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かみのみかくし  作者: 一里 郷
8/13

六、笛吹きの少女

 夕暮れ刻、谷に沢に、高く遠く笛の音が響く。

 いつもの河原のもっと上流、滝を遡った更に先、空に近い崖の上。ここが一番、谷全体に音が行き渡る。

「毎日毎日、よく吹くものだ」

 背後から若い男の声がした。

「……好きだから、やっているの。私にはまだ、他にすることが無いから」

 思うさまに吹いた一曲が終わってから『風運び』の少女は振り返る。

「ヒバリは、何をしにここへ?」

「暇だったので」

「……暇なら、あなたの良い人のところへ行くべきよ。いるのでしょう?」

 並んで歩いているのを見たことがある。大輪の百合の花のように清楚で芳しい、けれど気の強い娘だった筈だ。付き合いがいつからかは知らないが、そろそろ身を固めろと周囲からせっつかれているのも聞いた。

 目を合わせない少女に問われ、若者は肩を竦める。

「喧嘩をした」

「それなら尚更、他の娘に会うべきでは無いと思うの」

「私もそう思う」

「……」

「お前さんのことは、笛の師として尊敬している。間近で聴きたいと思うのは可笑しなことでは無いだろう?」

 この青年は、初めて聞いたあの夜からずっと、カワセミの笛の音にご執心だ。

 同じ笛吹きとして人の腕前が気になるのは理解できる。だが、ここまで目を掛けられる程、己の腕前が卓越しているとは思わない。

 あれから『風運び』の中でも笛を吹く者が増えた。その中で、里の人の話を伝え聞く限りでも、カワセミの笛の評価は高い。けれど草笛とは言え、笛を吹くのにはカワセミに一日の長がある。里の皆が褒めてくれるのはそのためもあるだろう。

(ヒスイは……とても褒めてくれるけれど)

 あの少女は嘘など吐かない。世辞を言うような性格でも無い。幾許かの身贔屓があったとしても、彼女の感想はきっと正直だ。

 だからと言って腕を磨くことを怠りはしない。

 これまではただ好きに吹いてきた。けれど今は人前で吹くこともある。そこで下手な演奏など披露する訳にはいかない。したくない。折角ヒスイが作った笛なのだから、奏でられる最高の音を彼らの耳に届けるべきだ。

「指運びも……吹き方も……私のやり方は、あなたが訊ねたことは、みんな答えたわ」

「同じようにやっている筈なのだが、上手くいかないのは何故だと思う?」

「……分からないわ」

 かつてのヒスイも同じことを問うた。あの頃は、吹いていたのは草笛だったが、言っていることはまるで同じ。

 同じことでも、幼い少女が言うのと年上の男が言うのでは、意味合いが変わって聞こえるけれど。

「そうだな、それが分かれば苦労などしない」

 彼は愚痴を言うためにここまで来たのだろうか。独り言ちる若者と暮れる太陽に背を向けて、少女は斜面を下りて行く。

「近頃、里に下りて『風見』でない『玉結い』や『土交い』の民と話そうとする者が多いようだ。お前さん、どう思う?」

 カワセミはひたりと足を止めた。

(本題は、こちらなのね)

「……親しくするのは、良いことよ。里の人たちは、私たちがここに居ることを、はっきりと知ってくれた。居ないことにされて、忘れられてしまうより、よっぽど良いわ」

「まるでそんなことがあったかのような口振りだ」

「そんなことは、無いけれど……でも、私たちが人の形をして、人のように話して考えるのは、人と関わったお陰。だから、里と親しむのは、悪いこととは思わない」

「一体誰からそんな話を?」

「昔、お婆様から」

 半ばだけ振り向き、肩をヒバリの方に向ける。茜色の日差しが眩しく片目を射た。

「悪いことだと、あなたは思うの?」

「良いことばかりでは無いと思っているよ」

 視界の端に映る青年の表情は読めない。口調はずっと軽いままだ。

「宴に、祭に音が増えたことは嬉しい。私の考えて作ったものが形を変えて広まって行くのを見るのは、とても感慨深い。このまま根付いてくれるなら願っても無いことだ」

「それなら……何を危ぶむというの?」

「私たちは、少し前まで里からもっと遠かった。それで長いことやって来た。だが今になって急に仲を深め始めた。何の軋みも生まないと、お前さんは思うかい?」

「……分からないわ。私とヒスイは、今まで仲良くやってきた」

「それとこれとは違う」

「分かっているわ。……でも、私は、その秤しか持っていないの」

「そうだな。私はそれすら持っていない」

 続くヒバリの声は、それまでより少し低かった。

「年寄りたちの気懸りがただの杞憂だとも思えない。速く互いに近づく船は、ぶつかって沈む。そうならないことを私は願っている」

(その最初の切っ掛けは、あなたが望んでもたらしたものではないの?)

 思い浮かんだ言葉を、カワセミは飲み込む。

 こんな流れが来るだなんて、誰も彼も思いもしなかっただろうから。


 洞へ帰る足取りは重かった。

 ヒバリの言葉が不吉な予言のように頭の中をぐるぐる回る。

(そんな悪いこと、起こる筈が無いわ)

 滝を潜って岩の回廊を通り、部屋へ帰り着くと、いつものように祖母が繭から糸を取っていた。

 周りの人々が何をしていようと、彼女は岩に彫った絵と紛うほど変わらない。今日も普段通り、天蚕の繭から緑の絹糸を繰る。

「お帰り、カワセミ」

「ただいま、お婆様」

「今日は新しい笛だったね」

「ええ……お婆様は、すぐに分かるのね」

「分かるさ」

 手元の繭から目を離さずに老婆は言う。

「ここからは外の笛は聞こえないが、お前の声で分かるよ。あの子に会って良い笛を貰って来たのだとね」

「お婆様は本当に……何でもお見通し」

 幾つになっても、人前で笛を吹けるようになっても、少しだけ見知らぬ人や人混みが平気になっても、彼女には敵わない。カワセミが初めてヒスイに笛を貰ったときも、里の皆の前で披露したときも、祭の夜に吹いた日も、全て言い当てられた。

 ただ、決して、貝の笛の音を聞こうとはしないけれど。

 少女は部屋の隅へ行き、座り込んで懐から笛を出す。

 新しい貝の笛。前のものより大きくて細長く、縞模様もくっきりしている。歌口や指で押さえる穴の他、表面にも繊細な彫りがあった。貝の縞を川の流れに見立て、二匹の鱒が生き生きと跳ねている。

「……小さい頃、お婆様はよく、私の草笛を褒めて下さったわ」

「そうだね。お前はすぐに、管菜の茎も笹の葉も、何でも吹きこなしてしまった。教えた曲もすぐに覚えて、自分で新しい曲まで作ってしまう」

「ええ。お婆様はいつも喜んでくださった……でも、近頃は聞いて下さらないのですね」

 問いを発するのには少し勇気が要った。

 ちらと横目で祖母を見る。淡々とした、厳しい彫像のような顔。

「私は海のものは好かないから。あの潮の香というやつは、どうにも生臭くてね」

「そう……なのですか」

「それに、里の者と深く関わり過ぎるのは、あまり良いことでは無いよ」

 先に本題に触れて来たのは祖母だった。やはりカワセミの言いたいことなどお見通しだ。

 膝の上で小さく拳を握る。ヒバリとしたばかりの会話を思い出す。

「……でも、私とヒスイとの仲は、大事にしなさいって……毎日遊んでいたときでも、会ってはいけない、なんて、一度も言われなかったわ」

「あの子は元々私たちが見える。物心ついた頃から、先達の『風見』から、私たちとの関わり方を教わってる筈だ。……まあ、それでも関わり過ぎかも知れんがね。あの子に関しちゃ、今の方が程好い」

 数年前のヒスイは確かに毎日のように林を抜けて来た。彼女の母を始めとする里の人々に、カワセミとの関わりを控えるよう咎められたとも聞いた。

 手に職を持って打ち込むようになった今では、そんなことは言われていないだろうけど。

「だが他の者は、最近になって我らと直に関わるようになったばかりだ。そういったのは無遠慮に色々と訊いたり口を出したりするだろうからね」

「……では、お婆様は、関わりを元に戻した方が良いと仰るのですか?」

「そこまでは言ってないさ。だが向こうにも私たちにも、良い付き合い方を学ぶには時が要る。ここに里が出来て私たちの祖と会い、ついこの間までのような関わり方に至るまで、それなりの時を要したようにね」

「時とは……一体、どれだけの年数が要るのでしょう?」

「さあねぇ。先の仕組みが落ち着くまでは十年も二十年も掛かったと聞くが」

 ふっ、と老婆が息を吐く。

「我らには力がある。合わせれば更に強く、大気をも動かすことが出来る。我らの名の由来のように。その仕組みは昔、話したろう?」

「……ええ……」

「あれは誰もが知っているのではない。例の渇きの年、峰での祈りに加わった者しか知らぬ。里の者では大人の『風見』だけが知っている。何故だか分かるかい?」

 カワセミは床に視線を落とした。

 通常、知識は皆で共有するものだ。少ない誰かに知識が偏れば、その者の不在時に役目を果たせる者がいなくなる。問題ならば解決せず、すべきことが為されない。かつて一部の者の秘伝であるが故に、失われてしまった技もあるという。

 その幅を狭めることの利点とは、一体何なのか。

 秘密を共有して、仲間内での繋がりを深めるためだろうか。特殊な技ならば、余所に奪われてしまうことがあるため、秘伝としていることもあると言うが。

「……分からないわ、お婆様」

 お手上げを表明して、少女は祖母を窺い見た。老婆は繭を膝に置いてカワセミの方に向き直る。

「こういうことはね、多くに知れると、いずれ抜け駆けをする者が出て来るんだよ」

「抜け駆け……?」

「お願いをし易くなる、と言えば簡単かね」

「……」

「今、里に遊びに行っているのは、前まで里に行っていた者たちとは違う。あれらは特に人と関わるのが好きな連中だ。人に認めて貰い、自らのしたことに人が応え、人のしたことに己が応える、そういったことが楽しくて喜びを覚える者たちだ。そんな連中が、ふとした時に、里の者の願いを叶えてしまわないと言えるかね? 私たちの、人ならぬ力を使って」

 少女は当惑する。例えばヒスイの願いを叶えられるなら、カワセミは喜んで手を貸すだろう。

 但し、それが『風運び』の力を使わないものならば。

「……それは、いけないと……特別な、願いの儀を経なければと、言われている筈です」

「そうだよ。だが今言った通り、あれらは特に、人と関わるのが好きなんだ。だから今まで、里の者と話そうとは思わなかった。話し掛けても返事の無いものと関わるのは、あれらには苦痛なんだ。だから私たちとだけ話していた。里へ行くことも少なかったろうね」

「……」

「そんな連中が子供の頃の言い付けなぞ覚えていると思うかい?」

「……でも……」

「里の者も、これまでは『風見』を通さねば私らと話は出来ないと思ってきた。実際そうだっただろう」

「……今は、やろうと思えば出来ると、そう仰るのですか?」

「今はまだだろう。私らがどこにいるか、どれだけいるか、分かっていないからね。茂みを揺らす者が私たちの誰かなのか、それとも風か野兎なのか、それを知る術すら持っていない」

(なら、もし、見えるようになったなら)

 カワセミは察して黙り込んだ。

 いつかヒスイが言っていた。里の誰もが『風運び』を見られるようになったなら、どんなに楽しいだろうと。

(カワセミのこと、あたしの自慢の友達だってみんなに紹介して、笛も聞いて貰える)

 だがもし、その時が訪れたとして、起こるのはヒスイが夢に見た楽しい祭だけでは無い。祖母の言葉はそれを意味している。

「……昔からヒスイが言われていた……親しくし過ぎるなというのは、そのためですか?」

「そうだよ。私たちの力は合わせれば大きくなる。だが合わせれば合わせる程、巻き込むものも増えるのだ。嵐が起これば別のところで風が凪ぐ。使うのなら知らねばならぬ。何が起こるか、お前はもう知っているね」

「はい……」

「それでも、親しい者、好いた者のために、他を考えず使う者は必ず出る。だから」

「願いの儀を通さなければ、大きな力を使ってはならない……決まりがある……」

「お前は賢い子だ。皆がそうであれば良いのにといつも思うよ」

 枯れ木のような手を伸ばし、老婆は孫の肩を軽く撫でる。

「注意しておきなさい、カワセミや。この先に何が起こるかは婆にも分からない」

 少女は小さく頷いた。

 この先、とは何だろうか。今以上の変化が訪れるのだろうか。

(注意して……それで、私に何が出来るの?)

 それを考えておけと言うのだろうか。

 たった十四の小娘に。

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