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かみのみかくし  作者: 一里 郷
9/13

七、葦の髄から覗く空

 山に花咲く春が過ぎ、木々の上にも下にも緑が漲り、長雨の季節に入る頃。

 『商い役』の帰還でいつものように里が沸く。

 崖の道に一行の姿が見えたことを知らせる鐘を、ヒスイは笛作りの屋で聞いた。

「若先生、聞きましたか!」

 職人たちが目を輝かせて腰を浮かせる。彼らの使う素材は海の貝、『商い役』が外から持ってくるものが全てである。彼らの帰還が近くなる頃には大抵、以前に仕入れた貝は彫り尽くして、屋の内では他の物を削って暇を潰すことになってしまう。

 今回もそうだ。筵の上には木や竹の笛の他、木彫りの栗鼠や狐、割れてしまった貝殻に鳥や魚を彫ったものまでが無造作に転がっている。

 まずはそれらを一纏めにして片付けて道具を所定の場所に戻してから、職人たちは屋を後にした。

 向かった里の入口にはもう人々が山をなしている。

「今回はどうだった?」

「こりゃ凄い、立派な鰊じゃないか!」

「良い藍玉だ。これでまた青を染められるよ」

「水飴はあるかい? 娘が欲しがってねえ」

「それより塩だ。うちの塩壺が底を突いちまった」

「あんたが酒の肴に塩を舐めるからだろう、この大酒呑み!」

 わいわいと騒がしく、人々は好き勝手に言葉を投げ合う。『商い役』たちも笑ってそれに応えた。

「おおい、元気にしていたか、ヒスイ!」

 人混みの中の少女へ先に声を掛けたのは父だった。豪快に笑う側には二年前から見習いとして一行に加わった兄と、既に彼らを見つけた母がいる。

 大人たちを掻き分け走り寄った少女の頭を、大きく骨張った手がわしゃわしゃと撫でた。

「そっちも元気そうだね、父ちゃん!」

「それが一番の取り柄だからな。お前も立派にやっているようで何よりだ」

 視線の先には笛作りの職人仲間たちがいる。彼らはヒスイの父に一斉に一礼をして、それから三々五々、それぞれの身内のところへと散って行った。

「なんだお前、すっかり偉くなったもんだ」

 父の横から兄がにやにや笑いながら言う。声はまだ少し高いが、春先に発ったときより背が伸びて、肩幅も胸板も厚くなっている。もうすぐ父と並ぶだろう。

「兄ちゃんはどうなんだよ。父ちゃんや他の『商い役』の人に迷惑かけてない?」

「何だよ、俺がへまをしたって思ってるのか?」

「だって兄ちゃん、前に行ったときは、市で人相の悪い男に絡まれて小便漏らしたって」

「五月蠅い! 二年も前のことを蒸し返すな! あんときは……お前はあの熊みたいな奴を見てないから!」

「俺の棒さばきなら山犬も熊も敵じゃねえ、って威張ってた癖して」

「そ、それは、本物の熊と熊みたいな男は違う! お前こそ、笛を作るか山の風様に会いに行くかばかりしているそうじゃないか。祭で踊りに誘う男くらいいないのかよ」

「いなくたってあたしはまだ良いもの。兄ちゃんは前の祭に誘った娘とはどうなんだよ」

「それは……」

「まあまあ。癒えてもない傷を抉ってやるな、我が娘よ」

 顔を真っ赤にした兄の頭を叩いて父が大声で笑う。聞こえていたらしい周りの『商い役』がつられて吹き出してしまい、少年はぎりぎりと拳を握り、そっぽを向き大股で列を離れて行ってしまった。

「あの野郎、荷物を放って行きやがった。仕分けに運ぶまでが俺らの仕事だってのに」

 笑いを堪えていた『商い役』の一人がぼやくと、それを宥めて父がまた笑う。

「すぐに殴り掛からんだけ大人になったもんだよ、コガネは」

「そうさね、前なら口の前に手が出ていたよ」

 母も呆れ半分笑み半分で口を出す。去った後で褒められていることなど彼は知らぬままだろう。

「といってもまだ半人前なのは間違いないな。精進させねば」

 仕事仲間にそう語り、父は娘の方を向く。

「それからな、ヒスイ」

 そうして、今までにない笑顔で彼女に耳打ちした。

「良い土産があるぞ。きっと今宵の宴で披露される」

「宴で? 珍しいね」

「ああ、今日のは取って置きの特別だ。楽しみに待っておいで」


 それから夜が更けるまで、宴の準備に追われながら、ヒスイは上の空だった。

(特別な土産って何だろう?)

「ヒスイ、あんた、団子が化物みたいになってるよ」

 横を通った娘に言われてはっと手元を見ると、手元の麦の団子が男の拳ほどの大きさになっていた。その上、形まで拳のように歪でごつごつとしている。

(ああ、いけない)

 固そうな塊を潰して千切って小さく分け、改めて丸める。蒸すまでは作り直せるのが良い点だ。

「あんたは本当に、笛は彫れても飯を作るのは下手なんだから」

 側で芋の皮を剥いている年長の娘が母と同じことを言う。

「そんなんじゃ嫁に行けないよ?」

「良いよ、別に。期待なんてしてないもん」

「あらこの子ったら。まだ十を二つ過ぎただけの小娘が一丁前なことを言いなさる」

 向かいの竈に薪を放り込みながら塗り師の女房が笑った。

「まあ確かにあたしがあんたくらいの齢には、今の旦那を引っ掛けていたけどねえ」

「何を言ってるんだい姐さんは。あんとき熾火みたいに顔を真っ赤にしながら、三つ上の逞しい殿方の好むお色はどれかしら、って聞きに来たのはどこのどなただい」

「あ、あれは、仕方ないだろう。向こうから誘う逢引きなんて初めてだったんだから」

 女たちの間で花が咲くのは色恋と飯と着物と簪の話。それに男たちの噂話。議題の中身が何であれ、あれが良い、これが悪いとの品評会になるのがお決まりだ。

 その姦しさが嫌いと言う訳では無いが、ヒスイはどうにも馴染めない。笛作りの職人たちと話す、貝殻の厚さや穴の幅によって変わる音の話の方がよっぽど楽しい。ここで色話に花を咲かせる女房娘たちも半分は職人である。職場では各々の持つ技術の話をしているだろうに、どうしていつもこんな流れになるのだろう。話の中に咲く恋は、確かに蜜のように甘美であるけれど。

「この子もねえ、紅の一つも差せば、もっと男好きのする感じになると思うんだけどねえ」

 そんなヒスイの思惑をよそに、娘たちが少女の顔を覗く。

「どうだい、ヒスイ?」

「だから、そういうのはしないってば」

「けどそろそろお前さんも年頃だ。何か手立てを考えておかないと、五年六年経ってから悔いても遅いんだよ」

「ほんとにね。あんたの母ちゃんほどの別嬪なら黙ってても男が寄って来るんだろうが、あたしたちじゃそうはいかないんだからさ」

「今は笛作りの方を極めたいって? そりゃ職も大事だけどね、男と契って子を作るのも女の仕事なんだよ」

「そんなに笛に打ち込みたいなら、同じ屋にいないのかい? 年頃の男職人はさ」

 頭上を飛び交う話の意味が分からない訳では無い。この小さな里に於いて、婚姻もお産も子育ても、決して疎かにしてはならないお役目だとも、彼女は理解している。

 だからと言って場の話に加わろうとは思わない。

 人の少ない、皆が顔見知りのような里のことである。ヒスイの齢に見合う歳の若者など限られている。その時になれば、嫌でも見合いの席に座ることになるのだ。

(嫁に行くだのなんだの、母ちゃんの説教とカワセミとの話だけで充分だ)


 宴の夜、焚かれる火に照らされて、人々が歌い飲み明かす。

 数年前の宴と違うのは歌声に混ざる笛の音。賑わい好きの『風運び』たちが、自慢の曲を代わる代わる吹いているのだ。彼らは大屋根の上に居て、下の宴から掠め取った酒や団子を棟木に器用に乗せ、飲み食いしながら己の番を待っている。

 勿論広場の騒ぎの中にも『風運び』たちは居て、土産話の輪に混ざる者、酒瓶を片手に人の集まりを渡り歩く者、酔っ払いの合唱に加わる者と様々だ。

 そして今宵が他の日の宴と違うのは、皆が大屋根の外に居ることだ。入口の戸の前には台が置かれ、乗れば広場の端からもその姿が見えるだろう高さだった。

(父ちゃんの言ってた、取って置きの土産のためかな)

 ヒスイにもそれくらいは察しが付く。他の者も今日はどこか勝手が違うと分かっているのか、ちらちらと大屋根や台に目を遣る者が多い。『風運び』たちはと言えば、見えないのを良いことに壇上に上って、近くの『風見』に睨まれる者が数名いた。彼らも土産の中身は知らないのだろう。

(一体何をやるんだろう)

 頭の隅で考えつつ、篝火の光の外から大屋根の笛吹きの中に見知った姿を探す。

 いや、ヒスイにすれば探すまでも無かった。浅葱色の小袖を着た『風運び』の少女は、朧月のように屋根の上で輝いて見える。昼にヒスイから渡された笛をなるべく触れぬように傍らに置き、ゆっくりと広場を見回している。

(カワセミ……)

 胸中で呟いた瞬間、少女とぱちりと目が合った。その表情が静かに和らぐ。離れていても考えることは同じ。恐らく彼女も探していたのだ。

 小さく手を振って返そうと思ったそのとき、群衆の一部がざわめく。

 見ると、例の台の上に人がいた。

 悪戯に上った『風運び』では無い。『商い役』のうちの一人だ。手に何かを持って語っているが、大半の里人が酔っ払って歌い騒いでいるため、少女のいる場所までは届かない。

 持っているのは子供の手首ほどの太さの、黒い筒のようである。

 よく見れば台の横には父が居て、やはり筒を手にしていた。

(あれが取って置きの土産?)

 知らず、足は台の方に向いていた。ふらふらと歩く視界の中で、近くの若者が筒を受け取り覗き込む。まず足元を、次いでぐるりと広場を見渡し、大屋根の上へ振り向けたとき、彼の動きが止まった。

 一拍置いた次の瞬間、叫んだ言葉はヒスイの耳と胸を同時に貫いた。

「人だ、屋根の上に……!」

 時が凍り付いたような気がした。

(今、何て?)

 里の人が、酔い潰れていない面々が一斉に屋根を見上げる。人混みの中の、大屋根の上の『風運び』と『風見』たちがその場で動きを止めた。騒がしかった筈の広場が水を打ったように静まり返る。続いているのは、篝火の爆ぜる音と寝息と、前後不覚になりかけた酔っ払いが口遊む調子外れの歌だけ。

 その中を、筒を覗いた若者の震え声だけがはっきりと聞こえた。

「普通の、薄い色の小袖を着て……二人、三人……七人いる。一人は笛を吹いて……いや、今、懐に仕舞った」

 ごくりと息を呑む。彼の語る光景は、ヒスイの見ているものと同じだ。

(見えているんだ、『風運び』が)

 大屋根の上に目を遣る。

 カワセミの顔から血の気が引いているのがはっきりと分かった。下の宴に混ざった『風運び』も、筒を持った男からじりじりと遠ざかったりその場に座り込んだり、明らかに動揺している。だが逆に、興味深げに注視する者も居る。

 数人の『風見』たちは、他の『風見』や『風運び』と接触しようと動き始めていた。

 けれど一番大きな流れは、広場の中心、黒い筒を持った男に向かっている。ざわめき、顔を見合わせ、立ち上がる者、隣に意見を乞う者、そして他の者を乗り越えて彼の方へ行こうとする者。

「順番だ、順番に!」

 大人の背に阻まれて見えなくなった台の方で、歓声と怒号の中『商い役』の若者が叫ぶ声がする。

 屋根の上の『風運び』たちの半分が、戸口と台のある側から棟を跨いで反対側に移動していく。カワセミもその一人で、棟木の陰に隠れる前に見えた顔は青白く、今にも倒れそうに見えた。

 残りの半分はその場に留まり、互いに何かを話したり、中には手を振る姿もあった。

(取って置き、って……)

 少女の脳裏に、稲妻の如くいつかの会話が蘇る。

 あの、忘れられない渇きの年。

 初夏の宴の翌日。

 『風運び』が里の皆に見えるようになるものが町に無いかと、父に問うたのはヒスイだった。その後の日照り、貝の土産、そして教わった笛作りと諸々のことのため記憶の底に追いやられていた、確かに自分が発した問い。

 彼は忘れていなかったのだ。見つけたのは偶然なのか、それともずっと探し続けていてくれたのか、どちらにせよ、あの時の会話ではある筈など無いと位置付けられた物品が、今この里にある。

 胸がざわめく。

 感情が混ざって渦を巻く。

 父への感謝や喜びと共に、黒い、不安の塊が。


 一体どうやって帰ったのか全く覚えていない。

 気付けば少女は家に居て、茫然と土間にへたり込んでいた。

 今の状況が、何が起こっているのか、頭の中がぐるぐる回る。

 父が持ち帰った取って置きの土産が『風運び』の民を見られるものであるというのは、間違い無いだろう。

(カワセミは……大丈夫だろうか)

 姿を隠す直前の、貝の裏のように真っ白な顔を思い出す。自分で歩けてはいたようだが、余程の衝撃だったに違いない。

(話をしに行かないと。きっと山に戻ってる筈だ)

 決意を固めて立ち上がろうとしたとき、がらがらと戸が開いた。

「何だ。どこを探してもいないと思ったら、とっくに帰ってたのか」

 機嫌良く父が笑う。酒の匂いがぷんと鼻を突く。当然だ、今宵は宴の夜なのだから。

「ヒスイは見たか? 父ちゃんの取って置きの土産だ。大陸から来たという商人が持っていた品でな、確か遠眼鏡と言っていたか」

 自慢げに懐から取り出されたのは、あの黒い筒だった。遠くからはただの黒色に見えたそれは近くで見ると流麗で複雑な文様を有し、両端には金の縁取りがしてある。材は恐らく、壺や瓶のような焼き物だろう。

 問うより先に父が語り出す。

「この筒の中にな、薄い玻璃が嵌めてあって、覗けば山向こうが手元にあるように見えると言うんだ。だがいざ覗いて見りゃあ、側の大木だって何も変わらねえ。こりゃあ掴ませに来たなと思いながら、その木の上を見てみたのさ。そうしたら、何が見えたと思う?」

 立て板に水を流していた父がそこで話を止め、促すようにヒスイを見る。

「……見えたんだね、見えなかったものが」

 答える少女の含んだ陰に気付かず、父は大きく頷き更に興奮した様子で続けた。

「ああ、高い枝に引っ掛かるみたいにな、ふわふわした、羽が五つも六つも出鱈目に生えた鳥みたいな、そんなものが留まっていたんだ。初めは鳥の巣か蜘蛛の巣かと思ったがね、そいつは生きて動いていた。覗いていない連中に、木の上に何かいるかと聞いたら、誰も何もいないと言う。そりゃそうだ、あんな妙ちきりんなもの、普通に見えるならとんだ騒ぎだ」

 そんな姿の生き物なら、橅の木の上でもよく目にする。

 羽の一枚一枚が一匹ずつ別々で、枝を渡りながら梢の若葉を食すのだ。カワセミが教えてくれた。

「変なものが見えると言ったら、その場にいた皆こぞってそいつを覗いてな。ああ驚いたさ。腰を抜かす奴までいた。だがあのいんちき商人や、里の者じゃない連中は分からんようだったよ」

「みんなに見えたのじゃ無いってこと? 兄ちゃんには見えたの?」

「コガネと、あと何人かは買い出しに出ていて、他の半分くらいも余所に行っていてな。だがあの場にいた里の者は全員、一人残らず、あの妙な生き物を見たんだ」

 では迎えに出たとき兄は知らなかったのだ。成程、合点がいく。知っていれば顔に出るか、喧嘩の際に口を滑らせていたことだろう。

 話は続き、そこで父と、同じ場にいた『商い役』たちは、怪しげなその筒を買うことに決めたという。大陸の商人を自称する男は、大騒ぎする父たちを見て値をふっかけてきたが、同じように覗いたが何も見えなかったという他の商人たちが怒り始め、最初に出された値の半分以下で手に入れることが出来たそうだ。

 そうしてそこでのことは居た者たちだけの秘密にし、帰ってから大々的にお披露目して驚かす算段を立てたのだという。

「こいつを見たときにな、五年くらい昔のお前の話を思い出したよ。確か、言ってただろう? 風様の友達の姿が、皆に見えるようになる道具は無いのかと。例えば大陸の方に、とな」

「うん」

「あんときは、そんなものある筈が無いって思ってたが……本当に驚いた。うちの娘は千里眼かって」

「そんなこと……」

「いやいや、偶然だってことは分かっているさ。だが、これは凄いことだぞ。今までに見られなかった物が、こいつで見えるようになる。新しいことが出来るようになる。この里を、もっと豊かに、暮らし良くすることだって」

「……父ちゃん」

 少年のように目を輝かせる父の言葉を、ヒスイは強く遮った。ここで漸く娘の様子に気付いたのか、彼は困惑の表情を浮かべて少女を見た。

「何だ、どうした?」

「それの話、『風運び』の誰かには話したの?」

「……何故だ?」

 心底、不思議そうに父は言う。

「風様にお話するようなものでもあるまい」

「でも『風運び』を見られるようになるんだから、先に言っておけば、あっちも嫌な人は来ないし」

「誰が何を嫌がるって?」

「『風運び』があたしたちに見られるのを、だよ」

「何を言ってるんだ。お前たちはいつも見ているじゃないか」

「そうだけど、そうじゃなくて」

 話が噛み合っていない。

「それにだ、お披露目ってもんは誰も知らん方が皆驚くし、面白いだろう。お前だって風様が皆に見えるようになればと言っていたし、皆もお前たち『風見』と同じ目を持つことが出来る。そうだろう?」

(ああそうか)

 父にとっての、皆、に『風運び』は含まれていないのだ。見えない里の民にとって、彼らは人では無い。

「……どうした、ヒスイ。顔色が悪いぞ」

 父の声が遠く聞こえる。

「何でもない。平気。……父ちゃん」

「うん? 何だ?」

「父ちゃんは『風運び』のこと、どう思ってる?」

「どうって」

 何を今更、と言わんばかりの顔で父は娘を見た。

「風様は風様だ。里の災いを退けて、俺たちに恵みをくれる、外で言う神様のようなもんだ。風様が居なくては里はやっていけないし俺たちも生きられない。外の暮らしを見ているとそう思うよ」

「……里の人とは違う?」

「そりゃなあ。同じにしちゃあ失礼にも思うし、そもそも見えんし触れんものは、人間とは違うとは思うんだ、父ちゃんは」

「……」

「恵みには感謝している。今まで何度も里を救ってくれた、お前のことも助けて貰った。それで奉納したもんを喜んでると言うのは、お前からも『風見』の者からも聞いてる」

「喜んでも、その人は、人では無い?」

「難しいな。お前には見えているから分かるんだろうが、俺たちには見えんのだ。だから、天の怒りが雷だと言うようにしか、そういう風な理解しか出来ない。お前には分からんのだろうが」

 確かに分からない。生まれた時から見えないものを目にし、その声を聞いてきたヒスイには、『風見』には理解できない話だった。

 同じ里に住んでいてもそうなのだ。

 『風運び』本人たちとは、一体どれだけの隔たりがあるものか、想像すら出来ない。

「だがな、これからは、あの遠眼鏡がある」

 ヒスイの鬱屈をよそに、父は朗らかに語る。

「声は聞けなくても姿が見える。身振りだとか、表情だとか、そういうのもな。今まで風様との話し合いなんかはお前たちに任せきりだったが、これからは俺たちも助けになれる」

 何の悪意も裏も無く、有るのはただの好意。それに、誰にでも『風運び』が見られるように、とは、かつてのヒスイが望んだことだ。

 それなのにどうして、こんなに不安なのか。

(きっと……カワセミがあんな顔をしてたからだ)

 大屋根の上の白い顔を思い出し、少女は身震いして立ち上がった。

「あたし、カワセミのところに行く」

「おい、待て待て! そんな青い顔して具合が悪いんじゃないのか? 今日はもう寝た方が良いぞ」

 引き止めようとする手を振り払い、ヒスイは父親を見上げて。

「今、たぶんカワセミはびっくりしてる。怖がってる。もしかしたら泣いてるかも知れない」

「そう、なのか……?」

「行って来る。カワセミに謝らなきゃいけない」

 父たち『商い役』の計画した不意打ちに他意は無かっただろう。それでも行為は彼女たちを悪い意味で驚かせた。あの時の様子を見ただけなら、中には歓迎した者もいるだろうが、大半は動揺した筈だ。

 だからヒスイは行かなければ。カワセミに説明して謝らなければ。

「父ちゃんがあたしの言ったこと覚えてくれてたの嬉しかった。そこは本当に感謝してるんだ。有難う」

 こんな形でなければ、もっと笑顔で言えたのに。

「だけど、今は……行って来る」

 困惑顔の父に背を向けて、少女は家を出た。


 夜の風がさあっと頬を冷やす。

 大屋根の広場からはまだ賑やかに騒ぐ声が聞こえる。笑い声と歌と歓声だ。

 他の『風見』はどうしているだろう。『風運び』は皆、帰ったのだろうか。あの筒が『風運び』の姿を捉えると知れたとき、遠ざかった者もいたが、身を乗り出す者も居た。彼らはまだ、あの場にいるのかも知れない。

(それは、今は、どうでもいい)

 ヒスイが気に掛かるのはカワセミのことだった。他のことなど二の次だ。

 月夜でも木々の下は暗かったが、通い慣れた道である。夜歩く熊も山犬も、今の心境より恐ろしいとは思わない。似たような感じで思い出すのは、またあの五年前の出来事だ。雨を呼べばカワセミが死んでしまうと思い込んで、家を抜け出し夜の山をひた走った。

(あんまり変わってないじゃない)

 当時と違っていたのは、河原に着いたとき、既に『風運び』の少女が待ち構えていたことだった。

「……来ると思ったわ」

 囁く笑みの無い顔は、月明かりのためかいつもより青白く見える。

「ヒスイ、あのとき、日に晒した石のような顔をしていたから……」

「それならお互い様だよ。そっちもひどい顔してたもの」

 思いの外しっかりと話すカワセミに、少しほっとしながらヒスイは返す。

「そうね……流石に驚いたわ。皆も、肝を潰したみたい」

「あたしだってそうだ」

 はあっと大きく息を吐く。話して少し心が落ち着いてきた。

「ごめん、カワセミ」

「……何故、謝るの?」

「『風運び』の皆が見えるようになる道具が欲しいって、父ちゃんに頼んだのはあたしなんだ。もう何年も前のことだけど。父ちゃんはそれを覚えててくれて……皆を驚かせて喜ばせようと思ったんだって」

「そうなの……その道具の話は、だいぶ前に、ヒスイが夢を見たと言ったときかしら?」

「うん、たぶんそうだ。カワセミも覚えてたの?」

「ええ……そのとき、神隠しの話もしたでしょう? そのことで、お婆様とお話をして、怖い話を聞いて、夢を見たから……一緒に覚えていたの」

「神隠し……ああ、そうか、そうだった」

 『風運び』と親しんで『風見』が消える話。『風見』と交わって『風運び』が消える話。二つの神隠しの話。

「お婆様は仰ったの。私たちは昔、霧や霞のようなものだったって……それが、里の人と関わるようになって、今のように……人のようになったのだった。もし人との関わりが失せれば、また同じように、風に漂うだけのものになるだろう、って……」

「カワセミたちは、霧や霞なんかじゃない、ちゃんと人だよ!」

「ええ、そうよ。昔はそうだったと言うだけ……」

 薄らと少女が微笑む。

「……あの黒い筒で、私たちは見えるようになったみたいね。驚いたし、怖かったけど……人でなくなるのは、もっと恐ろしい。だから、少し、良かったわ」

「そうなのかな」

「私には、そうよ」

「でも父ちゃんたちは、カワセミたちのこと、神様みたいなもんだって……人とは思えないって」

「私たちと里の人が違うのは、前から分かっていたことだから」

「そうだけど」

「問題はこの先どうなるか、どうするか、ではなくて?」

(確かに、そうだ)

 かっとなっていた体が冷えていく。

 青くなったカワセミを見て、きっと頭に血が上っていたのだ。

 ヒスイは一つ大きく深呼吸をした。吸い込んだ夜気が全身を中からしゃっきりさせる。

「……でも、どうしよう?」

「分からない、けれど……ヒスイは他の『風見』と話すべきだわ」

「他の?」

「ええ。ずっと前から、私たちのことが見えていた人たちだもの……もしかしたら、もう、どうすべきかを考えているかも知れない」

「そうか。もし、みんなにカワセミたちが見えるようになったら、みんな『風見』になるみたいなもんだよね」

「もし、ヒスイたちの中で決まり事があるなら、それを皆が守るようにしないと……」

 そこまで言って、カワセミがふと言葉を切った。

 俯き、何かを考えている様子で、その唇から独り言らしき呟きが漏れる。

「……そうか、お婆様が仰っていたのは……」

「カワセミ……?」

 少し音量を大きくしたヒスイの声に、『風運び』の少女ははっと顔を上げた。

「ああ、ヒスイ……ごめんなさい。何でもないわ」

「どうしたの?」

「何でもないの。少し、思い出したことがあって……」

 囁くように言うその瞳に、いつか見た憂いがあるように見えて、ヒスイは眉間に皺を寄せた。

「カワセミ、あのさ」

「何?」

「前に、里に雨を降らせたとき、良いことばかりじゃないって言ってたよね」

「……よく覚えているわね」

 答える少女の声が心なしか震えているような気がする。

「忘れられないよ。それで、それはさ、今のことに関係あるの?」

 表現は曖昧だが、直球の問いのつもりだった。

 問われた少女は一瞬、泣きそうに表情を歪め、唇を結ぶ。そして目を伏せ、一つ長く息を吐いてから。

「……ごめんなさい。今は、話せない」

「あたしが知ってはいけないことなの?」

「……今は。ヒスイが大人になったら、きっと『風見』の大人から、伝えられる。そういうことになっている筈なの」

「そういう決まりなんだね」

「ええ……」

「カワセミは知ってるんだね」

「……私たちと、ヒスイのところでも、決まりは違うから……」

「そうか……分かったよ」

 はあっと息を吐いて『風見』の娘は触れ得ぬ友の手に、己のそれを重ね合わせた。

「ごめんね。言いたくないこと言わせようとした」

「良いの……察しが良いのは、美点だもの」

「ただの勘だし、嫌な思いさせたのは確かだ。ね、あたしに出来ることある?」

「……」

「話せないことは話さなくて良いから。その中で、何か役に立てること、出来るだけやるからさ」

 カワセミは暫し、遠くを見るように考え、それからゆっくりとヒスイに視線を戻した。

「お願いを、させないように……してくれる?」

「お願い?」

「私たちが、力を使ってしまうようなお願い。……これから里に行くような『風運び』は、きっとそれを聞いてしまうから」

「あたしの小さいときに言われたような話だね。分かった。出来るだけ言っとくよ」

「ごめんなさい……私は、何も話せないのに」

「良いんだよ。決まりだもの、仕方ないって」

 少女は少女ににっこりと笑って見せる。

「何があってもあたしはカワセミの友達だから。何かあったら呼んで。いつだって飛んで行くからね」

「……ヒスイは、呼んだりしなくても、すぐに私のところに来るじゃない」

「あれ、そうだっけ?」

「そうよ。いつもそう」

 花が咲き零れるように、人に見えぬ娘が微笑む。

「私も……ヒスイとは友達だわ。ずっと、何があっても」

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