45 名前の意味
翌朝。イコライとソラが起きて階下に降りてくると、黒猫が尻尾をピンと立ててすり寄ってきた。
「わ。可愛い!」
アポロはソラの膝下あたりに頭をこすりつけ、ソラはそれを見て声を上げてかがみ込み、アポロの頭を撫でる。が、アポロは頭を撫でられるのは嫌いらしく、手をかわすと、代わりにあごを突き出してきた。それを見たソラがあごの下をかいてやると、アポロは気持ちよさそうに目を細める。
「可愛い~!」
「もう直ったのか」イコライは感心する。「さすが、仕事が早いなあ、ライリーおじさんは」
「なあに。俺の手にかかりゃ、文字通り朝飯前よ」
ダイニングテーブルでコーヒーを飲みながら、ライリーは得意げに言った。
「ま、見たところ、その猫を作ったヤツもなかなか大した野郎だがな……知り合いなのか?」
「いや。まあ、これから知り合うかもしれないけど……なあ黒猫くん。早速だけど、君のご主人と連絡を取るには、どうすればいいんだ?」
すると、黒猫は不機嫌そうな低い声で言った。
「俺の名前はアポロだ」
「ああ、そうかアポロ。で、連絡先は?」
「名を名乗れ、無礼者」
「……」
あまりのことに絶句してしまったイコライに代わって、ソラが答えた。
「ごめんねー。この人ったら、お金持ちのボンボンで、甘やかされて育ったからー」
「お、おいソラ……」
「私の名前はソラ。この人はイコライ・ブラドさんだよ」
「フン。やっぱり、どこへ行っても人間よりロボットの方が優秀みたいだな」
「あは☆」ソラはなんだか上機嫌だ。「良いこと言うね、キミ♪」
「お、お前、この黒猫」とイコライ。「助けてやった恩を忘れたのか?」
「ケッ。助けてくれたのはソラさんと昨日の栗毛のお嬢さん、それからそこにいるライリーじいさんだろう。お前は何もしていない」
「いや、したよ! カイトを止めたのは俺だよ!」
「ちょっとイコライさん。猫相手にムキにならないでください」
「……もういい。ソラ、後は任せた」
その後、アポロがソラに話したのは、無線機を用意して、指定された周波数に合わせて欲しいということだった。
すぐにライリーが用意した無線機に、アポロは声を吹き込んだ。
「俺は無事だ。屋敷で待ってる」
そして、少し間をあけて考え込むような仕草をした後、アポロはこう付け加えた。
「アポロというのは、太陽のようにかわいい、という意味だ」
無線機の電源を切ってすぐ、ソラがその言葉の意味を尋ねると、
「間違いなく俺だとわかるセリフを入れて、罠じゃないってわからせてやる必要があると思ったんだ……なにぜ俺のご主人は、ネズミみたいに臆病なやつなんでね」
と、アポロは「やれやれ」とでも言いたげな顔で答えるのだった。
その後、イコライとソラはアポロを連れて、丁寧に礼を言ってライリーの元を辞去し、車で屋敷へと戻った。アポロが、自分の主人が迎えに来るはずだ、と言うからだ。
何気なく応接室に入ると、カイトが椅子に浅く腰掛けて、イヤホンで音楽を聴いていた。だが、彼の表情はリラックスとはほど遠く、油断のない神経質そうな目つきをしていて、雰囲気が「話しかけるな」と言っていた。
さすがのイコライも、カイトに対して申し訳なく思った。もしもアポロが密かに通報していたとしたら、今日にも警察が来るだろう。だが、警察が来ない可能性だって十分にあった。そんな宙ぶらりんな状況なら、誰だって神経質になる。
イコライとしては、逃げることを考えなかったわけではない。だが、当局にこの場所が露見しているとしたら、どうあがいても最後は捕まるとしか思えなかった。ならば、じっと息を潜めていた方が良いはずだと思った。いま動くと、かえって見つかる可能性だってある。
ひとまず、イコライはケンに事の次第を報告することにした。ケンには昨日からまだ何も話していなかったのだ。ベッドの上のケンは、ようやく来たか、早く話せとイコライを急かした。昨日の夜に発砲音を聞いてから、ずっと何事かと思っていたのに、カイトもスティーブンも何も話してくれない、とケンは不満そうだった。
イコライが一連の経緯を話すと、ケンは神妙な面持ちで、
「……いま言ったことは、全て本当のことなのか?」
などと聞いてきたので、イコライは答える。
「こんな回りくどい嘘をつくわけないだろう……ライフルが暴発しただけだって言われたんだったら、疑うのもわかるけどさ」
「この状況じゃ、むしろそっちの嘘のほうが本当っぽいよ……イコライ、お前、猫型ロボットを助けるために、自分が逮捕される危険を冒した、っていうのか?」
「まあ、そういうことになるね」
「……」
「なあ、ケン」
「待て。少し考えたい。ほんの十秒ぐらいでいい」
実際にイコライが数えてみると、ケンはだいたい十五秒ほど、黙って、悩ましげに考え込んだ後で、再び口を開いた。
「……正しいことであっても、正しいと認めるのが難しいことがある。イコライ、お前ならわかるよな」
「……今回の件に関して俺は当事者だから、それについてどうこう言うことはしたくないね。なんだかずるいと思うからさ……でもまあ、うん、わかるよ。難しいよな」
「いや、違うんだ……俺が言いたいのは……難しいけれど、不可能じゃないってことだ。少なくとも、俺にとっては」
「……えっと、つまり?」
「お前のしたことを、何の迷いもなく肯定することは、俺にはできない。俺はそこまで器の大きい人間じゃない……でも、わかるよ。器の大きい人間だったら、きっと迷うことなく、お前のしたことは正しいって言えるんだろうなって……それぐらいだったら……俺にもわかる」
「回りくどいな」イコライは、耐えきれなくなって少し笑った。「はっきり言ってくれよ、ケン」
「わかった、言うよ」ケンは、改めてイコライの目を真っ直ぐに見て言った。「お前のしたことは、きっと正しいことだ……正直な話、ちょっと自信がないが……でも、きっと正しいと思う」
「……」
そう言ってくれるケンを見て、イコライは、全てが無事に終わって、この男と友達になれたらどんなに良いだろう、と思った。




