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墜ちないイカロス  作者: 関宮亜門
第2章 トライアル
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58 人生で最後に飲むのは

 人生で最後に飲むのは、ブラックコーヒーが良い。

 なぜなら、ブラックコーヒーは、人生の味だから。


 大手コーヒーチェーンのロゴマークがついたボトルをあおりながら、サヤカはそう思った。


 目の前に広がるのは、どこまでも続く、広大な雲海。空の色を反射して、青みがかった白い雲の群れが、波のうねりのようにも見えるなだらかな起伏を作って、水平線の彼方まで続いている。


 感傷に浸るには、少しやかましいな……サヤカはコーヒーをもう一口飲みながら、周囲の騒音を苦々しく思った。


 場所はサン・ヘルマン空港の滑走路。そこは島で最大の軍民共用空港なのだから、日中は丸一日ジェットエンジンの騒音が続いているのは当たり前なのだが、サヤカはそれでも不満に思った。


(きっと世界が滅びれば、すごく静かになるんだろうなあ)


 そう思うが、現実には、なかなか世界は滅んでくれない。

 今度、ポストアポカリプステーマのVRゲームでも探してみるか……と思って、ふと気づいた。


「あ、あたし、今日死ぬんだった」


 そんな独り言をつぶやいたサヤカは、しばらく「……」と固まったあと、ブラックコーヒーの最後の一口を飲み干して、空いたボトルを思い切り振りかぶって、海に向かって放り投げた。


 放物線を描いて飛んだボトルは、やがて徐々に高度を下げて、雲の合間へと、音もなく消えていった。


 自分も、あんな風に死ぬのか……そう思うと気が滅入ったが、同時になんとなく、自分がこれからとても綺麗なものに生まれ変われるかのような、そんな未来への期待、予感めいた不思議な感覚が湧いてきた。


 なんだか、ゾクゾクする。


 最後に飲むのがチェーン店の量産コーヒーっていうのが、また良いよね、とサヤカは思う。これがこだわりの自家製コーヒーだったりした日には、ぞっとする。そんなの、カッコ悪すぎだ。


「別に自家製コーヒーが悪いとは言わないけど、まあ、最後に飲むのは量産品が良いよね。退廃的でさ」

「お取り込み中ですか、ご主人様」


 独り言を言うサヤカに、男性風の低い機械音声が話しかけてきた。

 背後を振り返ると、そこには、いかにもロボットというような、白い円筒形からアームの突き出た、背の低い機械が立っていた。このロボットは、戦闘機の整備やその周辺雑務を主用途とする機種で、昨日の夕方、サヤカが買ったばかりの新品だった。


「いや……」サヤカは言った。「仕事は終わったの?」

「はい、ご主人様」

「じゃあ順を追って、作業内容を簡潔に報告して」


「はい……まず、実技試験の試験官の二人に、予定に変更があったとお知らせしました」

 ロボットは淡々と報告する。

「試験官の変更があったことを伝え、うち一人には、本来の報酬に上乗せした金額を支払い、島を出るように言いました」

「トラブル・イレギュラーの類いは?」

「ありませんでした。二人とも、素直に応じていました」

「よし。次」


「実技試験用の戦闘機のうち一機について、機関砲の弾種を空砲から実弾に換装しました。トラブル・イレギュラー等はありませんでした」


 こちらの質問に先回りして答えてくれた。優秀だ。ちょっともったいないな、とサヤカは思いつつ、こう続けた。


「あなたの作業を指示したのがあたしであることについて、誰かに知られた?」

「いいえ、ご主人様」

「記憶の内容を、クラウドで同期したりしてない?」

「いいえ、ご主人様。いかなる形であれ、ご主人様の個人情報や、私の記憶は、外部のネットワークとは共有されていません。そもそも、私は機密情報の保護を最優先したモデルで、全てのワイヤレスネットワーク機能は、出荷段階でハードウェア的に無効化されています。ご主人様の情報は完全に守られています。ご安心ください」

「うん、わかった」


 サヤカは満足げにニッコリと笑って、こう言った。


「じゃあ、最後の命令を伝えるね。まず、そこに立って」


 サヤカは自分の目の前の岸壁を指差す。一歩前に踏み出せば、その先は断崖絶壁。さらにその先は、死の雲海だ。

 ロボットは足のないホイールタイプだった。彼は駆動音を響かせつつ、サヤカの前に立った。


「こうでしょうか、ご主人様」

「うん」サヤカは笑顔のまま言った。「じゃ、海に飛び込んで」


 だが、ロボットは言った。


「それはできません、ご主人様」

「は? なんで?」


「ロボット三原則というものがあります。その第三条の内容を要約すると『ロボットは、人間が危険にさらされていない状況においては、人間の命令に反しない限り、自己を守らねばならない』とあります」

「何言ってんだよお前。人間が死ねって命令してるんだよ」

「いえ、この条文を拡張解釈しますと、この状況におけるご主人様の命令は第三条に違反する可能性が高」


 サヤカはロボットが言い終わらないうちに、その背中を思い切り蹴り飛ばした。ロボットは、サヤカの視界から消える。


 ちょうど離着陸の合間だったのか、周囲に静寂が訪れた。確認するまでもない。ロボットは死んだ。

 少なくとも、ロボットが雲の下から帰ってきて、いま起きたことや、サヤカがロボットにやらせたことを誰かに報告する心配はない……雲の下から帰ってきた人間ならこれまでに何人かいるが、ロボットはまだいない。


「へえ……」

 サヤカは再び、独り言を言い始めた。

「戦争法のテキストにも出てきたよ、拡張解釈って言葉。そういう風に使うんだね。覚えとくよ……まあ、もう勉強なんて必要ないけどさ」


 サヤカが思い描くのは、すぐ近くの将来のことだけ。

 試験官になりすまして、機関砲の実弾を装填した戦闘機に乗り込み、イコライとケンを殺す。

 その先なんて、知ったことか。


「さあて……殺すか」


 サヤカは何の迷いも無く踵を返して、その場を後にした。


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