転移は便所から
俺の名前は寺原蒼真。会社員をやっている。何ヶ月か前先輩が失踪してから社内が少しさみしい。
とは言え今日も出勤だ。
ふと鈍い痛みが腹部を襲う。それはギュルギュルと音を立てて体を苛んでいる。朝飲んだ牛乳が腐っていたのかもしれない。
我慢できずに公衆トイレへ駆け込む。男子トイレに入り、ドアを開け、個室に足を踏み入れる。
――――突然、足場がなくなった。落下する感覚。驚いて下を見ると、いつのまにか暗闇の中にいた。周りに光はなく、何も見えない。
しばらくするといきなり声が響く。
「――――便意は我慢してください。頑張ってください――――」
「は?え?」
意味がわからなかった。
だんだんと意識が遠のく。
* * *
悠は執事服を着させられていた。顔はやつれている。またしても秋坂に着せ替え人形にされたのだった。
一方その秋坂は以前のパーティドレスを着ていた。意気揚々と悠の前を歩いている。
街の外れ、悠が目覚めた草原に来ていた。
2人が草原の中心部へ向かって歩いていると、突然地面から1メートルほどの高さの虚空に人影が現れた。
それは重力に従い、ドサッと落ちる。
「あれだ」
2人は急いで駆け寄る。
そこで悠は気づく。茶色に染められ、長めの髪。そしてにわかに着崩されたスーツ。
「あれ、こいつ……」
それは突然目を開いた。一瞬だけ虚ろだったが、その目は悠を捉えた。
「あれ?先輩!?」
「お前、蒼真じゃないか」
悠が勤めていた会社の後輩であり、高校時代の後輩でもある寺原蒼真だった。
「ってか先輩、なんてカッコしてるんすか」
蒼真は必死に笑いを堪えながらそう言った。
意外と余裕である。
今まで忘れていたが、悠は執事服を着せられているのだ。後輩の前で公開処刑も同然である。
「なんて巡り合わせだ……」
そう言って天を仰いだ。
秋坂は先程から口をあんぐりと開けて呆然としている。理解できてない様子だった。
「あ、あの、先輩」
蒼真の我慢は限界だった。
「トイレ行かせてもらっていいっすか」
――――その目は半笑いの顔に似合わず真に迫っていた。
3人で城へと戻る。蒼真は何か大切なものを失ったような様相をしていた。何とは言わないが、あんな草原にトイレなんてあるわけがないのだ。
しかし、本人の名誉のために事故ではなかったと記しておく。人が周りにおらず、誰かに迷惑がかからない場所で、そこがトイレだと思えばトイレになるのだ。
「しかしなんでお前がこんなところに」
「俺もわかんないっすよ。トイレ入ったと思ったらいきなりこれですから。むしろ俺が聞きたいっす」
蒼真は辺りの街並みを見回しては顔を綻ばせていた。立ち直りが早いようだ。
「そう言えば紹介してなかったな。この世界の先輩の秋坂聰李だ」
ふと思い付いた悠は2人の間を繋ぐ。
「そしてこいつが俺の後輩、寺原蒼真だ。適当に呼んでいい」
「先輩酷くないっすか?」
普段は真面目な悠であるが、蒼真が絡むと毒を吐くのは高校時代からだった。適当に扱われる本人もそこはかとなく楽しそうである。
「どうも、秋坂よ。よろしくね」
「寺原です。よろしくお願いします」
やろうと思えばまともな言葉遣いができるのに普段は何故ああなるのだろう。
「聰李さんって呼んでもいいっすか?」
「嫌よ」
早速玉砕していた。
* * *
後に聞いたが、秋坂はああ言ったタイプが苦手なのだそうだ。哀れだった。
ひとまず蒼真を悠の部屋へ通す。
「絶対に外へ出るなよ」
と厳命して、秋坂とともにモニカの元へ向かう。今回は出掛ける前に話を通してあるので何か言われることもないだろう。
「それで、どんな奴なんじゃ?」
「僕の後輩でした。仕事は出来ますし能力もありますが色々残念な奴です」
「私にあんまり近づかせないでね」
秋坂はすっかり嫌いになってしまったようだ。
「ふむ、能力があるならこちらで雇うのが良いかな」
「試験無しでいいんですか?」
「今の妾は皇帝じゃからな。では其奴の人事はユウに任せる。1番わかっているだろう?」
――――あの時の努力はなんだったんだ、と心の中でぼやいた。それよりも、しばらく蒼真のお守りをするのは悠だと言うことなのだろうか。悠の表情は疲れていた。
自室に戻る。
中では蒼真がベッドに寝転がり、置いてあったこの国の歴史書を読んでいた。意外と順応が早く勉強熱心だ。
「お前の働く場所は俺が決めることになった」
そう伝えると苦虫を噛み潰したような顔で言い出す。
「どうせ先輩のことだ……ろくなところに配属してくれないんだ……ぐすっ……」
悠は不覚にも苛立った。
「本当に飛ばすぞ」
「ああっ、いえ冗談です先輩」
そう言いながらベッドの上で正座をした。変わり身の早く、掴み所のない男である。
「それでだが……お前大学で機械工学とかやってたよな」
「そっすね。簡単な機械なら部品と工具さえあれば作れますよ」
「ならこの国に技術革新でも起こしてもらおうか」
そう言うと蒼真の目が輝き始める。
「マジすか?それは楽しみっすね」
悠は蒼真を連れ出した。
「この世界、本が高いってことはまだ製紙技術も活版印刷もないんですか?先輩、17世紀程度の技術力って言いましたよね?」
「ああ、やっぱり元の世界とは分野ごとに進度の差があるみたいでな」
この国について歩きながら説明しているところだった。
「やっぱ異世界、よくわかんないっすねー」
それは元の世界を基準に考えればそうだろうな、と悠は思った。
歩いていると次第に煙が見え、カーン、カーン、といった鉄を打つ音が聞こえ始めた。
「ここどこすか?」
「もうすぐ鍛治屋街だな」
そして、周りより一回り大きな、だが作りは周りと変わらない建物が見えて来る。
「これがフェムル皇国鍛冶屋協会の建物だな。蒼真の職場となるであろう場所だ」
――――蒼真は期待と不安を胸に押し込んで悠の後に続き門をくぐる。
「おお、ユウ殿。久し振りだな」
「こちらこそ、ギードさん」
出迎えてくれたのは協会のトップであるギード・スミスである。ボサボサの口ひげを蓄え、小柄ではあるが迫力がある。かつては国一の鍛治師だったそうだが、現在は引退し協会の運営に務めている。
悠は以前秋坂の紹介で面識があった。
「なかなか使える奴を連れてきました。鍛治はできませんけど」
「うぅん?どう言うことだ?」
怪訝な顔をしてギードは問う。
「とりあえず紹介します。寺原 蒼真です。僕と同じ世界の出身です。こちらはギード・スミスさんと言ってこの国の鍛冶屋協会の1番偉い人だ」
「蒼真です。よろしくお願いします!」
「おう、元気いいな。ギードだ。よろしくな、ソウマ」
2人はがっちりと握手をした。
「そんで、ソウマは何の役に立つんだ?」
私がご説明しましょう、と悠が前に出る。
「こいつはまだこの国にない機械工業と言う産業の有識者です。国を豊かにしていく上で機械工業は極めて重要なので、鍛治師の方々に協力してもらおうかと思いまして」
ギードは腕を組んで考える。
悠は蒼真に頼んでこの国の工業力をあげるつもりだ。
「ふぅん。その機械工業とやらのメリットはなんだ?」
「簡単に言えば一定以上の品質を持つ加工品の大量生産です。品質が必要な品物は今まで通り鍛治師の方々に作って頂いて、多少質を下げても問題ない物を機械に作らせるんです。これで1つあたりの手間が減って、価格が下がるため大量に供給できるようになります」
――――相変わらずギードは思案顔だ。
「あ、すみません、これは国全体のメリットでしたね。鍛冶屋協会のメリットは、その機械のメンテナンスという長期的な仕事を得られること、また質の抑えられた物が出回ることで相対的に質の高い鍛治製品の価値が上昇することです」
悠は淡々と説く。
「デメリットは鍛治業界の規模が縮小するかもしれないという事ですが、これに関しては対策を考えてあるのである程度は抑えられるでしょう」
一方、蒼真は悠の変貌に驚いていた。
同じ会社で働いていた頃と全く違う表情なのだ。とても生き生きとしている。まるでこれが本当にしたかった仕事だと言うように。
蒼真は悠を羨ましく思った。
ギードは重そうに口を開く。
「これは我々では決められん。品物を卸してる商会とも話合わねば」
「そうですか、わかりました。では決まり次第皇城に連絡してください」
「了解した」
周りに集まっていた協会運営の人々と二、三話をした後、2人は帰途についた。
「先輩、変わりましたね」
蒼真は突然話し出した。その声に先程のような活発さは感じられない。
「そう、なのかな。僕は全然気が付かないけど」
「会社に居た時よりも生き生きとしてます。楽しそうです」
悠は一瞬考えてから口にする。
「まあ、人もみんな暖かいし、厳しい上司も居ないし、やり甲斐があると思えるから、そうかも知れない」
「俺も……そうなれますかね」
普段のはっきりとした声とは比較にならないほど弱々しい声だった。
「なれるさ」
その日、蒼真は悠の部屋に泊めてもらった。
* * *
3日ほど時間が過ぎたところで、協会からの手紙が届いた。
「我々はソウマを迎えて工業化に取り組むことに決めた。よろしく頼む。 ギード・スミス」
とのことだった。
悠はソフィにちょっかいを出そうとしていた蒼真を呼び止め、仔細を話した。
「やってみせますよ。いつか先輩より偉くなってみせます」
覚悟を決めたようだった。もうあの時のような弱々しさは感じられない。
「期待してる。予算とか必要だったら僕に言ってくれ。なんとかする」
「さすが先輩!じゃあ今度なんか奢ってください!」
「それは却下」
2人はしばらく楽しげに話していた。
しばらくして、蒼真が城の外へ歩き出した。
悠はそれを見届けて、モニカの元へ戻ろうとする。
先を見ると廊下の角からモニカと秋坂が顔を出してこちらを見ていた。
悠は言葉を失う。
「なかなか面白いやつじゃのう。期待しておくぞ」
「まぁ悪い人じゃないのね、多少見直したわ」
それだけ言うと二人で逃げるように去って言った。
悠は1つ溜息をついてそれを追った。
この工業化の決断が後々他国との国力の差に影響していくのは言うまでもない。
サブタイトルは一部のオマージュのつもりです。今回は新キャラ登場話ということで中休みみたいな感じですが、楽しんでいただければ幸いです。