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墜ちないイカロス  作者: 関宮亜門
第2章 トライアル
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20 マリア・タラノヴァの戦争Ⅰ -召集-

 ……だがその頃、フランシスに対して、イコライとは全く正反対の評価を下している女性がいた。


 彼女の名前は、マリア・タラノヴァ。


 耳の下あたりで切り揃えた真っ直ぐな黒髪が美しく、フレームの細い眼鏡がちょっと可愛らしくもある、三〇歳ほどの細身の女性。SHILF軍の大尉で、数日前にフランシスの副官に任命されたばかりだった。


 フランシスが演説している間、黒い軍服を着たマリアは、舞台袖でじっと演説に聴き入っていた。

 そして、こう思った。


(そんなこと、言われてもねえ……私には、関係ないっつーの)




 彼女がそう思うに至った経緯を語るには、少し時間を遡らなければならない。


 マリア・タラノヴァは、ほんの一週間前まで、中堅規模の民間企業に雇われて、バックオフィス部門の仕事をしていた。


 マリアの主な仕事は「ローコードによる社内アプリの開発とその管理」……つまり、現場部門の課題を解決する簡易的なアプリを手作りしたり、そのアプリの中で際立った成功を収めたものがあれば、外部の開発会社に発注して正式な社内システムの一部として全社展開したりと、そういった仕事をしていた。


 最初はただの事務員として働き始めたマリアが、いまやそういった仕事を任されていると聞くと、人はマリアのことを「優秀で、やる気に満ちあふれたビジネスパーソン」なのだと思うかもしれない。


 だが、それは間違いである。


 まあ、確かにマリアは優秀な女性ではあったかもしれない。

 しかし、彼女にはやる気というものがなかった。

 全くなかった。

 およそ勤労意欲などというものからはほど遠い人物だった。


 単なる事務員だったマリアが、自分から進んで勉強してまで社内アプリを作るようになったのは、


「仕事を効率化して定時に帰りたかった」


 という理由からである。彼女が配属された当初は、仕事が紙ベースだったせいで非常に効率が悪く、毎日のように深夜まで残業しなければならなかったのだ。


 そうして手作りしたアプリが、あっという間に社内で大評判になり、あれよあれよという間に「社内アプリで作業を効率化したいなら、マリアさんに頼めばいいよ!」などと言われるまでになるとは、完全に計算外だった。おかげですっかり忙しくなってしまった。


 給料が増えたのは結構なことだったが、それよりも休みが欲しかった。


 そのため「万が一、自分が会社からいなくなった時のために、人材を育成しておく必要がある」という大義名分の下で、後輩を教育して負担を分散させようとはしているのだが、これが思うように進んでいない。


 後輩たちはマリアが何か教えようとするたびに「こんな難しいこと、自分にはできません」と言って固い表情になり、マリアの方では首をかしげるばかりだった。


 マリアにとっては、ローコード開発などさして難しいとは思えなかったのだが(そもそもローコード開発という言葉自体が、本職のプログラマではなくても簡単にアプリが作れるという意味なのだ)。


 そんなこともあって「マリアさんはすごい」と社内で言われているのは確かなのだが、本音では、彼女はいつも


(働きたくねえなあ……)


 と思っている。

 そして、


(働かずにずっと家にいて、一日中、可愛い息子とイチャイチャして過ごしたい)


 と思っている。

 ちなみに、息子さんの名前はアンドリューという。年齢は五歳。愛称は「アンディ」である。


(ああ……アンディに、あーんで食べさせてあげたい)

(アンディの柔らかいほっぺを、指でツンツンしたい)

(アンディのサラサラした髪の毛をなでなでして、スーハーしたい)

(ああ、アンディ……)

(私の可愛いアンディ……)


 などということを考えつつ、マリアは、私物のクッションを乗せたオフィスチェアに腰掛け、しかめっ面で高速タイピングをしながら、ある時は「マリアさんのおかげで定時に帰れるようになりました!」というお礼のメッセージを受け取ってほっこりしたり、またある時は、勝手に社内アプリのコードをいじってシステムをクラッシュさせた担当者をメールやチャットの文面に仕込んだ言葉の暴力でしばき倒す、などといった日々を送っていた。


 アンディと一緒に過ごせる週末だけを、人生の楽しみにしながら。


 なお、普通だったら、日頃から子供には手を焼かされているので愛憎相半ばするところを、なまじマリアは両親に養育を任せきっているせいで、子供のことを少々理想化し過ぎているきらいがある。



 そんなある時、ついに「自分が会社からいなくなる時」がやってきた。


 会社をクビになる可能性なら、何度かマリアは考えたことがあった。その時は「失業保険の期限ギリギリまで、アンディとイチャイチャして暮らしてやろう」と決めていた。


 だが、今回、それはできなかった。



「しょうしゅう……れいじょう……!?!?!?」

 召集令状、だった。


 それを配達しに来た若い男性郵便局員は、マリアの実家の玄関先で、敬礼などして見せたりしながら、しゃちほこばってこう言った。


「マリア・タラノヴァ予備役大尉殿! このたびの戦時召集により、貴官は軍に招集されました! つきましては、指定された日時と場所を確認の上、軍に出頭するようにとの命令です!」


 マリアは、何度も何度も繰り返し見直して、書類に書かれているのが自分の名前で間違いないことを確認した。


(……なんだこの字……震えてる……ああ……手が震えてるのか……)


 そこから、さらに遡ること、十年あまり。

 一八歳の時、マリアは大学に進学した。


 SHILFでは大学教育は無料である……という宣伝が盛んにされているが、実はこれは正しくない。

 実際に国から学費の支給を受けるには、次の二つのうち、どちらかを選ぶ必要がある。


 一つは、大学で学ぶ専攻の選択権と、卒業後十年間の職業選択権を放棄すること(この場合、国が行う適性検査の結果を元にして、進学先や就職先が決められることになる)。


 そしてもう一つは、卒業後すぐに軍に入隊して、三年間従軍することだった。


 選択を迫られた時、マリアは、親に学費を負担させるのは申し訳ないし、職業は自分で選びたいと思い、軍に入る道を選んだ。


 マリアは国が求めた通り、大学の商学部を卒業後、補給部隊の士官として軍に勤務した。後方勤務だったこともあって、大きな実戦を経験することはなく、約束の三年きっかりで無事に除隊することができた。


 ……だが、軍隊には「予備役」という独特の制度がある。


 平和が続いている時代において、常に多数の兵士を雇い続けるのは、不経済というものだ。

 一方、戦時には兵士の数は多ければ多いほどいいが、そのあたりにいる素人を招集してきて一から教育するというのでは、手間も時間もかかる。


 そこで、軍隊で経験を積んだ後に除隊した人物を「予備役」として登録しておき、戦争が起こった際にはこの「予備役軍人」を、軍隊経験のない一般人よりも優先して招集する。


 簡単に言えばこれが「予備役」という制度であり、マリアはこの制度によって招集されようとしていた。


 もちろん、マリアは予備役の制度はよく知っていた。今回の戦争で予備役が招集されることだって、ニュースで見て知っていた。


 だが、ニュースでは招集される予備役の規模は数百人と言っていたので、何百万人もいる予備役の中から自分が選ばれる確率は低いと安心していたのだ。そこへの不意打ちだったので、マリアの精神的ショックは大きかった。


 だが、落ち込んでばかりもいられなかった。

 召集に応じなければ、脱走罪で刑務所行きだ。選択の余地はない。


 それに……もう前みたいに、何日も何ヶ月も、泣き続けて暮らすわけにはいかなかった。

 昔と違って……自分はもう、母親なのだから。


 急いで仕事の引継ぎを済ませて、クローゼットの奥に仕舞いこんであった軍服を引っ張り出した。

 両親と息子と自分の四人で、夜の食卓を囲んだ。


「大丈夫だよ」


 年老いた両親に、何か辛気くさいことを言われてはたまらないと思い、マリアは先に言った。


「予備役が配属されるのは後方だから。危険なことは何もない。大丈夫。無事に帰ってこられるよ」


 両親は曖昧にうなずいたが、その顔には心配の色がありありと浮かんでいて、マリアは暗い気持ちになる。


 そんな中で、何も知らず無邪気に「今日はママが早く帰ってきた」と言って喜んでいる、幼いアンディの存在が、とても有り難かった。



 翌日。マリアは朝早く軍服を着込んで、家を出た。

 いわゆる「出征」だった。


 ただ、家を出る前に、マリアは子供部屋に立ち寄った。

 可愛いアンディの寝顔だけ見て、起こさずにそのまま出て行くつもりだった。


 だが、思ったより足音が大きくなって、アンディを起こしてしまう。


「ごめんね。まだ寝てていいよ」


 そう言いながらも、マリアは気がつくと、ベッドから身体を起こそうとするアンディを抱きしめていた。


「ママ……なあに、この服? かたい……」

「ああ、ごめんなさい」


 マリアが身体を離すと、アンディはマリアの軍服を見て目を見張った。


「ママ……見たことない服きてる」

「そうだね……ごめんね、変な服着てて」

「えー、変じゃないよ」

「え?」

「ママ、かっこいいよ」


 かっこいい? 「かっこいい」だって?


 確かに、マリアが着ているのは士官用の礼装だったから、それなりに見栄え良く作られている。


 けれど、軍隊のせいで自分はこんな目に遭っている、という思いがマリアには強かった。学費をエサにちらつかせて、まだ若くて世間知らずだった自分を騙した狡猾なやつらめ、地獄に落ちろ、ぐらいに思っている。


 だから、軍服のことも好きじゃない。

 なのに、アンディはその軍服を「かっこいい」と言う。


「アンディ……この服はね、アンディが思うような、良い服じゃないんだよ」


 戸惑ったように言う母親に対して、しかしアンディは、嬉しそうな笑顔を浮かべながら、はっきりとこう言うのだった。


「えー。でも、かっこいいよー」


 それを聞いて、子供の成長は早いなあ、とマリアは痛感した。ついこの間までまともに喋ることもできなかった赤ん坊が、いまは自分の意見をはっきり言えるようにまでなった……たとえ、母親と違う意見であっても。


 そんな風に、母親の軍服姿にすっかり興奮したアンディは、寝ていていいんだよ、というマリアの言うことを聞かずに起きてきて、玄関まで見送りに来てしまった。


「じゃあ……行ってくるね」


 そう言って、マリアが小さく手を振ると、左手を祖母に握られたアンディは、笑いながら、空いている小さな右手を、めいっぱい大きく振って返した。


 そうして、マリアは振り返らずに歩き出した。


 絶対に生きて帰ってくる……その決意を胸に秘めて。




 マリアが基地に出頭すると、すぐに人事担当者との面談になった。


「マリア・タラノヴァ大尉」


 長面の男性少佐は、会議室の机を挟んでマリアと向かい合いながら、手元の書類に目を落としていた。


「これは、現役時代のあなたの上官が書いた人事評価報告書なのですが……素晴らしいですね。大絶賛されていますよ」


「はあ。恐縮です」


「学費のために三年だけ従軍する人は大勢いますが、そのほとんどが中尉止まりだ。たった三年で大尉まで昇進したあなたは、かなり例外的です。当時はさぞ、軍務に励まれたのでしょうね」


「ええ……当時の上官には、とても良くしてもらいました」


「ふむ。何か含むところのある言い方ですね」

「自分では、あまり大した仕事をしていたとは思わないのです」


 すると、人事担当者はニッコリと笑った。


「私の経験から言わせてもらうと、それは仕事のできる人のセリフですよ……さて。除隊した後の経歴を、先ほど記入してもらったわけですが……ふむ。まずは秘書業務に就かれたと」


「ええ。ほんの一年と少しでしたが」

「秘書の仕事はどうでしたか」

「まあ……テキパキと物事を処理するのは楽しかったです」

「秘書という仕事に苦痛は感じなかった、と」

「ええ、まあ」


 この頃になって、マリアは段々と警戒し始めた。マリアが知ってる軍隊は、もっとこう、良く言えば即断即決、悪く言えば乱暴な組織だ。たかだか予備役大尉の人事なんて「お前はあそこに行け。以上」で終わるのが普通である。


 それが、こうも丁寧に面談をやるというのは……何か裏がある、とマリアは勘づいた。


「その後は……社内アプリの開発と管理……IT関係に精通しておられる?」

「精通というほどではないです。あくまで事務処理レベルで」

「十分ですよ。文書作成などもしていましたか」

「通達、報告書、稟議書……そういうのは時々作っていました。古い体質の会社だったもので」

「いえ、その方が好都合です。軍隊も古い体質の組織ですので」

「そ、そうですか……」


 この時、マリアは「下手に良い印象を与えると危険だ」と判断した。あまり優秀だと思われると、精鋭部隊に配属される恐れがある……つまり、最も危険な最前線に行くハメになるかもしれない。


 そこで、あえてマリアは自分のイメージを落としに行くことにした。


「……あ、でも私、プレゼンテーションはほとんどやったことがないんですよ。優秀な人って、みんなプレゼンが好きで上手ですけど、実を言えば私、ああいうのはあんまり好きじゃないんですよ~」


「ほう!」ところが、人事担当者の反応は予想外の好感触だった。「それは素晴らしい!」


「……は?」思わず、マリアは聞き返してしまう。「プレゼンの経験がないことが、どうして素晴らしいんですか?」


「いやあ、軍隊にはプレゼンテーションが嫌いな人が多いんですよ」あっけらかんと彼は言った。「特に偉くなる人ほど、そういう傾向が強いですね。プレゼンなんて自己表現だけが取り柄の軽薄なやつらがやることだ、実際の戦闘には役に立たん、なんて言ってね」


「へ、へえ~、そうなんですか~……」

「ふーむ……」


 マリアが冷や汗をかいているのをよそに、人事担当者は口癖の「ふむ」を挟みながら、手元のファイルをパタンと閉じたかと思うと、身を乗り出して話し始めた。


「いえ、実はですね……さる将官の副官を、急いで補充しなくてはならないのですよ。これまでの話を聞く限り、私はあなたがぴったりだと思うのですが、どうでしょうか」


「え……副官? 私が、ですか」


「はい。副官にどのような業務を任せるかについては、将官によって様々なスタイルがありますが、その将官の場合は用兵に関することは副官ではなく参謀に任せると決めているので、副官は作戦関係にタッチする必要はありません」


「必要なのは秘書業務と事務処理業務で、あなたなら十分な能力があると思います。おまけに、実はその将官もプレゼンテーション嫌いで有名でして、気が合うと思うのですよ。どうでしょうか」


 瞬間、マリアの脳内で「将官の副官 = 司令部勤務 = 絶対安全」の図式が浮かんだ。


 それに、召集された予備役の仕事なんて、どうせ倉庫での荷物運びとか検品作業とかだろう。それと比べれば、エアコンの効いた室内での事務作業の方が、ずっと楽なはずだった。


「やります!」

 マリアは即答していた。

「ぜひ、やらせてください!」


 すると、人事担当者はこの日一番の笑顔を見せた。


「決まりですね。いやあ、良かった。私も肩の荷が下りましたよ。早急に一人補充してくれとの命令だったのでね」


 立ち上がって、握手を交わす二人。

 この時までは、二人とも本物の笑顔だった。

 ……だが、すぐにマリアの笑顔は凍りつくことになる。


「では……あなたには、フランシス提督の副官をやってもらいます」

「え……?」マリアは聞き返した。「提督の副官というと……艦隊勤務、ですか?」


 将官の副官というからには、てっきり地上勤務だと思っていた。なぜなら、軍全体から見た割合で言えば、将官は地上勤務の方がずっと多いからだ。


 地上勤務と比べれば、艦隊勤務の方が、遙かに危険である。

 それを思うと、マリアは背筋に寒気を感じた。


「良かったじゃないですか」

 ところが、人事担当者は朗らかに言うのだった。

「艦隊勤務なら、手当がつきますよ……作戦が無事に終わって復員したら、ちょっと贅沢な旅行にでも行くといい」


 旅行?

 そんなの、子供が産まれてから、もう何年も行ってない……。


(ああ……書類には「独身」って書いてあるから、私には子供がいないだろうって、この人は思ったんだろうなあ……)


 これが普通の親子だったら、むしろ子供が産まれたからこそ、旅行に連れて行ったりするものなのだろう。


 でも、自分の場合は……いろいろ大変だったから……。


 マリアはそう思い、心の中でがっくりと肩を落とした。


 ……しかし、この時はまだ、余裕がある方だった。


(まあでも……別に、戦闘機パイロットになるわけじゃないんだし。軍艦は重要目標として厳重に守られているから、何にせよ、命の危険はないよね)


 と思ったからだ。


 ところが、である。

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