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墜ちないイカロス  作者: 関宮亜門
第2章 トライアル
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68 新たなる旅立ち

 長かった休暇が、終わりを告げようとしていた。


「本当に、色々あったな」

 部屋で身支度を調えながら、イコライはソラに語りかけていた。

「一時は、もうダメだと思ったこともあった。何とか切り抜けられたのは、運が良かったのと、たくさんの人の助けがあったからだ……ソラ、今回もありがとうな」


「どういたしまして。でも、いちいちお礼を言っていたら、キリがないですよ」

 と、ソラは鞄を閉じて、イコライの方を振り返りながら、いたずらっぽく言う。

「これから先ずうっと、イコライさんは私に助けられ続けるんですから」

「……そうだな」


 そして、二人はどちらからともなく抱き合う。


「いままでありがとう。これからもよろしくな、ソラ」

「……はい」

「……ところで」

「はい?」


 抱き合ったまま、イコライは言う。


「これ、本当にこれから先ずっとお礼を言わなかったら『たまには感謝の気持ちを言葉にしてください!』って怒られるやつだよな……?」

「イコライさん、すごい!」

 ソラはイコライの肩から顔を上げて、イコライの目を見て言った。

「この短期間で、ちゃんと進歩してますね!」

「……褒められたのに、全然嬉しくない」




 準備を終えて部屋を出た後、二人はコーネリアの書斎を訪れる。


「母さん」とイコライは切り出す。「出発前に話があるって?」

 執務机に向かって何か書き物をしていたコーネリアは、万年筆を置くと、若い二人に向き直った。

「実は、これは言わずにいるかどうか、少し悩んだことなのだけど。でも、今後のソラさんとのことを考えると、言っておくべきだと思って」

「え? 私ですか?」

「ええ……あのね、ソラさん。最初の日、私は滞在中のあなたの振る舞いを見極めると、そのようなことをほのめかしましたよね」

「はい」

「それで、ララさんに対するあなたの献身を見て、私はあなたを合格にしたと。そういうことになっていますね」

「ええ、もちろんです」

「あれは全部ウソです」

「「は?」」


 コーネリアが言ったその一言に、イコライとソラは唖然となる。

 だが、コーネリアは言った。


「最初の日、ソラさんがとても示唆に富んだお話をしてくれた時点で、私はあなたを受け入れる意志を決めていました」

「か、母さん、どういうこと?」イコライが珍しく、目をぱちくりさせながら言う。「じゃあなんであの時、あんなことを言って、俺たちを不安にさせたの?」

「それはね、使用人たち……特にスティーブンとララに、ソラさんのことを認めてもらうためです」


 イコライとソラは、思わず顔を見合わせる。コーネリアの言う意味が、今ひとつよくわからなかった。


「どういうことですか?」

「スティーブンもララも頭は良い方ですが、あまり学のあるタイプではありません。あの日のソラさんの言葉は、おそらく二人には理解不能だったでしょう。ましてや、その他の通いの使用人や、いずれ使用人を介して噂を聞きつけるであろう島民たちに至っては、推して知るべしです。ですから、使用人にソラさんを認めさせるためには、もっとわかりやすい何かが必要だと思ったのです……たとえば、一緒に過ごす時間、とかね」

「つまり」とイコライ。「母さんは最初からソラを試すとか、合格とか不合格とかそういうつもりじゃなく……時間さえ経てば、それで良かったと?」

「その通りです……ソラさん。私のついた嘘を、許してくれますか」

「許すも何も……」ソラは真顔に戻って言う。「きっと、必要があったから、嘘をつかれたのだと思います」

「本当に、賢い人ね。そして優しいわ」コーネリアは嬉しそうに笑って言った。「こんな大きな家の女ともなると、色々なことに目配りしなければならないの……あなたもブラド家の女になるなら、覚えておいて」

「はい」


 話は終わりだった。コーネリアはゆっくりとした動作でソラを抱きしめ、ついでイコライを抱きしめた。


「あなたたちの歩む道は、普通とはだいぶ違うけれど、それでもあなたたちは精一杯に生きている。だから、もし万が一のことがあったとしても、私はあなたたちを送り出したことを決して後悔しません……それでも、もしあなたたちを失えば、私は悲しむでしょう。とても深く。ですから……どうか、無事に帰ってきてください」

「はい、母さん」

「はい……ええっと」

「何と呼んでくれても構いませんよ、ソラさん」

「は、はい……お義母さん」

 柔らかく目を細めたコーネリアの表情が、とても美しくて、ソラは思わず見とれてしまった。




 少し早すぎるかな、まあいいかと思って、ケンは荷物を持って、集合場所の玄関ホールに足を踏み入れる。


「あ」

「あ……」


 そこには、メイド服姿の女の子が、一人だけ。


「は、早いですね……ララさん」

「ええ……ケンさんも」


 感動的な和解を成し遂げたとはいえ、二人の関係はまだぎこちない。というか、気まずい。

 だが、ケンは意を決して、こう言った。


「ララさん……!」

「はい?」

「その……いつになるかわかりませんが、またこうして、会いに来ても構いませんか?」

「え、ええ……」ララは言われるまま、戸惑いつつもうなずく。「それぐらい、構いませんけど」

「本当ですか!」

「はい……私はこれから先も、ずっとここでメイドをやるつもりなので」

「い、いえ、そういうことではなく……」

「はい?」

「ですから、その……」

「おおー、ケン。早いな、お前」

「!」


 階段の上からカイトの声が降ってきて、ケンはこっそりにじりよっていたララから後ずさった。


「……カイト。お前の方こそ早いな。いつもはもっと遅いのに」

「おいおい。もう休暇は終わりだぜ。寝込んでるところを空爆でもされちゃ、死んでも死にきれないよ」

「はは。まあ、そうだよな」

「……」


 その時、ララの瞳がふっと曇るのを見て、ケンは改めて痛感した。ララの前で戦争の話題は禁句なのだ。

 ……もしそうだとしたら、自分がララに認められることなんて、決してないのではないか。

 だが、そう思ってケンが目を伏せた、その時だった。


「……ケンさん。さっきのお話ですけど」

 ララの方から話しかけられて、ケンはハッと顔を上げる。

「は、はい?」

「私、やっぱり殺したり殺されたりっていう仕事は、とても罪深いことだと思います……けれど、もうあなたに、死んで欲しいとは思っていません。たとえあなたがどんな考えをお持ちで、どんな仕事に就いていたとしても、それでも生きていて欲しいです……生きて、どうかまた、この屋敷に来てください。私はずっと、お待ちしています」

「……は、はい!」


 ケンはパッと華やいだ顔で、前のめりになって、握りしめた拳を振りながら言う。


「必ず! 必ず生きて帰ってきます!」

「……おい、ケン」


 その様子を横目で見ていたカイトが、低い声になって言う。


「お前いま、何か勘違いしなかったか?」

「は? 勘違い? 何の話だ?」

「いや、それは……」

「全員揃ったみたいだな」


 その時、旅行鞄を片手に提げたイコライが、ソラ、スティーブン、コーネリアと共に、階上から現れる。

 ケンとカイト、それからララが、会話を中断して向き直る。


「じゃあ……行くか!」

「ああ」

「おう」

「……いってらっしゃいませ」


 呼んでいた車に荷物を積み込み、ララやスティーブン、コーネリアに見送られて、イコライたちは車を発車させた。




「ふう」一息ついて、助手席のイコライは言う。「大変だったけど、終わってみれば、なかなか良い休暇だったな」

「ああ、全くだ」と運転席のカイト。「あの鹿はかなりの大物だった」

「……言っとくけどそれ、みんな忘れてるからな?」

「えーなんでだよーおいー」


 ひとしきり馬鹿笑いをしつつ、イコライは車のシートに身を沈める。

 これから先に待つのは、戦いの空。いつ誰が欠けるともしれない過酷な戦場だ。楽しいことばかりではない。いや、楽しいことなんて、ほとんどないかもしれない。

 それでも、自分たちなら、きっとなんとかやっていける。

 だからいまは、休暇の最後の余韻を、少しでも楽しもう。

 ……そう思った、矢先だった。


「なあ、イコライ」

 後部座席から、ケンが身を乗り出してくれる。

「ソラさんに聞いても、教えてくれないんだが……」

「え? 何だよ」

「……ララさんの連絡先、教えてくれないか?」

「……は?」

「おいケン!」とカイト。「お前まさか!」

 瞬間、車の中で話題が爆発して、イコライは余韻を楽しむどころではなくなってしまう。




 こうして、いくつもの波乱が待ち受ける大海原へと、彼らは旅立っていった。

 そこで直面することになる、数々の苦悩と困難を、彼らはまだ知らない。

 だが……それでもなお、この島で下した決断を彼らが後悔することは、決してなかった。



― 第三話 プレミアム・ハンド に続く ―

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