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墜ちないイカロス  作者: 関宮亜門
第3章 プレミアム・ハンド
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07 特別な事情

 その頃、イコライとソラの二人は、朝まで貸し切ったネットカフェの個室に鍵をかけて、カップルシートを限界までリクライニングさせ、いままさに事に及ぼうとしている最中だった。


「ちょ、ちょっとイコライさん、こんなところで……!」


「いいじゃないか。思ったよりもちゃんとした個室だし」


「そういう問題じゃありません!」


「……そりゃ、ソラが本気で嫌だっていうなら、やめるけど」


 ソラの身体から手を離しつつ、イコライは言う。


「でも、たまにはこういうのも良いと思うけどな……スリルがあるじゃないか。誰かに聞かれたらどうしようとか。いやむしろ聞かせてやろうとか」


「へ、変態さんじゃないですか……」


「わかったよ。そこまで言うなら本当にやめる。歩き回って疲れたしな。もう寝よう。お休み」


 そう言って、シートに横になって目を閉じるイコライを、ソラは呆然と見つめた。


「…………………………………………………………え、本当にやめちゃうんですか?」


 それを聞いた瞬間、イコライは待ってましたとばかりに飛び起きた。


「そうこなくっちゃな!」


 事件が起こったのは、それからしばらく後、イコライが「そろそろ服を脱がそうかな」などと思い始めた時であった。



「このクソバカップルがあああああああっ!」



 ドアのすぐ外から、女性のものすごい怒鳴り声がして、イコライたちは心臓が飛び上がるほど驚いた。


 その声の主は、ドアを乱暴に何度も殴りつけながら、こうまくし立てた。


「ここはセックス禁止だバカ野郎! こっちが一日働いて疲れてるすぐ横で、変な音や変な声を出しやがって! 安眠妨害だ! それから、お前らが出したカピカピのティッシュを始末する店員さんの気持ちをちょっとは考えろ! ここはラブホテルじゃないんだぞ、クソが!」


 いくらなんでも酷い言いようだとは思ったが……悪いのは全面的にこちらだと思ったので、イコライは素直に謝ることにした。さすがに、興奮のあまり、壁に頭や身体を繰り返しぶつけても気にしなかったのはまずかった、と。


「あー、すいません! ……ここ、思ったより壁薄いんですね。初めてなもんで、わからなくて」


「はああああああ? てめえ開き直ってんのか! 壁が厚けりゃ何やっても良いってのか! てめえには常識ってもんがねえのか!」


 すると、ソラが呆れ顔でイコライの方を見た。


「イコライさん……いまの言い方じゃ、怒られるのも無理ないですよ」


「ごめん、ほんとにその通りだ。俺はバカだな……」


 二人がそう言い合っている間も、声の主はドアを殴り続け、罵詈雑言をがなり立て続けている。


 正直、ちょっと怖い……こちらが悪いとは言え、いくら何でも怒りすぎではないか、とも思えてきて、イコライはちょっと考え込む。


 選択肢は二つ。


 一つは、このままドアを開けないというものだ。たちの悪い輩に絡まれていると考え、ドアを閉じたままにして、身の安全を最優先する選択である。


 もう一つ、イコライが検討した選択肢は、ドアを開けて顔を見せて謝る、というものだった。礼儀作法上そうすべきだという理由と同時に、人は顔の見える相手に対してそうそう無茶はしないものだから、事態の沈静化が狙える、という思惑もある。


 イコライが即座に後者を選択したのは、彼の性格上、当然の成り行きだった……もちろん、それで相手が暴力に訴えてきたり、金品を要求してきたりするようなことがあれば、相応の報いを与えてやるという、秘めた決意をした上でのことではあったが。


「いや、本当にすいません」


 イコライはドアを開けて頭を下げた。


「もう静かにしますんで、どうかここは穏便に……」


「な……」


「……ん?」


 顔を見せた途端、急に静かになった相手を不審に思って、イコライは頭を上げ、相手の姿や顔をよく見た。


 そして、驚愕した。


 一五〇センチぐらいしかない、小柄な体型。

 やや癖がついた、黄色が濃いブロンドの髪。

 顔はやや丸顔気味で、すごい美人というわけではないが、それなりに整っていて、愛嬌のある感じ。

 瞳の色は、森に囲まれた湖のような、濃い緑色。


 昼間とは打って変わった、ダボダボの気の抜けたスウェット姿ではあったが……その女性は、まさしく……


「リズ……?」


 イコライは、彼女の名前を口にした。


「お前、リズベット・アドラーだよな?」


「……違います」


「いや違わないだろ! え、お前、どうしてここに?」


「そ、それは、その……」


 ドギマギして目を泳がせ始めたリズのことを、イコライはいよいよ不審に思って問いを重ねようとしたが、そのタイミングで店員が割って入ってきて話は中断。三人はまとめてバックヤードまで連行された。


 店の責任者は、イコライとソラに対しては「店内でコトに及ぼうとしたコト」を怒り、リズベットに対しては「トラブルは客同士で解決しようとせず、必ず店員に言ってください」と厳重注意した上で、最後に全員に対して、今度騒ぎを起こしたら強制的に退店させる旨を告げた。


 それも終わって解放された後、イコライは真剣な顔で「ちょっと話がある」と言ってリズを呼び止め、ドリンクバー近くのテーブル席にて、話し合いの場が持たれることになった。


「リズ。さっきも聞いたが、お前、どうしてここに? その格好だと、今夜はここに泊まる気なんだよな? さっきだって、ここでこれから寝るようなこと言ってたし」


「そ、そう言うお前たちの方こそどうして……あ、ひょっとして、貧乏なのか?」


 リズは、なぜか明るい顔になりながら言った。


「いやあ、そうだよな! ネットカフェは、カプセルホテルよりも安いからな!」


「違うよ」

 だが、イコライは眉をひそめてそれを否定する。

「俺たちは、借りてた部屋が火事で使えなくなったから、今日は仕方なくここに泊まるだけだ。明日になったら出て行くよ」


 そんなイコライを横で見ていたソラが


(好奇心が九割のくせによく言う……)


 などと呆れていたが、口には出さなかった。


「そ、そうなのか……今日だけなのか……」


 一方のリズは、なぜか今度は落胆するような顔になった。

 ともかく、イコライはこう続けた。


「それよりもリズ……ひょっとしてお前、毎日ここに泊まってるのか? このネカフェが、お前の滞在先なのか?」


「……だったら、なんだよ?」


「ふざけるな」

 イコライは怒って言った。

「ガッカリしたよ。お前はもっと、プロ意識のあるパイロットだと思っていた」


「……」


「一日や二日だけならともかく、こんなところに毎日泊まるなんて……体調管理は、戦闘機パイロットの仕事のうちだぞ? こんなことで体調を崩して、任務に支障が出たらどうする?」


「……支障が出たことなんて、いままでに一度もねーよ」


「なっ……その口ぶりじゃ、いままでに何度もやってたみたいだな。何てやつだ。本気で幻滅したよ……実際に支障が出たとか出ないとか、そういう問題じゃない。プロとして、体調を万全に整えるために、できる限りのことをするのは当然だろ? それが、一緒に飛んで、一緒に戦う俺たちへの、最低限の礼儀じゃないのか? お前の体調不良のせいで他の人間が死んだら、どう責任を取るつもりだ? ……何も俺は、余暇の時間を全部削って休みを取れ、なんて言ってるわけじゃない。ちゃんとした寝床で寝ろって、常識的な範囲のことを言ってるだけだ」


「……ふざけんなよ」


「は? なんだと?」


「ふざけんな。てめえの常識を、人に押しつけてんじゃねーよ……私はネカフェに泊まるのが好きだから、そうする。それは、私の権利であり、自由だ。誰にも文句は言わせない」


「……もういいよ、勝手にしろ。お前がそういう人間だって、早めにわかって良かった」


「ああ、そうかよ……話は終わりだな。じゃあ、私は寝させてもらう」


 そう言って、リズは炭酸飲料が入ったプラスチックカップを手に、席を立った。




「まったく、なんてヤツだ……」


 ソラと一緒に個室に戻ってからも、イコライはまだ怒っていてた。


「リズベットがあんなヤツだとは思わなかった! もっとちゃんとした、良いヤツだと思っていたのに……ほんと、人は見かけによらないもんだな」


「うーん……」


「ん? どうしたんだよ、ソラ?」


 カップルシートの隣で首をひねっているソラに、イコライは聞く。


「いや……少し、引っかかることがあって」


「引っかかることって?」


「……ちょっと、ネットで調べ物をしてもいいですか? 可能性は低いですけど、もしかしたら何か出てくるかも」


「いいけど、俺はもう寝るよ……ああ、いや、構わないから。好きなだけPCを使ってくれ」


 そうして、イコライがアイマスクと耳栓をして横になってからしばらくの間、ソラは個室のPCを操作して、何やら調べ物をしていた。


 数十分後、ソラは、ウトウトしていたイコライの肩を揺さぶる。

 何事かと思って半身を起こしたイコライに、ソラは言った。


「起こしてすみません……でも、早めにお知らせした方がいいと思って」


「なんだ? 一体何を調べてたんだ?」


「これを見てください」


 そう言ってソラが見せたPCの画面には、どこかの慈善団体のホームページが映っていた。

 そのページをソラがスクロールさせていくと、今よりも少し幼い、リズの顔写真が現れる。


「六七年度奨学生、リズベット・アドラー……へえ、戦闘機パイロット養成校在学中に、奨学金を受けてたのか。この学校の名前も聞いたことがある。私立の名門校だ……優秀だったんだな。まったく。それがどうして、あんなのになったんだか」


「イコライさん……」


 肩をすくめてバカにするように言うイコライに対し、ソラは深刻そうな顔で言った。


「この奨学金、厳しい所得制限があるんですよ」


「へえ。厳しいって、いくらぐらい?」


「世帯年収が、一万五千クローネ以下です」


「……え?」


 一万五千クローネといえば、地域によっては、最低賃金でフルタイム働いた金額より安い。学生のアルバイトに、毛が生えた程度の年収だ。


 そんな金額では、人間一人が暮らすのも精一杯。

 断じて、親が子供を育てられるような金額ではない。


「こ、この奨学金は……物価が低い、後進地域出身者向けなんだろ?」


 だとしたら、この金額も納得できる。

 だが、ソラはかぶりを振った。


「奨学金そのものは、確かにそうですが……ここに、奨学生の出身地も書いてあります。リズベットさん自身はエーメア西部の出身で、物価が低い地域の出身じゃありません」


「じゃ、じゃあ……」


 引きつらせた顔を向けてくるイコライに対し、ソラは結論を告げた。


「リズベットさんは……ものすごく、貧乏なんじゃないですか? ネカフェに寝泊まりしていたのも、たぶんそのせいでは?」


 その時「貧乏」という言葉に反応して、イコライの記憶が呼び起こされる。




「そ、そう言うお前たちの方こそどうして……あ、ひょっとして、貧乏なのか?」

 リズは、なぜか明るい顔になりながら言った。

「いやあ、そうだよな! ネットカフェは、カプセルホテルよりも安いからな!」




 あの時、リズが妙に明るい顔をしていたのは……同じ苦労をする仲間を見つけたと思ったから、だったのだろうか。


 そんな彼女に対して、自分は何て言った?


 その時、イコライの背筋を、冷たい何かが流れ落ちた。

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