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墜ちないイカロス  作者: 関宮亜門
第2章 トライアル
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67 マリア・タラノヴァの戦争Ⅵ -復員-


 朝起きて、基地の宿舎の天井を目にした時、マリア・タラノヴァ大尉は「ついにこの日が来た」と、ほくそ笑んだ。


 昨日の夜にアイロンがけをしたばかりの、パリッとした制服に袖を通す。化粧はノリノリ。髪の毛はサラサラ。目の輝きはキラキラ。まさしく、最高の気分だった。


 目を閉じて、今日の夕方、基地の正門を出る時のことを、マリアは空想する。


 自由。自由だ。これからは毎日、愛する息子アンドリューに会えるのだ。まだ数時間は気が早いというのに、マリアはそれが、あたかもたったいま起きたことであるかのように、胸の高鳴りを感じていた。


 そして、ふぅっと一息ついて、パンと頬を叩いて、気合いを入れ直す。まずは、今日一日を乗り切ることだ。

 それが、マリア・タラノヴァ大尉が復員する日の、朝の出来事だった。




 マリアが司令官執務室の前室で引き継ぎ資料のまとめを進めていると、次から次へと来客が訪ねてきた……提督のフランシスにではない。マリアにだ。


「マリア大尉。いよいよ今日で復員ですな」

「バシル大佐……」

「いや、実にめでたいことですが、寂しくなります」


 司令部の中でもすっかり仲良くなってしまった老将を見て、マリアは頬を緩め(いつの間にかバシルが丁寧な口調に戻っていることは大目に見つつ)、冗談めかしてこう言う。


「まさかあなたも、私の連絡先を聞きに来たんじゃないでしょうね?」

「いやはや。冗談を言う余裕ができたようで何よりです。最初の頃のあなたときたら、氷のように冷たくて、見ているこちらがヒヤヒヤしましたよ……ちなみに、連絡先を聞きに、何人来たんですかな? そのうち、若い男性の数は?」


「個人情報なので、教えてあげません」


「さすが優秀な副官だ……しかし、私に連絡先を教えていただくわけには参りませんかな。若い頃はともかく今の私は妻一筋ですし、ただ折に触れてグリーティングカードを送るだけのつもりです」


「バシル大佐なら、いいですよ。はいこれ」


 マリアが連絡先を書いたメモを手渡しすると、バシルは目を細めてそれを眺めてから、丁寧に折りたたんでポケットにしまった。「いくつになっても、女性に連絡先を教えてもらうのは嬉しいもんですな」とセクハラになるか微妙なことも言われたが、それもマリアは大目に見ることにする。


「ところでですね、マリア大尉……」

 バシルはどこか決まりが悪そうに、頭をかきながら言った。

「実は……若い男性士官の何人かから、相談を受けているのですよ」


「私に関係あることですか?」


「ええ……つまり、あなたが誰にもなびく気配がないので、既に良い人がいるのではないかという噂が広まっているのです。彼らの中でも特に色事に不慣れな者は……つまり、純粋な心を持った者は、噂が事実かどうか気が気でない様子でして……どうでしょう。私の方から、彼らに伝えても構いませんか? そうすれば、諦めがつくと思うのですが」


 マリアはつい、固い表情で答えてしまった。


「補給参謀っていうのは、そういう仕事もするものなんですか?」


「まあ、将兵の士気の維持は、職掌の範囲内ですが。しかし、これはボランティアです。実を言えば、私も若い頃に痛い目を見まして……同じ道を歩んでいる若者を見ると、他人事と思えんのですよ」


「そうですか……」マリアは視線を落として、抑揚のない声で言った。「私も同じですよ」

「……は?」

「私も同じです」


 バシルがよく聞き取れなかったようだったので、マリアはハッキリと言った。


「昔、これ以上愛せないってぐらい愛した人に、こっぴどく裏切られて……それ以来、男性のことが信じられなくなりました」

「……おお、マリア大尉!」


 バシルはその岩のように険しい顔を悲しみに歪めて、マリアの手に、そっと自分の手を重ねた。それは、乾いていて、ゴツゴツしていて、温かい手だった。


「大きなお世話かもしれませんが……そのような男に、あなたの人生をぶち壊しにさせてはいけません。今は無理でも、どうか、いつかは前に進んでください」


「本当に、大きなお世話ですね」マリアは、小さく笑って言う。「でも、ありがとうございます」


 それから、バシルはマリアの手を一瞬だけギュッと固く握りしめて揺らして、すぐに手を放すと、その手をこめかみに当てて、敬礼した。


「常在戦場……人生もまた、戦いだ。武運長久を祈る、マリア・タラノヴァ大尉」

 マリアは立ち上がって答礼し、バシルに応えた。

「バシル大佐も……どうか幸運を」




 その後、航法幕僚のエミール少佐や、通信幕僚のカイル少佐が相次いで軽く挨拶だけして去って行った後、少々意外な人物がマリアを訪ねてきた。


「ああ、ユスフ中佐」

 作戦参謀のユスフ・アーナンド中佐だ。

「フランシス提督でしたら、会議中ですが」


「いえ。提督ではなく、あなたに会いに来ました」

「え……」


 ユスフのその発言に、マリアは少し驚いた。ユスフとあまり仲が良かった記憶はない。なんというか、途中からユスフはマリアによそよそしくなって、そのせいでマリアの方からも距離を置くようにしていたのだ。


「提督から聞きましたよ」ユスフはそう切り出した。「軍に残らないかと誘われたのに、断ったそうですね」

「ええ、まあ……私は元々、学費目当てで予備役になっただけなので」


「僕には、今ひとつわからないんですよね……」なんとなく、ユスフは元気がない。「軍での仕事は、とてもやりがいがあると思うのですが。いえ、やりがいと言いますか、何のために働いているのか明確ですよね、軍隊では。僕が進路を決める時には、民間に行くことなんて、考えもしなかったな」


「すみません、何がおっしゃりたいんですか」

「まあ、簡単に言うと、僕は気に入らないんですよね」


 ユスフは、無理をして軽く言っているような、固い口調で言う。


「せっかくあのフランシス提督から認められたっていうのに、軍に残らず民間に戻るなんて。民間っていうのは、そんなに良いものなんでしょうか……すみません、こんな子供っぽい話をしてしまって。そこは悪いと思っています」


「……いえ。けっこう面白いと思いますよ」

 マリアは下心なくそう言い、真剣に考えるように腕を組んだ。


「でも、私にはまだ、ユスフ中佐の考えがよくわからないですね。つまり、民間の何が疑問なんですか」


「つまりですね……こっちの会社の商品がいくつ売れたとか、あっちの会社がいくら利益を出したとか、そんなの全部どうでもいいことじゃないですか。社会全体の生産力が足りてなかった時代じゃないんだから、会社が一つ潰れたとしても、いくらでも代わりはいますよ……だとしたら、民間での働きがいって、一体なんなんですか?」


 マリアは、復員当日にもなって、ようやくユスフという人物が掴めてきたと思った。この男はたぶん、議論という形を取らないと、他人とコミュニケーションがしづらいタイプの人間なのだ。


 マリアはまあ、普段だったら面倒くさいと思って適当に受け流したところかもしれないが、最後の日なので、真面目に答えてあげようと思った。


「まあ、それは色々な答えがあると思いますが、私の立場から言うと……ユスフ中佐みたいな、優秀な人ばかりじゃない、ってことですよ」

「え?」


「世の中全体のことを考えるような、余裕も知識もない。ただ日々の生活をやりくりして、いま手の平の中にある小さな幸せを守っていくので精一杯……そういう人が、世の中にはたくさんいるっていうことです」


「うーん……良い答えだと思いますけど、どうも後ろ向き過ぎる気がしますね」


 ユスフは頭をかきながら言った。


「そんな後ろ向きな理由で、大勢の人間が、日々の辛い労働に耐えられるものなんでしょうか? もっと何か、前向きな理由があるような気がするんですが」


「中佐」

「はい?」


「あなた、恋人がいないでしょう……ああ、いえ、答えなくてもいいんです。ただですね。多くの人は、大義のためとか世の中のためとか、そういうのがなくても、ただ愛する人がそばにいてくれれば、それだけで十分だったりするものなんですよ」


「……なんだか、天下国家のために軍人として戦ってる僕が、まるで欲張りみたいに聞こえますね」

「それは間違ってないでしょう?」


「ええ、まあ確かに……しかし、揚げ足を取るわけではありませんが、民間にも家族がいない人は大勢いるでしょう? そういった人はどうしているんでしょうか?」

「……正直、わかりませんね。私はそういう人生を送ってこなかったので」

「そうですか……うん、そうですよね。ありがとうございます。少しすっきりしました。最後にお話ができて良かったです」


 ユスフは言葉通りのすっきりした表情になって、マリアに手を差し出してきた。

「民間でのご活躍をお祈りしています。大丈夫。あなたなら、きっと成功できますよ」


 マリアは礼を言ってその手を握ったが、内心では、その評価は買いかぶり過ぎだと思った。




 結局、ユスフ中佐とも連絡先を交換した後、その日の夕方、マリアは引き継ぎ用の資料をまとめた後、フランシスの執務室に入った。


「失礼します」       

「ああ」


 マリアが入室すると、ブラインドを閉めるのも忘れて仕事に没頭していたのか、フランシスの背後にある大きな窓からは夕焼けの光が差し込んでいて、室内を赤く染め上げていた。


 そんな部屋の中、執務机越しに向かい合うマリアとフランシス。どちらも真剣な面持ちだった。


「引き継ぎ用の資料がまとまりました」マリアは直立不動で言う。「後任はまだ未定とのことですが、資料はバシル大佐にお預けすればいいですか?」

「いや、全て俺に渡してくれ」

「……は?」


 フランシスの言葉に、マリアは思わず目が点になる。だが、フランシスは淡々と言った。


「SHILF軍では、艦隊司令部の編制は提督の裁量である程度いじってもいいことになっていてな……君の後任は置かないことにした。君のやっていた業務は、全て俺が自ら行う。なに、しばらくは平和そうだからな。問題あるまい」


「わ、わかりました」

「……戸惑っているな? なぜ俺が後任を置かないことにしたと思う?」

「わかりません」

「そうか。まあいい」


 フランシスは答えを明かさなかったが、それは推測しろということだった……もしかしたら、マリアが戻ってきた時のために、ポジションを開けておくということかもしれない。だが、マリアは気づかないフリをする。


「お世話になりました、提督」

「ああ、ご苦労だった……なあ、マリア大尉」


 フランシスはマリアに向き合ったまま、背筋をピンと伸ばして、こう言った。


「俺は、謝罪も感謝もしない……俺も君も、出会った時から今日この時に至るまで、等しく軍人であり、俺たちはただ、自分の任務を果たしただけだからだ」

「はい、わかっています……あの、一つ聞いてくれますか」

「なんだ?」

「私……息子を……アンドリューを、立派に育てようと思います」


 マリアは言った。


「死んでいった人たちの分まで、立派に……いままでは、育児を両親に任せきりにして、楽しいところだけつまみ食いするみたいにしてたけど……これからはもう少しちゃんとして……手始めに、旅行に行こうと思うんです。これまでは、色々言い訳して行ってなかったけど、よく考えたら、行こうと思えば行けるはずで……だから」


「……うん、わかったよ、マリア大尉。よくわかった」


 フランシスは、これまで一度も見たことがないような穏やかな表情、一度も聞いたことがないような和やかな声になって、こう言った。


「息子さんに、よろしくな」




 午後五時十五分。


 マリアは、私物の入った円筒形のバッグを一つだけ肩から提げて、基地のゲートを出た。


 ゲートを出て、アスファルトの道を数歩歩いた後、ふと振り返り……ブーツのかかと同士を、音が鳴るぐらい勢いよくぶつけて、敬礼した。ゲートを警備している衛兵が、戸惑ったような顔をしながら答礼したのが、なんだかおかしかった。


 こうして……朝に巡らせた想像とは、少し違った形ではあったが……マリア・タラノヴァは無事に復員して、家族の元へと帰って行った。

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