女性に対する優しさと慈しみの心を養育して……そこでまず第一に、母親を大切にする心を……)


「ママー!」


 と、マリアが邪悪な考えに囚われそうになったその時、アンドリューが子供たちの輪から抜けて、ベンチにいる母親の元へと駆けてきた。


「あら、どうしたの、アンディ?」

 マリアが言うと、アンディはどこか遠くの方を指差しながら、こう言った。

「ママ! また、ああいうカッコイイお洋服着てよ!」


 ほう、とマリアは興味深く思う。息子の好みの服装か。

 どれどれ、後学のために、よく観察しておこう。場合によっては、好みを矯正せねばならないからな……。


 そう思いつつ、息子が指差した方向を見て……マリアは固まった。

 芝生広場の端。石畳の遊歩道の上。

 そこを歩いてこちらへ向かってくる男が来ているのは、SHILF軍の黒い軍服。


 おまけに、それを着ているのは……軍人としてはやや長めな明るいブラウンの髪の毛と、緑色の瞳を持った、四〇歳という実際の年齢よりもやや若く見える、溌剌とした男性。


「元気そうで何よりだ、マリア大尉」


 そう言って、マリアにラフに敬礼してきたのは……ライトゲーム作戦の功績で昇進したばかりの、フランシス・セドレイ中将だった。


「……お言葉ですが、」


 マリアはアンドリューの腕を引っ張ってフランシスから隠しながら、引きつった笑みを浮かべて言った。


「私はもう復員した身ですので、大尉と呼ぶのはおやめください」

「んん? 何を言っているんだ?」


 フランシスは、余裕たっぷりの笑みを浮かべて、マリアと向かい合うようにベンチの前に立つと、片手を腰に当てて言った。


「君も知っているだろう? 軍隊から授かった階級というのは、一生のものだ。君はいまこうしている間も、予備役大尉のままだよ」


「法律的な話はどうでもいいです。今日はどういったご用件ですか?」

「んー、ボク? この人は君のお母さんかい?」

「そうだよ!」

「おおー、元気がいいね」

「勝手に私の息子と話さないでください!」

「厳しいお母さんだなあ」


 フランシスは苦笑するが、マリアの眉間の皺は深まるばかりだった。

 それを見て、フランシスは肩をすくめながら言う。


「ご自宅にうかがったんだがね。そしたらここだと言われたもので。元気そうなお子さんの様子も見れて、実にタイミングが良かった」

「りょ、両親に会ったんですか?」

「ああ。お二人とも元気な人だね。ただ、ちょっと俺の顔を見て、驚きすぎだったと思うが……」


 何をとぼけてるんだ、とマリアは苛立つ。ライトゲーム作戦から数ヶ月が経ったいま、フランシス・セドレイといえばいまや救国の英雄だ。そんな人間が娘を訪ねて来たとなったら、年老いた両親の驚きは察するに余りある……何か、面倒くさい勘違いが生じてなければいいのだが。


「それで、用件というのはね……隣、座ってもいいかな」

「ダメです」

「……君、いくらなんでも、それはひどいんじゃないのかい?」


 マリアは憮然とした表情のまま、アンドリューを横に座らせて、自身はそちら側に寄るように身体をずらした。

 フランシスは空いたスペースに腰を下ろし、足を組む。その視線は、芝生の上で遊ぶ子供たちに向けられていた。


「子供っていうのはいいねえ……まったく無邪気だ。俺たちのような大人とは違う」

「……何かあったんですか?」

「俺は艦隊の指揮官をクビになる」

「え……?」


 予想外のセリフが出て来て、さすがのマリアも面食らった。


「別に予想外のことじゃない……俺はちょっとばかり、国民の人気を取り過ぎた。いつの時代も『国民に人気のある軍人』なんてのは、文民政治家にとって『導火線に火が点いた爆弾」みたいなものだ。少なくともほとぼりが冷めるまでは、実戦部隊から遠ざけておきたいと考えるのは、不思議でも何でもないことだろうな」


「……」話の成り行き上、マリアとしては合いの手を入れざるを得ない。「それで、次の任務は?」

「軍大学第一分校の校長……指揮・参謀課程が設置されているところだ」

「悪くない仕事だと思いますが」

「全くだよ。またしても、オクタリウス長官に借りを作ってしまったのを除けばな」

「は?」


「いや、いまのはこっちの話だ。肝心なのはここからだ……俺としては、漫然とただ学生たちを教えるだけで、時間を潰す気はない……学校というのは、実に都合の良い場所だ。SHILF軍全体から優秀な中堅士官を集めた上で、思う存分図上演習を繰り返すことができる……『勉強会』の名目でな」

「……」


 フランシスが暗に言いたいことは、マリアにも伝わった。


 つまり、フランシスは学校を隠れ蓑にして、自分が目をかけた人材を集め、鍛え上げるつもりなのだった……おそらくその目的は、将来、艦隊指揮官に返り咲いた時、最高の艦隊司令部を従えて、その任に臨むことにある。


 その計画を聞いたマリアは、思わず身震いしそうになった……ライトゲーム作戦における艦隊司令部は、フランシスが連れてきた子飼いのユスフ・アーナンドを除けば、ほとんどがフランシスの着任以前からそこにいたスタッフで構成されていて、その人材配置は、必ずしもフランシスの望んだものではなかったはずだ。


 だが、その上で、あれだけの結果を出した。


 それならば、もし、フランシスが見込んだ人材だけで、艦隊司令部が構成されていたとしたら……彼は一体、どれだけの戦果を挙げられるのだろう。


「マリア大尉」

 フランシスは、それまで子供たちに向けていた視線を、マリアに転じてこう言った。

「君には是非、俺の副官をやってもらいたいと思うんだ」

「……あなたは、副官には作戦関係にタッチさせない主義でしょう? だったら副官の仕事なんて、誰にでも務まると思いますが」

「ああ、それは、なんというかね……ミステリ小説の、探偵役と相棒役のようなものなんだよ」

「はあ?」

「つまり、俺は君と話していると、頭が冴えて、考えがまとまる感じがするんだ」

「ああ……いますね、そういう相棒役……」


「もしこれが連邦軍だったら、外部から人材を採るということはあり得ない……しかし、陣容拡大中のいまのSHILF軍では、そんなことは言っていられないんだ。マリア大尉には短いとはいえ軍暦もあるし、ライトゲーム作戦の時に能力も人柄も確認済み。俺としては、君がスタッフに加わってくれれば、こんなに心強いことはない」


「そ、そんな大げさな……」

「大げさじゃないさ……どうも君は、自分の能力をかなり低く評価しているみたいだな。いまの会社では、ちゃんと評価されてるのか?」

「そ、そんなの、あなたに関係ないでしょう!」

「な……」


 急な大声にフランシスが目を丸くして驚き、マリアはしまったと思う。


「す、すみません、いきなり……」

「いや、こちらこそ、失礼なことを言った……とにかく、マリア大尉。軍は、そして俺は、君を必要としている。君にさえその気があれば、いつでも歓迎しよう」


 最後に、フランシスは連絡先を記した紙片をマリアに手渡して、アンドリューの頭を撫でて満足げに笑うと、その場を立ち去った。


 マリアはその紙片に目を落としながら、再び物思いに沈んだ。アンドリューは、そんな母を不思議そうに見上げていたが、聡明なことに、空気を察して何も言わなかった。



「いまの会社では、ちゃんと評価されてるのか?」



 フランシスにそう言われた瞬間、マリアの脳内を、この数ヶ月の会社での出来事が駆け巡っていた。


 復員したマリアが、久し振りに会社に出社してみると……そこにはもう、彼女の居場所はなかった。

 事の発端は、マリアが作成した業務用のアプリを、担当者が勝手に改変して、クラッシュさせてしまったことにある。


 普段だったらマリアがすぐに対応に当たるところだったのだが、当然この時、マリアは不在。

 その結果、会社の業務は大幅に滞る結果になってしまった。


 そしてこの瞬間、会社の重役たちは、遅まきながらようやく気づいた。

 手作りの業務アプリは危険だ、と。


 作成した担当者しか、中身のわかる人間がいない。

 何か問題が起きたとしても、担当者がたまたま不在だったりすれば、誰も対応できない。


 ローコードで開発された社内アプリは、ソフトウェアベンダーに外注した場合と違って、担当者が交代した場合の引き継ぎがあやふやになりがちだし、ましてや、二四時間のサポート体制など、望むべくもない。


 もちろん、マリアとしてもそのあたりの問題は自覚していて、マニュアルの作成や同僚への指導を通じて、対応できる人材を増やそうとはしていたのだが……上手くいっていなかった。


 なぜなら、マリアが教えようとすると、みな一様に「こんな難しいこと、自分にはわかりません」と言って、投げ出してしまったからだ。


 はて……自分にはさして難しくもないことを、どうしてみんな難しいと言い張るのだろう……マリアがそんな疑問を持ち始めたのはつい最近のことで、彼女がその答えを自力で見つけ出す前に、一連の事件は起きた。


 そして、その謎の答えは、上司との面談で与えられた。


「マリアさん。あなたは優秀すぎるんですよ」

「……は?」


 マリアは最初、何を言われたのかよくわからず、思わず間の抜けた声を出してしまった。

 それを見た上司の中年男性は、辛抱強く言い聞かせるような調子で続ける。


「うちの会社には『ローコードによる業務アプリ開発』? まあ簡易的なプログラミングですよね……そんなものを独学で身に着けられるような、優秀な人材はあなた以外にいない、ということです」

「ええっと……これ、褒められてるわけじゃなさそうですね?」

「あなた一人の能力が突出していても、周りがそれについてこれなければ、意味がないんですよ。それはわかりますよね?」

「ええ、もちろんわかります。会社というのは、組織ですからね」


 少数精鋭主義のスタートアップならともかく、それ以外の多くの会社は、業務の継続性を重視し、属人化を極力排除する方針をとることが多い。


 つまり大抵の会社は、優秀な社員が実力を発揮した結果、その人にしかできない業務が出来てしまう、といった事態はできるだけ避けようとする。特に、マリアがいたような、バックオフィス部門ではこの傾向が顕著だ。


 属人化を排除するためだったら、時として会社は、優秀な社員の仕事のレベルを、周りがついてこれる程度まで落とすことさえ選ぶ。


 もちろん、会社というのは一つ一つ全く違うものだから、一概には言えないが……マリアのいた会社はそうだった、ということだ。


 その結果、この日までに、マリアは会社の中ですっかり居場所をなくしてしまっていた……以前だったら感謝されていたはずの仕事が「実は身勝手なスタンドプレーだった」などと、評価が一変してしまったのだ。


 まさに針のむしろ。同僚の視線が痛い。

 任される仕事のレベルも落ちてしまって、働いていても楽しくない。

 会社にいづらいこと、この上なかった。


 で、話は上司との面談に戻ってくる。


「マリアさん、これは、あなたにとっても悪い話ではないと思うんですが……どうでしょう。転職して、もっと上を目指されては?」

「上……ですか」

「ええ……あなたのような人材を、うちの会社で使いこなせないのは残念ですが……優秀な人には、それに相応しい活躍の場があると思うんです」

「……」


 それはまあ、体の良い退職勧奨には違いなかったが……確かに、マリアにとって悪い話ではなかった。


(ただし……私が優秀というのが本当なら、ね)


 事ここに至ってもなお、マリアは、自分が人よりもちょっとばかり優秀であるらしい、ということをなかなか認めようとしなかった。


 それはたぶん、本気で愛した男にあっけなく捨てられたという、過去のトラウマが、自己評価の低さにつながっていたのだろう。


 ……だが、この時までに彼女は、その泥沼から抜け出すきっかけを掴んでいた。


 マリアはいま、フランシスから受け取った紙片に目を落としている。

 バシル、ユスフ、フランシス……それ以外にも、軍務中に接した多くの男女が、マリアのした仕事を高く評価してくれていた。

 ひょっとしたら……自分にも、できるのかもしれない。


 ……もし、自分に能力があるのだとしたら、それを発揮できるのはどこだろうと、マリアはずっと考えていた。


 もちろん、他の民間企業に転職するというのが、真っ先に挙がる選択肢だ。

 だが、会社というのは、外からでは中のことがわからない。


 一度転職を経験しているマリアとしては、会社というのは一つ一つ全く違うものだということや、どんなに事前に調べたとしても、入社するまでは会社の内情など全く分からないことを知っている。


 その会社が、優秀な人材を数多く擁していて、その全員に活躍のチャンスを与えてくれるかどうか……入社するより前に知る方法は、存在しないと言っていい。


 ……だが、マリアは一つだけ、そんな転職先……「優秀な人材がたくさんいて、活躍のチャンスが与えられる」組織を知っている。


「参ったなあ……お膳立てが、全部整っちゃってるじゃん」


 マリア・タラノヴァ大尉が、紙片を見つめながら困ったような顔をしてそうつぶやくと……それを見上げるアンドリューが、不思議そうに目を丸くしていた。


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