11 花屋
日付が変わった頃、イコライは、狭苦しいシングルのベッドで、ソラと身体をぴったりくっつけて横になりながら、こんなことをつぶやいていた。
「……俺は今日、世界を少しだけ変えた」
「え?」
ソラは、イコライが冗談を言ったのだと思って、おかしそうに吹き出して笑った。
だが、イコライはこう続ける。
「いや、俺は本気でそう思うんだよ、ソラ」
言われたソラは、真面目な顔になって聞き返した。
「どういうことですか?」
「今日、俺はソラにポーカーを教えた。それで、世界は少しだけ良くなったんだ。俺は、本気でそう思う」
少しの沈黙を挟んで、イコライがまた口を開く。
「別に、ロボットが全ての面で人間らしくならなきゃいけない、とは思わないけど……でも、やることもなく、ただベッドの上で座って、時間が過ぎるのを待っているだけのソラのことを想像したら、俺は胸が痛んだから……だから、俺は今日、ポーカーでソラを楽しませることにして、それは上手くいった。それがつまり、世界を少しだけ良くした、ってことだ」
「でもね……やってみて、わかったんだよ。俺がそうするのは、それが正しいから、っていうだけじゃないんだ。今日、ソラと一緒にポーカーをしていて、俺はすごく楽しかった。これからもこうしていたいと思った」
「……つまり、俺はソラのことが好きなんだ。ロボットかどうかなんて、どうでもいいことだよ……だって、ソラの家事は完璧だし。料理はおいしいし、しかも美人で、可愛くて、俺のことが好きで、俺のために怒ってくれる。ミキをビンタしたところなんか、もう最高だ」
「だから、俺はソラのことが好きだよ……俺がソラと一緒にいるのは、それが正しいことだからじゃない。ソラのことが好きだからだ……ソラに言われて、改めて考えてみて、今日も一緒に遊んで……それがわかったよ。なあソラ、俺は君のことが好きだ……わかってくれるか?」
「……はい」
ソラは、涙を拭いながら言った。
「私も、あなたのことが好きです、イコライさん。ロボットだからじゃない。ご主人様だからじゃない。本当に、心の底からあなたのことが好き……そりゃあ、イコライさんって、戦闘機パイロットのくせに、しょっちゅう悩んでて、陰気で、くよくよしてるけど、」
「……そんな風に思ってたのか」
「で、でも! イコライさんがしょっちゅう悩んでるのは、イコライさんが優しい人だからだって、私はちゃんとわかってますから! ……だから、私もイコライさんのことが好きです」
「ありがと。それと、もう一つの話の方なんだけど……俺、仕事は辞めないよ」
「……どうして、ですか」
「それはまあ……長い話になるから、また明日にしよう」
「ええー?」
ソラが不満そうな声を上げても、イコライは平然と続けた。
「ベッドでするような話でもないし……それにほら。ベッドでは、他にもすることがあるだろ? 最近ご無沙汰だったしさ」
「……呆れた。まさか、そうやってごまかそうとしてるんじゃないですよね」
「違うよ。ただ、大事な話をするには、ムードってものがなきゃ」
「ムード? そういう話でしたっけ?」
「まあまあ。ソラだって、花は好きだろ?」
「え? ええ、まあ、好きですけど」
「じゃあ、明日は花がたくさん見えるところで話をしよう」
そう言って、イコライはソラに微笑みかけた。
「俺の実家は花屋なんだ」
……翌日の夕方。イコライが操縦する戦闘機は、ソラを後席に乗せて、サン・ヘルマン島の上空へと到達した。
「……ちょっと、イコライさん」
「ん? どうした?」
「これ、花屋ってレベルじゃないんですけど……」
「ああ……まあ確かに、ちょっと規模は大きいかな」
「いやちょっとじゃなくて……一体、なんなんですか、この島は?」
イコライの故郷の島を上空から見下ろしたソラは、何か言いたそうだった。
「だから、どうした?」
「どうしたもこうしたも、この島……島のほとんどが、花畑じゃないですか!」
ソラの言うとおり。サン・ヘルマン島は、その広大な面積の半分以上を、花畑で覆われていた。
赤、黄、紫、ピンク……色とりどりの花々が、上空から見てもわかるほど大量に、密集して咲き乱れて、島を埋め尽くしている。
美しいを通り越して、ちょっと異様に感じる光景だった。
「断っておくけど、全部うちの土地ってわけじゃないよ。でもまあ、フランチャイズだか契約農家だかで関係のある花畑がほとんどだから、うちの土地って言えないこともないかな……いやあ、こんなに開花時期が揃うのは珍しいね」
イコライは呑気そうな口調で言う。
「普通はもっとずれてるんだよ。ソラは運が良い」
「……あの、だからこれ、花屋ってレベルじゃないですよね?」
「いや? 花を売ってるから花屋だよ。ただ、シェアが世界一なだけで」
「だから花屋ってレベルじゃないですってば! 一体、どういうご実家なんですか……?」
「んー、俺の爺さんがね。没落した貴族の家を立て直すために事業をやることになったんだけど、元貴族なだけあって土地を持ってたもんだからさ。最初は食べ物を作ってたらしいんだけど、みんなと同じ物を作っててもダメだろってことになって、花を作ることにしたんだよ」
「花を綺麗に加工して長持ちさせる技術の開発にも成功して、これが大当たりしてさ。いまでは一時期ほどの圧倒的なシェアはないけど、それでも大公海で売り買いされてる花のほとんどは、うちが作ってるんだよ」
サン・ヘルマン島の周囲に広がる「大公海」は世界一大きい雲海で、惑星の表面積のおよそ三分の一を占める。そこでシェアが一位となると、世界有数の大企業だ。
そして、その御曹司ともなれば……命がけで戦闘機に乗る必要など、どこにもないはずだった。
「……だったら、なんで」
「なんで花屋を継がずに戦争をするか、って?」
前席のイコライが、振り返らずに言う。機体はなおも島の上空を旋回し続けている。ジェットエンジンの音が、なんだか遠くに聞こえた。
「んー、俺には兄貴が二人いてさ。二人とも俺より頭が良いから、花屋はどっちかが継ぐだろ、って思ったのもある……でも、本当のところはね。まあ、昔、色々あってさ。俺はどうも、普通の仕事はできそうもない、って思うようになったんだよ……」
「でも、戦闘機なら、なんだかできる気がしてさ。で、やってみたら、できたんだ。学校では優秀な成績だったし、実戦に出てからも、いまのところ生き残れてるし、たくさん撃ち落としてきたし……だから、なんか向いてるみたいなんだよ、この仕事」
「そんな……」
ソラが腰を浮かせて、手を目一杯に伸ばすと、指先がやっと、イコライの肩に触れた。
「向いてるとか向いてないとか、そんなのいいじゃないですか……花を作ればいいですよ。下手くそでも、みっともなくてもいいじゃないですか。花屋さんなら、殺すことも殺されることもないし、そもそも、あなたみたいな優しい人は、花を作ってる方がずっと」
「でも、花屋をやってたら、ソラに出会うことはできなかったよ。ソラにポーカーを教えることだって、きっとできなかった」
「はあ? なんですか、それ」
「ソラ。俺は戦争が上手い。世界一ってわけじゃないけど、でもそこそこ上手い。で、そのことには、何か意味があるんじゃないか、って思うんだ」
「どういうことですか……」
「花屋になってしまったら、俺は世界を変えられないまま死んでいくと思う……それもいい。そういう生き方を選んだ人たちを、悪いとは思わない。でも俺は……俺に与えられた力を、いつか何かに使って、世界を変えたいんだ」
「どうしてそんなことを、イコライさんがしなきゃならないんですか?」
「思い出したんだよ……俺は『墜ちないイカロス』にならなきゃいけない、ってことを」
「『墜ちないイカロス』……?」