41 殺さないで
その日の夕方。
屋敷の正面につけたレンタカーから降り立ったカイトは、重そうなクーラーボックスを肩から提げて、玄関チャイムを鳴らした。
スティーブンに招き入れられたカイトは、意気揚々と言う。
「イコライに伝えてくれ。約束通りの鹿肉だぞ、ってな!」
「約束からはずいぶんと遅れたような気がするけどな」
たまたま玄関ロビーの階段を降りてくるところだったイコライが、カイトを目にして言う。
「で、仕留めたのか。ノル・サメルサのハンターさんよ」
「おうとも。今夜は鹿肉料理だぜ!」
「じゃあ一刻も早くキッチンに運び込んだ方がいいな。料理人のパトモレーおばさんがさっき来た。そろそろ夕食の支度を始めるころだ」
「おお、そいつは急がなきゃな」
「急なメニュー変更のこと、ちゃんと謝っとけよ。料理のことになるとうるさいおばさんなんだ」
「わかった。そうしよう」
「カイト様」とスティーブン。「お車を駐車場に回しますので、キーをお願いいたします」
「ああ、うん、ちょっと待ってくれ」
カイトはその場にクーラーボックスを置くと、車にとって返して、すぐ戻ってきた。その肩には、紐でぶら下げたライフルがあった……木製のボディに覆われた、細長い黒金の銃身。古き良きボルトアクションライフルだ。
「こいつはハンターの魂だからな。人任せにはするな。使ったらすぐに手入れをしろ……親父の言いつけなんだ」
それを聞くと、スティーブンは微笑みながら、恭しく頭を下げた。
「ノル・サメルサの猟師の高名は、ここサン・ヘルマンまで届いております。感服いたします」
「おっ! 嬉しいこと言ってくれるねえ! 聞いたかイコライ。スティーブンには教養がある。お前も見習え」
「知るか」
「じゃ、車を頼むよ、スティーブン。あー……イコライ。すまんがライフルで肩が塞がっちまった。お前は肉を運んでくれないか?」
「なんだそりゃ……まあいいけど」
軽口をたたき合いながら、二人は連れだってキッチンへと向かう。
一方その頃。
「ま、待って! ちょっと待って! ダメだよ、勝手に屋敷の中を歩いちゃ!」
ララはそう言って廊下を小走りに駆けながら、スタスタと先を歩いて行く黒猫を追いかけていた。ララが部屋を出ようとしてドアを開けた隙に、猫が足元をすり抜けて、廊下に出てしまったのだ。
時々、ララは黒猫の前に回って通せんぼをしようとするのだが、猫はララの足を避けて通ったり、足の間を抜けたりして、ズンズンと屋敷の奥へと進んでいく。
(さーて……ケン・ウェーバーはどこかな?)
その黒猫……アポロがそんなことを考えていると、ふと、廊下の曲がり角から、イコライとカイトが現れた。
「あ! イコライさん、カイトさん!」ララが叫ぶ。「その猫、捕まえてください!」
それを聞くなり、アポロは飛び跳ねるように走り始める。勢いに任せて、イコライたちの横を抜けるつもりだ。
「あらよっと」
ところが、カイトがひょいっと横向きに伸ばした足に、アポロは行く手を阻まれてしまい、鼻先がカイトの足に激突。それから体勢を立て直す暇もなく、カイトが素早く伸ばした手によって、アポロは尻尾を掴まれ、持ち上げられてしまった。
「キシャアアアア! シャアアアアアアアアアアア!」
「おうおう、元気の良い猫だな」
尻尾を掴まれ逆さづりにされたアポロは、牙を剥いて威嚇の声を上げ、爪を振り回すが、この体勢ではもちろん届かない。カイトは余裕の表情だ。
「……ずいぶん慣れているな」
そう言うイコライ(かなり不快そうな顔をしている)に対して、カイトは笑って言った。
「実家の農場じゃ、ネズミ獲りのために猫を飼ってたんだ。よくそいつとメシを巡って攻防戦をしたもんだよ。猫はこうやって捕まえるのが一番良いんだ。こうすりゃ、爪も牙も届かないからな」
だが、そんなカイトは、険しい表情を浮かべてツカツカとこちらに近づいてくる、一人の怒れる少女に気づかなかった。
「やめなさい! この野蛮人!」
ララ・クラフトはそう言って、カイトの横っ面を思い切りビンタした。痛快な破裂音が屋敷に響き渡る。それからすぐに、ララは宙づりになったアポロを助け出して、胸の中に抱えた。
「猫になんてことするんですか! 最低ですよ!」
「……そういえば、母さんにはいつもそんなようなことを言われていたな」
カイトが一転してションボリした表情になって言うのを見て、イコライは呆れた。
「そりゃ、そうだろう……」
「でも父さんは『男子たるもの、時には厳しいやり方で家畜を管理せにゃならん。家畜になめられてはいかん』って言ってくれたぞ。俺の地元の男はみんなそうさ」
「……この間もちょっと思ったけど、お前の地元って、ちょっとおかしいんじゃないのか?」
「何言ってるんだよ、イコライ。それぞれの地域の文化をもっと尊重しなきゃダメだぞ。多様性だよ多様性」
「猫をいじめてもいい多様性なんかありません!」
猫をなだめていたララがまた怒る。アポロもそれに合わせて「シャアアアアア!」とカイトを威嚇してくる。
「……まあ、それはそうと」とイコライ。「ずいぶん元気になったみたいだな、ララ」
「え、あ、はい……おかげさまで」
「その調子で頼むよ。ララみたいな善人が元気でいてくれなくちゃ、カイトみたいな悪党が、世界中で猫をいじめるようになるからね」
「なるほど。確かにそうですね」
「あの……人を悪者にして励ましたり励まされたりするの、やめてくれる?」
「ちょっと、イコライさん」と、そこへソラが駆けつけた。「何の騒ぎですか? ララさんの大声が聞こえたんですけど」
「ああ、いや、大したことじゃない。ただ、その猫が……そういえばララ、その猫はどうしたの?」
「この子ですか? 私の部屋の窓から入ってきちゃって……すみません、すぐに出て行かせます」
「いいよ。無理に追い出さなくても……そういうわけで、ソラ。その猫を捕まえるときに、カイトが無茶なことをしたもんだから、ララが怒ったんだ」
「ああ、なるほど、そういうことで……ん?」
ソラが、アポロと目を合わせた瞬間、怪訝な表情で固まった。
黒猫はクリッとした愛らしい目でソラを見つめているが、ソラの顔色からは、みるみるうちに血の気が引いていって、ついには顔面蒼白になる。
「どうした、ソラ?」
異変に気づいてイコライが言うと、ソラは浅い息で言った。
「イコライさん……それ、猫じゃありません」
「は?」
その場にいる全員が不思議そうな顔を浮かべる中、ソラは言った。
「電波出してます」
ソラがそう言った瞬間、アポロの表情が一変する。抜け目ない鋭い眼光を放つ、野生の獣のようになった黒猫は、ララの胸から飛び出すと、逃げるように廊下を駆けた。
「警察です!」ソラが叫んだ。「きっと警察のロボットですよ!」
「そんなバカな!」とイコライ。「サン・ヘルマン警察が、そんな物を持ってるはずがない!」
立ちの悪いイタズラか何かじゃないか、と言いかけたイコライを、カイトが遮る。
「いや、連邦の情報機関かもしれない」
言ったカイトは、すでに甲高い装填音を響かせて、ライフルに弾を込め終わっていた。
「逃がすか!」
カイトは、呆然と立ち尽くすララを押しのけて、ライフルを水平に構える。
狙いを定めて……引き金を引く。
ララが拳銃を撃った時とは比較にならない、大音量の銃声。
木製のボディの上に乗った、黒い銃身の先からほとばしる、赤いマズルフラッシュ。それに続いて、噴き出す白い硝煙。
黒猫の周りで、何かが弾けた……ように見えた。実際には、破裂したのは黒猫それ自身だった。銃弾を受けたアポロは、もんどりを打って廊下に倒れ込む。
猫は、もう走らない。ただ、身体の一部を廊下にぶちまけて、横たわって、まだ動く足を、モゾモゾと動かしてのたうっているだけだった。
「は、走ってる猫を、一発で……」
イコライが驚いて言う。
「カイト、お前、本当に凄腕だったんだな」
カイトは、いまはそれどころじゃない、とでも言うかのように何も答えず、ライフルを斜めに構えたまま、歩いて猫の残骸へと近づいていった。
「ソラちゃん」
歩きながら、カイトは言った。
「まだ、電波は出てるか?」
「は、はい。出ています」
「じゃあ、完全に破壊しなくちゃな」
カイトはライフルを左手で持ちながら、右手で大ぶりのサバイバルナイフを取り出した。シカの解体に使ったものだろう……血は拭き取られていたが、まだ表面に肉の脂が残っていて、刃が輝いていた。
「っ! やめて!」
放心していたララは、そんなカイトを見てハッとして、走ってカイトを追い抜き、前に出て立ちはだかった。
「そんなひどいことしないで!」
「どいてくれ!」
カイトは、ライフルを持った左手でララを強引に押しのけ、前に出る。そして、床を這いつくばるアポロの前に立って、見下ろした。
ライフル弾の威力は、拳銃弾の比ではない。弾はアポロの胴体やや後ろあたりに着弾し、その衝撃がもたらした結果は、身体の中で小さな爆弾が破裂したのと大差なかった。
アポロの身体は、まるで怪力によって引きちぎられたかのようになっていた。わずかな部分によって、辛うじて上半身と下半身がつながっているだけだった……まだ動けたのは、彼がロボットだったからだ。周囲には鉄くずやオイルが散乱し、引き裂かれた胴体からは、電子部品がのぞいている。
「お願いだ……」
アポロは、ふてぶてしい普段の彼からは想像もつかない、弱々しい声を出して懇願した。
「殺さないでくれ」
黒猫は、許しを請うような目になって、地面に腹ばいになった姿勢から、自分の何倍も大きいカイトを見上げる。
「ハン。お前、一丁前に喋れるのか」
だが、カイトはそんなアポロを鼻で笑う。
「ロボットのくせに命乞いか。こいつは傑作だな。バックアップを復元すれば、何度でも生き返れるくせに」
「お、俺は本当に死ぬんだ。機密保持のために、バックアップは取ってないし、機能停止したら記憶が消去されるようにプログラムされている……お願いだ。殺さないでくれ……死にたくない……」
「フン。そんな風に作った設計者を恨めよ」
「くそう……」
殺されると悟ったのか、アポロは命乞いをやめて、代わりに、敵意に満ちた目でカイトのことを睨んだ。
「くそう……お前みたいなやつの、どこが人間なんだ! お前の方こそロボットみたいじゃないか。血も涙もない冷血漢め! 本当に赤い血が流れてるのか、クズが!」
「……ふざけた野郎だ。いま黙らせてやる」
そう言ってカイトは、猫に向かってナイフを向けながらかがみ込もうとする。
「やめて!」
だが、そんなカイトのことを、ララは後ろから羽交い締めにして止めた。
「お願い! その子を殺さないであげて! お願いだから……」
ララは泣いていた。
「殺さなければ……まだやり直せるから……でも……殺しちゃったら、もうやり直せないから。謝ることも、仲直りすることもできないから……だから、お願いです、やめてください、カイトさん!」
「あのなあ、ララ!」カイトは声を荒げる。「俺は、猫型ロボットを助けたせいで刑務所行きだなんて、絶対にゴメンだ!」
「カイト、落ち着け」
ララに続いてイコライも、ケンの肩に手を置いてなだめる。
「お前、興奮し過ぎだ。もう少し状況を確認してからでも遅くない……とりあえず、猫から離れろ」
イコライがそう言うと、カイトは舌打ちしながら、しぶしぶ立ち上がって、後ろに下がり、猫から離れた。
カイトが少し落ち着いたのを確認して、イコライはララを廊下の少し離れたところ、会話が聞かれる心配のないところまで移動させ、こう尋ねた。
「ララ……『あの部屋』は見られたのか?」
ケンの名前を出さずにそう聞いたイコライに、ララはピンと来て、それに合わせた。
「いいえ。『あの部屋』は見られてません。ずっと一緒だったので、間違いありません」
「わかった……カイト。『あの部屋』は見られていないそうだ」
イコライはカイトに向き直って言う。
「それに、もし見られていたとして、その猫が電波を出してるんだったら、もう通報されているだろう。もしそうならとっくに手遅れなんだから、猫を殺すことに意味なんかない……俺も助けてやるべきだと思う」
「お前ら、バカじゃないのか」カイトは言う。「この残骸を見ろよ。この猫はロボットなんだ。ロボットに命なんかない。記憶が消去されるとか、そんなの関係ない。ロボットに命なんか、最初から存在しないんだ。それを助けろって、お前ら、正気か?」
「カイト……」
イコライは、真剣な、しかしどこか悲しげな表情で、こう言った。
「ソラもロボットだ」
「っ!」
言われたカイトはハッとなって、その場でずっと黙っていた、ソラの顔を見た。カイトは気づいていなかった。ソラがいつの間にか、目に涙を一杯に貯めて、立ち尽くしていたなんて。
「カイトさん……」
ソラは、声を震わせながら言っていた。
「私からもお願いします……殺さないであげてください」
「な……」
カイトは、後ずさって、イコライを、次いでララを、最後に足元に横たわる黒猫を見た。三人と一匹は、カイトのことをじっと見つめていた。
「くそっ……」
カイトは悪態を吐いた後、少しの間をあけて、こう言った。
「……おい黒猫。お前、アンテナはどこだ」
「み、耳だ」アポロは言った。「耳がアンテナになってる」
それを聞いたカイトは、ひざまずいて、アポロの右耳にナイフの刃をあてがったかと思うと、手早く切り落とした。すぐに、左耳も同じようにした。
「……ソラちゃん」
「はい。もう電波は出てないです」
「……」
カイトは、ナイフを仕舞い、ライフルを改めて肩にかけて立ち上がると、少し歩いて、他の三人と一匹に背を向けた。
「後はお前たちがどうにかしろ……俺は知らん」
そう言って、カイトは歩き去ろうとする。
「カイト!」
そんな旧友の背中を、イコライは呼び止めて、こう言った。
「ありがとう」
「……礼を言われて、こんなに嬉しくないのは初めてだ」
そう言い捨てて、カイトは遠ざかっていった。




