56 あんたみたいな良い人は
話を終えて、ソラが部屋を出て行くのを見送ると、ララはふっとため息をついた。
ララはまだ部屋に閉じこもりがちだったが、屋敷で何が起きてるかは、ソラが毎日来て教えてくれる。
今日は、あのケンの就職が決まりそうだとかいうことで、ソラは怒っていた。ララがこんなに苦しんでいるというのに、イコライは何を考えているのか、と。ソラは、最近、本当にこの人は人間なのかと疑問に思うことがある、とまで言っていた。
それを聞いている間、ララはなんだかおかしくなって、笑いをこらえていた。ソラさんの方こそ、本当は人間の女の子なんじゃないですか、と疑問を口にしたくてしょうがない。
それはともかく、ソラは、そんなイコライと比べるとケンの方がまだまともだとも言っていた。なんでも、ケンは怪我が治って動けるようになって以来、毎日のように「ララさんはどうしていますか」と、心配そうな顔でソラに聞いてくるのだという。
ケンは自分のことなどもう忘れているのではと思っていたララは、そうではないと知って、なんだか、むしろいよいよ崖っぷちに追い詰められたような気持ちになった。
行動することを求められている、と感じると同時に、それを怖がっている自分の弱さと向き合わねばならなかった。
いっそのこと、このまましらばっくれてやり過ごして、ケンがいなくなった後、何食わぬ顔で部屋から出てきて、また元の暮らしをやり直せたらいい……そんな思いに駆られてしまう。
でも、本当はわかってる……それが、楽な方に流れることだ、ってことぐらい。
いまは楽でも、きっと後になって後悔する、ってことぐらい。
本当は、自分のしたことに対して、もっとちゃんとした結末を用意するべきだった。
それぐらい、臆病で世間知らずな自分にだって、ちゃんとわかっている。
でも、自分は、そんなに強くない。
そんな勇気なんか、自分にはない。
おい、お前。
気づけよ、バカ。
物思いにふけっていた時に、いきなり頭上からそんな声が振ってきて、ララは心臓が飛び上がるほどびっくりして、声のした方を振り仰いだ。
半地下室の高い窓の向こうには……真っ暗な暗闇に紛れて顔を出す、一匹の黒猫がいた。
「あ、あなたは……」
「開けてくれよ」
黒猫は前足でトントン、と窓を叩いた。ララがすぐに窓を開けると、猫はララの手をすり抜けるようにして部屋に入ってきて、床に降り立った。
ふと首を回して辺りを見たアポロは、すぐにベッド脇の何も乗っていないサイドテーブルに目を留めると、その上に飛び乗って、腹ばいになり、ララと向き合った。
「明日、この島を発つことになってな。その前に、お礼を言いに来たんだ」
「お、お礼?」
「ああ。そういえば、あんたには言いそびれていたと思ってな……助けてくれて、ありがとうな」
ララは、たったいままで忘れていたことを思い出した。自分が、必死でこの黒猫を守ろうとしたことを。
「別に、そんな……」ララは戸惑った。「大したことは、何もしてないよ……カイトさんを止めたのは、イコライさんだったし」
「それは違うと思うな。あんたがあの場の空気に逆らって、流れを変えていなかったら、きっとあの男は何もしなかったと思う」
「そんなこと……」
「いや。あのイコライって男は、あの場で俺を殺したら、あんたが傷つくと思って、止めただけだよ……つまり、実質的には、俺を助けたのはあんたなんだ」
アポロは、おもむろに部屋を見回すと、こう続けた。
「まだこんな狭苦しいところに閉じこもってるのか。あんたみたいな良い人は、もっと外に出なきゃダメだぜ。じゃなきゃ、世の中が悪人ばかりになっちまう」
「買いかぶり過ぎだよ。私なんて、そんな……」
「あのな、お嬢ちゃん」
アポロは言った。
「あんたは、俺の命の恩人なんだ」
「あんたは俺を救ってくれたんだ」
「そのことを、大したことじゃないなんて、思って欲しくないな」
「……あんたは、優しくて、勇気のある人だ」
「いつまでも病気でいたりしちゃ、ダメだぜ」
ララが黙っていると、アポロは「じゃあ、俺は行くよ」と言って立ち上がるなり、窓の外へと飛び上がった。
見上げるララを尻目に、地上に降り立った猫は、振り返って一言「にゃあ」と鳴いた後、ゆっくりと歩き去って行った。




