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針一筋  作者: 神笠 京樹
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四ノ巻

 今川氏真とわざの見せあいをした日から、どれだけの年月が経ったろう。それなりに続いた三家の盟約もやがては破談となり、今川家は、その後武田家によって滅ぼされた。晴信は出家し、徳栄軒信玄と名を改めている。

 氏真は死んだわけではないらしく、今もどこかで蹴鞠の芸を披露し、気ままな暮らしをしていると、風のうわさに聞いたことがある。だが、二度と再び会うことはなかった。

 玄達は、あの日から、北条家の微禄を与えられるようになり、ごく稀にだが、刺客としての任務を与えられることになった。

 殺すべき相手が、玄達の前に現れさえすれば、玄達は決して討ち漏らすことはなかった。だが、そもそも相手が見つからなかったり、近付くことができなかったりして、任務をこなせないことはざらであった。針打ちの業は、それ自体ではどれほど素晴らしくても、それだけで玄達の刺客としての力量を完成へと導くわけではないのだ。

 玄達は悩んだ。それは己の存在の根幹を問う、つまりは存在証明に関する問いであったが、粗野な玄達には、自分の心根はそういうものである、ということまでは分からない。ただ、おれは功名を求めている、と思った。大大名の首でも挙げれば、おれの名は上がる。そう思った。

 その頃、風雲児として戦国の世を駆け登りつつあるのは織田信長という男であったが、玄達はその男については漠然とした噂しか知らない。信長が信玄を相手に「第六天魔王」を名乗る書状を送りつけた、という話を知ったとしても、その意味について深く考えることができるような玄達ではなかった。

 その脳裏にあるのは、かつて仰ぎ見た、武田信玄入道の武者姿である。あれを、殺してみたい。あのそっ首に、おれの針を打ち立ててみたい。それだけが、玄達の願いとするところとなった。

 やがて、玄達は小太郎の命を受け、信玄抹殺の任務へと赴くことになった。信玄の居城に、直接忍び込むようなことは、不可能であった。過去に何人か、風間の腕利きが命を落としている。玄達は、その種のことに関しては、並の忍びに過ぎなかった。

 ただ、信玄は、温泉を好むという。病んで、療養をしているという噂もある。そういうわけで、いくつかの判明している湯治場の近くに、風間の忍びたちが派遣された。玄達はその一人であるに過ぎない。信玄は隠れ湯をいくつも持っているとも言うが、常に隠れ湯だけを使うというものでもないだろう。希望的観測だとしても、最悪、木端忍びが数人、里を離れるというだけのことである。玄達がどうなろうと、悲しむほどの者があるわけでもない。妻をもらったことはあったが、早くに亡くしていた。子はなかったし、後妻はもらわなかった。

 そして、津波黒ツバメを喰うのにも飽き飽きし始めたある日。玄達は、お忍びの貴人と思しき一行が、けもの道を進むのを見た。

 目を凝らす。影武者か。本物か。影武者は、今までに何人か目撃していた。似ていないわけではないが、本物に会ったことがある玄達の目を、誤魔化すほどの者たちではなかった。だが、今回は。

(徳栄軒。いなや、()()()()。久しいな。玄達は、待ち焦がれていたぞ)

 玄達は素早く動いた。樹上から、針を放った。遠打ち。殺し得る、限界ちょうどの距離からの、必殺の打針。

 だが、針が放たれるか否かの直後、玄達は、首筋に熱を感じた。同時に、見た。信玄が、鞘ごとの刀で、己の針を受けるのを。

 玄達は背後から斬られていた。斬ったのは、女だ。信玄直属の女忍びであった。

 女が、転がっている玄達の顔を覗き込んで、言った。

「信玄様。覚えのある顔ですか」

「小田原で見た顔だ。玄達と言った。針を打つ」

 玄達は驚愕した。この大大名が、おれごときの名を、覚えているのか。おれが、針を打つということを。

「玄達。どうだ。お前は、針を打つ。儂は、忍びを用いる。これは、千代女という。甲信に二人といない、儂の守りの要よ。惜しかったな。千代女がお前に気付くのが、もう寸刻遅ければ、儂はお主に討たれたかも知れぬ」

「はる……のぶ……」

「言い残したいことがあるか。聞くだけは聞いてやるぞ」

「おれの、針打ちを、あの日、どう見た」

「古今無双」

「お前と、同じか。お前は、侍の、てっぺんだろう」

 いいや、と信玄は首を振る。

「儂に代われる者はある。あるいは昔にもいた。だが、お前と並ぶ者は、古今にない。お前は、歴史にたった一人の、才物よ。誰も知らぬかもしれぬ。だが、この武田晴信が、お主を忘れぬ」

 嗚呼、と玄達は思う。こころが満たされるというのは、こういうものか。おれは、これを求めていたのか。仮に、信玄の首を持って、小田原に帰ったとして、今ほどの、万感の思いを、おれは得られたであろうか。

(針を打ち続けて、よかった。この時のために、俺は針を打ったのだ)

 こうして。


 針打ち玄達は、満足して死んだ。

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