7 心のありか
ブラド家の邸宅の周囲には、一面のヒマワリ畑が広がっている。
青い空の下、朝の清々しい風を受けて揺らめく、黄色い大輪の数々。
道が少し高く造られているので、人間の背丈でも周囲を見渡すことができる。ちょっと視線を上げると、まるで黄色い絨毯の上を歩いているような気分になれた。
「俺にとっては、見飽きた風景なんだけど」
ソラと共に道を歩きながら、イコライは言った。
「外から来た人は、みんな驚くね。おかげで、この島は観光業も盛んなんだ。いやまあ、俺の爺さんが盛んにしたんだけど……ソラは、どう思う?」
「とっても綺麗だと思います」
ソラは当然、こんな見事なヒマワリ畑は見たことがない。
「この風景の良さがわからないなんて、イコライさんが可哀想なぐらいです」
冗談めかしてそう言うと、イコライも気分良さそうに笑った。
「そりゃあいい……ソラが俺より優れてるところが、また一つ増えたね」
「え? 『また』ってなんですか?」
「ん?」
ソラが目を丸くして聞くと、イコライはクスクス笑って言った。
「だってほら、ソラは家事ができるし、心根は優しいし、美人だし、ポーカーだって強いし、花の美しさだってわかる……むしろ、俺が勝ってるところなんて、戦闘機の操縦ぐらいしかないだろ?」
「……もう!」それを聞くと、ソラはちょっと怒った。「どうして人が良い気分でいるところに、そういうネガティブなことを言うんですか」
「ああ……ごめんよ」
イコライは軽く笑いながら謝ったが、ソラは続けた。
「……それに、イコライさんは戦争が強いだけの人じゃないですよ。とっても優しい人です。他のみんなが知らなくても、私だけはちゃんと知っています」
「ありがと……でもなあ、」
イコライはソラから視線を外して、少し上の方を見ながら歩いた。青空に浮かぶ白い霧……旧世界人が雲と呼んでいたもの……が、大きな船のような形をして、いくつか浮かんでいる。
「本当に優しい人は、戦争なんかしないよ。したくてもできないはずだ。たとえばオリバーは、そういう人間だったと思う……なんだかんだ言って、俺がちゃんと戦争をできてるのはね、元々がそういう人間だったからなんだよ」
「前にも言ったけど、俺は、この島を出て戦闘機の学校に入る時、自分の人生を切り拓くために人を殺すってことをなんとも思っていなかった。いまだって、戦っている最中には、罪悪感とか、そういう感情はなくなってしまう……結局俺は、根っこのところでは、今でもそういう人間なんだよ」
ソラは、今度は黙ってイコライの話を聞いていた。イコライが、話すことで心を整理したがっているのを感じた。
「……でもね、ソラは俺や、そのへんにいる人間なんかより、ずっと良い人間だよ。俺はそれが言いたかった。そのことが、ほんのこの二日の間にスティーブンにも伝わったから、だからさっき、ああ言ってくれたんだと思う」
「でも、イコライさん。お母様は……」
ソラがそう言って、気落ちした顔で肩をすぼめると、イコライは立ち止まって、ソラの小さい肩を強く抱いた。
イコライの母、コーネリア・ブラドは、平民の身分でブラド家に嫁いだ初めての女性だ。
「コーネリアはね、一度は夢を諦めた人だった」
とは、夫の(つまり、イコライの父の)マリウス・ブラドの言葉だ。
「でもね、僕はずっと信じていたよ……コーネリアなら、きっと立ち直ってくれるって。そして、彼女がもう一度前に進めるよう、そばにいて支えてあげるのが、僕の役目なんだと思っていた」
ただし、これはあまりにもマリウスに都合が良すぎる話らしく、この話になると、コーネリアは決まって夫に反論する。
「あんな涙目で結婚してくれと頼みに来た人が、何を言うんですか」と。
とはいえ、マリウスと結婚した当時のコーネリアが、自分の人生の成功に関して、自信を失いつつあったことは確かだった。
コーネリアは結婚する時、おとぎ話に出てくるような、一点の曇りもない晴れやかな幸福を感じていたわけではなかった。
コーネリアが結婚に求めたのは、乾ききった荒野を一人で歩まなければならない辛く厳しい人生から抜け出して、平穏と安らぎの下で新しい人生を送ることだった。
ただ、そんなコーネリアがマリウスの信じた通りに立ち直るのは、思ったよりも早かった。
イコライの二人いる兄のうちの一人を出産した時、コーネリアは「自分は、人生にもっと多くのものを求めてもいいのではないか」と感じ始めたのである。
そしてコーネリアは、ふと周りを見渡して、自分にも何かできることがないかどうか探し始めた。
最初に手を着けたのは、屋敷の管理に関することだった。マリウスの仕事が忙しくなり、屋敷を留守にしがちになると、コーネリアが使用人に対して采配を振るい、屋敷を管理するようになった。
最初のうちは、客人をもてなす時に使用人たちに指示を出すぐらいだったが、やがてコーネリアは屋敷の人員削減に着手した。
当時は、経済成長に伴って人件費が高騰していたにも関わらず、使用人の数は昔と変わらず多いままだった。世間では、使用人の人件費に家計を圧迫されて没落する富裕層がちらほら出て来ていて、ブラド家でも人員の削減が喫緊の課題となっていた。
そこでコーネリアは時間をかけて一人一人丁寧に再就職先を世話してやり、転職に尻込みしていた使用人のことも誠意を込めて説得して、最終的に穏便な形で人件費の大幅削減を成し遂げた。
自信をつけたコーネリアは、今度は慈善事業の運営に乗り出した。最初は地元の慈善団体に資金を出したり、会合に出席したりして信頼を築くところから始め、すぐに実際の作業を手伝うようになり、やがて自ら新しい団体を設立してそのトップとなり、辣腕を振るい始める。
コーネリアに言わせると、慈善事業をやりたいと手を挙げてくれる人たちは、素晴らしい善意の心を持っているが、一方でそれ以外の部分……実務能力とか……はいま一つという傾向があるのだそうだ。
そのため「業務を効率化させれば、より少ないお金でより多くの人を助けられる」などという当たり前のことを、コーネリアは事あるごとに職員たちに言い聞かせ、場合によっては、自ら率先して手本を示さなければならない。
「でも、だからこそやりがいがあるの」とコーネリアは言う。「こうしていると、ああ、私の仕事があるんだ、って感じる」
島に来た最初の日。ソラはそのコーネリアに引き合わされた。
夕食の席。広い食堂の大きなダイニングテーブルは、両端に座ると声を張らなければ会話ができないので、一同はテーブルの真ん中当たりに向かい合って座った。一方にコーネリアが、もう一方にイコライとソラがいた。
本来なら夫のマリウスも同席するはずだったのだが、イコライたちの到着が予定より遅れたたため、マリウスは仕事で島外に出ていた。そのためこの時、コーネリアだけでソラに応対することになっていた。
「イコライ」
事情を聞いたコーネリアは、固い面持ちで、まずは息子の意志を確かめた。
「自分にもしものことがあった時は、この子の面倒を見てくれと、あなたは言うけれど……私はそれを、どう受け止めればいいの? つまり……あなたが言いたいのは、この子と死ぬまで一緒にいる、ということ?」
「はい、母さん」イコライは、はっきりと答えた。「俺は、これからもずっと、ソラと一緒に生きていきます……俺は形式にはこだわらないけれど、母さんの世代にもわかりやすく言うなら、これは結婚の挨拶だと思ってもらっていい」
「……」
それに納得したような顔ではなかったが、コーネリアは質問の矛先をソラに変えた。
「それで……ソラさん。あなたは?」
「私も同じ気持ちです」
「……」
コーネリアは何か言いたそうだったが、何も言わなかった。
「おっしゃりたいことはわかります」
だがそれを見て、ソラがあえて身を乗り出す。
「私が『気持ち』という言葉を使うことに、違和感をお持ちでしたら、言い直します……私はイコライさんのお役に立てます。家事もしますし、イコライさんが疲れて帰ってきた時は、そばにいて、支えてあげることができます」
するとコーネリアは、一つため息をついてから、こう言った。
「……ソラさん、あなたがそんな風に率直に言ってくれるから、私も思ったことを言います。いまの言い方では、あなたには『気持ち』が、つまり心がないように聞こえます」
「ちょっと母さん、」
「イコライさん、いいんです……私に答えさせて」
そう言ってイコライを押しとどめてから、ソラは答えた。
「私に心があるかどうかは……周りの皆さんの、受け止め方次第だと思います」
「それは、ロボットに心がないと決めつける、周りがおかしいとおっしゃっているの?」
「いいえ、そうではありません……ある人に心があるかどうかは、その人の振る舞いを、周囲がどう受け止めるかによって決まると私は思います」
「ある人の胸の中に、本当に心があるかどうかを確かめることは、誰にもできません。あるのはただ、周りがどう思うか、だけです」
「私は、心とは、それ自身が独立して存在しているものではなく、周囲との関係性の中で、徐々に定まっていくものだと思います」
「哲学は、私には難しすぎるわ」
コーネリアはそう言って小さく笑ってから、
「深いお考えをお持ちなのはわかりました。でもそれが、そこにいる私の息子とどう結びつくんでしょう?」
「つまり……私がイコライさんに尽くして、その他の皆さんに対しても恥ずかしくない振る舞いをして……そうしていく中で、皆さんが、私に心があると思ってくれるとしたら……私には、心があると思います。ロボットかどうかは、関係ないと思います」
「……」
「俺は、」
黙ってソラを見つめる母に向かって、イコライは口を開く。
「俺は、ソラには心があると思う」
そう言ってイコライは、テーブルの下で、ソラの手を固く握りしめた。
「……」
コーネリアは、じっと唇を結んだまま、自分の言葉を待つ若い二人を見て、もう一度、大きく息をついた。
「……少なくとも、近頃のロボットさんは、私が知っているのと違う、ということはよくわかりました……いえ、ロボットさんだけじゃなく、人間もそうかもしれませんね」
ちらりとイコライの顔を見ながら、コーネリアは再び、ソラを真っ直ぐに見た。
「ソラさん。私は不在の主人に代わって、あなたがこの屋敷に滞在することを認めましょう」
「そ、それじゃあ!」
「ただし、」
喜びかけたソラに、コーネリアはしっかりと釘を刺した。
「少し、私にも考える時間をください……休暇は、まだ何日もありますね? その間に、私はあなたのことを考えます。休暇の終わりが近づいたら、改めて正式なお返事を差し上げましょう」
「そ、それは……」
それは、滞在中の振る舞いを見て返事を決める、ということでしょうか……とは、ソラは聞けなかった。聞くまでもないことだったからだ。
「……はい、わかりました」
「話は決まりましたね。それじゃあ、ご飯にしましょう。みんな、お腹が空いたでしょう?」
コーネリアはそう言って笑い、スティーブンを呼んだ。
イコライもソラも空腹だったが……素直に喜ぶ気には、なれなかった。




