57 奇跡
翌日の朝。
イコライが朝食前にケンの客間に訪ねていくと、ケンは身支度を整えてベッドの端に腰掛けていた。
「準備万端、って感じだな」とイコライ。「その様子だと、早くに目が覚めたのか?」
「ああ。瞑想して集中を高めていた」
「瞑想か。ファレスタシアの文化だな」
「いや。それはよくある誤解だ。実際にはエーメアなどの地域にも瞑想はあるし、最近流行している瞑想は、そのどちらとも違う」
「そうなのか? 物知りだな」
ケンは苦笑する。
「SHILFに渡ってからというもの、自分を高めようとして色々なことに手を出した……だが、いまとなっては、どこまで意味があったのか」
ケンはふと、遠くを見る目になる。
「思い出すよ。家出をして、SHILFに向けて発った日の朝を……その時もちょうど、こんな感じだった。気持ちが高ぶってて、不安で一杯だった」
「……大丈夫。今度はきっと上手く行くよ。俺がついてる」
イコライが言うと、ケンは笑った。
「そうだな。頼りにしてるぞ」
満腹で集中力が鈍らないよう、軽めの朝食を取ると、一同は誰が示し合わせたともなく、玄関ホールに集まった。
イコライ、ソラ、ケン、カイト、そして、スティーブンとコーネリア。通いの使用人を除いて、屋敷のほぼ全員だ……そこにララの姿が見えないことを、ケンは悲しいと思ったが、振り返っていてはダメだと思った。感傷に浸りながらでも受かるような、甘い試験ではない。
ケンはコーネリアに向かって歩み寄る。コーネリアに対しては、怪我が治ってからすぐの頃に一度挨拶していたが、改めて礼を言いたかった。
「コーネリアさん」ケンは言った。「改めて、このたび受けたご恩には、感謝してもしきれません。お礼のしようもないほどです。今はただ、いたずらにご厚意に甘えずに済むよう、試験で全力を尽くすつもりです」
するとコーネリアは、厳かな表情を少しだけ和らげて言った。
「試験が上手く行くことを願っています。イコライが認めたお人だから滞在を認めましたが、出て行かれるというなら、それに越したことはありません……あなたにとっても、ね。そうでしょう?」
「はい、おっしゃる通りです」
迷い無くそう言い切るケンを見て、コーネリアは悪くない面構えだと思った。
「じゃあ、行くか、ケン」
「ああ」
イコライに促されて、ケンが玄関に向かって振り返った、その時だった。
「ちょっと、待ってください!」
その高い声に、全員が振り返る。
見ると、玄関ホール奥手の、地下室へとつながる使用人用のドアが開いていて、その横に、メイド服姿のララが立っていた。
「ララさん……!」
思わず息を呑んだケンに向かって、ララは歩み寄っていく。全員の視線が集中するが、ララは物怖じしない。しっかりした態度で、ケンの前まで来る。
ケンはララに向き直りながら、恐る恐る言った。
「お身体は、よろしいんですか」
「はい。皆さんのおかげで、だいぶよくなりました……ケンさん。少しお話をしてもいいですか。すぐに済みますから」
「ええ、なんでしょう」
ララは、決意を込めるかのように、すうっと小さく息を吸って、話し始めた。
「ケンさん。私は、あなたのしてきたことが許せません」
「あなたがこれからしようとすることにも、納得できません」
「だから、あなたを許そうとは思いません」
「……けれど」
「それでも、私の頭の中から消えないんです」
「あなたを傷つけた時の、とても嫌な気持ちが」
それまで、平気を装っていたはずのララの声が、だんだんと途切れ途切れになる。
「……私が引き金を引いて、あなたが血を流して倒れた瞬間……私には、すぐにわかりました。たったいま自分がしたことは、間違ったことなんだ、って」
「私がしたかったことは……するべきだったことは、あなたを殺そうとすることじゃなかった」
声が震え始める。
「わ、私はただ、あんなに優しかった兄さんが、突然いなくなって、少しずつ忘れられていくのにどうしても耐えられなくて……なんとかしてそれを止めたいだけだった」
それでも、ララは語り続け、ケンはじっと耳を傾け続けた。
「だから……あなたを殺そうとすることに、意味なんかなかった」
「そんな簡単なことにも気づかなかった私は、本当にバカで……」
「あの時の私には、私を止めようとしてみんながかけてくれた言葉が、中身のない綺麗事のように思えました」
「でも、今ならわかります」
「あれは全て……あなたの言葉も含めて……みんなの、心からの言葉だったんだって」
「それに気づいた時……私はとても恥ずかしかった」
「だから、あの後でみんなが励ましてくれても、ただ辛いだけで……いっそ死んでしまうか、いなくなってしまいたかった」
「……でも、そんな風に思うのは卑怯だと思った」
「だって、私なんかよりも、本当に辛かったのは、あなただったはずで……」
「痛くて、死ぬかもしれないって怖かったのは、あなたの方だったはずで」
「だから……だから……」
「ケンさん」
「本当にごめんなさい」
「私は、あんなことをするべきではありませんでした」
「私があなたにしたことは、間違っていました」
「だから、謝らせてください」
「本当に、申し訳ありませんでした」
そう言って、最後に、ララは深々と頭を下げた。
「……ララさん」
だが、すぐにケンはララの肩を掴んで言う。
「頭を下げないでください」
そう言われて頭を上げたララは、そっと涙を拭った。
「ごめんなさい……わざとらしかったですよね」
「違うんです」とケン。「そうじゃなくて……あの、ララさん」
見ると、ケンの目にも涙が浮かんでいた。
「突然のことで、なんて言ったらいいのか、俺にはわかりません……ただ、これだけは言わせてください。俺は、あなたを悪く思ってなんかいません。何も恨んでなんかいません……戦争が悪いからって言うのは、少しおかしいと思うし、あれは不幸な事故のようなものだった、なんて言う気もありません……けど、これだけは言えます。あなたは、何も悪くなんかない……それから、もう一つだけ言わせてください」
ケンは続けた。
「あなたのしたことは、奇跡だ」
「え……?」
「あなたの言ったことは、誰にでも言えることじゃない。いや、世界中に何十億もの人間がいたって、あなたと同じことが言える人間なんて、ほとんどいない。一人もいないかもしれない……だから、あなたのしたことは、奇跡です」
ケンは涙ぐんで言った。
「俺は……俺はあなたに会えて、本当に良かった」
「そんな!」とララ。「そんなこと言ったら、あなたのおっしゃったことこそ奇跡でしょう! だって、自分を殺そうとした相手のことを、あなたは許そうとしてるんだから!」
「いや、それは」
「両方ですよ」
その時、コーネリアが優しげな声で言うと、全員の注目が彼女に移った。
「……あなたたち二人のしたことは、両方とも、かけがえのない奇跡に他なりません」
そう言われると、ケンもララも、はっとしてお互いを見て、それからはにかむような顔で笑い合った。
「さて、皆さん」
コーネリアはそう言って、改めて全員に呼びかけた。
「この由緒あるブラド家の屋敷においては、これまでにも数々の印象的な場面が生まれてきました。たったいま、その歴史に新たな一ページが書き加えられたことを、私はとても嬉しく思います……ところで、この感動的な和解が、ある類い希な人物の献身なくしてあり得なかったことを、皆さんにお知らせしたいと思います……ソラさん、あなたのことです」
「え?」ソラは驚いて自分を指差した。「私、ですか」
「はい。あなたは、ララさんが打ちひしがれている時、彼女を励まし、支えになってくれていた、と聞いています。また、ララさんの傷ついた心を忘れてしまいそうになった者たちに、それを思い出させる役割も果たしてくれた……そうですね、皆さん?」
イコライやララを始め、全員が力強くうなずいた。
「ソラさん」コーネリアは言った。「先日は、あなたを疑うようなことを言って、大変申し訳ありませんでした……夫のマリウスに代わり、あなたを家族の一員として受け入れます。これからは世界中のどこにいても、ブラドの姓を名乗ってください」
「……!」
ソラは、嬉しさと驚きのあまり、息を呑んで、叫びそうになって開いた口を、とっさに手で押さえた。
それでも、すぐに落ち着くと、ソラは動揺のあまり、か細い声で言った。
「ありがとう……ございます」
コーネリアはうなずいて、改めてこう言った。
「さて……思わず長い話になってしまいましたね。急ぎなさい。遅刻するといけないわ」
「ですね」カイトが言った。「ここまで来て『試験には受かりませんでした。やっぱりまたお世話になります』なんてことになったら、格好がつかない」
「心配いらないさ、絶対に受かる」とイコライ。「これでもう、何も迷うことはないからな。そうだろう、ケン」
「ああ、その通りだ」
ケンはイコライたちを振り返って言った。
「……ぼんやりとしか見えなかった敵が、いまならハッキリ見える。そんな気分だ」




